あらすじ
自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスやアガンベン、アーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
講話を収めているからかめちゃ読みやすい。
第一部のアガンペンの主張から始まる読者への問いかけ。刺激的なものをそれを理由に排斥してしまうのではなく、それを足がかりに自らを問い直すことの意義。
社会にとってチクリと刺してくる虻のような存在としての哲学の役割。
賛成/反対のテンプレを越え、自ら問うてみる姿勢で批判的に物事を見ることの重要性はそれはもうわかる。
ただ自分が考え、主張し何の意味があるのか。「何も変わらないじゃないか」という論調が強いのが昨今の潮流な気がする。
この論調を否定するでもない、フレーミングを提示してくれた。
「あなたがすることのほとんどのことは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
第二部が深化していき面白かったな。
大量消費の市場社会が、合目的的な社会の形成の一助になっていたかもしれないというのは面白い。ごく当然の論理として、目的化された消費と浪費の反規範化が行われ、それをあまりにも当たり前に受け入れていたことか。
序章の文章「自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える」まさしくこれが、紆余曲折を経て主張される。
Posted by ブクログ
目的こそが重要であり、目的のない言動は意味がないと思っていたが、目的に盲目的に縛られることに警鐘を鳴らす。例えば、「行動の自由」は、〇〇の自由の権利の中でも大事なものだが、コロナ禍において、私たちは、行動規制を意外とあっさり受け入れた。法律に基づいたものではなく、要請だったにも関わらず、旅行や出張は消滅し、帰省すら批判の対象となるほどであった。感染を防ぐという目的は正しいと思うが、安易に受け入れることが、その後のさらなる規制等を無批判に受容してしまうことにつながるのではないかという危機感。哲学者は社会の虻で時々ちくりと刺すことで社会を目覚めさせる、というのは言い得て妙。
Posted by ブクログ
國分先生の本は暇と退屈の論理学、中動態の世界に続いて3冊目。
人間の自由は、生存に必要な事を超えたり、目的からはみ出す事を求める。そこにこそ、人間らしく生きる喜び楽しみがある。
本書を読んで森博嗣の著書に「本当に楽しい事は他人に伝えられない」と書かれていた事を思い出した。読んだ時は納得出来なかったが、本書を読んで目的から離れているからこそ、本当に楽しい事は他人にはうまく伝えられないという事はかな、と思った。
Posted by ブクログ
高校・大学生向けの講話を書籍化。語りかける文体なので、肩ひじ張らず読みやすい。上に、國分先生の語り口が優しく、構成力もさすが。
ジョルジョ・アガンペンの論考を引合に出しながら、コロナ禍における自粛や不要不急といった対応を分析し、人間の本質に迫る。『暇と退屈の倫理学』で述べた贅沢を楽しもうという主張から更に論考を進め、「信じる」ことの大切さ、目的に縛られない行為の自由の大切さへと思考は深まっていく。
まさにコロナ禍体験者の一人として、行政主導で人間の基本的な主権への制限を無批判に受け入れていた。
感染拡大を防ぐためには必要なことであったと今でも納得はしているけれど、一事が万事このように受け身で従っていく態度はいかがなものかと本書により気づかされた。譲れない信念・超えられてはいけない一線というのは、国からの扇動を拒絶する覚悟を持つためにも意識していこう。
シリーズ化され新刊もでているので、そちらで更に深まった論考をたどっていきたい。
Posted by ブクログ
コロナ禍で行われた自由への強力な制限について取り上げる中で、その必要性には頷きつつも、「目的のためにはどんな手段も正当化されてよいのか?」という切り口で自由とは何かを考えるという筋。
【前半】
現代の哲学者アガンベンはコロナ禍で人々の移動や経済活動、葬式で集まることさえも制限を正当化された事態について批判した。
これによってアガンベンが逆に批判される(炎上する)ことになったが、ソクラテスの言うように哲学者は社会の虻として(p45)ぼんやりしがちな人々の目を覚まさせる役割があるため、アガンベンはそれをしたのだろう。
逆に、役割を果たしていない者の例として教会と法律家を挙げている。「教会は信よりも生を犠牲にする用意がなくてはならない」(p68)、「憲法の諸規定が遵守されているか確かめるのは法律家の仕事だが、」「法律家たちよ、なぜ自分の任務について沈黙しているのか?」(p74)
【後半】
アーレントの全体主義についての議論「手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならない」(p150)、「全体主義の下では、チェスのためにチェスをすることが許されない」(p154)が取り上げられている。
これと、國分の「暇と退屈の倫理学」でテーマとなった「暇と退屈への処方箋は『楽しむこと』であるが、放っておいても何かを楽しめるわけではないため、楽しみ方を学んで楽しむことが鍵となる」(p101)や、
「楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりするこたは、生存の必要を越え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じで人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている」(p144)
といった主張とを繋ぎ合わせる。
すると、「行為は、目標や動機づけという要因に規定される局面もあるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由である」(p175)というアーレントの主張が決定的に重要になる(同ページでそのように書かれている)。
自由を守り、人間らしい価値を守って生きるためには、自由への制限や楽しみへの制限に対してはいかなる理由(目的)があっても常に疑い、批判的に見ていく必要があるということだろう。
Posted by ブクログ
「暇と退屈の倫理学」を読んで興味を持った著者の講義形式の一冊。
目的からの全体主義への視点は、興味深く且つ恐ろしく感じた。
昨今の選挙の空気とかも薄気味悪さを感じるし、戦争前夜の世論の空気にも通ずるのかなと感じた。
暇と退屈の倫理学を読み終わったため、読みました!正直、暇と退屈の倫理学で満足度高かったし色々頭の中でグルグルと考えることが多かったので疲れていたのですが、この鮮明に記憶しているうちに読みたくてすぐ読みました!疲れていても読む手が止まらなかったです。哲学好きにはたまらん。
Posted by ブクログ
東大で行われた学生向けの講義録。平易でわかりやすく、身近な話題を深堀されている。
2回の講義に分かれており、初回はコロナ禍における「不要不急」について、第二回はそこからさらに広げ、目的、手段、遊びに展開していく。
初回では、コロナ禍の中で、ジョルジュ・アガンベンを引きながら、通常の民主的プロセスを経ずに不要不急のイベントが延期され、緊急事態宣言の名のもとに行動制限をされることに関する哲学的な考察。感染症対策の是非という観点は一旦脇に置いた上で、アガンベンの批判の論点は以下3つ
1. 生存のみに価値を置く社会
a. 感染症対策の目的は、国民の健康維持であるが、健康の維持という名目であれば、あらゆる行動の自由が制限されるということは、「ただ生存することのみー剥き出しの生ーのみに価値を置いた社会」ではないか。我々は家から出れず、友人に会うこともできない中で、ただ生き続けるだけの人生を歩みたいのか、それでもよいのか。
2. 死者の権利
a. 今回のコロナ禍で、死後にも感染リスクがあることへの懸念から、葬儀を経ずに埋葬される事態も発生した。葬礼は、これまでの人類社会においてほぼ例外なく行われてきており、宗教が枠組みを構築しつつ、葬礼を通じて死者への敬意というものが形成された来た。死者への敬意は人生の有限性の自覚と共に、単に生存していること以上の価値を生きることに見出すという文化を形成してきたが、そうしたことを踏まえると、今回の葬礼のスキップというものはまさに人間社会を形成する重要な価値を毀損してしまうのではないか。
3. 移動制限について
a. 今回の、国民への行動制限(「自粛」の「要請」を含む)は人間活動において非常に思い意味を持つ。移動の自由というものは支配と密接な関係を持ち、刑罰を思い浮かべれば、死刑と罰金刑の間は様々なグラデーションの禁固刑、つまり移動の自由の制限によって構築されている。人が人を支配するときに、必要条件としてあるものは移動の自由の制限であり、逆に言えば、近代国家や人権的な憲法には移動の自由というものが明言されている。行動の制限というものはそれだけ重い支配の要諦であり、そうしたものへの制限を立法なしに行政のプロセスのみで行うことの危険性にもう少し鋭敏になるべき
生存のみに価値を置く社会という言葉は、非常に理解しやすい。このような話になると、伊藤計劃の『ハーモニー』を思い出してしまうが、『ハーモニー』が描くディストピアとは、生存のみに価値を置く社会であり、そのさらに先へ進んだ国民の身体が公共財と認知される世界である。
個人的には、近年の健康経営という文脈に対して、私自身は好意的ではありつつ懐疑的でもあるのだが、そうした違和感を言語化してくれたのが本書であった。健康経営とは、企業が生産性向上のために、最も重要な資本である従業員(=人的資本)を活性化すべく、従業員の健康に関する施策を支援するものである。実際に、経済産業省が進めている健康経営というプロジェクトは、従業員が健康な会社に対しては、積極的に資本市場も投資をしていくべきとする論調の形成を目的としてきた。
私個人としては、週1-2回は筋トレをするので、健康経営でそうした支援が受けられるのであれば悪い思いはしないのであるが、私たちの身体は生産性の向上の「ために」存在しているものではなく、ましてや健康経営のために酒やタバコ等の愚行権(既にこの言葉に価値判断を含んでしまっているのだが)を取り上げられることは明らかなる資本主義の越権行為であると感じる。本書でも取り上げられているが、私たちが生きるために健康であることを望むが、健康を望むために生きているのではない。
筆が走るので、このまま第2章のメモにも進んでしまうと、第二章ではまさにこうした資本主義、特に新自由主義的な背景から、私たちもあらゆる行動が、目的に対する手段であることを求められる社会に対しての批判が中心となっている。
不要不急へ対置されるものは、必要であるが、常になんらかの行動に必要性=目的を求められる社会というものの息苦しさについて考察が進められていく。
ここでは、ハンナ・アーレントやボードリヤールを引いているが、アーレントの主な主張として、
目的がひとたび定められれば、それを達成するために効果的でありさえすれば手段として正当化されるという考え方を推し進めてきたことによる帰結(=ホロコースト)を初めて知った世代として、目的と手段の関係性の中にすべて還元してしまうことの危険性に警鐘をならしている。他にも、
「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義に他ならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになる」
という強烈なパンチラインを打ち出しており、そもそも、目的と手段という関係性への還元というよりは、あらゆる行動=手段を正当化するためのロジックとして捉えている。私たちは目的があり、それに対して手段があると考えているが、実際にはそれは後付けであり、往々にして、というよりもすべてにおいて、手段(=行動)があり、それに対して目的で糊塗するものである。
まさに、ヒトラー率いるナチスが国民に求めたものは、すべての行動が目的の下に行われるカルチャーであり、そうした運動の中で、人々の生活から遊びやゆとりが消えていった。
ハンナ・アーレントは、「チェスをするためにチェスをする」というような目的た動機付けを超越するような行為を、上記のカルチャーから対置し、理想とする。行為に対して常に、目的が求められる在り様ではなく、人生を生きるなかで、目的や動機付けを超越するような行為を行いことが、人生を生きるということではないかと感じた。
Posted by ブクログ
高校生や大学生を対象におこなった講話で、かなりわかりやすいものでありながら、日常的に当たり前だと思っていることを揺るがしていくまさに哲学的な視点は実にスリリング。
コロナという今の状況を踏まえつつ、アガンベンやアーレント、ベンヤミンの議論を踏まえつつ、議論が展開していき、なんだかこれまで、わたしも読んだことのある本が多いのだが、そういうふうな読みはしていなかったなと驚くことしきり。
すべてがなんらかの目的に向かっての合理性、合目的性、効率性で語られるようになったこの世界、人間の命の大切さということを強調するあまり、生命の維持以上の価値観が薄れていく社会、こうした当たり前の世界になんらかの違和感をもちつつも、みんなやっているのだからと深く考えないようになっているわたしたち。
しらないうちに、われわれは、新しい全体主義に包まれているのかもしれない。
そして、それに抵抗することは、かならずしも抗議活動をするということだけではなく、なにかちょっと楽しんでみる、心から純粋に真剣に遊んでみる、ということかもしれない。
目的を設定して、そこに向かって努力することが悪いわけではもちろんない。でも、人生って、なんらかの目標達成するためだけのものでもないはず。そんな当たり前のことを大切にしていい。
目的はなくても、経済的に意味はなくても、仕事の間のレクレーションという合目的的なものでもなくて、純粋に、真剣に好きなことを楽しむこと。
それっていいなと思う。
Posted by ブクログ
本書の帯にも「暇と退屈の倫理学」の深化と書かれた國分さんの新作。コロナ禍の政策に対して、哲学者がいかに「社会の虻(あぶ)」として重要な提言をしていたかをわかりやすく解説。「目的の本質とは、手段の正当化にある」との指摘にハッとさせられる。Purposeを求める前に読んだ方が良いかもしれない。目的の奴隷になってはいけないことを学べる一冊。
Posted by ブクログ
面白かった暇と退屈の倫理学をより深化させた論考ということで気になって購入。
コロナ禍の2020年と2022年にあった2本の講義を再録したもの。
暇と退屈の倫理学については前半はちらっと言及があるくらいだったが、後半は浪費と消費の話から、目的と手段の話にまで広がって、暇と退屈の倫理学の補講のような感じで読めた。
Posted by ブクログ
「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。
実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。
第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。
生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。
第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。
浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった。
遊びとしての政治という考え方は、自分にとっては斬新な考え方だった。
本書の続編となる、「手段からの解放」もぜひ読みたいと思う。
Posted by ブクログ
『権力は「例外状態」あるいは「緊急事態」というものを巧妙に利用して、民主主義をないがしろにしたり、人々の権利を侵害していくことがある。』
コロナ禍でアガンベンが上げた危機感の話は、自分が不安に思っているさまざまな状況にとても似ている感覚がある。自由や制約、受け入れてしまう状態など社会状況と個人が地続きになっていて今読んでいる『奪われた集中力』ととても親和性があるように感じる。
ベルリンの壁のドキュメンタリーは見てみたい。
後半は『暇と退屈の倫理学』の復習で改めて自由と責任について考える。質疑応答がとても興味深い。
Posted by ブクログ
コロナとアガンベンについてなど把握していない話は興味深く、『移動と階級』を読んだあとで掘り下げ方としてこういう思索のほうがやはり楽しめた。國分氏の著作では「講話」ということもあって読みやすい。
Posted by ブクログ
自由の根幹は「移動の自由」
日本国憲法が示すように、場所を選び移動できることこそが自由の土台である。
行為の本質は“自己を守る営み”
ガンディーの言葉を引用し、「ほとんど無意味に見える行為」でも、世界に流されず主体性を保つうえで不可欠だと強調している。
目的に縛られた行為は自由ではない
「○○のためにやっている」と説明できる行為は、動機や目標に従属しており真の自由とは言えない。
目的を超えて“遊び”へ―手段‐目的連関からの逸脱
文化祭の準備の議論が次第に楽しくなる例のように、最初の目的を超えて自発的・創造的に広がる活動を著者は「遊び」と名づける。
社会運動にも“遊び”の要素が必要
運動それ自体が目的化すると形骸化する。喜びやワクワク感を保つことで、手段が目的を呑み込む事態を防ぐべきだと述べる。
自由は“必要”や“目的”をはみ出すところに宿る
犠牲を正当化する目的論から離れ、余分(広義の贅沢)を許容する余地を持つとき、人は人間らしい喜びと楽しみを得る。
まとめると、本書のハイライトは「目的を達成するためだけに行為を閉じ込めるのではなく、そこからはみ出し“遊び”となる瞬間にこそ人間の自由と充実がある」という思想を示している。
Posted by ブクログ
・イギリスの料理が不味くなったのは、資本主義のせい?
ちょっと脱線しますが、皆さんは「イギリスの食事はまずい」とよく言われていることは知っていますか。
実際のところ、最近は美味しいんですけどね。確かに一時期までは本当にひどかったようです。かつてのクオリティーの食事を提供する古い食堂は残っていて、そういうところで食べると塩味が付いていない。
というのも、食卓にある胡椒と塩で各自が自分向けに調整して味付けすることになっているからです。これには面食らいました。
しかし、イギリスの料理はずっと昔からまずかったわけではなく、それは一九世紀に産業革命と農業革命から決定的な悪影響を受けたことの帰結であるという西洋経済史家、小野塚知二氏の研究があります。
もともとはイギリスにも豊かな食文化があった。それが産業化によって破壊されたというのです。
「産業化の過程で村と祭りを破壊したイギリスは、培ってきた食の能力を維持できず、味付けや調理の基準も衰退して、料理人の責任放棄が蔓延することとなった。他国の農業革命はイギリスほど徹底的に村と祭りを破壊しなかったので、民衆の食と音楽の能力は維持されたのである」とあります
(「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL二〇一七年季刊秋号』、六七ページ)。
>>>本書p100
イギリスの料理がまずいという話はよく聞くが、イギリスが元から料理が下手だったんじゃなく、資本主義に文化を破壊されたからだったとは....
資本主義が真っ先に発達したからこそ、その原理をせっせと体現した結果、料理が不味くなってしまったなんてあまりにも可哀想。
その原理とは何か?
それが生産と消費。消費とは、必要を満たすが満足をもたらさない経済活動。現代だったらカロリーメイトだけ食べて仕事するような姿がイメージできる。
ただ生産という目的を達成するために、労働力を復活させるためなら、料理に味はいらなくなる。生命を維持する栄養が取れればいいからだ。
こんな風に、目的にとらわれると、どんな手段でも肯定されてしまうという恐ろしさに、人間性の喪失に警鐘を鳴らすのが本書。
というのも、資本主義で料理が不味くなったのは笑い話で済むが、この目的至上主義はナチスへの道につながってもいるからだ。
>>>
決定的に重要な一節だと思います。全体主義においては、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない。全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん、食事のための食事も許されない。
衝撃的なのは、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間〉という言い回しは、「ヒムラー」や「SS隊員」への言及を取り除いてしまったら、現代ではむしろ肯定的に受け止められる言い回しではないかということです。どんな無駄も排し、常に目的を意識して行動する。チェスのためにチェスをすることも、食事のために食事をすることもない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。必要を超え出ること、目的からはみ出ることを許さない。不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない……。
>>>本書p109
食事のための食事ができなくなってしまったイギリス。現代だったら、インスタのための食事しかできなくなった若者。一昔前なら、仕事のためにしか家庭を持てなくなった労働者。
何かのための何かをし続けるのは、何にも満足できない事態と表裏一体だ。常に失格を押され続けているとも言えるかもしれない。「あなたはまだまだですよ」と。(個人的に疲れた時にビジネス書をみるとそう感じる.....)
じゃあ、満足するにはどうすればいい?
国分さんが示す目的主義からの脱出口は、目的にとらわれない、純粋な手段。それは概念的なものじゃなくて、子供たちが砂場で水を通すトンネルを必死になって掘るような、真剣な遊びでいい。水を通す目的なんて、結果としてあれば十分。楽しいのは、トンネルを掘っている時だ。遊んでる時、誰から肯定される必要もなく満たされているんじゃないだろうか。
満足と自己肯定への道は、「遊び」というスコップで拓ける。いや、遊んでたら自然と満足がもたらされるだろう。
仕事を、食事を、政治を遊ぼう。
Posted by ブクログ
コロナにおける緊急事態での移動制限を容易に受け入れてしまった社会に対する警告とも言えるアガンペン氏の論考をもとに自由について考える。
そこから筆者は目的以外の遊び、自由を認めない社会への警輪をならす。効率化を求め目的以外の活動を認めない。そこには楽しみもない。満足できる浪費もなくただ記号としての消費をさせられる。そんなただ生きることのみの権利を大事にする社会にアガンペンは一石を投じていると。
確かに、説明可能な目的以外の活動は組織においてどんどん排除される。そしてその影響が会社員、労働者割合の増加とともに社会にも侵食。
その際たるものが、塾や習い事漬けと受験戦争として子どもに影響を及ぼしているように思う。
不寛容な社会、まさに隙のない目的に埋め尽くされた自由なき社会。
とはいえ、仕事の中ではまさに目的に埋め尽くされた活動を求め合っている。自分もハッとさせられる。ただ、遊びと意外性の中からでないと創発は起こらない…
この後、筆者は目的を整理して、手段に支配されないことへ論を進めるが、日常生活にも企業活動にも有用な論。
この中で行政権が立法権より強まりやすいこと、特に危機に際して急ぐ時に、行政権に立法権を関与する間を与えず、立法権もそれを認めてしまう全体主義化への懸念も示している。まさにナチスの教訓を今に生かさなければ、先人に申し訳ない。
Posted by ブクログ
学生に向けた講話。
目的がないと生きられない世の中になり、その目的に抗ってみようかという提案。
コロナ禍の状況を哲学の観点で考察されていたことは、医療従事者として興味深かった。
命か経済か。
命か自由か。
その二項対立は目的に縛られているのではないか。
(目的が何なのかがはっきりとわからないけれど、「社会をどう維持するか」「個人の幸福をどう定義するか」ということ?)
感染した死者とは会えない。
感染した死者をビニール袋に入れる。
その行為は、生きている者に価値を置きすぎているのではないか。死者への尊厳が失われていないか。
不要不急とは。
線引きはどこ。
(上記、私の記憶から出てきた内容だから、間違っているかもしれない。)
コロナ禍の哲学的思考については、コロナ対策を批判し、炎上した哲学者アガンベンの主張が書かれていた。私もおそらく、炎上に油を注ぐ側の人間なのだろうと感じた。
過去には、ヨーロッパで人口の1/3が亡くなるというパンデミックが起こったことがある。さらに何処かの国では、微生物兵器も開発されてるんじゃないかと私は思っている。コロナ対策を軽視しすぎると、未来の日本人の存在危機がやってくるなと感じている。
医療従事者は、命に価値を置きすぎていると言われれば、全く同意してしまう。
私の仕事が生きる力になってくれたらと願いながら働いている。傲慢なのかもしれない。
でも、死者にも価値があるから死んでもいい、なんて思えない。自由を手に入れられないなら死んでもいい、とも思えない。
コロナ禍以降、コロナに感染した患者が亡くなっていく姿をみてきた。今も、ウイルスは変異しながらも死者を出している。
誰か知らない人は、亡くなっているかもしれないけれど、自由に生活したいし、経済大事ですからパンデミックでも外出制限はいたしませんとは、私はできない。
哲学者に怒られるな。
制限をたやすく受け入れるな、ちょっと立ち止まって考えてみようってことならわからんでもないけど。感染対策は、議論している間に取り返しがつかないことになるからね。哲学者は、ぜひ、パンデミックじゃない時に存分に時間を使って考えて議論して欲しい。今がその時か。
國分功一郎さんの生の価値を「目的」ではなく、「ただ存在すること」に見出すべきだという考え方が好き。
何者かにならないと無価値なんてない。
Posted by ブクログ
目的は立てるべきもの
目的があるからこそ高い成果が出せると思っていた(いる)自分にとって視野が広がる1冊だった
計画的偶発性理論に似た話かと思うが、しばしば目的を超える時があるという知識を持っておくことで、目的に縛られない生き方に繋がると感じた
Posted by ブクログ
コロナ禍に感染拡大防止などの御旗のもとに取られた、移動の権利などの諸々の権利制限が我々に課されたことは記憶に新しい。
筆者や、筆者が紹介する哲学者が疑問を抱くのは、そうした権利制限をたやすく受け入れているかのように見える、言い換えると、対統治者の苦難の歴史を乗り越えて勝ち得てきた重要な権利をたやすく手放して良いものか。統治者側、肥大する行政権の恣意で世の中がおかしな方向に進んでいきはしまいか。目的のために行為するだけの人間の孕む危険性―
そうした出発点から、哲学が問を発する意味(アブのようにちくちく刺すというような表現だった)、改めて、人間が人間らしく生きるということはどういうことなのか、について筆者が考えを述べる。
コロナ禍や、その前後に、社会に対して感じていた違和感に言葉が与えられ、ものを考えるヒントとなる。面白い本でした。
Posted by ブクログ
非常時に行政のスピーディ化が支持される。
行政と立法権の一体化。
極端な例は、ナチ党。
(正しい)目的があることでその過程の作業は正当化される。
目的から脱却すると自分のその場の思いに従って純粋な活動ができる(終わりの見える活動)
Posted by ブクログ
疫病の流行やテロなどへの危機感を煽られて、何も疑いを持たずに「自由」を放棄してよいのか?
何らかの「目的」のために、一人ひとりの自由が制限されることについて考える。大義名分のために、個人が自由をあきらめるようなことがないように、意見を表明したり、考えたり、話したりを続けないといけない。
パブコメを出すことについても、前向きに考えられるようなことが書かれていた。誰かの代わりに話すことについても。
Posted by ブクログ
大好きだった『暇と退屈の倫理学』の続編とも言えるような哲学講話。
コロナ禍で体験したモヤモヤと当時すんなり受け入れてしまったことも含め、そういう捉え方があるのかと目から鱗。
世の中で当たり前とされてしまうことを考えなしに受け入れてしまうことの恐しさは常に意識していかないといけないなとはっとさせられた。
学生からの質問に対する受け応えの仕方も凄いし、著者の中でも答えがまだ出ていないこともこういった形で残すことの意義は大きいと感じた。
Posted by ブクログ
一部では、現在のコロナ禍によって発動した(世界全体の)緊急事態宣言について、主に「移動の自由」「行政権の強さ」の観点から批判したアガンベンについての議論
二部は、『暇と退屈の倫理学』で触れられた「消費と浪費の違い」「合目的性の否定としての遊び」の話で、『暇と〜』を読んでたのもあるけど、現在の消費社会が消費者に対して「記号の消費」を押し付けてくることに対して悶々としていたから、ちゃんと明文化してくれててありがたかった
さらにタイトルにもある「目的への抵抗」として「遊び」を呈示するのはすごいと思った
一部の内容についても、ボクが明るくない「政治哲学」についての話で、感動するところがいくつもあった
必要最低限のことだけやるとつまらないよね
哲学を学ぶものとして、世界から一歩浮いた目線から眺めるのが大事だと思った
Posted by ブクログ
暇と退屈の論理学ほどのインパクトはなかったが、目的達成の中にもある自由が、研究者にとっての楽しみであると腑に落ちました。他国ではこの楽しみや遊びを、全く排除した研究者が多く、何のために研究者をしているのだろうと思うことが多々あります。
Posted by ブクログ
ひま師匠から素敵な提案があった。
『ユッキーも「哲学」好きだから、みんなで読んで一Qさんを追い込むのだw』
素晴らしい!一休さんを追い込むのだ!!
ひま師匠から一冊選んで頂き、早速読んでみた。
うん。私は小説しか読めない体だったことに気付いてしまった。
まず、哲学とは何なのかですよ!
私は分かっておりません。
でも小説を読んでいると、京極夏彦先生の狂骨とか、鉄鼠とか凄く哲学的だと感じたし、平野啓一郎先生も哲学的だなぁと感じる。
じゃ、何で哲学的だと感じるんだろ?
物事を深く、深く考えるとこなのか??
コロナ禍では、命を守るために移動の自由を制限した。
移動の自由かぁ。。。
移動出来ることが自由であると考えたことが無かった。
人間の命を守るだめなのだからと、移動の自由を制限されても、一つも疑問に思わなかった。
移動出来るって自由なんだ!
言葉を使って話をすることで、同意を取り付けて、その同意に基づいて一緒に行動ができる。僕らが話をすることが、結局は大きな規模の政治にもつながっていく。
つまり、ひま師匠が言っていた
『ひたすらに考えるのはそうなんだけど、ちゃんと問題解決の道筋を見つけるのが「哲学」の役割なんよ』
これがこの本の私なりの答えだった。
Posted by ブクログ
2025.05.06 手段からの解放を先に読み、目的への抵抗を後で読んだ。その流れが分かった。新しい本から古い本へ。次は、暇と退屈の倫理学に、さらに戻って読んでみたい。
Posted by ブクログ
政治の話は苦手だけど、それにしては結構読めた。
『暇と退屈の倫理学』の一応続きのような形で読める。
「チェスのためにチェスをする」のような標語で、手段や目的、必要、自由といった概念に関しての説明が行われていて分かりやすい。
自分も大学でラグビーをしていた時、部の理念/目的を掲げて活動していたが、確かに目的のためだけの活動はあらゆる手段を正当化してしまうし、それは自由な活動にならないのだなと当時を振り返って思う。目的に奉仕するのは人間として、また組織としても避けられないとは思うが、その中で目的を超え出るような経験や充実感を得られたかどうかということを今後は重視していきたいと思わされた。