東大で行われた学生向けの講義録。平易でわかりやすく、身近な話題を深堀されている。
2回の講義に分かれており、初回はコロナ禍における「不要不急」について、第二回はそこからさらに広げ、目的、手段、遊びに展開していく。
初回では、コロナ禍の中で、ジョルジュ・アガンベンを引きながら、通常の民主的プロセスを経ずに不要不急のイベントが延期され、緊急事態宣言の名のもとに行動制限をされることに関する哲学的な考察。感染症対策の是非という観点は一旦脇に置いた上で、アガンベンの批判の論点は以下3つ
1. 生存のみに価値を置く社会
a. 感染症対策の目的は、国民の健康維持であるが、健康の維持という名目であれば、あらゆる行動の自由が制限されるということは、「ただ生存することのみー剥き出しの生ーのみに価値を置いた社会」ではないか。我々は家から出れず、友人に会うこともできない中で、ただ生き続けるだけの人生を歩みたいのか、それでもよいのか。
2. 死者の権利
a. 今回のコロナ禍で、死後にも感染リスクがあることへの懸念から、葬儀を経ずに埋葬される事態も発生した。葬礼は、これまでの人類社会においてほぼ例外なく行われてきており、宗教が枠組みを構築しつつ、葬礼を通じて死者への敬意というものが形成された来た。死者への敬意は人生の有限性の自覚と共に、単に生存していること以上の価値を生きることに見出すという文化を形成してきたが、そうしたことを踏まえると、今回の葬礼のスキップというものはまさに人間社会を形成する重要な価値を毀損してしまうのではないか。
3. 移動制限について
a. 今回の、国民への行動制限(「自粛」の「要請」を含む)は人間活動において非常に思い意味を持つ。移動の自由というものは支配と密接な関係を持ち、刑罰を思い浮かべれば、死刑と罰金刑の間は様々なグラデーションの禁固刑、つまり移動の自由の制限によって構築されている。人が人を支配するときに、必要条件としてあるものは移動の自由の制限であり、逆に言えば、近代国家や人権的な憲法には移動の自由というものが明言されている。行動の制限というものはそれだけ重い支配の要諦であり、そうしたものへの制限を立法なしに行政のプロセスのみで行うことの危険性にもう少し鋭敏になるべき