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Posted by ブクログ
初めて見た作品だったので。とはいうものの、『車輪の下』に次ぐ出版数を誇るとか。
なんて愛おしい存在なんだろう。ただ与え続けるという役割を与えられた、このクヌルプという存在は。
彼は自分を探したいだの、世界が見たいだの、そんな目的をもって旅人をやっているのではない。旅こそ彼の目的であり、望まれたことだ。だから、憧れはできても彼のように旅人に誰もかれもなれはしない。まさに在り難い。迎える人はきっとそれゆえに嬉しいのだろう。
トリックスター的存在、いわば、非日常を体現したものの物語。けれど、非日常が生きるのは日常の中。本当に彼は一体誰なんだろう。風の又三郎のように、一陣の風のように、さっと吹いてさっとどこかへ過ぎ去ってしまう。
そして、そんな存在にも探究のまなざしを忘れないヘッセの愛を感じる。彼のまなざしは、子ども心を忘れない無邪気な童話的なところがある一方で、ただひたすら「考える」そのことをし続ける、力強い一途なまなざしがある。
Posted by ブクログ
あらゆる能力に秀で、誰からも愛された少年クヌルプが失恋にうちひしがれ、才能を持て余すさすらいの人生を送る。『シッダールタ』にもつながる魂の救済の物語。
「きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これがぼくの意見だ」(p33)
「だが、それをぼくひとりで楽しんだわけじゃない。たいていの場合、仲間か、若い娘か、子どもが居合わせて、それをおもしろがってくれ、ぼくによくお礼を言ったものだ。それでいいことにしよう。それで満足しよう」(p89)
引用は控えるが、最期の描写が美しい。とにかく美しい。
Posted by ブクログ
生活の芸術家、クヌルプの3の物語を描いた作品。「早春」「クヌルプの思いで」「最期」と題された思いでの中に、クヌルプという人間の豊かさが溢れている。
中でも好きな場面が、「最期」でクヌルプが故郷に帰り、その少年時代を懐古するところだ。少し抜粋したい。
「どの屋根にどのネコがいるか知らないことはなかった。どの庭でもその果実を食べてみなかったことはなかった。どの木でも、登ってみなかったのはなかった。そのこずえに緑色の夢の巣を彼が営まなかった木はなかった。この一片の世界は彼のものであり、このうえなく深い親密さでなじみ愛したものであった。ここでは低木の一つ一つ、庭の生がきの一つ一つが、彼にとって重大さを意味を歴史を持っていた。」(109p)
クヌルプは初恋が失敗しそれ以来、持っていた才能をただ旅を楽しむだけ、時折クヌルプが訪れる旧友を楽しませるだけに使った。非凡さを持ちながらしかしまともにはなれなかったクヌルプは、それでも最期の神との対話で救われた。彼らしく生きたのだの。
Posted by ブクログ
二カ月ほど前、我が家に猫がやってきた。母が道端で鳴いていた黒い子猫を拾って来たのだ。その頃は目も開いておらず、当然餌も自力では食べられないため、注射器にミルクを入れて飲ませなければならなかった。時が経ち、日に日に成長した猫だったが、自分たち家族は彼のために様々な気を遣い、世話を焼かなければならなかった。その割に本人は飄々として自由気ままに過ごし、気の向いたままふらついて行く。呆れることもしばしばあったが、しかしそのぶん家族間の空気は和み、癒され、以前に比べて笑顔も増えた。すべて彼のおかげである。
さて、この話の主人公クヌルプは、まさにこの猫のような人間である。
自由気ままに放浪し、旅先の知り合いに世話を焼いてもらう。しかし、その憎めない性格ゆえに、訪ねる先々で倦厭されるどころか歓迎される。
ヘッセと言えば「車輪の下」「デミアン」など重苦しい作品が代表作としてあげられるが、本作はそうではない。作者お得意の自然の描写はやはり美しく、主人公はアウトサイダーの人間ではあるが、優しい童話のような雰囲気さえ感じられる作品だった。ただその核にある物は決して軽々しいものではない。やはりそこには前述したふたつの代表作に通じる真理があるのだ。
このことは訳者により巻末で詳しく述べられている。
Posted by ブクログ
20世紀ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の小説。1915年。
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主人公クヌルプが昔の友人知人から尋ねられたように、私も「かつてのあなたがなぜいまは」と不躾な糾問に答えを濁して振り払ったことが何度もある。もちろんクヌルプのように落魄するほど振り切った生き方ができるわけもなく、傍から見れば私の生活もそこそこの形にはなっているのかもしれないが、それでも「ここは本当に自分の場所だろうか」「自分にはどこか別の場所があるのではないか」という「ここではない」不全感にずっと憑きまとわれて今日まで来ている。そしてそれを、臆病さだとか完璧主義だとか不寛容だとか、自分のパーソナリティに帰責させてしまっている。クヌルプは出会った人々に彼への親愛の感情を惹き起こしたが、クヌルプの「神」に代わって、何によって、いかにして、私は肯定されるのか。そもそも、何かによって肯定されなければならないのか。いまは否定されているのか。なぜ? 何によって?
「神」は「あるがままのおまえ」(p151)と言うが、無際限の自問自答の中でそんな核のようなものは残りそうにないし、「神」もいない。「神」がいない以上、自分で自分を肯定するしかないのだろうが、そもそもそれは一体どういうことなのか。生の肯定とはなんだろうか。生の否定とはなんだろうか。
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「神さまの声はだんだんかすかになり、あるときは母の声のように、あるときはヘンリエッテの声のように、あるときはリーザベトのやさしいおだやかな声のようにひびいた。」(p153)
この一節に触れて、自分の臆病さがこれまで犯してきた過ち、傷つけてきた人たちのことが、その人たちが示した悲しさや嬉しさが、日々の怠惰ゆえに眼を逸らしてきたせいでもうそのほとんどが朧な記憶でしかない顔たちが、呼び起こされてくる。そして呼び起こされるいままさに、零れ落ちていく。欠けていくばかりの記憶の中で、それらをこれからどんなふうに束ねて生きていけばいいのか。記憶がその場限りのものになっていくと、芯の通った生き方も何もあったものではないのではないか。
「ふたりの人間のあいだには、たとえどんなに密接に結ばれていても、いつも深淵が口を開いていること、それを越えうるのは愛だけで、その愛もたえず急場しのぎの橋をかけることによってかろうじてそれを越えうるのだということ」(p76)
せめてこのことは肝に銘じておく。
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