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ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい少年ハンスは、周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、神学校の入学試験に通った。だが、そこでの生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものだった。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、学校を去って見習い工として出なおそうとする……。子どもの心と生活とを自らの文学のふるさととするヘッセの代表的自伝小説。
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Posted by ブクログ
とても面白かった。 ヘッセには他の作品には見られないギラギラとした魅力がある。 大人たちが期待などの善意(残酷な名誉心)によって主人公が苦悩に陥ってゆく?描写が印象に残った。 また読みたい
「読書は役にたたなかった。」 かつて偏差値70を超えてた私、 本作の主人公と自分を勝手に重ね合わせるという愚行に走った末、見事に撃沈、感傷の海の藻屑と化す(…) 太宰の「大人とは、裏切られた青年の姿である」という格言が思い起こされる 殺傷能力が高すぎる傑作
内容自体は重たい。成功した著者の自叙伝らしいから、色んな深い意味がある。自分自身を全く性格の違う2人に分けていたり、人生こうなっていたかも、という思いもあったのだろう。悩む気持ち、解放された安心、改めての絶望感、少年から青年になるころの危うい心の動き、立ちはだかる世間、期待、許せないプライド、周りへ...続きを読むに嫉妬、大人になってからでも思い出させられた。文章がうまい。古い訳だろうけど、分かるわーとなっている。もう読まないかもしれないけど。人間の性格、本性を描ききったと思う。少年の心は危ういね。
季節の移り変わりがりんごの状態でわかるのが可愛い。あの子と出会ったのは収穫の時期、ほろ苦く思い出すのはりんご酒ができたばかりの時期。 登場人物の名前すぐ忘れちゃうけど、キャラクターの色がうまいこと書き分けられていて名前わからない状態でも誰が誰かなんとなくわかって感動した。
有名な小説で10代の頃からタイトルは知っていましたが、40代で初めて読んでみると予想外の内容にびっくりしました。子供から遊びやゆとりを強制的勉強により奪うことへの警鐘。時を経た現代においてもいまだ通じるものがあります。ドイツのシュバルツバルトに行ってみたい。
麒麟児が普遍的な思春期を際立たせて、その正確さから自身の思春期を掘り起こされた。物語の儚さも美しかった。
まだ10代だったハンスがどんどん落ちていく様子を見ていくのは、涙が出なくとも心を締め付けられて辛かった。 しかし繊細な心情描写や情景描写にかなり読み応えがあり、とても楽しませてもらった。 個人的に大人になったら読み返したい本TOP5に入るぐらい痺れた一冊だと思う。
146P 初版発行: 1906年 ヘルマン・ヘッセ(Hermann Karl Hesse, 1877年7月2日 - 1962年8月9日) ドイツ生まれのスイスの作家。主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である。南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作...続きを読む品が多い。また、ヘッセは風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。 車輪の下 by ヘルマン・ヘッセ、岩淵達治 だいたい、ほんとの貧乏人というものは、計画をたてたり、貯蓄したりすることはめったに心得ていないもので、いつもあるったけそっくりを使いこんでしまって、貯めておくなどということは考えもしないものなのだ。 エーミール・ルチウスは、彼の計画をただ物質的な所有物と獲得しうる財貨について 遂行 していたばかりでなく、精神の領域においても、できるかぎり利益を得ようと努力していたのである。その場合にも彼は賢明で、精神的な所有というものはすべて相対的な価値しかないということを決して忘れはしなかった。だから彼は、今のうちから勤勉にやっておけばのちのちの試験にも大いに成果をあげられる課目にしかほんとうの力を注がず、残りの課目は、控えめに、まあまあ平均程度の成績で満足しているのだった。彼は自分の勉強と成績をいつも同級生の成績との比較で考え、二倍の知識を持っていながら二番でいるよりも、半分の知識で一番になるほうがいいと思っていた。だから夜、他の仲間たちがいろんな時間つぶしをし、遊んだり、読書をしたりしているときでも、彼だけは静かに勉強の机に向かっていた。他の連中の騒ぎにもぜんぜん邪魔されず、それどころか、時にはそっちのほうを、なんの 羨みもない満足しきった目つきで見ることさえあった。なぜなら、もし他の連中もみんな勉強していたら、自分の努力もむだになってしまうからである。 一九四六年には彼の「大胆に深い発展を遂げながら、古典的ヒューマニズムと高度な様式をふたつながらにあらわしている精神的文学的な創造に対して」ノーべル文学賞が与えられたのであった。 ヘルマン・ヘッセは、一八七七年七月二日、南ドイツ、シュワーベン地方(ヴュルテンベルク州)の田舎町カルフで生まれた。 ヘッセの父ヨハンネス・ヘッセはバルト地方のロシア系ドイツ人であり、やはり青年時代にインド布教に従事したことがあるが、健康を害して帰国し、伝道団の指示でグンデルトの助手になり、そこで未亡人だった娘のマリーと結婚したのである。 幼少のころからヘッセは空想力にあふれた利発な子であったが、 我儘 で両親の手を焼かせるようたところもあった。彼が四歳のころの母の日記には次のように記されている。 「……この子には巨人のような強さと強引な意志と、四歳にしてはおどろくほどの理解力がある。どういうことになるだろうか? 暴君のようなこの子の気まぐれと戦っていくのは、ほんとに精神的に疲れることだ……」 彼は自然を愛し、動物や植物を友とし、またゆたかな空想力によって幻想の世界を追い求め、音楽的、詩的、絵画的な才能をさえ予測させた。 当時の教育制度の欠陥もあろうが、学校教育が自己に及ぼす束縛への強い反抗心はのちのちまで彼のなかにあらわれてくる。 神学校の雰囲気や生活は『車輪の下』によく描き出されている。 熱心に読書にふけり、詩作を始めたのもこの時代のことである。 十八歳になったヘッセは、工場をやめた。大学の町チュービンゲンに、大学生としてではなくヘッケンバウアー書店の見習いとしてふたたび出版業務の実際を学ぶためであった。ここで彼は三年の徒弟期間を努めあげたのだから、とにかく彼にも適した活動の場が見つかったと言えるだろう。読書と創作に余暇を捧げたこの時期の孤独な生活で、ヘッセは厳しく自らを律し、自己の教化と独自の精神的な世界をつくりあげることに全力を傾けたのであった。独学といってもいい彼の読書の中心はゲーテであったが、しだいにローマン派の作家たちとも親しむようになり、とくにノヴァーリスに心を惹かれた。 同じ年に試みたイタリア旅行は、古い芸術や文化にふれ、彼自身がこれまでつねにアウト・サイダーであった今日の社会に批判的な態度を示している。『ボッカチオ』の伝記や、「人間のなかの神の愛の申し子」である『アッシジの聖フランシスコ』伝は、旅行後の収穫である。 ヘッセは前年イタリア旅行で知りあったバーゼルの数学者の娘でピアニストのマリーア・ベルヌイと結婚した。 ヘッセがインドに 赴いたのは、ヨーロッパの文化からの逃走だとも言われるが、彼自身の言葉を借りれば「距離をとって全体を概観する」ための試みでもあった。この旅行では目的地のインドには足をふみ入れず、マレー、スマトラ、セイロンの紀行が主となった。彼の求めていた精神的な救済や、ヨーロッパからの 解脱 は得られなかった。しかしヨーロッパでもアジアでも文明によってこわされぬ超時代的な精神の世界が存在することを知り、そういう領域を自己のうちに造りあげることを望むようになったのは大きな収穫であろう。 一九一四年一一月、彼は「新チューリッヒ新聞」に、「おお友よ、そんな調子はよそう!」という有名な文章を掲載して、戦争に 迎合 的な文化人たちの反省を求めた。しかし人間性を訴えるこの声は、たちまちにして多数のドイツ愛国主義者たちの総攻撃をうけ、ヘッセは「裏切り者」「変節漢」といったような 悪罵 を浴びたのである。 妻は精神病の療養所にはいったままであり、共同生活はもはや不可能であった。子供たちを知人や寄宿にあずけて彼は単身南スイス、テッシン州のルガーノヘゆき、それからさらに山地の葡萄山と栗の森にかこまれたモンタニョーラ村の山荘カサ・カムッツイにひきこもったのは一九年五月のことであった。 二三年、彼がスイス国籍をとった年に、ヘッセは妻マリーアと正式に離婚し、スイスの女流作家の娘ルート・ヴェンガーと結婚したが、この結婚も三年後には終わりを告げている。このころから坐骨神経痛に悩まされた彼はしばしばバーデン鉱泉に通うようになったが、『湯治客』はその副産物である。 三三年にドイツではヒトラーが政権を樹立した。この第三帝国の暗黒の時代にヘッセはモンタニョーラに引きこもって完成に一〇余年を費した大作『ガラス玉演戯』の完成に全力を注ぐのである。 ナチスが文化に対して侵しているさまざまな破壊行為、真実の 蹂躙 や言葉の 冒涜 などのしらせは、テッシンのヘッセの山荘にも伝えられてきた。 一九四五年に平和が訪れた。それ以後ヘッセは詩や随筆、生涯の仕事のまとめや回想などの仕事を主とし、大作を制作してはいないが、これは彼が眼病に侵され、目をいたわらなければならなかったという事情も加わったせいだと思われる。 ドイツの女子学生が「私は、はじめてあなたの本のひとつを読んだとき、わたし自身が多かれ少なかれ無意識に感じたことのある多くのことを発見しました」と書き、日本の高校生が「……あなたの作品を読んでいけばいくほど、わたくしはそのなかに自分自身を感じました。いまわたしは、自分を最もよく理解してくれる人がスイスに生きており、わたしをいつも見つめてくれるのだと信じています……」と綴った手紙をよせたのもこのころであった。 本来ならば、社会環境に対する攻撃が主なのではなく、自分の個性を完全に生きようとする意志が問題となるべきなのであり、その努力が周囲からは頑固、わがまま、反抗的ともとられるところにはじめてヘッセ流の抗議が生まれるはずなのである。人間を 鋳型 にはめこんでしまうような枠というものが個性を 害 ない、精神をもたぬ人間をつくりあげてゆく過程は、ここではとくに古い型の教育に対して向けられているようにみえるが、見落としてはならないのは、牧歌的な田舎町にかえって強くあらわれてくる偏狭な市民性という枠である。 ドイツ文学の作家のなかでヘッセと世代的に近いのは彼より二歳年長のマンとリルケである。 ヘッセが、ゲーテやドイツロマン主義の伝統を守り、またヨーロッパを逃れて東洋の英知に救いを見いだそうとしたのは、こうした皮相な技術化近代化、雑文による文化の時代に、失われかけようとする人間性を守ろうとしたからなのであった。
全七章に亘って、ハンス・ギーベンラートの柔く脆い青年期を綴る。 周囲より少し勉強ができてしまったために過度な期待を背負い、踏ん張りが利かなくなったったとき雪崩のようにすべてがうまくゆかなくなる。 冷たく静かに川を流れるハンス。 吐き気も恥も悩みも取り去られた、ハンス。
神童の主人公が来る日も来る日も勉強を重ねて、合格した先にあるのもまた勉強を重ねる日々。自分がやりたいなと思ったことを心の中にしまい、やるべきことや求められていることに注力していく中で出会う、愛情や死の形、暴力や非行の形は彼の人生の中で「自分とはどのような存在であるのだろうか、何者であるのだろうか」と...続きを読むいう問い直しを与える。 最後の方に彼が語る神童であったのに気づけば周りから遅れていたというところはどのような形であれ、色々な読み手の人生の思い直しにも一石を捧げるものであると感じた。 働く喜び、人の役に立つ喜び、人を愛する喜び、最終に近づくほどに彼の中に少しずつ湧き立った感情は心の底から生まれた自分自身の本当の感情であるとするならば、我々も生きていく中でそのような「生きている、生きていく」という感情を心のどこかに大切にしておいた方が良いのだなと思った。 人に求められることが多い現代社会、自分らしさとはと問い直す現代社会。ただ自分らしさと自分勝手は違う。その社会、共同体の中で自分の喜びを表せるものやこと、人との出会いを大切にその中で自分なりの「生きている、生きていく」を自分の言葉で、自分の姿で、自分の行動で誇りを持って生きるための一歩を毎日踏み締めて生きたいと感じた。
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