國分功一郎のレビュー一覧
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「目的への抵抗」
このタイトルを本屋で見た瞬間、私の手がスーッと伸びた。
私は、目的という言葉が、あまり好きではなかった。
けれども、錦の御旗を掲げた軍のように、「目的」という言葉は、批判するにはあまりに絶対勢力すぎる。
ケチをつけたが最後「お前はぜんぜん分かってない!」という批判が矢のように飛んできそうな気がして、ケチをつけるのも憚られたのだ。
だからこのタイトルを見たとき、しかもそれを國分功一郎さんが書いていることを知ったとき、私は大喜びで、本を手に取ったのだ。
素晴らしい内容だった。
特に印象に残った文章を、メモとして引用したい。
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重要なのは人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由があるということです。(P195より引用)
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目的とは「手段の正当化」であること。
人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求めるということ。
目的が、自由や贅沢という概念とつながっていることが、面白かったな。
今後もうちょっと読み込んで、自分のなかに落とし込んでいきたいと思う。 -
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古代の世界で使用されていた文法「中動態」を起点に、能動・受動の捉えなおしながら、「私がなにごとかをなす」ことを分析していく哲学書。
先人たちの言語学と哲学の研究を紐解きながら、丁寧に中動態を解釈していくさまに感嘆しかない。前提となる情報で土台を作って、論理をひとつひとつ積み上げて、中動態とはいったいなんなのかを紐解いていく。その過程はまるで、強固な城を建設しているような印象だ。言葉の意味を的確に拾っていかないと、筆者の言わんとしていることについていけなくなるので、辞書をお供に読み進める。哲学は言葉のひとつひとつの意味を大切にする学問であることを実感する。
能動態と受動態の区別は、主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるかで定義され、主語の内に位置づけられるのが中動態である。ざっくり解釈すると、自分の行動の行き先の矢印が自分に向かっているのが中動態、というイメージをもった。その前提でスピノザの唱える能動・受動の概念を考えていくプロセスが、難しいけれど面白い。刺激を受けたうえで生じる行動が、自分の本質的な行為か、それとも外部からの刺激に圧倒された本質的でない行為か。行為の質の差で能動・受動であるかを考える。すると、冒頭で登場した「プロローグ――ある対話」の見え方が変わってくる。「暇と退屈の倫理学」でも思ったけれど、筆者の國分先生の本は、言葉や文章を追いかけていたら、いつの間にか見える世界が少しだけ変わっている感じがする。時間がかかったけれど読み終えることができて良かったし、読み終えた自分にすこし自信がついた気がする一冊だった。 -
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〜感想〜
國分功一郎先生の暇と退屈の倫理学がわかり易く、面白かったので、國分先生が教えてくれるスピノザなら間違いないはずだと思い、本書を手に取りました。結論、國分先生のこともスピノザのこともさらに好きになりました!
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〜印象的なスピノザ論〜
『すべての個体はそれぞれに完全である』
(この家は) 「まだ屋根がついていないから完成していない」
これは、私たちが完成された家についての一般的観念をもっていて、それと比較しているからである。
一般的観念というのはいわゆる偏見で、これまで何度も見たものに基づいて作られた観念にすぎない。それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているにすぎない。
存在している個体は、それぞれがそれ自体の完全性を備えている。自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれにただ存在しているのである。
『善悪は物事の組み合わせで決まる』
音楽それ自体は善くも悪くもない。ただそれは組み合わせによって善くも悪くもなる。つまり、自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だ
『善は活動能力を高める』
我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを〔……〕、言いかえれば〔……〕我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第四部定理八証明)
私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるもの。そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べた。
『何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえにねたみはしない』(第三部定理五五系)
ねたみは憎しみそのものであり、したがって悲しみの感情である。そうやってねたんでいる時、私たちはより小なる完全性へと向かいつつあり、活動能力を低下させていることになる。
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〜印象的な語彙〜
コナトゥス(conatus)個体をいまある状態に維持しようとして働く力のこと。
エイドス(eidos)形相
変状(affectio) ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びること。 -
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・2回通読。学びつづけることに対して背中を強く押してくれる良書
・受け取れる刺激の幅を広げるもの、例えば精神的な余裕、学ぶことが有益である。ものを知り、自分を知り、自分が変わる。真理、神の存在を悟るためには、主体の変容、自己精錬が必要。これらの考え方は、腹落ちかつ目から鱗な金言
・神即自然、自由意志の否定などの表面だけ見てると、決定論的構造主義的な考えに偏ってるような印象を持つけど、上述のような主張を見るに、実存主義的な考えも併せ持っていると思った。そういうところはニーチェにも通ずるところを感じた
・再読時(2026/01/10)メモ。著者は近代以降の一般的な考え方とOSが異なると言っていた。取り扱う概念は他の哲学者達と共通しているし、近しい主張を共有する者も古今東西にいるだろうけど、スピノザのコナトゥスに基づく新鮮ユニークな表現を通じて、自身のコナトゥスを省みるきっかけになる。コナトゥスは個物および状況に応じて異なるが、エソロジーとして人類が共有する部分もある。その部分は哲学心理学社会学行動経済学脳科学などの学問を通じて部分的に認識できるかもしれないと思った
以下、メモ
17世紀、デカルトから近代哲学、ニュートンから近代科学、社会契約論が始まった頃、オランダにてあり得たかもしれないもう一つの近代を示す哲学を打ち立てた
スピノザ哲学を脳内で作動させるためには、思考のOSを切り替えなければならない
ベントー
スピノザの先祖はスペイン系ユダヤ人。スペインからポルトガル、オランダへ。オランダ語は不得意
バールーフ
ユダヤ教会から破門される。神学・政治論、ヘブライ語文法網領を執筆。暴漢に襲われた時の穴あき外套を民族記念品として保持
ベネディクトゥス
誰のものでもない言語ラテン語で哲学を記す
「私は大いに笑うことと、今後自活していくのに必要なだけ働いて、夜は哲学を研究して過ごせるようにすることを望んでいます」
神学・政治論では、思想の自由、社会契約論についても論じる
迫害や誹謗中傷が激しく、友人を虐殺され激しく憤り、無知者を批難するという側面。現代SNS炎上との類似性
エチカのサブタイトル「幾何学的秩序によって論証された」
定義、公理、定理と証明、備考から構成される
組み合わせとしての善悪。人の考える完全性も善性も主観的相対的。上手く組み合わさって活動能力を増加させるものが善。倫理学は個別の実験を求める
自分の存在を維持しようとする力、コナトゥスが万物の本質である。形を本質とする見方からの転換。触発される力は個別であり、時と場合にもよる。刺激による変状、変状への反応としての欲望、これらもコナトゥスであり本質
生態学や動物行動学エソロジーとエチカは共にエートスを語源とする
受け取れる刺激の幅を広げるもの、精神的な余裕や学ぶという行為は有益である
個別のコナトゥスを把握するには実践が必要で、それを促すような教育が望まれる
自死や拒食は外部原因に強制されるもの。コナトゥスのキャパオーバー
コナトゥスが大幅に組み変わることはある種の死。子供時代や記憶喪失など
万物は神というただ一つの実体の変状、様態である。様態は無限の属性から成り、精神のような思惟の属性、物体のような延長の属性もその一部。個物は神の属性を表現する様態
コナトゥスが上手く働いている自由な人たちは、互いに感謝し合い、信義をもって行動し、法律を守ることを欲する
スピノザの政治論国家論、反復的契約説
自由とは、与えられた条件、自身の必然性、例えば自身の精神や身体の条件の中で、力を発揮すること。その必然性は実験を通じて把握していく
自由の反対は強制であり、本質を踏み躙られること
自由であるとは、能動的になること、自らが原因であるような行為を作り出すこと、自らの力が表現されている行為を作り出すこと。神の属性を個物が各々表現
自由、能動は純粋にはなり得ず、度合いがある
行為は、意識、無意識、習慣、身体的な協応構造など、多元的に決定されており、意志が一元的に決定してるわけではない
意志と意識は異なる。意識は観念の観念、メタ観念。欲望を認識すること等。自由意志と違い、意識は存在する
意志教が蔓延る現代(著者の考え)
真理は真理自身と虚偽との規範。光が光自身と闇とを顕わすように。真理の外側に真理の基準はない。近代科学のあり方には抵触する
デカルトの真理は、公的に他者を説得できる客観的真理
スピノザの真理は、真理と真理に向き合う人の関係を問題とする主体的真理
物を知り、自分を知り、自分が変わる。何事かを認識することは、自らの認識する力やその仕方を認識することでもある。この体験は主体の変化を伴う。真理の獲得には主体の変容を要する
神の存在証明。デカルトは「神の何たるかを充分精密に探究した後は」と条件付け、スピノザは「多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解し得ないだろう」と述べる -
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スピノザの診察室から。
スピノザの思想をかじってみようかなくらいのテンションで読んでみたら、価値観がアップデートされるほどの衝撃を受けた。
特に「自由」についての考え方が心に残った。
「自由」とは、自分が何でもできるようになることではなく、自分のできる範囲で力をうまく発揮することだという。
これは自分が最近考えていた、教育観にもつながる。以前は、経験によって自分のレベルが上がれば今できないこともいずれできるようになり、最適な教育が可能になると思っていた。でも、それは違うのかもしれない。教師にも置かれた環境、人間関係などによってできることは制限されるし、公教育における限界もある。それを理解した上で、どうすれば自分の力を発揮できるのか考え、トライアンドエラーしていくことが「自由」な働き方なのかとわかった。
「真理」に対する考え方も面白かった。真理とは誰もが疑うことのない絶対的なものではなく、自分自身が到達するものである。それは本人が気付くかどうかの問題であるということだ。つまり、真理を理解するために、自分にその力があるかどうか、メタ的にみる必要がある。すなわち、自分自身をよく知ることが何よりも大切だと感じた。
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意見や世論はできあがったものとしては存在していない。
作り上げていくもの。
アレントは完成された自由を求める。
革命は漸進的にしかなりえない。
國分
哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに応える概念
ex 依存症患者との出会いで中動態という答えを見つけたように
●教育は中動態的であるべき
プロセスを見せる
悩み続ける
すべてがコミュニケーションに支配されて、すべての手段が交換可能、変換可能になっている。
ね。プロジェクトと言えば、何と言ってもハイデガーですね。ハイデガーは「投企」という言葉を使って、人間をプロジェクトする存在として捉えました。
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確かに人間はプロジェクトする存在だけれども、その中には中動態的な喜びがあり、そして勉強はその中でも格別の喜びを与えてくれる中動態的な営みで
アイロニーよりもユーモア
教師のとても大事な機能というのは、孤独な時間がなければ人は何かを成し遂げることはできないと教えること
ドゥルーズ
権威主義でない権威
= 選択の余地があるけれども、服従する。
歴史は、勉強しないと認識できない。
仮説は物語
言語を学ぶことは生成変化すること
半他者に私淑する
広さと深さ
周りの声を聞いて自身の規範を内省する
優れた教師とは、「私のようにやりなさい」じゃなくて「私と一緒にやりなさい」と言う者だという
コミュニケーションではなくて、一緒に主体形成することが大切だと思うし、教育はそういうものではないか。
ポスト・デモクラシーの問題として。特異性に反応する、原理なき判断。
エビデンス主義への抗い
二一世紀にもし言語の弱体化が起きているんだとすると、それは二〇世紀的な人文学のモデルとは違うものに移ろうとしていることになります。
●つまり言語というのは、直接的満足の延期であり、もっと簡単に言うと我慢なんですよ。
現代社会では我慢を強いられる状況が減ってきていて、即座に快楽が得られるようになっている。つまり言葉を連ねることによって、直接的満足を我慢することをしなくなっているわけです。
欲望(挟まれること)と快楽(達すること)の違い
ドゥルーズ
今日の民主主義においては、努力によって弁証法的苦難を乗り越えて出現するようなヒーローを抹消することこそが民主主義になるわけです。
シュミット的な理論の克服
敵味方論
レスネス
自分を少なくすることで関わる
遊戯的な政治
人は必ず何かを使用することで主体化していってるはずですね。そのことが認められれば、自分が主体化するときに「使用」した他者や物に対する敬意やそれを慈しむ心も出てくる。
→ものを大事にすること
支配ではなく使用
オカルトとエビデンス
インピュタビリティ(他責)と
レスポンシビリティ(内初
ジャスティスは時間がかかる
コレクトネスはすぐ判断できる
「正義とは法外なもの」
★原爆も言葉から生まれた
「これは善ではない。だが、より大きな悪を防ぐための選択だ」
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「免責が引責を可能にする」
この一節に私はしびれた。
なにかミスがあると、世の中では「責任をとれ!」という話になる。言い換えれば「このミスを犯す意志を持ったものは誰か?」というお話。本書では、このような「意志によって根拠付けられる責任」を「堕落した責任」と呼ぶ。
責任とは、そういうものではない。責任とは応答することなのだ、と。そしてその応答としての責任の生成は、実は免責※によって生まれる、と本書はいう。
※ここでいう免責とは、無罪放免にする、という意味ではなく、自らの行為が、意志ではなく、無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きのことを指す
この考えに、私は驚いた。
コペルニクス的転回!
そして全く考えたこともない発想だったけれど、ものすごく腑に落ちる気がしたのだ。
國分功一郎さんの本は、確かに咀嚼するのに時間がかかる(そして私はまだ咀嚼しきれていない)のだが、そこから得るエッセンスがもたらす思考的影響が、半端ない。 -
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國府先生、これはかなり難しかった。何回も行きつ戻りつしてやっと一周読みましたが理解が追いつかない。。。
私なりに理解したところによると、目的を持たない快(酒やタバコをを嗜むような)が、現代では目的に蝕まれつつある=純粋に行為自体を快楽として受け取る余裕がなくなってるよ、っていう警鐘なのかなと思いました。実際私も酒びたりのときが一時期あり、現実から一瞬でも思考を切り離す道具として酒を飲んでいたなぁと今は思います、当時は美味しいから沢山飲んでると思い込んでましたが(病)。
前作の新書より具体性が上がってるのについていけない自分の理解力のなさに悲しみを覚えつつ、一方で凡人がついていけないレベルの内容でも平易な言葉で何回も何回も丁寧に説明して書いてくださる國府先生の姿勢に、そこに痺れる憧れる〜!となってしまう一冊です。おすすめです、帯の先生の写真もかっこいいし!
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國分さんの本はとにかく面白いので、いつか読むだろうと本書も積読しておりました。
スピノザは國分さんの本ではたびたび登場する人物であり、他の人の本でも肯定的に引用されることが多い印象で、どうやら日本人が好きそうな人物です。なぜ現代に肯定的に受け取られているのかを考えながら読んでおりました。
まず代表的な考え方である、「神即自然」。神は自然であると言い切るスピノザ。キリスト教神学が支配している時代で、この考え方を提示できるのはすごいです。。。自然信仰が馴染んでいる日本人にも受け取りやすい考え方でしょう。
國分さんは本書の初めにスピノザの凄さを伝えるためにこのように述べています。
「哲学者とは、真理を追求しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です」
つまり、スピノザは命を奪われてもおかしくないヤバい哲学を掲げた人物ということです。その生涯では認められることはなかったようですが、その考え方は今の現代人に突き刺さるものがあります。
「人が無理なく自分らしい力を発揮できることが自由である」というスピノザの自由は、現代の私たちに自分らしく生きる希望を与えてくれるものであると感じます。その上で、その力を発揮するために、自分が刺激されるような状態を作ることが有益である、つまり精神的な余裕や学ぶという行為を肯定する考え方は、完全に同意です。
今こそスピノザに学ぶべし、に納得しました。
なお本書は単独でももちろん面白いですが、國分さんの名著『中動態の世界』の副読本としてもお勧めです! -
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「読んでて難しい」「難解だ」と感じる人ほど(少なくとも私はこちら側だと思う…)、「能動↔︎受動」の言語に基づく思考体系に浸かってしまっているということなのでしょう……
中動態について、言語の歴史やスピノザ哲学など、あらゆる側面から國分先生の哲学論が展開されていきます。難しくても読み終えて初めて「中動態の世界」の入り口に立てるのかもしれない。
最後に能動態↔︎中動態的思考から「責任論」に話は移行していきますが、社会の分断が進む現代社会が進むべきヒントを与えてくれるカギとなるのではないでしょうか。
「暇と退屈の倫理学」でもあった通り、本書もまた「(理解しきれない部分があったとしても)通読してはじめて意味を持つ」のだと感じました。
この感想を読んでくださった方も、なにかのご縁だと思って、たとえ本書を読み始めてから難しいと感じたとしても、最後まで読んでみてほしいです。。 -
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國分功一郎はスピノザの哲学を、やや象徴的に「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」の哲学と形容する。
実際に、近代哲学の在り方を規定したのはスピノザではなくその少し後のデカルトだ。現在の社会も、多かれ少なかれデカルト的な考え方に則って成立している。
本書はそういった「近代的な」発想とは異なったスピノザ哲学の概念を紹介する。
各章ごとに①組み合わせとしての善悪(↔︎一般的観念としての善悪)、②力としての本質(↔︎形相としての本質)、③必然性としての自由(↔︎自由意志としての自由)、④自己変容としての真理(↔︎客観性、明晰性としての真理)といった具合だ。
これらの概念は新鮮というよりむしろ、現代社会において通説的になりつつある概念というように感じられた。
どれも煎じ詰めれば個人の尊重や個性の重視、人間の意識の複雑さ、成果主義からプロセスの重視へといった、近ごろよく聞くような話である。
この本自体がNHKの「100分de名著」のテキストが元になっているらしいし、おそらく時代の要請に応える形でスピノザに注目が集まっているのだろう。
「おわりに」で引用されたドゥルーズの言葉、『哲学とは概念を創造する営みだ』が印象深い。
300年以上前にスピノザが創造した概念が、現代社会に生きる我々が自己や社会を分析するツールとして新たな意義を獲得する。そう考えるとなかなかロマンのある話だ。
国家論に触れる箇所も興味深かった。
スピノザは社会契約説に賛成しつつ、契約を一度きりのものではなく日々の生活の中で絶えず更新される反復的契約と捉えるそう。
國分功一郎の本を読むのは初めてだが、読みやすさや分量、本題と傍論のバランス、どれを取っても新書として素晴らしい出来栄えだった。
いい新書は演劇のように楽しめるものだ。 -
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何回でも読み直したい作品
ここ最近で一番、日常における認識にざらつきを与えてくれる本だった
p.131
人が積極的意志(「…をしよう」)によって真理に至ることはない。真理は常に、思考を余儀なくされたことの結果として獲得される。人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。
p.298
欲望のアレンジメントは、権力装置を伴うだろう(…)だが、権力装置はアレンジメントの様々な構成要素の中に位置づけられねばならない。(…)権力装置とは、したがってアレンジメントの一構成要素ということになるだろう。
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Posted by ブクログ
哲学者・國分功一郎先生が記すジル・ドゥルーズの研究書です。ドゥルーズの方法と対象を、國分先生が精緻に分析し、その実像に鋭く迫ったものですが、お読みになる場合には「格闘する」と言う言葉が当てはまります。
正直なところを言ってしまえば、僕は國分功一郎先生の本に出会わなければ、ジル・ドゥルーズの哲学に関心を持つことはなかったのかもしれません。本書は哲学者、國分功一郎先生によるジル・ドゥルーズの哲学を読み解いた『研究書』であります。
元々、國分先生の専門はスピノザ研究との事で、全体の構成や「発生」はヒューム。「潜在性」についてはライプニッツからのアプローチが行われております。
ただ、本書を読むにいたってはドゥルーズ・國分の両哲学者と『がっぷり四つに組んだ』状態と言う言い方が相応しく、
「ちょっとかじってエッセンスでも。」
と言う安易な姿勢で読み始めると、手痛いしっぺ返しを受けることでありましょう。
僕は自分でも思ったほど多くの哲学についての関連書を読んできたわけではないんだな、と言うことに改めて気づかされたわけですが、國分先生による丁寧な語り口は本書の中でも健在であり、そのスタンスが一貫して存在していたことについては、敬意を表したいです。
國分先生は本書のテーマの一つとして、『政治的ドゥルーズ』と『非政治的ドゥルーズ』と言う「二つの像」があることを示し、前者を許容する側がいる一方で、後者を批判する側がいる。ドゥルーズはそれに応えるために、ガタリとの『共著』と言うスタイルをとったと論じているのです。
それを存分に展開させたのが第5章で、『監獄の誕生』などで有名なフーコーからアプローチをかけ、結論部で
『ドゥルーズが権力構造の分析を通じて現代社会に下した判断は、決して薔薇色ではない。しかし、そのドゥルーズの哲学が自由を志向するものであった、という事実は我々に勇気を与える。』(p225)
と記しているのです。
と、ここまで書いておいてやはり、本書を読んでこうして文章にしたためるということはまさに『格闘』そのものでありました。
西洋哲学や、ドゥルーズについて余り予備知識がない、と言う方にはあまりお勧めできませんが、僕は國分先生の人生相談『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)を先日読んで、そのあまりの切れ味の鋭さに
「この人の奥には一体何が潜んでいるんだろう?」
と言うのがきっかけでありましたので、その一端を知ることができたのは、僕にとって幸いでありました。
※追記
本書は2025年9月11日、講談社より『ドゥルーズの哲学原理 (講談社学術文庫 2880)』として加筆修正の上文庫化されました。 -
Posted by ブクログ
講話を収めているからかめちゃ読みやすい。
第一部のアガンペンの主張から始まる読者への問いかけ。刺激的なものをそれを理由に排斥してしまうのではなく、それを足がかりに自らを問い直すことの意義。
社会にとってチクリと刺してくる虻のような存在としての哲学の役割。
賛成/反対のテンプレを越え、自ら問うてみる姿勢で批判的に物事を見ることの重要性はそれはもうわかる。
ただ自分が考え、主張し何の意味があるのか。「何も変わらないじゃないか」という論調が強いのが昨今の潮流な気がする。
この論調を否定するでもない、フレーミングを提示してくれた。
「あなたがすることのほとんどのことは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
第二部が深化していき面白かったな。
大量消費の市場社会が、合目的的な社会の形成の一助になっていたかもしれないというのは面白い。ごく当然の論理として、目的化された消費と浪費の反規範化が行われ、それをあまりにも当たり前に受け入れていたことか。
序章の文章「自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える」まさしくこれが、紆余曲折を経て主張される。