國分功一郎のレビュー一覧
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高校・大学生向けの講話を書籍化。語りかける文体なので、肩ひじ張らず読みやすい。上に、國分先生の語り口が優しく、構成力もさすが。
ジョルジョ・アガンペンの論考を引合に出しながら、コロナ禍における自粛や不要不急といった対応を分析し、人間の本質に迫る。『暇と退屈の倫理学』で述べた贅沢を楽しもうという主張から更に論考を進め、「信じる」ことの大切さ、目的に縛られない行為の自由の大切さへと思考は深まっていく。
まさにコロナ禍体験者の一人として、行政主導で人間の基本的な主権への制限を無批判に受け入れていた。
感染拡大を防ぐためには必要なことであったと今でも納得はしているけれど、一事が万事このように受け身で従っていく態度はいかがなものかと本書により気づかされた。譲れない信念・超えられてはいけない一線というのは、国からの扇動を拒絶する覚悟を持つためにも意識していこう。
シリーズ化され新刊もでているので、そちらで更に深まった論考をたどっていきたい。 -
Posted by ブクログ
コロナ禍で行われた自由への強力な制限について取り上げる中で、その必要性には頷きつつも、「目的のためにはどんな手段も正当化されてよいのか?」という切り口で自由とは何かを考えるという筋。
【前半】
現代の哲学者アガンベンはコロナ禍で人々の移動や経済活動、葬式で集まることさえも制限を正当化された事態について批判した。
これによってアガンベンが逆に批判される(炎上する)ことになったが、ソクラテスの言うように哲学者は社会の虻として(p45)ぼんやりしがちな人々の目を覚まさせる役割があるため、アガンベンはそれをしたのだろう。
逆に、役割を果たしていない者の例として教会と法律家を挙げている。「教会は信よりも生を犠牲にする用意がなくてはならない」(p68)、「憲法の諸規定が遵守されているか確かめるのは法律家の仕事だが、」「法律家たちよ、なぜ自分の任務について沈黙しているのか?」(p74)
【後半】
アーレントの全体主義についての議論「手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならない」(p150)、「全体主義の下では、チェスのためにチェスをすることが許されない」(p154)が取り上げられている。
これと、國分の「暇と退屈の倫理学」でテーマとなった「暇と退屈への処方箋は『楽しむこと』であるが、放っておいても何かを楽しめるわけではないため、楽しみ方を学んで楽しむことが鍵となる」(p101)や、
「楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりするこたは、生存の必要を越え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じで人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている」(p144)
といった主張とを繋ぎ合わせる。
すると、「行為は、目標や動機づけという要因に規定される局面もあるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由である」(p175)というアーレントの主張が決定的に重要になる(同ページでそのように書かれている)。
自由を守り、人間らしい価値を守って生きるためには、自由への制限や楽しみへの制限に対してはいかなる理由(目的)があっても常に疑い、批判的に見ていく必要があるということだろう。 -
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行間からその相談者の心の奥底に迫り寄っていく國分さんおそるべしという感じで毎晩寝る前に(PERFECT DAYSスタイルまだやってます)セブラル相談ずつ読み進めてった。言わないことにこそ本質が隠れているというのは仕事をするうえで意識していきたい、ので、その行間読み取りテクニックを学ぼうと思ったが、解説で千葉さんが言うてたように、急ハンドルすぎて(この千葉さんの比喩すき、自分なら路肩に一旦停車するって言うてたんジワジワ)テクニック学びとれず。毎相談これはズバッと回答か?寄り添い回答か?と半ばヒヤヒヤドキドキしながら読んでた私はカブトムシ…とりあえず真似ぶことから始めていきたい。行間を読み取る。そういえばこないだセルフ行間読み取りをしてました。久々のツイート、しかもちょい酔ってた、翌日恥ずかしくて消した文章で、書かれてることが本心なのではなく書かれてないことこそが本心ではないのかとシラフの自分が気づいてしまった、書いてあることはそう自分に言い聞かせたいことであるような気がしてきて、ゾゾゾっとしました。〜fin.〜
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(著者にとっても意外かもしれないが)間違いなく、かつてなく四半期の数字目標が厳しく喧伝される現代ビジネスの中で、マーケターはじめ、ブランドづくりに関わるすべての人間にとって、必読の一冊だった。
凝り固まった思考の根本OSを、一発ガツンと、叩きのめして、UPDATEしてくれる。
目的ー手段の関係が当たり前のように叩き込まれる商売人の思考回路において、自らが作るモノやコトを、手段から解き放つのは非常に難しい。
でもそれこそが、現代社会が抱える病理に、いやそんな小難しい話を抜きにしても、シンプルに、「よりよいものづくりに勤しむ」ためにこそ、欠かせないはずだという直観に、出会えたような気がする一冊。
この本はじめ、『暇と退屈の倫理学』以降、國分先生の議論には感動を覚え、勉強しているものの、憎き存在として描かれる文化産業こそ、まさに私の本業。ぼくら商売人は、どう生きるべきか?非常に難しい難題。この本でも、やっぱり文化産業は悪役。でも、悪役にだって、抗い方はあるんではないか?
むしろ、作り手として、楽しむ心を促す方向で、腕を振るうことができるのではないか?そんな予感を得られた。國分哲学、もっと恥肉にしていきたい。 -
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ネタバレ國分功一郎先生が、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒュームの政治哲学を簡潔にまとめてくれてる良書。
一般意志が行政には適用されず、立法にのみ適用される事が重要っぽい。
ロックに手厳しくて笑った。
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以下備忘録
①ボダン
西洋社会においては9-13世紀に封建国家があり、14-16世紀にかけて緩やかに衰退した。
封建国家では領土の概念は無く、政治的アクター同士の(複雑な)契約関係そのものが国家の概念。
慣習が法として、信仰が規範として成立している時代。宗教戦争以後、国家の体制が論じられるようになる、その嚆矢がボダン
内容は、絶対主義国家、主権概念。
国民はsouverainである君主に逆らってはならない。強大な権力が上から統治する事で政治秩序を取り戻す。
主権は、対外的には戦争、対内的には立法を通じた被治者に対する超越。の二つからなる。この「立法」こそ目新しく(元々慣習に頼ってたからね)、ボダンの偉いところ。
②ホッブズ
ホッブズは人間は、どれも大して変わらない。という意味で平等。多少の差はあれど、数人が集まれば何とかなる。と捉えた。
→能力の平等が希望の平等を生む。「俺だって持っていいはず」、他人もそう思うのでは?という相互不信の常態化→徒党を組んだ戦争状態。これがホッブズの自然状態。
自然権とは、権利というより人が何でもできる(できてしまう)事実そのもの。
この自然権が行使されるかは平和が訪れない→じゃあこれをみんなで放棄しよう。(そんな事は出来ないという批判がある)
これが社会契約、ここに国家(コモンウェルス)が生まれる。→設立によるコモンウェルス
獲得するコモンウェルスもある。従わなければ殺すと言って契約する。侵略された住民が侵略者を主権者と認めたり、相互不信から徒党を組んだりする。実はこっちが重要。これはリアル。設立は神話。
ホッブズの主権も対外と対内で分けられる。
主権者は不可侵と繰り返し強調した後、対外は戦争和平、対内は立法、司法だが、情念を統治する事も組み込まれてる。
③スピノザ
スピノザの論理はホッブズの論理に内在しているが語られていない部分を掘り返した物。
スピノザは自然権を、自然の諸規則や法則と理解する。仮に自由であったとしても重力から逃れるわけではないように。その法則のもとで、最大限可能なことをするだけ。
だからホッブズの恐怖に基づいた契約を批判する。命に危機が迫っていれば最初から騙すつもりで従いますと言うだけだろう。逃げれば良い。自然状態では義務は発生しない。
同様に「自然権の放棄」もあり得ない。自然権を最大限行使することが非合理だから、「脇に置く」だけ。反復しつつ社会契約を成り立たせている。
↑国家と国民の緊張関係を視野に入れてるが、同時に大衆の愚かさも理解してた。わからない事に耐えられないので何物(迷信/宗教/国家)かに隷従してしまう。これを防ぐためには各人が自身を規定している諸規則・法則を理解する事、あんまできないけど。
国家の最高権力は、構成員の力の合計によってなる。そんなものを一人の人間が背負い切れるはずがない、すると執政官や顧問官が要請されてしまう。彼らに簒奪される。だから彼らは民主的に選ばれたメンバーで監視し合う必要がある。
④ロック
ロックの場合は哲学というよりも主張。自然状態をモノを所有する権利を持ち、自分を侵害しない限りで他人のそれも認める状態と置いた。根拠はないけど。
ロックも立法権を最高権とした。そして行政権は立法権に従属するもの、決まったことを執行するだけの機関という建前。しかし実際には行政も、むしろ行政が「決断」し続けている。なぜなら法律はその適用対象を予測し尽くすことが出来ないから。
ロックはこのことを予見していた。法律が補いきれない領域、更に外交も行政が判断すれば良く、そもそも常に立法府は開かれている必要はないとした。現代の国家と非常に近いが、それでも立法の方が上だという建前を押す。
「抵抗権」の話はロック自身こんがらがってる。そもそも自然権とは「何でも出来てしまう」という事実なのだから、「抵抗権を認める」みたいなのは意味が分からない。統治者にとって都合が良い範囲で、ということになってしまう。ロックが言いたいのは、「人々の所有を侵害するようなことがあれば、自制していた自然権が彼らの手中に戻りますよ」という事。
⑤ルソー
ルソーは自然状態論、社会契約論、主権論にそれぞれデカい建築物を建てた。
自然状態論を、「人がバラバラに生きて、究極的に自由な状態」と考える。自然状態では人を支配する事、所有することが出来ない。所有物を奪われたら逃げれば良いだけだから。性善説とかじゃなくて、そもそも邪悪になる土台が無い、善悪以前の状態。
自然状態と社会状態を分けるのは自己愛と利己愛、利己愛は「他人と比べて」自分を優位に扱いたいという考え。しかもそれは自分と他人は同じであるという平等主義に基づいている。
ホッブスはこの、利己愛が発生している状態を自然状態と考えている。でもルソーに言わせれば、すでに「社会」が発生していて不十分。これはルソーが自然状態をフィクションと考え、ホッブスは現実寄りに考えた
社会契約論では、ルソーは自然状態から社会状態への移行を問題にしない、何かのきっかけでなったと想定しよう。みたいなノリ。現実を解釈しつつ、現実をこう改革しよう。の二側面
ルソーの社会契約は、人民各自が人民全体と締結する。国家の構成員一人一人が集合としての人民全体と契約を結ぶ。なぜこんな奇妙な形にしたのか、ルソーが「約束」だけが権威の源泉と考えたから。
ここで一般意志という概念が出てくる。一般意志とは契約によって成立した集合である主権者の意志。この意志の行使が主権の行使。
一般意志は常に正しく常に公の利益を目指す。しかし、その一般意志を人民が決議によって正しく導けるかは分からない、この導き手が立法者。
独裁の肯定に見えるが、ルソーは繰り返し一般意志は個別的な対象に対しては判断を下せない。個別的な事柄に対応せざるを得ない行政ではなく、一般的な事柄に取り組む立法こそが、一般意志の実現と見なされる。一般意志が確認されてから法が制定されるのではなく、法が制定されてはじめて一般意志の実現/行使と見なされる。一般意志は常に過去にある。
主権も立法権だけ。執行権、課税権、司法権、交戦権、全ては主権から出てくる。法律をいかに適用すべきかを決定する特殊な行為。
ルソーが直接民主制を志向した、みたいなのは百害あって一利なしの俗説。本来一般意志の実現者ではない行政を、主権者が監視する目的で開催されるべきとした民会と勘違いしてる
⑥ヒューム
ヒュームは社会契約論に根源的な批判をする。そもそもそんな契約って無いよねみたいな陳腐な内容ではなく、人間ってそんなにエゴイスティックじゃないよと言う。
社会契約論はどれも人間がエゴイストである事を前提に組み立てられている。そうじゃ無い、人間は共感の中で社会を組み立てる。面倒なのが共感は偏りがちである事。
この偏りを改善する概念が、黙約とか習慣と訳されるconvention。ボートの喩え。
黙約を通じて赤の他人のことを考えて行動できる。あたかも言語が成立するように、漸次的に「こっちの方が良いよね」が蓄積されて罰が考案される。
この考え方では自然状態や自然権という概念は意味をなさないし、黙約から形成された制度には功利性はあっても正当性は無い可能性がある。
⑦カント
ヒュームによって政治哲学に時間の概念がもたらされたが、彼は過去を参照した。カントは未来を志向した。
理性的な、道徳的存在者である(べき)人間はいやいやながらも進歩せざるを得ない。だからこそ自然権の行使を自制し社会状態をもたらし法治国家を作り上げ、そして国家同士の連合を作り上げる。
一人一人の人間の進歩には限界があるのだから、理性の使用を旨とする人間の自然的素質を最大限活かそうと思えば、個としてではなく類として。
カントが考える人類の発展の終着点は法の支配。法に反することはいかなる場合でも認められない。緊急事態はない、もし政府が人民を虐げるとしても、人民が違法行為を持って抵抗してはならない。法を通じて漸次的に改革すべき。
統治方式と支配の体制でそれぞれ専制的と共和的、君主制と貴族制と民主制がある。民主制とは全員による支配だから、必ず専制的になる。なぜなら一つの議題に対して一人の人間を無視するか反対してまで「全員の決議」として可決されてしまうから。「全員ではない全員」によって決定される。
我々がいわゆる「民主主義」と呼んでいるのは、カントに言わせれば共和的貴族制あるいは、共和的君主制。私たちは「民主主義とは何か?」を問い続ける必要がある。 -
ネタバレ 購入済み
より多くの人に読んでほしい。
2024年12月読了。
ず〜っと気にして買っていたのに、中々手が伸ばせずに積ん読状態だったのだが、数年前にTVでオードリーの若林さんが称賛していたのを見て興味が湧き、読み始めたのだが、自分はうつ病を患っており、その時は具合が悪く途中で手を止めてしまった。
その後(つい最近だが)思うところがあり、改めて初めから読み返したところ、夢中に成る面白さで、半日弱で読み終えてしまった。
哲学書でこんなに読み易い本は、早々お目に掛かれない良書だと思った。そして若い読者にも理解しやすい書き方で、現国のテキストに使われたのも頷ける内容だった。
中身を多くは語るまい。読み終えた人だけが、感想をスタート地としてそれぞれに思考を進めていければ良いのだ。
恐ろしく単純に云うとしたら、凸凹の「凹」の真ん中(低い所)に居ると思っている人達に、「そうじゃないんだよ、貴方の居る(べき)場所は、実は凸(の高い所)なんだよ。だから右往左往しないで世の不条理に惑わされず、絶えず《学ぶ》ことが一番大事なんだよ!」という、素晴らしく明快な答えを教えてくれる良書だと云う事だ。
と言っても、コレは読んだ人なら分かる、読んだ人にしか意味が分からない感想かもしれないけどw、補編の《痛みについての考察》は、心の痛み(うつ病)を抱える身の自分にもヒットする部分を感じて、とても嬉しかった。再読して、この病と闘っていこうとも強く思った。
國分先生、病と立ち向かう勇気を貰えました。ありがとうございました。
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古市さんと國府先生の対談。二人に接点あるかいな?と思ったけど、穏やかに噛み合わったり全く噛み合わなかったりする対話が粛々と進んでた。賢い人同士だと、分かり合えない部分で口論になったりしないんだなぁとしみじみ。
最後の部分が良かったので引用。
>(古市)僕たちがこの本を通してずっと話してきたのって、社会は革命的には変わらないってことだと思うんです。何か新しいシステムを導入するとか、新しい政治家が登場するとか、強大な敵を倒すとか、そんなことで社会は変えられない。社会はちょっとずつしか変わらない。
>(國分)そうだね。「新しい何か」への願望って、本当に解決しなきゃいけない細かな具体的問題から目をそむけるってことでもあるんだよね。
その通りだなーと思う。全体的には悲観するような状況ばかりだけど、局所的に確実によくなってる部分がある。世田谷区とか杉並区みたいにミュニシパリズムが広がってジワジワ変わっていくのは、これまでなかった動きだと思う。この流れが全自治体で起きるには何年かかるんだろ、と思うけどやるしかないよなぁ。 -
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そうそうたる顔ぶれがそれぞれに「利他」について説いているんだけど、何となく見えてくるものがある。特に、伊藤亜紗と中島岳志の利他論に学ぶところが大きい。すなわち……。
利他とは、人のためになることのようなとらえ方が一般的だと思うけど、それを意識的にするのは「利他」ではない。何らかの気持ちのメカニズムが働くにせよ、本人的には説明がつかないうちに、自分のためでなく動いてしまうことが利他なのだ。
一生懸命に利他的なよき人物であろうなどと努めてしまうが、そんなことを考えているうちはまだまだということだろう。考えてみれば、利己的な言動だってわざとそうしているのではなく、自然とそうしてしまうからこそ利己的なのだ。利他がその対極にあるのだとすれば、やはり自然と自分のためにならないこと、人のためになることをしてしまうのが利他というわけ。これが大きな学びだった。 -
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『たとえば、三平方の定理のような数学の定理を証明する時のことを考えてみればよい。その証明が真であることは、何かに照らして真であるというより、その証明自体によって示されている。証明を終えた時、証明を行った本人にはそれが真であることが分かる。確かに三平方の定理自体は公共的に共有されうる。しかし、それが真であることは自ら証明してみないと分からない。そして証明してみれば分かる。真であることは公共的に共有されるものではなくて、各自によって経験されることだと言ってもよい。スピノザがイメージしている方法としての道もまた、それ自体で真であることの明らかな観念から別の諸々の観念が導き出され、それらの真であることが次々に理解されていく、そのような経験の連鎖である』―『第ニ章 準備の問題/スピノザの方法』
共通一次世代の理系少年であった自分にとって社会科系の暗記を前提とする学科は敬遠の対象だった。数学や物理の公式や化学でも周期律表とかイオン化傾向とか暗記しなくてはいけないことが結構あるじゃないかと反論する文系の人々も多いだろうけれど、それはレゴのブロックの特徴を理解するような作業であって、肝心なことはそのブロックを使って何かが作り出せることに満足感が伴うということなのだ。ブロックを文字と言い換えてもよい。文字を覚えることが目的になるのは嫌だが覚えた文字で文章を読んだり書いたり出来ると面白い、ということ。そういう訳で(って、どういう訳だ?詳しくは池田央(1981)『得点の分布と科目間の調整―共通―次学力試験を例として―』[行動計量学8巻1号]を参照」)五教科七科目の内の社会科系二科目の選択はリンシャセイケイ(倫理・社会、政治・経済。後にこの二科目の同時選択は不可となる)だったのだが、高三の選択授業で受けたのも倫理・社会で、そこで覚えたスピノザといえば、神は至る所に存在する、という「汎神論」というやつだ。当時は「スピノザ=汎神論」という符合として覚えていたのだが、汎神論って結局八百万の神々みたいなこと言ってシャーマニズム的だなあなどと勝手に考えていても点数は取れたのだから、やはり当時の社会科系の試験には問題があったのだと妙な感じで思い返してみる。その反省という訳ではないのだが、歳を取ったせいか実際にスピノザは何を言っていたのかが気になって本書に手を伸ばす。著者の國分功一郎には「中動態の世界―意志と責任の考古学」や「暇と退屈の倫理学」で馴染みがあったこともきっかけの一つ。しかし、この探求の徒の主たる研究課題がスピノザだったとは知らなかった。
「中動態の世界」で、言語に残る先人達の思考の痕跡を考古学よろしく探ってみせた著者の思考はとても数学的だ。数学的という言葉で自分が意味したいのは、ユークリッドの示した思考方法に倣ったものということで、「点」や「線」などの「定義」を示した後、誰もが真理と考えることのできる「公理」を構築し、そこから「定理」を導き出し「証明」する、というもの。哲学といえば「デカルト」な訳だけれど、デカルトもまたそのような「公理系」に則した思考をした偉人だし、いわゆるXY座標系(Cartesian座標系などとも言われるが、DesCartes[ラテン語名Cartesius]が提唱したことに因んでの名称)で知られるように数学にも足跡を残している。哲学的な考察を重ねることとはすなわち普遍的な真理を求めることであり、その為には不動の一点(デカルトにとっての「Cogito ergo sum」のようなもの。実際にはフランス語で記した「方法序説」の中の「Je pense, donc je suis」らしいが、どうしても「コギト」と参照されるよね)から命題を証明していくという道筋は数学的になる訳だ。その國分が「読む人」と称するスピノザもまたデカルト的な(すなわち数学的な)思考を積み重ねた人であったことが本書からこれでもかと伝わってくる。
ただし、この一冊は(他の國分の著作同様、と言ったら言い過ぎかも知れないが)判り易い入門書ではない。よく理系の人々の書き物に対する警句として「数式を入れたら誰も読まなくなる」とか言われるけれど、差し詰めこの本もそんな一冊である。理系の癖として、判り易くする為に(そしてその意図は論理を丹念に追う者にとっては確かにその通り)数式の展開を記す訳だが、そこで拒絶反応が起きて論理展開を追わなくなってしまった読者には、その先の理屈が解らなくなるという状況を生み出す。さすがに本書に数式は現れないが、スピノザの論理を追う為に一つひとつの言葉の定義を見定め、解釈(証明)をしていく本書の構成は、すらすらとその流れを追えるものでもない。何度も同じところを読み返しては、ああそうか、と納得するという行為が求められる(そんな苦労をしなくても読み通せる読者も居るとは思うけれど)。
『ここからスピノザは、『エチカ』においてある意味で最も有名なテーゼを導き出す。自由意志の否定、あるいは意志の自由の否定である。論証は次のように進む。虚偽の観念は何かそれを虚偽たらしめる積極的なものをもっているわけではなく、観念の混乱や欠損のゆえに虚偽である(第二部定理三三、三五)。人間は自らの自由意志によって行為しているという「意見」こそ、そのような虚偽の一例に他ならない(第二部定理三五備考)。意志の自由という考えは原因についての認識の欠損にもとづいているからである。「そうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識する [conscius]が彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らない[ignarus]ということにのみ存するのである」(第二部定理三五備考)(中略)同じことは第一部の付録でも指摘されている。「彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らない」(第一部付録)』―『第四章 人間の本質としての意識/自由意思の否定』
最新の科学的事実に基づく解釈によれば、人間の行動の始まりに際して、左脳を中心とした意識が立ち上がるより先に意識下の脳の活動があり、それによって次の行動が決定されるという。意識は気付くだけなのだ。著者は、これを(現代科学の新常識とスピノザの論理展開から導き出されるものの奇妙な呼応を)指摘するのだが、それによってスピノザの見立てを現代科学で権威付けするかのようでもある。そしてそんな例が幾度か出てくる。それが少しばかり気になる。基本的に著者の読みが論理的に展開するのを追うことは気持ちの良いこと(そう言えば内田樹のレヴィナス論考も似たような読書感を与えてくれる)なのだけれど、もちろん、スピノザの慧眼は当時知り得なかった科学的事実を先取りしていた可能性もあるのかも知れないけれど、それが如何に優れた観察と推量から提唱されていたものだとしても、証明可能な事実の積み重ねが在った訳ではない。なのでそんな風にスピノザを持ち上げることは行き過ぎのようにも感じるところがある。
そんなことをしなくても、スピノザの徹底した原点の定義の明確化への志向と論理展開の凄みは十分に伝わってくる。特にそれがよく表れていると思ったのは「エチカ」の執筆を中断してまで記したという「神学・政治論」で示される、エデンの園のリンゴの実の逸話だ。スピノザは神を「完全なる存在」と規定し、もしリンゴの実を食べることが真に禁忌であったのなら神はアダムがそれを食べることを容易に阻止出来た筈だ、と結論する。だとすればアダムがリンゴの実を食べたこともまた神の意図の一つであったと解釈されなければならず、そうであるなら、その行為に託された意味(神の意図)とは人間が持つ特質の表れの一つである筈で、それが自由意志への希求(欲望)あるいは好奇心ということへ繋がるのだと展開する。そこからはパンドラの箱を開けたように権威主義的教会の一般的な聖書解釈・教条との摩擦が生じるのだが、それでもスピノザは完全なる存在の神という定義とその神からアダムに託された人間の自由な意思を求める精神という特質こそ信仰なのだと主張する。それは無神論者であると非難されることへの反証であった筈だが、スピノザの聖書解釈が権威主義とは相容れない解釈であることをいよいよ明白にもしてしまう。その展開を読み説く國分の文章を辿ることは非情にスリリングである。
もちろん、本書を読んだからと言ってスピノザの哲学を理解したとは到底言い切れないが、判り易い入門書ではなく、こんな解説書を読むことで開ける地平というのも確かにあると実感させてくれる一冊だと思う。因みに、本書で得た知識を基にいわゆる一つの生成AIとスピノザについて会話したら、驚くほど面白かった、ということを記録しておこうと思う。たとえAIが神の如く振る舞ったとしても、それを面白いと思えることこそ人間の特質に違いないのだから。(この文章は、一部あるいは全て、生成AIが作成したもの、ではありません)