あらすじ
シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。――成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。
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「考えること、待つこと、断食すること」
本質なんだなと思う。(断食する行為自体が本質とは思っていないが)
繊細で人間的な明と暗。読みやすく、広く翻訳され世界中の方に宗教を超えて愛読されている理由がわかる一冊でした。
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人生で大切にすることをシッダールタさんが言語化してくれました。
この本で特に学べたことは、言語化されたものを読むだけでは血肉にならないということです。それを本を読む事で学んだ気になっているのが皮肉ですが…
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シッダールタが人間の喜び、悲しみ全てを経験して得た『梵』について自分の人生を重ねて考えさせられるヘッセの宗教的体験の集大成。
シッダールタの「愛」のために生きる小児人とは自分は違う人間だという若気の至りから、カマーラと出会い「愛」を覚え、人間の本能的な「愛」に溺れて小児人的価値観に染まっていく青年時代、目的もなく小児人として金と欲を満たし続ける生活をした中、ヴァステーヴァと川の教えを経て最終的に行き着くのは、時間という概念は存在せず、過去も未来も同時的に存在するという気づきであったのは、この本を読んだ全ての人間の人生の救いとなる結末だったのではないかと大変感動的であった。
私は今、社会での競争心や自立心、人間としての幸せを求める心などが心を掻き乱し、常に心が雑然としているが、この感情を持つことが悪なのではなく、この感情も正しいもので、今はこの感情に従って生きるがよいということだというのは素晴しい気付きであった。
とにかく、生きている今を真剣に生きることが、小児人的でありつつも覚者であり、『梵』であるので、今の気持ちに嘘をつかずに、やれることをしていこうと思えた。
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二十年ものインド思想の研究を経て、自身の宗教的体験の告白としてシッダルータを通して象徴的に美しく描かれていた。
変な宗教教育(母方、キリスト教、父方、仏教)をちょっとばかし受けてきた自分としてはすんなりと頭と心に入ってきた。
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総じて、人生経験の中で重要だとはわかりつつも言語化の難しいトピックスを、小説形式で見事なまでにわかりやすく表現している。
知識と知恵は違うという文章が印象的だった。多分、言葉や思想を理屈で理解するだけでなく、実際に行動し体験することで初めて物事を習得することができるという意味。
実生活でも、頭で理屈をわかっているだけな事柄と、実際に体感する程度まで落とし込んだ事柄を比べると、やっぱり後者の方がより人生に影響を与えるからこれは非常に納得。
また、一度落ちぶれて初めてわかる大切さがあるのも印象的。自分も大学時代一度後悔するような生き方をしていた経験があったが、今思えばそれを経験したからこそ、これはやっぱりやりたくないんだと心から思えて、逆に自分の好きなもの、向かうべき生き方が明確化された。そういった経験と通ずるところがあり、非常に納得。
自己啓発という言葉ではまとめたくないんだが間違いなく生きることに対する勇気をもらえる小説。言葉でまとめるのが難しい、、
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聡明な、でも生きることに疑問を抱いている主人公が、さまざまなな体験を通して、ついには悟りを得る話。
主人公の名はシッダールタで舞台はインドだけど、あの仏教の開祖仏陀の話ではありません。仏陀は別人としてシッダールタの前に現れます。自分にはなかなか難しくて、読むペースもゆっくりになったけど、読んで本当に良かった。めっちゃいろいろ考えた。メモまで書きながら読んだ。
シッダールタは仏陀に教えを乞いながら、彼の元を離れる。それは「仏陀の教えは素晴らしいけれども、言葉ではそのすべてを伝えることは不可能=じゃあ自分で悟らなきゃダメじゃん」という理由だと読んだ。んで悟りを得るために?俗世に戻るも、元が聡明なシッダールタはそれでもダメだと絶望しかける。でも川のほとりで渡し守と暮らすうち、何事にも完全なピュアなものなどなく、さまざまな面を持ってるんだ、悪あってこその善なのだと気づき、悟りを得るために自分の人生はこれでよかったと最後救われて終わる。
話自体は短いのに、めっちゃいろいろ考えて、あー読んでよかったと心に残る一冊になった。
そしてこの感想も、言葉にした途端なんか陳腐になってしまい、でも書かずにはいられない、そんな切なさも感じた。
いいですね、ここまで考える読書。純粋に楽しむ話は大好きだけど、こういうのもこれからも読んでいきたいです。
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人が苦しみの中にあるとき、救いというものは、それほど多くあるわけではない。家族や友人の励まし。信じる教え。あるいは、大好きな景色や音楽。そして、大切にしてきた言葉。私たちは、苦しみをどう抱え、向き合い、乗り越えていくのか。
もし一冊の本が、苦しむ誰かを支え、乗り越える助けとなるなら、本は、信頼する友人一人に匹敵する。その言葉は、自分の中で声となって響く。それは、ただの知識や語彙ではなく、人間の言葉として残り、私たちが生きることを肯定する。小説が、随筆が、詩集が、格言集が、私たちの中に感触となって残り、私たちは自分の人生をその感触に重ね合わせて生きる。
この小説のタイトルは、ブッダの出家以前の名前。そしてこの小説の中身は、ブッダが悟りに至るまでの、求道者としての体験を書いたものである。悟りへの手段である禁欲を目的化せず、自身の快楽への深い欲を見つめながら、一歩ずつ清澄な境地へ至るさまは、それが高い次元のことにもかかわらず、世俗に生きる私たちに共感を与える。それは私たちが、現実を生きながらも、内面では、澄み切った境地へ至りたいと願っているからかもしれない。とすれば、この小説は、私たちに寄り添う「友人」になり得るだろう。私たち自身の中にはシッダールタがいるのだ。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2011年4月号掲載。
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聖人として生まれ(たと思いこみ)、聖人として真摯に学んだ青春。共に学んできた友と別れ、自分の道を歩み出した時、周りとの乖離を感じて、世間を知るためという口実で周りと一緒になって遊び、金を稼ぎ、気づいたら中年に。子を得たが、自分の思い通りにならない存在を前に自己受容を学ぶ。子育てを終えた頃、初めて聖人でありそうでないこともあるのが人であると理解する。
という人間そのものの話。人生そのものの話だった。
ただ今の私には理解しきれない点があった。
「時間は存在しない」ということ。
まだわからない。いつか分かる日まで。
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「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」とは、あまりに有名で、あまりにも示唆的な方丈記の冒頭である。そこんとこ詳しく教えて下さいよ長明さん、とばかり方丈記を手にとっても大したことは書かれておらず、がっかり。そんなあなたは、本書を読むべき。よもや続きはこんなところにあったかと驚く。
シッダールタという題名から、釈迦の話かと思い込んでいたが、架空の人物を主人公としたフィクションである。仏教の話ですらない。解説によると「ヘッセ自身の宗教的体験の告白」だそうである。
ピカソは絵が上手すぎて、「子供のように絵を描く」ために大変な努力をしたという。同様に、頭が良すぎる人が人生について考えれば、普通に生きることができず、悩むことになる。そんな主人公が苦労して辿った道、そして行き着いた先は・・・。
我々普通の人(本書でいう小児人)は悩まなくてよさそうなものだが、現代人は賢くなりすぎているせいか、生き方に悩んでいる人も多いようだ。そんな方も一度手にとって見るとよいのではないだろうか。
ただし、この本の翻訳は難解だった。私は読みすすめるうちに気にならなくなったが、挫折する人もいるかもしれない。他の翻訳がどんな風か知らないのだが、書店にあれば見比べて選ぶことをおすすめする。
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シッダールタという求道者が悟りの境地に達するまでの体験を描いた作品。あらゆる師の教えは決して彼を満足させられなかったが、自らの体験と苦悩を経て、すべてをありのままに受け入れることでシッダールタは悟りの境地に達する。高尚な言葉で綴られた書物よりはるかに、この本の中に真実が隠されているような気がする。また、教えというものを言葉にしてそれを目指した時、あらゆるものの一側面しか見ることができなくなる、というヘッセの言葉は、私の心にしみじみと染み渡ってきた。
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難解な文章で書かれているのかなと思ったら、とても読みやすいの翻訳で、逆に驚いた。翻訳者の高橋健二さんが凄いんだろうとなと本文とは違うところで感心してしまった。仏陀になるべく修行するシッダールタであったが、愛に溺れて酒に溺れて金儲けに走り、やがては自ら命を断とうとする展開に驚いた。仏教には詳しくないので、最後に川を人生に例えて悟りを拓くかのような展開。一度で理解できなかったので、また読もうと思う。
Posted by ブクログ
シッダールタ=ゴータマだと思っていたら、そんなことはなかった。全時代のシッダールタさん失礼しました。
本作はどこかで、ヘッセによる東方の神秘を描いた作品、というような謳い文句で紹介されていた。
さて実際はいかがか、と楽しみに読んでいくと、そのエロティシズムと聖人とは程遠そうなシッダールタの所業に、結局ヘッセもヨーロッパ人か…といくらか落胆する。
しかし終盤に差し掛かり、シッダールタが川の声を深く聞く頃から、話に深みが増し面白くなる。
それは作中にもあるように、初めから読んできたからであり、そしてこの私が感じた面白さを真に言葉に表すことはできないのだと思う。
さて、ここまで書いてこの感じ方を馬鹿らしいと思って忘れられる展開が私には面白いのだが、本作は残念ながら馬鹿らしいことを上回る名状しがたい事によって馬鹿では終わってはくれない。そこが残念だ。
そこを、なんと馬鹿らしい!と思われるのが、エブエブなんじゃないかな、と思った。
Posted by ブクログ
悟りに至るまでには色々な経験が必要
自分と同じ轍を踏ませないと息巻いて、
人をカゴに閉じ込めてはいけない
川の流れを見て、自然を感じて、悟りを得る
ヘッセの文章初めてだった
すごく美しくて写実的
Posted by ブクログ
仏教知識はほぼない自分でもとても楽しめた
シッダールタが仏陀なのだと思ってたから仏陀が出てきて若干混乱
仏陀っていっぱいいるのか…釈迦と仏陀はまた違うのか、仏教のこともっと知らないとなあ
肉欲に溺れてギャンブル依存症ぽくなってたのも驚きで、でもそういう人だからこそ、この教えに悟りに辿り着いたというほうが希望だなとも思う
言葉が最大のコミュニケーションツールで、仕事においても必要不可欠な昨今ついつい自然に言葉の偉大さに額づいてしまうけど、作家であるヘッセがこの考え方を書いているのが面白い
彼の人となりがより気になった
Posted by ブクログ
主人公とお釈迦さまを同一人物と思い込み、最後につながりがあると予想して読んでしまいました。思い込みは駄目ですね。
お釈迦さまが到達したところに、主人公が経験を重ねて辿り着く。
思い込みが邪魔した部分があると思うので、もう一度読みたいと思います。
Posted by ブクログ
内容はそれなりに難しいですが、おもしろい作品でした。何よりも文体が詩のように美しく、読んでいて心地良かったです。
「言葉」は物事の一面を表したものでしかない、という部分にとても共感しました。
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自分がいかに無知であり、ある意味で凡人であるかを思い知らされる。
「釈迦」の出家以前の名「シッダールタ」、悟りの境地に達するまでの苦悩、師、友、俗世、欲、自然、苦悩...数多の出会いと体験から学んだシッダールタが辿り着いた境地。
興味深く読み終えることが出来ました。
『車輪の下』『デミアン』等で知られるドイツの文豪・ヘッセが描いた、釈迦「悟りへの道」。
20年にわたりインド思想を研究していたヘッセが、第一次世界大戦後に発表した。
シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。
――成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。
【目次】
第一部
バラモンの子
沙門たちのもとで
ゴータマ
目ざめ
第二部
カマーラ
小児人たちのもとで
輪廻
川のほとり
で 渡し守
むすこ
オーム
ゴーヴィンダ
注解
解説 高橋健二
本文より
彼は初めて世界を見るかのように、あたりを見まわした。世界は美しかった! 世界は多彩だった! 世界は珍しくなそに満ちていた! ここには青が、黄が、緑があった。空と川が流れ、森と山々がじっとしていた。すべては美しくなぞに満ち、魔術的だった。そのただ中で、彼シッダールタ、目ざめたものは、自分自身への道を進んでいた。このすべてが、この黄と青が、川と森が初めて目を通ってシッダールタの中に入った。それは、もはやマーラ(魔羅)の魔法ではなかった。……(第一部「めざめ」)
※マーラ…修行の妨げとなるもの。悪魔。
ヘッセ Hesse, Hermann(1877-1962)
ドイツの抒情詩人・小説家。南独カルプの牧師の家庭に生れ、神学校に進むが、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と脱走、職を転々の後、書店員となり、1904年の『郷愁』の成功で作家生活に入る。両大戦時には、非戦論者として苦境に立ったが、スイス国籍を得、在住、人間の精神の幸福を問う作品を著し続けた。1946年ノーベル文学賞受賞。
高橋健二(1902-1998)
東京生れ。東大独文科卒業。ドイツ文学者。第8代日本ペンクラブ会長、芸術院会員、文化功労者。1931(昭和6)年ドイツ留学中に、ヘルマン・ヘッセを識り、交流が始まる。『ヘッセ全集』の全翻訳と別巻『ヘッセ研究』で1957年、読売文学賞を、1968年、『グリム兄弟』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。『ヴァイマルのゲーテ』『ケストナーの生涯』などの著書の他に、訳書多数。
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『無』なんだなぁ。
なんて、わかったようなことを書いてみた。
ヘッセの精神性の深さに、これまで「車輪の下」しか読んでなかったことが悔やまれる。
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ヘルマン・ヘッセの著書を読むのは初めてでしたが、非常に美しく著者の思想が表現されていました。
本書の最後でシッダールタが親友ゴーウィンダに説教するときに、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだと説いています。つまり、善悪、優劣、喜怒哀楽などのことばは全てある側面から見ているだけに過ぎないということです。
じゃあどうすれば真理を理解できるのか、それは自分で様々なことを経験することだと著者の分身であるシッダールタは説いています。
何者から与えられたものよりも自分の経験に勝るものはない、百聞は一見にしかずというやつです。
このことばを忘れず私も動くということを忘れずに生きていきたいです。
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お父さんのオススメの本らしい。
悟り開けると思って読んでみたものの、
結構難しくてもう一度時間が経ったら読みたいなと思った。
時間はないっていうことが少し響いた。
人の後ろ(過去)にその人を表すものが並んでいるのでなはなく、その人の中にあると。
また、知識は誰にでも得られるけど、
知恵は経験しないと得られないということにも。
私はどうしても知識を得るだけで満足してしまうことが多い。お母さんの行動はいつも疑問に思ったりすることが多いけど、それが案外本質をついてたりする。それは、どんどん自ら経験して知恵を積み上げて自然にあるべき道を選んでいるからなんだなと。
わたしもそんな人間になりたい。
Posted by ブクログ
学生時代に「車輪の下」を読んで以来のヘッセです。
いやぁ、深い・・人生において大切なものを気づかせてくれる一冊です。
涅槃の域を求めて流浪する求道者、シッダールタ。“バラモンの教え”“ストイックな苦行”を経て、カリスマ聖者・仏陀と出会います。(そう、タイトルから仏陀の話と思いがちですが、仏陀とは別の“シッダールタ”です)
一緒に修行してきたシッダールタの友は仏陀の弟子となりますが、シッダールタは“教えられる”という事では自我を克服できないと、一人流浪を続けます。
崇高な求道を続けると思いきや、敢えて“堕落”の生活も経験してみるシッダールタ。それでも彼の虚しさは増すばかりです。そんなシッダールタを受け入れたのは、川の渡し守・ヴァズデーヴァでした・・。
物語の中盤までは、シッダールタはどこか上から目線で、達観している感があったのですが、そんな“出来過ぎ”な彼が初めて、マジに悩んだのが「息子がいう事をきかない」という、“普通の父親”的なお悩みでした。息子への執着を通して、“普通の人”の感覚になり、そこから真理に近づいていく、終盤の2章は秀逸です。
すべての“経験”が(教えや修行だけでなく欲や執着も)真理への糧となるのかなと。
因みに私の中でのベストオブ“賢者”は、川の渡し守・ヴァズデーヴァだったと思います。彼の存在こそ真理であり、愛であり、究極の“在り方”ですよね。
この本は読みこむほど、気づきがあると思うので、今後ちょいちょい読み返してみたいと思います。
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読めるが初回は理解しにくい。
まだ早いかな、しっかりと感想を言葉で表せるようになるまではきっと2回目以降になる、、
率直に、人の出会いや別れ、再会とは、奇遇であるということ。
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真理に近づく為には実体験、経験こそが必要。教えられることだけでは決して近づくことはできない。
自発的に行動を起こし、失敗(経験)を繰り返し、自分の答えを導き出す事ことが必要。
傾聴することが大切。
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前提として、この本の主人公「シッダールタ」は、仏陀とは違う。
主人公が、親友やのちに恋人となる女性、その女性との間に生まれた子、船の渡し守たちとの出会いを通して、悟りに到達する話。
時間をかけて、集中して読みたいと思いました。
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シッダールタが悟りを開くまでのお話。
やはり人間だから彼にも一般人と同じように、様々な欲があり、それらが手に入る身分にある。だけれども、そこに留まらず、自分の道を拓いていく。
彼の師がなんとも素晴らしい人格者である。
目指す道が違うからと、一度は別れた友と再会するシーンが良かった。
仏教を開祖したお釈迦様の話かと思ったら別人の話だった。
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最初の方は文章がちょっと読みづらくて、読み進めるのに時間がかかったが、途中からどんどん読みやすくなってきた。
人間は言葉とか思想じゃなくて、実際の経験の中で失敗したりして学ぶし、成長するんだなと思った。
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隅から隅までヘッセ。それもかなり宗教寄りのヘッセ。訳の影響もある気がするけど、最初は読み辛い。慣れるとそうでもない。宗教っぽくて一段上から物を言ってる感じなんだけど、結局のところ人間は人間らしくいるのが一番、そう言ってるように思える。人間界、ふるさとの心地良さ的な。川の声なんて川のすぐそばじゃないと聞こえない。人の声、人の心もまた同じ。感じる力を研ぎ澄ませ。
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シッダールタは釈尊の出家以前の名前であるが、これは別の求道者の話。
シッダールタはバラモンの子であるが、普通のバラモン僧になる気はなく、父の反対を押し切って、沙門(苦行僧)の仲間入りをする。
修行のなかで無我を目指し、誰よりも無我に近い所に辿りつけるが、疑問を感じる。ある日、仏陀に出会い、この世で一番尊敬出来る師だと思った。親友は仏陀の弟子になるが、シッダールタは「教えられる」ということには興味をもてなくなり、一人、仏陀からも沙門の仲間からも離れて修行を続けようとする。
虚しさのあまり、考えぬいた結果、自我に目覚め、町のほうへ歩いて行く。随一の遊女カマーラに出会い、愛について教えを乞う。カマーラに会うためには収入が要ると言われ、カマーラに紹介された商人の所で働き始める。気がつくと、シッダールタは愛欲と金銭にまみれた軽蔑すべき生活を送るようになっていた。
そんな自分にある日目覚め、川に身を投げて死のうとするが、出来ず、川の渡し守をしているヴァズデーヴァに出会い、彼の人の話を耳を澄ませて聞ける人徳に惚れて彼と共に渡し守として働くようになる。渡し守として様々な人びとと出会い、普通のささやかな幸せのために努力している人びとに愛情を感じるようになった。
ある日、かつての愛人カマーラとその息子(シッダールタの息子)の渡し守をすることになる。何年ぶりかに会ったカマーラは毒蛇に噛まれてすぐに死んでしまい、シッダールタは息子を引き取るが息子はシッダールタに馴染まない。シッダールタは息子のことが可愛くて、心配で仕方ないが、ヴァズデーヴァは、馴染まない息子のことを愛情で縛り付けるのは、虐待と同じだと諭し、逃げる息子を追うなと言う。シッダールタはヴァズデーヴァに従い、息子を追わないが、愛する息子と離れ、悲しくて仕方がない。こんな感情を持ったのは初めてだった。川を覗くとそこに、彼の父の顔が映る(年老いた彼自身の顔)。彼自身も曾て父を捨ててきたのだった。生きとし生けるものは巡り巡る。川の流れのように続いている。
普通に一生懸命働いて生活している人が悟っていることを随分回り道して悟ったのだな……というのが率直な感想。しかし、シッダールタは父親に逆らわず、そのまま進んでいれば身分の高いバラモン僧になっていたところ、それを捨て、一人で修行する道を選んだ。初めは高い所から人間を見下ろしていたけれど、最後には川の流れに教えられる謙虚な人間になった。
最後に修行時代に別れた親友ゴーゥィンダに年老いてから再会した時に言った言葉。印象に残ったものを挙げておく。
「知識は伝えることが出来るが、知恵は伝えることが出来ない。」
「探り求めるとその人の目が探り求めるものだけを見る、ということになりやすい。その人は、常に探り求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取り憑かれているので、何ものをも見出すことが出来ず、何ものをも心の中に受け入れることが出来ない。さぐり求めるとは目標を持つことである。これに反し、見出すとは自由であること、心を開いていること、目標をもたぬことである。」
一般人は目標を持って頑張ることを良しとする。子供にだって「目標を持ちなさい」と教育する。しかし、シッダールタは目標を持つことよりも目標を持たず、心を開くことを良しとするを自分で学んだのだ。やはり人生をかけた修行をしてきたのだ。