ヘルマン・ヘッセのレビュー一覧
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ヘッセの小説は「車輪の下」以来2冊目になりますが、ヘッセの小説はとにかく美しい情景描写と、繊細な心理描写が心に残る。
ヘッセの小説は読んでいると、なんだか甘美で、幻想的な気分になるのです。
まず「青春は美わし」の方は久しぶりに故郷に帰ってきた青年が、淡い初恋を抱いていた少女が美しく成長している姿を目にしてドキドキしたり、妹の友人の少女が家に泊まりにきてドキドキしたりする胸キュンな内容になっております。都会から田舎に帰ってきたので、田舎の情景の美しさや家族の優しさなどをしみじみと感じる主人公の目線もとても美しく描かれています。
「ラテン語学校生」の方は都会に下宿している青年が、下宿先の女中と仲良くなり、よその家の年上の女中に一目惚れしちゃう、という物語。主人公の純粋さが時々読んでいて「こいつはバカか」と思ってしまう部分もあるんだけど、それも含めてとてもいい。まさに、青春のバカさ加減が出ている。個人的にはこっちの小説の方がおもしろかった。下宿先の女中にかわいがってもらう主人公のかわいさが、読んでいてとても初々しくて、好感が持てる。そして、初恋らしくバッサリとふられちゃう感じもいい
初恋はそうでなくてはいけませんね。両方とも青春の甘酸っぱさをとっても美しく、みずみずしく、素晴らしい小説でした。読み終わった後は心が洗われたようにキラキラします。 -
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今さらながら、「名作と呼ばれる作品を、少しでも読もう!」と考えています。
そこで、ドイツ人のノーベル賞受賞作家、ヘルマン・ヘッセのこの作品を、読んでみることにしました。
主人公は、禁欲的に学問の世界に打ち込み、それゆえに人生に思い悩んでいる、中年男性。
ある日、暗く思い悩む彼の前に、魅力的な若い女性が現れます。
その女性と行動を共にし、現代的な娯楽に触れるにつれて・・・という展開。
人間の中にある「二面性」による苦悩、娯楽というものの意義、歴史とはどのように作られていくのか・・・などなど、多くの根源的な問題が、この物語の中に込められていると思います。
後半の、不思議な世界が次々と展開していくくだりは、僕が慣れ親しんでいる村上春樹の小説などに脈々と受け継がれている、文学的な表現なのだろうなあとも感じました。
1927年発表ということなので、日本の年号では昭和が始まったころの作品です。
当時の風俗の描写等、現在からは想像しづらい部分もあり、また、難解な表現もあるため、作者の意図のかなりの部分が、僕には消化しきれていないかもしれません。
それでも、人間の根幹課題について多くの示唆を与えてもらえたという意味で、感銘を得た一冊でした。
やはり、名作というものは読んでおくべきですね。
これからも自分に向いていそうな作品を選んで、読んでいきたいと思います。 -
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たぶん高校生くらいのときに読んで、いま再読。
ナルスチ(知)とゴルトムント(愛)という対称関係は、ほかに「霊と肉」「理論と芸術」という対比にもなっていて、もともとけっこうヘッセの小説ってこういう対比がキッパリしていると思うのだけれど、本作においてはよりキッパリして実に小説らしい。
修道院にはいったゴルトムントは高い精神と信仰心をあわせもつナルチスに惹かれ、彼をめざして勉強にはげむ。しかしナルチスはゴルトムントとの間の埋められぬ境界に気付き、むしろお互い正反対の性質を持つがゆえに重大な存在であることを説く。
まだ若くたびたび混乱をおこし強情を張るゴルトムントと、彼に対し忍耐をもって理解を促すナルチス。ふたりの道を分かつことになると知りながら、ゴルトムントへの愛ゆえに彼の進むべき道を説くナルチス。そしてもたらされるふたりの和解――こういう友情を、ヘッセはほんとうに美しく描く。
ゴルトムントは母なる道を歩む。母とは彼のうちにある幼少の記憶であり、官能と感性であり、また生と死がはげしく相剋するこの広い世界である。
ここまでがだいたい第一部。
ゴルトムントは旅に出る。そこで出会う女たちと浮気な愛を重ね、そして彼が決して手に入れることのできない騎士の娘リディアと出会う。
後に出会うユダヤ娘レベッカとともに、彼はこのリディアを想起する。彼女たちは彼が本当に求めて手に入れられなかった愛を体現しており、それは秩序や信仰が支配する世界―同時にナルチスの住まうところでもある―であり、ゴルトムントが彼の道を歩みつづけるかぎり交わることのないもう一方の確かな道だ。
(書きながら。こういうところ、深いなあ…)
ゴルトムントはヴィクトルという旅人を打ち殺し、立ち寄った教会でそのことを懺悔する。彼は教会のマリア像に感動して、それを作ったニクラウス親方に師事する。
そこで彼は彼の人生にひとつの意味を持たせるもの、すなわち芸術を発見するに至る。
ナルチスを象ったヨハネ像を作り終え、ゴルトムントが明朗に芸術について語る場面はぼくにとって心地いい。この小説にとっての「春」がこの場面だろうと思う。
第二部の終盤が「春」ならば、ペストの村々を放浪する第三部の序盤はさながら「冬」だろう。そしてぼくには、ここから物語の勢いが急に失速するように思える。その印象はラストのナルチスとの再会と対話の場面をもってしても盛り返せてない、とぼくには感じられる。
その決定的な別れ道がどこにあったかといえば難しいが、第二部の終盤でふたたび旅に出ることに決める内的独白がどうもくさいと思う。
p.275「彼が従わなければならないのは、芸術ではなくて、母の呼び声であった」「指をなおいっそう器用にすることが、何の役にたちえたろう?(略)名誉と名声、金と安定した生活とには達するが、同時に、あの神秘を開く唯一のよすがである内的な感覚を枯渇させ萎縮させるに至る」
たしかにゴルトムントは感性の人であり同時に放浪癖を生れもっているように描かれているけれど、ここの論理はどうにも甘い気がする。その証拠に、というわけではなが、ゴルトムントは第三部の旅にすっかり飽いてるようにぼくには思えるのだ。もっといえば作者のむら気が出てきてしまったというか。
ゴルトムントとナルチスの再会後の対話だっていまいちだよなあ。熱がないというか、比較するのはおかしいけどドストエフスキー並のドライブ感を期待してしまって裏切られたような感じではある。
よって☆ひとつ減じよう…かとおもったけど、移り気な愛、より堅固な愛、そして官能や芸術についてなど、やはり考えさせられる文章がとても多かったので満点つけたろ。 -
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ネタバレ再読。主人公クーンと女の子が夜の山から橇で滑り降りる場面が印象深く残っている。クーンは橇滑りの事故がもとで片足びっこになり、しかしそのおかげもあって音楽で生計をたてていくことを志す。
クーンの女性関係はけっきょく描かれないままだが、それゆえにかムオトやゲルトルートと交わす友情の場面はとてもうつくしい。
ムオトの激しさと明るさへの憧れ。そしてクーンの作曲したオペラを介してゲルトルートとふたりで過ごす時間の鮮やかさ。
青年は自己の願望のために生命までも放棄する。逆に老人は他人のために自己を犠牲にする。青年よりも老年がすばらしいというテーゼ。
しかしながら青年が老人になるためには、それこそ死にもの狂いで苦しみをなめつくさねばならない。
たとえばローエ先生の教えにしたがってクーンは母を愛そうと誓うが、この試みは挫折する。そしてある種の悟りというか、諦観に達する。
「いまは私は、他人の運命に向かって手を伸ばすのは愚かな危険なことだと考えた。(略)今日なお私は、自分の生活と他人の生活とをなんらか意識的に形づくる能力が人間にあるということを強く疑っている。金や名誉や勲章を獲得することはできる。しかし、幸福または不幸を獲得することは、自分のためにも他人のためにも、できないことだ。」
クーンが捉えられていたのは実存主義的な悩みだった。キリストや仏陀のいうように、「この世界はまちがっているし虚しい」。しかしその倦怠や迷妄を越えて差し込む光がたしかにあり、クーンにとってそれはゲルトルートや音楽だったにちがいない。
ゲルトルートのような高貴でうつくしい女性がみずからを破壊しかねないムオトのような男に惹かれること――それはまぎれもなく悲劇的なことであるが、それをどうこうする力は実は誰にもないのだ。
前に読んだときよりも、より多くのものを汲み取ることができるようになったと思う。感謝。 -
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あらゆる能力に秀で、誰からも愛された少年クヌルプが失恋にうちひしがれ、才能を持て余すさすらいの人生を送る。『シッダールタ』にもつながる魂の救済の物語。
「きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これがぼくの意見だ」(p33)
「だが、それをぼくひとりで楽しんだわけじゃない。たいていの場合、仲間か、若い娘か、子どもが居合わせて、それをおもしろがってくれ、ぼくによくお礼を言ったものだ。それでいいことにしよう。それで満足しよう」(p89)
引用は控えるが、最期の描写が美しい。とにかく美しい。 -
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生活の芸術家、クヌルプの3の物語を描いた作品。「早春」「クヌルプの思いで」「最期」と題された思いでの中に、クヌルプという人間の豊かさが溢れている。
中でも好きな場面が、「最期」でクヌルプが故郷に帰り、その少年時代を懐古するところだ。少し抜粋したい。
「どの屋根にどのネコがいるか知らないことはなかった。どの庭でもその果実を食べてみなかったことはなかった。どの木でも、登ってみなかったのはなかった。そのこずえに緑色の夢の巣を彼が営まなかった木はなかった。この一片の世界は彼のものであり、このうえなく深い親密さでなじみ愛したものであった。ここでは低木の一つ一つ、庭の生がきの一つ一つが、彼にとって重大さを意味を歴史を持っていた。」(109p)
クヌルプは初恋が失敗しそれ以来、持っていた才能をただ旅を楽しむだけ、時折クヌルプが訪れる旧友を楽しませるだけに使った。非凡さを持ちながらしかしまともにはなれなかったクヌルプは、それでも最期の神との対話で救われた。彼らしく生きたのだの。 -
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二カ月ほど前、我が家に猫がやってきた。母が道端で鳴いていた黒い子猫を拾って来たのだ。その頃は目も開いておらず、当然餌も自力では食べられないため、注射器にミルクを入れて飲ませなければならなかった。時が経ち、日に日に成長した猫だったが、自分たち家族は彼のために様々な気を遣い、世話を焼かなければならなかった。その割に本人は飄々として自由気ままに過ごし、気の向いたままふらついて行く。呆れることもしばしばあったが、しかしそのぶん家族間の空気は和み、癒され、以前に比べて笑顔も増えた。すべて彼のおかげである。
さて、この話の主人公クヌルプは、まさにこの猫のような人間である。
自由気ままに放浪し、旅先の知り合いに世話を焼いてもらう。しかし、その憎めない性格ゆえに、訪ねる先々で倦厭されるどころか歓迎される。
ヘッセと言えば「車輪の下」「デミアン」など重苦しい作品が代表作としてあげられるが、本作はそうではない。作者お得意の自然の描写はやはり美しく、主人公はアウトサイダーの人間ではあるが、優しい童話のような雰囲気さえ感じられる作品だった。ただその核にある物は決して軽々しいものではない。やはりそこには前述したふたつの代表作に通じる真理があるのだ。
このことは訳者により巻末で詳しく述べられている。 -
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レビューというのは自分から距離が離れていればこそ、気軽にホイホイ書けたのだ。ヘッセのレビューを書こうとすると、思い知らされる。
苦しみを宿命づけられた生のなかで、人がその生と死を渡り仰せるだけの光ー平穏ー意味など、何かしらの確かさを見いだそうとする不断の努力。ヘッセという人の根底のテーマは一貫している。そして、そのような凄惨さの中に、美しく優しく人や世界が描かれる点も変わらない。
「シッダールタ」や「荒野のおおかみ」の変奏として「知と愛」を捉えることが適切かは分からない。けれど「シッダールタ」では主人公シッダールタが1人でくぐり抜けた聖者の修行と俗人の生活という2つのアプローチを、ここではナルチスとゴルトムントという2人の主人公に分けている。そのことで得た成果は大きい。キャラクターはより一般的、具体的になって、2人が同時に生き、対話することが可能になった。追求の形はいわゆる宗教的な「求道」一つではないこと、異なる手段を選んだ他者から受けとるものがあること、そしてそこにこそ「愛」があること。。求道と恋愛のストーリーに垣根はなくなり、より複雑で生き生きした普遍性が生まれた。
この「知」と「愛」の対話の構図は、多くの人にとって覚えのあるものなのではないかと思う。相手次第で時に自分はナルチスであり、またある時はゴルトムントであるような。 -
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やっぱりヘッセはすごい。個人のある感情についてメタに、俯瞰的に言及することは誰にも可能だ。しかしそれに対してさらにメタの視点で言及することは少し困難だ。これを自由に使いこなす人間が小説家というものだと思う。しかしこれだけでは二流である。一流はさらにそれらに関してメタレベルで表現することができる。ヘッセのすごいところは、さらにこのもうひとつ上のレベルにときどき「ひょいっ」と上がってしまうところである。ヘッセは最初から高みにのぼったりしない。いつも私の手の届きそうなところにいて、いよいよ捕えたかと思うとするっと脇を擦り抜け一段のぼる。繰り返すうちについに私は追いつけなくなってその背中をじっと見つめる。荒野のおおかみという小説はこのようなおいかけっこを人間の心の奥底にあるくらい部分で行った小説であった。