ヘルマン・ヘッセのレビュー一覧
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のっけから
「今日では、人間とはなにか、を知っている人はほとんどいない。しかしそれを感じている人はおおぜいいる。それで、その人たちはほかの人よりは安らかに死んでいく。ちょうど私がこの物語を書き終えたら、いくらか安らかに死ねるように。」
と書かれ、ちょっとさせられる。本編は戦争中に執筆された。
「われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」
タイトルの少年が主人公かと思われるが、主人公はエーミール・シンクレールという別の少年だ。子供社会にもいじめっ子といじめられっ子がいる。些細な嘘をついてしまったシンクレールは、絵に描いたような悪ガキクローマーから、わかりやすく金をせびられ、「姉を連れてこい」などと無理な要求をされる。両親にも相談できず困っていたシンクレールは、転校生のダミアンに救われる。ここでシンクレールは、これまで両親と共に暮らしていた善だけの世界とはちがう、もう一つの世界がある事に気づく。
ダミアンはシンクレールにカインとアベルの逸話や、明と暗の両者が存在している二つの世界について語る。つまり、彼は主人公に、気づきを与える存在である。最後に戦争という、個人の力ではいかんともし難い出来事が登場するが、それでも自己形成により、自分を保ち、常に新たな自分を作り出していくことによって、自身の人生を形成していく。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ市民的なものを嫌う隠者が、わざわざ最も市民的で規則に囚われた生活をしているものの提供する家に住む。
狼(本能的と厭世的)とハリー(市民的で俗物的)の2面性の板挟みになり、どちらも身を投じて楽しむことの出来ないハリー。前半では「狂人しか立ち入り禁止!」という自分と通ずる張り紙を見つけて、入る方法を模索するが、ついぞ入れることは無かった。
ある日飲食店に行った帰りに、墓に立ち寄ったら(この辺うろ覚え)狂人しか立ち入り禁止!を掲げていた男が葬式の参列者として参加していた。話しかけてみるが、なんのことか分からないとしらを切られてしまう。その帰りにハリーはオオカミに内心笑われつつ、旧友である教授にであうことになる。かつては学問について議論しあった中である彼は、ハリーを狼ではなくハリーとして認識しているため、親愛と尊敬を持ってハリーに話しかけ夕食に招待してくれる。傷心中のハリーは、市民的であっても愛情の欠片に甘んじてしまい、承諾してしまった。何か予定がある市民性に辟易としながらも、約束を守るべく教授の家へ行く。結果は散々だった。世間からすると堕落したハリーは、教授の認識するハリーと今のハリーが変わらないかのように嘘を積み重ね続ける。しかしハリーの好きなゲーテの肖像画が、イメージと著しく違っているのを目に止めると弾けて本当のことを言った。帰り道、自己嫌悪にのたうち周り居酒屋をハシゴする。泥酔したハリーはそのままカフェ(キャバクラみたいなとこ)に行くと、ヘルミーネと出会う。ヘルミーネ母親のようにハリーを見透かして、規律してくれた。しまいには家に帰ったら首を吊るかカミソリで自害してしまうから帰れないと見透かされて、生きることを強制される。
ここからハリーとヘルミーネの関係は始まる
ヘルミーネはハリーの鏡像のように、ハリーの考えを言語化して映し出してくれる。ハリーの荒野の狼の部分を取り除こうと、ダンスや舞踏会やジャズなど次々とハリーに俗物を馴染ませていく。そこでヘルミーネが提供してくれた、マリアという女性にハリーは惹かれてダンスや性行為を楽しむことになる。パブロという美しく寡黙で薬物を魔法のように扱う音楽家とも知り合うことになる。
大目玉の舞踏会にハリーは参加した。
そこでは皆が皆仮装しているため、ヘルミーネもマリアもついぞみつけることができなかった。帰ろうとしたハリーに「ヘルミーネは地獄にいる」という知らせが届く。弾かれたように地獄(ホールのひとつの名称)に向かうハリー、途中でマリアと出会い、キスを迫られるがヘルミーネに会いに行くために拒む。
ヘルミーネはヘルマンに男装していた。以前から女性と男性の2面性を併せ持つ彼女にヘルマンはとても似合っていた。男装をしているヘルミーネとは踊れないが、お互い見知らぬ夫人と踊り、休憩時間の度顔を合わせた。しかしヘルミーネは気づいた時にはいなくなっていた。ハリーがヘトヘトに疲れた頃、結いたての髪の毛に、綺麗な服をきているひとがいた。他の人はみなダンスでよれていたため、ハリーの目に留まる。よくよく見てみるとそれは女装に着替えたヘルミーネだった。晴れて2人は踊りキスする。
舞踏会も終わり、パブロが「狂人しか立ち入り禁止」の魔術会のようなものに招待してくれた。
そこでハリーは複数の魔術にかけられ幻想の最中に飛び込むことになる。最後にヘルミーネとパブロが裸で寝っ転がっていて、パブロがヘルミーネの体に噛み付いたあとを見た時に、「あなたに私を殺されるために、私はあなたを惚れさせる」というはるみー音の宣言通りナイフで殺してしまった。
その後に崇拝するモーツァルトと対話し、それがパブロであったり、モーツァルトであったりした。
へるみーねは死ぬ直前に驚いていたが、ヘルミーネはハリーの鏡だったため、殺して欲しいというのもハリーの気持ちを汲み取ったうちに過ぎなかったのかもしれない。
前半は隠者の生活と思想として理解出来たが、後半はずっとパブロの魔法にかけられていてよくわからなかった。その混沌さえ楽しめるけど。孤独と母性を摂取しながら思想を貪ることができる本。ヘルミーネのような1歩引いて自分を規律してくれるような存在になりたいし、愛されたいなあ。 -
Posted by ブクログ
16年来の友人と、池袋のジュンク堂に行った時、「お互いおすすめの本を紹介しあおうや」という僕のわがままで、気付けば2時間が経っていた。
そこでは、新しい本との出会いもあれば、16年来の友人の新たな一面とも出会うことができた。(なので、ぜひ友人とのデートプランにおすすめしたい)
「俺、ヘルマン・ヘッセの本好きなんだよね」という、まったく持って知らなかった情報と共に、『知と愛』を買うことになった。そして、僕はまんまと"ヘルマン・ヘッセ"に魅了されることになる。
『知と愛』、原題は『ナルチスとゴルトムント』というこの本。読んでいくと、同じ修道院で出会ったナルチスとゴルトムントの二人の物語であり、本当に馬鹿みたいに要約すると、
『童貞のゴルトムントが、セックスを覚えて、修道院を抜け出し流浪人となり、様々な女性と出会い、ヤリチンになっていく中で芸術に目覚め、生涯を終える物語』
といえるのだけれども、実際には『知と愛』という二元論における差異を、これでもかというほど哲学を持って細かく表していく作品だ。
『知と愛』(原題:『ナルチスとゴルトムント』)という題名から分かるように、
『知:ナルチス』
『愛:ゴルトムント』
と二人のキャラクターが、はっきりと二元的に描かれていく。
前半の章で、ナルチスがこんなことを言う。
> 学問は、君の言葉を引用すれば、『差別を発見しようと熱中する』ことにほかならない。これよりよく学問の本質を言い表すことはできないだろう。我々学問の人間にとっては、差異の確認より重要なことはない。学問とは差別の術である。
この文章からも、この本のテーマがナルチスとゴルトムントの差異を表していくことが分かる。さらに、個人的に好きな表現であったのは、ゴルトムントがナルチスに憧れすぎて、ナルチスのようになりたいという意思を伝えた時のナルチスの詩的な言葉。
> 太陽と月とが、海と陸とが、近づき合うことのないように、たがいに近づき合わないのが、われわれに課せられたことだ、われわれふたりは、ねえ、君、太陽と月、海と陸なのだ。我々の目標は、たがいに溶けあうことではなくて、たがいに認識しあい、相手の中にその人のあるところのもの、つまり相手の反対物と補足とを見、それを尊び合う修練をすることにあるのだ
これこそ、まさに、『愛』を大切にナルチスとの関係性を大切にするゴルトムントに対し、『知』をもって相手のためを思って突き放すシーンであった。
そこからは、ゴルトムントは、ひょんなことからジプシーの女性とキスをし、修道院の外に出ることを決める。そして、そこからゴルトムントはたくさんの人妻や娘と体の関係を持つことになるのだけれども、そこでも、差異を大切にしている。
> 短い間に多くの愛し方や愛の技巧を学び、多くの愛人から経験を摂取したばかりでなく、女を多方面にわたって見、感じ、さわり、においをかぐことを学んだ。頭が首の上にどんなふうにすわっているか、額の毛の生え際がどんなふうになっているか、膝の皿がどんなふうに動くか
おいおい。そんなところまで、差異を見出すのかい。ゴルトムント。なんて変態的なんだ。首の据わり方? 額の毛の生え際? 膝の皿の可動域?
そんなところまで差異を見出す必要はあるのか、ゴルトムント。
と思わず、突っ込みを入れたくなるも、あまりに芸術的な表現に、『愛』についての探求が自分は足りないのではないかと、無力さすら覚えることになる。
そこから、様々な事件や、死、そして芸術との出会いを乗り越えて、どんどん変化をしていくゴルトムントが描かれている。ただ、ゴルトムントの中には、常にナルチスと亡き母の姿が存在する。
最終章が近づいたタイミングで、また、差異についての表記がしばしば現れる。なかでも、芸術家となったゴルトムント。家庭を築きたいゴルトムント。この二元対立について描かれるシーンは、個人的に一番刺さったのだ。
> 生活を犠牲にしない創作! 創造の高貴さを放棄しない生活! それはいったい不可能だったろうか。それが可能であるような人間は恐らく存在しただろう。れっきとした夫であり、家庭の父であって、忠実であるために官能の享楽を失わなかったような人がいただろうか。(中略) そういう人を彼はまだひとりも見たことはなかった。
ここは、恐らく現代風に言えば、結婚後に夢を追いかけたり、官能が満たされることは無理じゃん。みたいな話なのだと受け取った。(これは、読み手の自由)
ヘルマン・ヘッセの時代から、悩ませているこの二元論で、今でも議論されているのだから、一生解決されることのないテーマなのではないかとある種の開き直りにも似た感情になる。
では、『知と愛』これはどっちが大切なのだろうか。
もちろん二元論に正解などない。まず、知と愛の定義が、最後にナルチスが挙げる。
**知とは**、絶えざる抽象。感覚的なものの無視。精神的な世界の建設の試み。世界を神から引き放すことによって、神に近づこうとつとめる。
**愛とは**、最も変わりやすく生命のはかないものを抱きとって、無情なものの中に存在する世界の意味を告げ知らす。無情なものを無視しない。むしろ心に打ち込む。神の創造物を愛し、再創造することによって、神に近づく。
これを体現してきた、ナルチスとゴルトムント。
あなたは、どっち派? なんて、簡単な二元論ではない。ただ、ナルチスとゴルトムントの物語を見た時、自分の中にある『知』と『愛』の間を行き来する葛藤が、スッキリさせられることは約束できる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ幼年時代に属していたのは道徳的で明るい、アベルの世界。クローマーはそれと対照的な闇の世界にシンクレールを引き込むが、本当の意味で対照的なのは、そのクローマーからシンクレールを救ったデミアンの、カインの世界なのか。
デミアンの神は、善と悪を併せ持つ神。道徳的でないものを排除するのではなく、清濁併呑のアプラクサス。平和に道徳的に生きるアベルと違い、カインは来たるべきものに備え、必要とあらば平和から人々を追い出す準備をしていた。そのカインのしるしをもつ者は、新しいもの、孤立したもの、来たるべきものを自然に受け入れる準備がある。その準備とは「私たちのめいめいがまったく自分自身になり、自分の中に働いている自然の芽ばえを完全に正しく遇し、その心にかなうように生き、不確実な未来がもたらすいっさいのものに対して、準備をしておくようにすること」
最初は、道徳的な明るい世界しか知らなかった少年が、そうではない別の世界を知って、価値観の葛藤を経て(つまり思春期反抗期を超えて)世界を広げ、成長する話かと思った。生まれ出ようとする鳥は世界である卵を破壊するために戦うように。でも最後は、自分が自分として生きることができるように、っていう話なのかな?と思った。自分らしく、ということは、いわゆるよくない面も含めて自分として受け入れることで、そこがデミアンの世界、アプラクサスとつながる?
エヴァ夫人は結局何を象徴してるのか?
最後にシンクレールは自分の中にデミアンを見るようになるけど、つまりデミアンはシンクレールの闇の部分だったってこと?(デミアンはデーモンと同根らしい。)
人間は人間になりつつある存在。自分になりつつある状態。シンクレールは最後にデミアンを回収して、明暗併せ持つ自分になっていったのだろうか。
カインのしるしをもつもの、の意味がわからない。特殊な人々の話になっちゃうから。