國分功一郎のレビュー一覧
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これはいわば、自由を求める者たちへの指南書だ。
スピノザは言った。「物事それ自体に善悪は存在しない。善悪を決めるのは組み合わせだ」と。目から鱗でした。例えば、毒キノコはそれ自体が悪いのではない。人間と掛け合わせると悪い作用が働く。動物が食べても問題はない。すべては組み合わせなんだ、と。さらに人間は無意識と意識でできているから、真の自由は手にすることができないと言う。だからこそ己の真理、己の美学を探究する必要がある、と。
自由を手にすることはできない。限りなく自由に近づくには、自分に合った組み合わせを見つけなければならない。自分にとっての真理とは、自身が変わっていくことで生まれるのだから、と -
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ネタバレ國分功一郎先生が、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒュームの政治哲学を簡潔にまとめてくれてる良書。
一般意志が行政には適用されず、立法にのみ適用される事が重要っぽい。
ロックに手厳しくて笑った。
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以下備忘録
①ボダン
西洋社会においては9-13世紀に封建国家があり、14-16世紀にかけて緩やかに衰退した。
封建国家では領土の概念は無く、政治的アクター同士の(複雑な)契約関係そのものが国家の概念。
慣習が法として、信仰が規範として成立している時代。宗教戦争以後、国家の体制が論じられるようになる、その嚆矢がボダン
内容は、絶対主義国家、主権概念。
国 -
ネタバレ 購入済み
より多くの人に読んでほしい。
2024年12月読了。
ず〜っと気にして買っていたのに、中々手が伸ばせずに積ん読状態だったのだが、数年前にTVでオードリーの若林さんが称賛していたのを見て興味が湧き、読み始めたのだが、自分はうつ病を患っており、その時は具合が悪く途中で手を止めてしまった。
その後(つい最近だが)思うところがあり、改めて初めから読み返したところ、夢中に成る面白さで、半日弱で読み終えてしまった。
哲学書でこんなに読み易い本は、早々お目に掛かれない良書だと思った。そして若い読者にも理解しやすい書き方で、現国のテキストに使われたのも頷ける内容だった。
中身を多くは語るまい。読み終えた人だけが、感想をスタート地として -
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『エチカ』のエッセンスを、近代社会のとは異なる価値観として捉えて論じていく。現代人の常識からは、まさにOSの入替を要求される内容である。
本質というとガチガチに固定された不変の形状という認識であるが、スピノザは個々人の活動能力を高める力であるという。人間を画一的に定義するのではない、人間に対する寛容さ、温かな眼差しを読み取ることができる。
近年徐々に広がりつつある個人を尊重し認め合う風潮は、スピノザ的な感覚なのではないかとも思う。
一旦は読み通したが、各章を自分なりにまとめ直したいと思える良著。国分さんの文章は主張が押し付けがましくなく、読みこぼしてしまう読者にも優しく手を差し伸べてくれる -
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・2回通読。学びつづけることに対して背中を強く押してくれる良書
・受け取れる刺激の幅を広げるもの、例えば精神的な余裕、学ぶことが有益である。ものを知り、自分を知り、自分が変わる。真理、神の存在を悟るためには、主体の変容、自己精錬が必要。これらの考え方は、腹落ちかつ目から鱗な金言
・神即自然、自由意志の否定などの表面だけ見てると、決定論的構造主義的な考えに偏ってるような印象を持つけど、上述のような主張を見るに、実存主義的な考えも併せ持っていると思った。そういうところはニーチェにも通ずるところを感じた
・再読時(2026/01/10)メモ。著者は近代以降の一般的な考え方とOSが異なると言っていた。 -
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古市さんと國府先生の対談。二人に接点あるかいな?と思ったけど、穏やかに噛み合わったり全く噛み合わなかったりする対話が粛々と進んでた。賢い人同士だと、分かり合えない部分で口論になったりしないんだなぁとしみじみ。
最後の部分が良かったので引用。
>(古市)僕たちがこの本を通してずっと話してきたのって、社会は革命的には変わらないってことだと思うんです。何か新しいシステムを導入するとか、新しい政治家が登場するとか、強大な敵を倒すとか、そんなことで社会は変えられない。社会はちょっとずつしか変わらない。
>(國分)そうだね。「新しい何か」への願望って、本当に解決しなきゃいけない細かな具体的 -
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そうそうたる顔ぶれがそれぞれに「利他」について説いているんだけど、何となく見えてくるものがある。特に、伊藤亜紗と中島岳志の利他論に学ぶところが大きい。すなわち……。
利他とは、人のためになることのようなとらえ方が一般的だと思うけど、それを意識的にするのは「利他」ではない。何らかの気持ちのメカニズムが働くにせよ、本人的には説明がつかないうちに、自分のためでなく動いてしまうことが利他なのだ。
一生懸命に利他的なよき人物であろうなどと努めてしまうが、そんなことを考えているうちはまだまだということだろう。考えてみれば、利己的な言動だってわざとそうしているのではなく、自然とそうしてしまうからこそ利己的な -
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『たとえば、三平方の定理のような数学の定理を証明する時のことを考えてみればよい。その証明が真であることは、何かに照らして真であるというより、その証明自体によって示されている。証明を終えた時、証明を行った本人にはそれが真であることが分かる。確かに三平方の定理自体は公共的に共有されうる。しかし、それが真であることは自ら証明してみないと分からない。そして証明してみれば分かる。真であることは公共的に共有されるものではなくて、各自によって経験されることだと言ってもよい。スピノザがイメージしている方法としての道もまた、それ自体で真であることの明らかな観念から別の諸々の観念が導き出され、それらの真であること