ヘルマン・ヘッセのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ教育とは何なのかを考えさせられる
良いとされる人生のレールに子供を乗せる親や教師、そして自分の周りの狭い世界の中では成功しそのレールに乗ることを望んでいる子供は自分の運命がわかっていない
何も考えずにレールを進む子供もいれば、多感な時期を過ごす中でそのレールから外れてしまう子供もいる
そして死んでしまったハンス。その死因は語られない。
そのことがむしろ、読み終わった後に、彼の周囲の彼への期待や強制を自分と照らし合わせて内省に向かわせる。
以下、あるサイトからのコピペ
+++
主人公ハンスは、他の子供たちと同様に自然や動物を愛する素朴な少年。
唯一違うのは、彼は学問に優れた天才であること。
ハンスは父親や学校の先生など周囲の大きな期待を背負い、一心不乱に受験勉強をする。
そして見事、エリート神学校への合格を果たすのだ。
しかし、神学校での規則や価値観に縛られた日々は、ハンスの神経を弱らせる。
彼は神学校を中退して、「脱落者」という不名誉な称号と共に帰省。
かつてエリートだったハンスは、同郷の仲間たちよりも遅れて肉体労働の見習いとなる。
それは肉体的にも精神的にも苦痛なことだった。
物語のラストで、ハンスは死体となって川で見つかるのである。
ハッピーエンドの小説が多い中、今作は主人公が死んで物語は終わりを告げる。
死因は分からない。
死ぬ直前に、ハンスは酩酊していたから、事故で川に落ちたのかもしれないし、もしかすると自殺したのかもしれない。
とにかく主人公の少年が死んで物語は終る。
「車輪の下」は救いのない小説と言われる。
確かに、小説を読み終わった後、陰鬱な気分になるだろう。
しかし、この救いのない作品は、現代人を救ってくれる一冊でもある。
僕達は成功体験からだけ学ぼうとしている。
でも、成功者から学んだとしても、誰もが彼らと同じように成功できるとは限らない。
一方、僕達は失敗体験からも学ぶことができる。
誰もが先人達の失敗を教訓に、人生を正しい方向へと導くことができるのだ。
100年以上前の作品ながらも、「車輪の下」は現代人の必読書である。
だって、誰もがハンスになる可能性があるのだから。
良い学校、良い仕事に就くことだけが、幸せなのだろうか。
周囲の視線や期待、価値観に捉われすぎて、自分らしさを失ってはいないだろうか。
僕達はハンスであり、だからこそハンスのような結末を迎えるのを避けなくてはいけない。 -
Posted by ブクログ
この若造の甘ったれ感が嫌いな人もいると思うけど、自分は好き。何せ、年を食った今でも甘ったれなので。
子供の人生が周りの大人の都合で決まってしまうってことはよくあることだと思うんだけど、よくあるってことが実は怖い。アシストしてるように見せかけて、実は目隠しした少年を自分の都合の良いように歩かせてるんだと思うと怖い。
それにしても情景の描き方がキレイ。どんどん引き込まれていく。目の前にその世界があるかのように。ここでその形容詞か?!って思うこともあるけど、まあ時代が違うし。言葉は生き物。
結局はみんな自分中心なんだから、自分中心に生きないと損。そう言われてる気がする。そうしないと戦車にひかれるぜ。 -
Posted by ブクログ
ヘルマン・ヘッセの『メルヒェン』に収められている、「アウグスツス」に不覚ながら涙した。
アウグスツは、生まれた時に「誰からも愛さずにはいられないように」と母親から願いをかけられ、その通りになる。
子どもの彼には、天使の歌声が聞こえた。
しかし、誰からも愛されるあまり、彼は傲慢になり、
あらゆる富と名声を得て、堕落し、あらゆる悪事を尽くす。
あらゆる欲望に満たされても幸福になれない彼は、いよいよ自殺を図ろうとするが、
魔法をかけた名付け親が現れる。
そこで、アウグスツスは、
「それまでの人生にかかっていた魔力を取り消し、愛することができるように」と願う。
ラストシーンの描写があまりにも美しくて涙を誘う。
ヘッセの文章は、精神が実体を持った風景として、あたかも「美」そのものが内側から語らせるようだ。
実にシンプルで王道のおとぎ話だが、
手塚治虫が漫画で描いていそうな、
またディズニーが設定を変えて映画にしても面白いかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ2019/2/17
翻訳 高橋健二先生
ゲルトルートはこの小説に出てくる女性の名だ。
ラストの数行でボロボロと泣いた。
歳をとってから青春を思い出すと苦いことも多々あったのに美しく感じる。
歳をとるということはそういうことなのかな。
主人公クーンは、ソリの事故で足を怪我し身体障害者となる。
それにより、自分は誰かと恋仲になることも結婚もできないと思っている。
そして、自殺まで考えるが、音楽が彼を救った。
彼は悩みながらも、現実を受け入れつつ生きてきた。
友人のオペラ歌手ムオトは、容姿にも才能にも恵まれ、どんな女も自分のものにできる。
ただ、精神面が壊れやすかった。それは自分の中から生まれているもので、改めることはできない。
ゲルトルートを通して、クーンもムオトも傷ついたが、現実を受け止める力と、自分の中のフィルターを通して見えてくるものの違いのため、生き方が異なってくる。
巻末は、翻訳した高橋先生がヘッセに会いに行った時の出来事が書いてあった。
“若ものたちは利己主義と独立心にかられて、観望が満たされないと生命を放棄するようになる。これに反し、自分の生命が他の生命と結びついているのを知るものは、自分の欲望のためにそんなにまで駆り立てられるにいたらないと、父は言った。”
以下がラスト。
高橋先生の訳はいいな。
“人はとしをとると、青年時代よりも満足している。だが、それだからといって、私は青年時代をとがめようとは思わない。なぜなら、青春はすべての夢の中で輝かしい歌のようにひびいて来、青春が現実であったときよりも、いまは一段と清純な調子で響くのだから。”
-
Posted by ブクログ
人は誰しもいろいろな側面を内に持っている。ハリーはヘルミーネと出会うことで、自己の諸側面について気づき、洞察を深めていく。その中には、自身が否定してきたものと相反する矛盾した自身の姿もある。たとえば、反戦思想を唱え人道を叫びながら、裕福な身分のまま亡命し個人の活動に耽っている自分、自殺志願者である自分についてである。
物語で、ハリーの矛盾する己の存在への葛藤は、ヘルミーネによって解消される。
しかし、現実はそうした自己の存在に気づくことは容易ではない上に、気づけたとて向き合うことは非常に勇気のいることである。多くの人は気づいていなかったり、気づいても無意識に知らぬふりをしてしまうだけで、実は誰しもが、未だよく知りえない、向き合えない自身の側面を持っているのだと思う。この物語は荒野のおおかみに限ったものではなく、誰しもが持つ自身についての物語なのだと思う。 -
Posted by ブクログ
初めて見た作品だったので。とはいうものの、『車輪の下』に次ぐ出版数を誇るとか。
なんて愛おしい存在なんだろう。ただ与え続けるという役割を与えられた、このクヌルプという存在は。
彼は自分を探したいだの、世界が見たいだの、そんな目的をもって旅人をやっているのではない。旅こそ彼の目的であり、望まれたことだ。だから、憧れはできても彼のように旅人に誰もかれもなれはしない。まさに在り難い。迎える人はきっとそれゆえに嬉しいのだろう。
トリックスター的存在、いわば、非日常を体現したものの物語。けれど、非日常が生きるのは日常の中。本当に彼は一体誰なんだろう。風の又三郎のように、一陣の風のように、さっと吹いてさっとどこかへ過ぎ去ってしまう。
そして、そんな存在にも探究のまなざしを忘れないヘッセの愛を感じる。彼のまなざしは、子ども心を忘れない無邪気な童話的なところがある一方で、ただひたすら「考える」そのことをし続ける、力強い一途なまなざしがある。 -
Posted by ブクログ
20世紀ドイツを代表する小説家・詩人ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の作品、1927年。時に作家五十歳、第一次大戦敗戦後のワイマール体制下で1923年にはヒトラーがミュンヘン・クーデタ未遂で投獄された情況下、作家自身の自己省察と同時代批判とを本作品で試みた。なお同年の1927年にはにハイデガー『存在と時間』が刊行されている。
□
「荒野のおおかみ」ことハリー・ハラーは、ヘッセ自身を表わしていると云われる(そのイニシャルは作者と同じH.H.である)。彼は、ゲーテとモーツァルトを愛し、学芸に則ち書物と古典音楽とに、その観念に、沈潜する。「精神」の人である、「文化」の人である、「考える」人である、「憧れ」を抱く人である、「一次元よけいに持つ」人である、時代の「少数者」である。そうやって・またそういう自己意識で以て、自己の存在を支えてきた人である。そして、観念に沈潜する者は、往々にして「極端」な人である、不可避的に破滅に向かわずには在り得ない「極端」の人である。「世界外」の人である。「対自的」な人である。「不幸」の人である。「夜」の人である。「夢想」の人である。「倦怠」の人である。「破滅」の人である。「運命」の人である。「英雄的孤独」の人である。「全体的」たらんとする人である。端的に云えば、「死」の人である。
では彼らと対照される「市民=ブルジョア」とは何にか。即物的な功利主義に骨まで浸かった非-精神性。他者との関係性が虚栄と欺瞞の化かし合いかさもなくば享楽と狂騒と官能の交換の為でしかない俗物性。社会通念・公衆道徳、則ちおよそ日常的な平穏さなるものにべったりと同一化しでかつこの日常への屈従状態に対して疑問を抱かないでいられる空虚な自己。こうした堕生態にある「市民」は、破滅に到る極端に陥らない「中庸」を、欺瞞的にも自らの徳であると云う。彼らは徹頭徹尾「世界内」の人である。「即自的」な人である。「太平楽」の人である。「朝」の人である。「規律」の人である。「活動」の人である。「安穏」の人である。「日常」の人である。「匿名的群衆」の人である。「断片化」されている人である。端的に云えば、彼らは「実生活」の人である。
「もちろん大多数の人間は泳ごうとしません! 地面に生まれついて、水に生まれついていません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません! そうです、考える人・・・は、・・・、まさしく地面を水ととりかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう」
それゆえに彼ハリー・ハラーは、時代の圧倒的多数者であるところの「市民=ブルジョア」の世界に、自らの存在余地をもたない。「市民」の世界とは、「株式会社に吸いつくされて、支離滅裂な地球のまっただ中で、人間世界といわゆる文化が虚偽に包まれた野卑なブリキ製の年の市のけばけばしさで、どこに行っても、きざな男のように歯をむき出して私たちに笑いかける」世界である。一度でも自己の内面に沈潜しその深淵の底無しに戦慄してしまった者にとって、卑小な日常的「市民」世界は自らの存在をそこに安置しておくには絶対的に奥行きを欠いたものである。内面の深淵とは、内面の深淵の果て無き果てのその彼方であるがゆえに。であればこそ、孤独なる時代沈潜者は、「市民」世界に於いて何者かで在ることが不可能である。ハリー・ハラーが偶然に手にした白昼夢のようなパンフレット『荒野のおおかみについての論文』から、いくつか引用する。
「こういう人々はみな、その行為や作品をなんと呼ぼうとも、実際はまったく生活を持たない。彼らの生活は存在ではなく、形を持たない。彼らは、他の人たちが裁判官であり、医者であり、くつ屋であり、教師であるような仕方では、英雄でも芸術家でも思想家でもなく、彼らの生活は永遠な苦悩にみちた動乱であり、岩に砕ける波である。そういう生活の混沌の上に輝く、あのまれな体験や行為や思想や作品の中に、意味を見いだす用意がないとすれば、たちまち彼らの生活は不幸に痛ましく分裂し、おそろしく無意味になる」
「事務所、役所、執務室、それは彼にとって死のようにいとわしかった」
「・・・、「自殺者」は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は自己の完成や表現ではなくて、自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。・・・。彼らは生の中にではなく、死の中に救済者を見るのだから。自己を投げ出し、捨て去り、消えうせて、はじめに帰る用意ができているのだから」
□
彼ハリー・ハラーは、或るブルジョアから会食に招かれた際に不体裁を働き、ついに「市民」世界に則ち世界そのものに堪らず、自殺を決意する。さて、反時代的沈潜者は二様に分けられる。則ち、天才とそれ以外と。
天才は、自己の内なる深淵を現実へと外化し、以て「市民」世界に裂目の戦慄を走らせることができる者の謂いである。尤も、それは現実化された途端に「市民」世界が自らを保持しようとして吐き出すあらゆる欺瞞に塗れることが運命づけられている。これは悲劇であるが、天才の悲劇である。豪奢な敗北である。
それ以外の者はどうか。彼らは、自己の内なる深淵へ無際限の否定運動――それは、対自的である彼らゆえに、必然的に自己否定に到らずにはいない――とともに下降し、終ぞ何らの具体的な形を与え得ない。「市民」世界からすれば、何とも無害な無用者である。彼らには英雄的・運命的・悲劇的に没落していくことすら許されず、ただただ「市民」世界という地獄と内面世界という深淵とのあいだに宙吊りにされたまま、振り子のように両極を右往左往する。「市民」世界の片隅で、一層強張った内面に於いて尽きること無く否定を繰り出しながら底着くことなく何処までも沈潜していくか、その内面の重みに耐えられなくなるかである。
では、ハリー・ハラーを含む、天才以外の反時代的沈潜者は如何したものか。ブルジョア教授の家を飛び出して惨めに街を彷徨していたハリー・ハラーは、ジャズが荒れ狂うダンスホールでヘルミーネと出逢う(これは作者の名ヘルマンの女性形である)。娼婦ヘルミーネは、ハリー・ハラーの苦悩にいとも容易く云い放つ。
「いつもむずかしい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことは全然習わなかったの? 時間も興味もなかったの?・・・。でも、人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのは、いけないわ!」
こうして彼女やその友人のマリアやパブロから、十代の若者なら誰でも知っていることを、ハリー・ハラーは学ぶことになる。ダンスを、ダンスホールで女の子に声をかけることを、恋することを、ジャズを楽しむことを、ばかになることを、満足することを、笑うことを、そんなふうに平凡であることを、則ち生きることを。
「笑うことを学ばねばなりません。さて、すべて高級なユーモアは、自分自身をもはや真剣にとらないことから始まるのです」
「真剣にとるに値することを真剣にとることを学びたまえ! ほかのことは笑いたまえ!」
こうして「精神の人」ハリー・ハラーは、【生き直す】ことになるだろう。自殺・発狂・薬物・無差別殺傷を拒むなら、これ以外に、無いのだろうか。「精神」との均衡、ジョルジュ・ルカーチの云う節制 Haltung が、実際に如何に為されていくかは、この小説では描かれていない。しかし、そんなこととは無関係に、ともかくも、【生き直さ】れねばならない。【生き直さ】なければいけない。
□
本作執筆にあたり、ヘッセ自身も担ってきた「ドイツ的精神」なるものの歴史的現実に於ける存在意義は如何なるものであったのか、第一次大戦を惹き起こし・敗北し・そしてまた来るべき戦争へと向かいつつあるドイツの知識人として、徹底した自己批判を為そうという意志がその根底にあったと思われる。
「われわれ精神的な人間はみな現実を家とせず、現実をうとんじ、敵視した。だから、われわれドイツの現実においても、歴史においても、政治においても、世論においても、精神の役割はひどくみじめなものであった。・・・。将軍たちや重工業家たちの言うことはまったくもっともだった。つまり、われわれ「精神的な人間」からは、何も生じやしない。われわれは、いてもいなくてもいい、現実にうとい、無責任な、才気に富むおしゃべりの集まりにすぎないというのだ」