あらすじ
「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう――現代の消費社会において気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加えて待望の文庫化。
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Posted by ブクログ
個人的に、ものすごく面白かった。
個人的にと書いたのは、ずっと自分の中で暇や退屈と上手く向き合えていない自覚があった中、その課題感にドンピシャにはまる内容だったから。若いヨーロッパ人は何としてでも何かに苦しみたい欲望がある、と指摘したニーチェ。没頭したい、狂信できる何かが欲しいと苦しんで、確かな没頭できる自分や、信仰がないことで苦しんでいた頃の自身と少なからず重なった。
本書では退屈を3形式に分けている。
1つは時間の引き止めに合う、時限的な退屈。列車が来るまでに4時間あるときのような。
2つめは、気晴らしと結びついた、安定と均衡を持った退屈。自分で自由時間にパーティに行く、と選択し、楽しかったのにもかかわらず、退屈だったことに気づくという類の退屈。
3つめは、なににも結びつかない何となく退屈だ、と声が湧き上がる、深い退屈。やがて自身を特定の目的、決断、仕事の奴隷へと掻き立てる深刻な退屈。
3の退屈にたどり着いたとき、退屈は自由を教えている、決断せよ、というハイデガーの理論には安易に巻き取られそうになるし、わたしにもその意見に肯定して自分自身で苦しかった覚えがある。
だからこそ、「楽しむことと思考すること」を答えとした本書の結論には深く頷きたくなった。
まず、2の退屈と折り合いを続けることが人間的に生きることである中、仕事や目的の奴隷になることに逃げ込むのではなく、2の気晴らしを存分に楽しむ、消費ではない贅沢を取り戻すこと。日常を楽しむ訓練が鍵。
そして退屈と共存するには、上記の人間であることを楽しみながらも、ときおり動物になること。自分が何にとりさらわれるか(何によって思考に導かれるか)を知り、待ち構える。テロリストや狂信者やワーカホリックのように、3に逃げ込んで自らを奴隷に掻き立てるところに答えがあるわけではない。最近大好きだった美術館から足が遠のいて、忙しさで自分の心の声に耳を塞いでいる自分に刺さる…。
「一つの環世界にひたっていることができないことに、退屈に悩まされる理由がある。動物はひとつの環世界に留まることに長けていて、衝動の停止と解除を繰り返している。人間はそうではない」「人間は基本快を求め生きていて、思考は何かショックを受けて仕方なくするものだ」等々の話が、本当に思ってもない観点で、目から鱗だった。
Posted by ブクログ
これはおもしろかった。論理は明確で非常にわかりやすい。世界がつながり、名前がついていく感覚。あれこれと発想が繋がって、自分の脳みそがてつがくのうみそにグニグニと変化していくような感覚。ほんとうはもう少し注や原典にあたったり批判的に読まないといけないんだろうけど。
人間は本来的に遊動する生き物だから片付けとトイレが苦手だ、とか面白いよね。ハイデガーの環世界批判を痛烈に批判してるけど、著者もちょっと都合よく使ってない?とは思った。環世界はソフトウェアの話でなくて、ハードウェアの話なんじゃないかな。ノミのハードは単純だから3つくらいしかアプリが入らないけど、人間のハードはもう少し上等だからいろんなアプリ選択して入れられるよね。って話じゃないかなとは思ったけど。人間の環世界は1つ。でもやや特別で、そのデスクトップは多様性がある。まぁこの解釈でも本旨は変わらなくて、著者とハイデガーがもう少し仲良くなれるんじゃないくらいの意味しかないんだが。
結論は普通というか突飛ではない。付録はブッダの教えとかにも通ずるものがある。ただここまで整理されることに知的な歓びを感じた。
Posted by ブクログ
自分が今なぜこういう生き方にたどり着いたのかを解説してくれるような本だった。
本書は、「暇と退屈」とはなんなのか、「暇と退屈」とどのように付き合えばよいのか、つまり人間はどのように生きていけばよいのかについて考えるものである。
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結論として、著者は2つの論を提示している。
一つは、人間らしい生き方とは、ハイデガーが定義した「退屈の第二形式」のように退屈から逃れようとするのではなく、退屈の中にいながらも多少の楽しさを味わい生きることであって、
それを洗練させていくためには「消費」ではなく「浪費・贅沢」がヒントになるということ。
消費とは物ではなく物を通して観念を味わうということであり、終わりがない。
浪費とはそのもの自体を味わうということである。
現代は消費の誘惑にあふれている。例えば、僕の好きな漫画や映画も「みんな読んでる/人気No.1」の文字で飾られている。それはもともとは「それだけ面白い」というアピールだったのかもしれないが、今やそれ自体が「みんな読んでるのみ読まないの?」「人気No.1なのに知らないの?」という煽りとして本質になってしまっている気がする。
消費にからめとられずに、浪費を楽しむためには、物を味わう技術や知識が必要であるという。
漫画や映画の本当の楽しさや味わい深さを知っている人は、「みんな読んでるかどうか」に惑わされることは少ないだろう。もし惑わされたとしても、それが本当に価値あるものなのかどうかを、少なくとも知識と技術がない人よりも客観的に判断できると思われる。
つまり、文化や芸術などを楽しみ、そのために学ぶことこそ、暇と退屈との付き合い方であると語っている。
(これだけ書くと非常にありふれた論に行きついたように思ってしまうが、理解が足りないことと語る言葉が足りない自分の責任で、もっと胸に来る何かがあったんだ)
「満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
これこそが現代の消費社会によって引き起こされる退屈の姿であり、本書ではこれを疎外と呼んだ。
いかにしてこの状態を脱したらよいだろうか?消費行動においては人は物を受け取らない。
だから消費が延々と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。
物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。」
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また、増補版に寄せたあとがきの注釈には、ある人曰く、依存症に陥った人の回復方法こそ「第二形式の退屈」になじんでいくことであると書かれていた。
依存症に陥る人は第一形式の退屈と第三形式の退屈のサーキットを生きている(仕事と空虚の繰り返しの中に生きていて、空虚からポルノやスマホ依存で逃避していた自分はまさにそうだった)ので、「第二形式の退屈」の「ボチボチ楽しいし、ボチボチ退屈である人生」に馴染んでいく必要があるということらしい。
これは目から鱗だった。やっぱり自分の人生の困難を乗り越えるためには、何かに追い立てられることなく、ただただその時間やその一つの本や品目に向き合う読書や料理が必要だったんだと気付くことができた。
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次の理論では、そうはいっても心の奥底から響いてくる「退屈だ」という声についても言及している。
それは人間ならどうしようもない本能の声であり、その遊びや楽しみでは到底逃れられない強い声から逃れるために、人は動物のように何かにとらわれることを目指すともいう。
それ自体は仕方のないことであり、自然なことであると語るが、それが「決断」から生まれるものであってはならないという。
「決断する」ことはほかの何ものをも排除すると決めることであるから、奴隷になるのも同じことであるという。
個人的には、あまりピンとこなかった。
たしかに、例えば人生を仕事に捧げると決断して起業する人は、仕事以外に対して心が閉ざされがちであり、人生を100%仕事で埋めることは物理的に出来ない以上、結局退屈を訴える声に包まれてしまうという意味であるなら理解はできる。
ただ、その人にとってはそれが僕たちの読書や映画鑑賞や食事であり、「時間の浪費」のようなものなのかもしれないと思ったりもする。
同時に、ほとんどの仕事人(ワーカホリックたち)は「楽しさ」の先に仕事に打ち込む人生を見出したというより、空虚な人生を埋める手段として「仕事」を選択している印象があるし、その先に幸せがなさそうである感覚は何となく理解できるけれど。
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増補版に寄せたあとがきとして、「傷と運命」という文章が添えられている。
難解な内容も含まれているので、すべてが理解できたわけではないが、ザックリ解説すると次のような内容だった。
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・そもそも退屈とはなぜ発生するのか
・人間は考えることを避ける生き物である。
毎日町の中に新しい物を見つけて驚いていては心が持たないように、心を守るために様々なことに慣れて記号化することで慣れ/習慣を形作っていく
・生きるために行う「興奮を排除する営み」によって事件のなさ、興奮のなさ=「退屈」が生み出しされてしまうのはなぜなのか
・「退屈」とは「痛みの記憶」を思い出すことなのではないか
・様々な刺激の中を生きてきて、様々な傷を負うのが人間であるが、それらもほとんどが習慣の中で癒されていくものであるが、一部の傷は癒されずに記憶の中にとどまっている。
・刺激という「傷」から逃れるために生み出した「退屈」が、過去の「傷」を掘り起こしてしまうのではないか。
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とてもハッとさせられた。「傷」とはいわゆる嫌な記憶だけではなく、自分が消化しきれていない思い出や考え事のようなものも含むと思うのだけれど、それがせりあがってくるから退屈の苦しさを感じるのかもしれないと気付いた。
他にもいろいろと気づきを得ることができたけれど、まだまだ理解できていないところだらけだし、忘れてしまっているところも多々あると思うので、國分先生の他の本とともに「暇と退屈の倫理学」を一生をかけて味わっていきたいと思う。
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心に残った部分
・退屈の反対は楽しさではなく、興奮である
・「幸いなるかな、快楽を求めることのできる人。彼らは事件をもとめることがないだろう。」
・「仮に『ガレージの職工になった医者の息子』がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。」
・第一形式のような退屈を感じている人は『時間を無駄にしたくない』という強迫観念にとらわれているのである。仕事に対して真面目なように見えるが、それは大いなる『俗物性』への転落ですらある。
・『第二形式においては心の底から楽しいわけではない。たしかにぼんやりと退屈してはいる。だが、楽しいこともある。そこにもハイデッガーの言う「自己喪失」はあるのかもしれない。だが大切なのは、第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。』
P.S. (こっちでは漫画しか載せてなかったけど、読書アプリの『ビブリア』と共に本の感想も載せていくことにする)
Posted by ブクログ
・暇と退屈は違う。2軸4象限でまとめると分かりやすい。目指すは「暇があって退屈していない状態」。暇を作ろう
・退屈を恐れて人は気晴らし・決断の奴隷になる。奴隷になって視野狭窄になった状態を、他の人とは違う崇高で優れた状態と誤認する。資格勉強に逃げるのはやめよう
・と言いつつ、人間は退屈から逃れることはできない。気晴らしも決断も行う。完全に退屈から決別する人生は無い。やるべきは「動物的になること」を意図的にコントロールすること。
→ジャーナリングで自分の退屈を分析して【自己分析】、そこから解決の糸口を見出して実行してみて【読書】、さらに半年くらい夢中に楽しめそうな新しい気晴らしを実行する【体験・趣味】、そんなルーティンを繰り返す人生にするのがいいのかな。80歳で死ぬとして残り50年、半年に1つ楽しんだら、あと100個楽しんだら人生は終わる
まず暇と退屈が異なるものであることを知れるのが面白い。退屈しているのに暇がない、という現代病。
退屈の第3形式から決断せよ!になるのは何か分かるなあという感じでした。自分もそう思って、周りを突き放して没頭しようとしてた時があった。そしてそれも結局は気晴らしあるいは決断の奴隷であると分かった。
結論として、これが最強の答え、みたいなものってないよなと。退屈を分析した結果、こうすれば退屈を完全に脱却できる、みたいなものはない(ちょっと期待してたけど)
どちらかというと、退屈と気晴らしの中でずっと生きていくのが人生。なんというか、分かってたようで、分かりたく無かったリアル。
本書からの学びは、退屈さにやられる人生のなかで人生を楽しむ方法。それは「動物的になること」。自分の解釈としては、「動物的になること」を意図的にコントロールできるようになること(そのためにどうすれば、どこにいけば動物的な自分が引き出されて没頭できるのか?を日々研究して理解していく必要がある)。
環世界の話とか面白かったからもうちょい再読して深めたいなぁ。
まずは動物的に没頭できる楽しみを見つけることからかなと。
Posted by ブクログ
哲学書を読むとはどういうことか、哲学するとはどういうことか。
その実践として本書を読んだ。そして、その結論も非常に納得した。
何より、学びとはいいことだ、と心の底から共感できた。
そして、奴隷ではなく、自由に生きたいと強く願った。本書は、多くの人びとにとっての自由への第一歩となるだろう。
Posted by ブクログ
パートナーは、ルーティンを好み、ひとつのことに打ち込むタイプ。
私は変化を好み常に刺激を求めがち。だが、日々のわずかな変化を楽しむことができ、また思考をめぐらすことができる。
この本によれば、パートナーのほうがより退屈しないタイプだが、私も、飽きっぽいながらも愉しみを見出すタイプなので、どちらも比較的あまり退屈せずに人生を歩めるタイプなんだろうな。
いにしえの哲学者の各論説は筆者の痛烈なツッコミで分かりやすく、定住して人は退屈するようになったという考古学的な視点や、マダニがいかに哺乳類から吸血するかといった生物学的な視点など、とても面白く、のめり込める本だった。
もう少し考えて、頭の整理をしたくなる本。
Posted by ブクログ
やるべきことはたくさんあるけど、なんとなく常に暇だと思って読んだ本
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* 人間は退屈する存在
* 退屈から抜けるには「消費」ではなく「浪費(没入)」が必要
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■ 人間が退屈する理由
* 人は「環世界(観世界)」の中で生きている
* しかし人間は別の環世界へ移動できる
* その結果:
* 一つに留まり続けられない
* 没入が壊れる
* → 退屈が生まれる
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■ 消費と浪費
* 消費:
* 観念(情報・イメージ)を対象
* 次々と乗り換える
* 満足しない
* → 環世界を移動し続ける
* 浪費:
* 物・体験を対象
* 受け取り続ける
* 深く味わう
* → 環世界に留まる
⸻
■ 動物になるとは
* 動物:
* 一つの環世界に没入
* 移動しない → 退屈しない
* 人間にとっては:
* 一つの環世界に留まり続けること
⸻
■ 没入が起きる条件
* 観世界移動が止まるとき
① 強い思考に捕まる
* 解決せざるを得ない問い
* 気になって離れない違和感
* → 思考が固定される
② 浪費しているとき
* 物や体験を深く味わう
* → 注意が一点に集中する
⸻
■ 楽しむことと思考
* 楽しむこと:
* 感覚や意味を受け取り続ける
* 没入的思考:
* 対象について考え続ける
* 共通点:
* 一つに留まる
* 受け取り続ける(=浪費)
* → 楽しむこと=没入的思考
⸻
■ 違和感の役割
* 違和感:
* 「おかしい」と感じるもの
* 既存の環世界で説明できない
* 分岐:
* 逃げる → 消費 → 退屈
* 留まる → 思考 → 没入
* → 違和感は没入の入口
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■ 統合
* 人間は環世界を移動する → 退屈する
* 消費はそれを加速
* 浪費は環世界に留める
* 没入が生まれる
* 楽しさ・思考はその状態
* 違和感が入口
⸻
■ 一言まとめ
* 退屈=移動し続けること
* 浪費=留まり続けること
* 楽しさ・思考=没入状態
⸻
このままでも十分使えますが、
次は「行動レベルに落とす」と一気に意味が出ます。
Posted by ブクログ
時間を要したけど今読んでよかった。
ひとりでいる不安を消すために予定を詰めたりしていたけど、病まない程度に暇ときちんと向き合いたいと思った。
わたしは大学生で、自分も周りの子達も隙間がないほどバイトや遊び、就活など予定を入れている。一昔前の大学生は人生の夏休みと言われるほど、ゆとりがありのんびりしているイメージだった。SNSの普及により、資本主義の奴隷になっていたり、暇ではいけないという潜在的な認識に駆られているような気がしている。
Posted by ブクログ
人間がうまく飼い慣らせず、それ故に人生や幸福そのものに深く関わってくる「暇と退屈」について、人類の系譜や哲学者の論述から分析した上で、我々現代人に対して一定の提案をしてくれる本。
色々な哲学者(主にハイデッガーとユクスキュル)の話をベースに、批判もしつつ良いとこ取りして、現代人にしっくり来る結論に落とし込んでいく論述過程が非常に面白かった。
登場する哲学者のことはほぼノー知識で読んだが、順を追って丁寧な論理で進めてくれるので大丈夫だった。難易度は低いと思う。
結論はわりとあっさりしているが、論述全体を追うことで読者自身の思考が変容していくこと、そしてそれを楽しむことこそが重要と著者は言っており、その通りだなと思った。
退屈なんて普段しっかり考えたことないテーマに惹かれ読みました。哲学書が大好きな私にはとても満足度の高い1冊でした。ちょうど、「幸せ」「不幸」について考えていたので自分なりに少し答えに近づけたような気がします。
より多くの人に読んでほしい。
2024年12月読了。
ず〜っと気にして買っていたのに、中々手が伸ばせずに積ん読状態だったのだが、数年前にTVでオードリーの若林さんが称賛していたのを見て興味が湧き、読み始めたのだが、自分はうつ病を患っており、その時は具合が悪く途中で手を止めてしまった。
その後(つい最近だが)思うところがあり、改めて初めから読み返したところ、夢中に成る面白さで、半日弱で読み終えてしまった。
哲学書でこんなに読み易い本は、早々お目に掛かれない良書だと思った。そして若い読者にも理解しやすい書き方で、現国のテキストに使われたのも頷ける内容だった。
中身を多くは語るまい。読み終えた人だけが、感想をスタート地としてそれぞれに思考を進めていければ良いのだ。
恐ろしく単純に云うとしたら、凸凹の「凹」の真ん中(低い所)に居ると思っている人達に、「そうじゃないんだよ、貴方の居る(べき)場所は、実は凸(の高い所)なんだよ。だから右往左往しないで世の不条理に惑わされず、絶えず《学ぶ》ことが一番大事なんだよ!」という、素晴らしく明快な答えを教えてくれる良書だと云う事だ。
と言っても、コレは読んだ人なら分かる、読んだ人にしか意味が分からない感想かもしれないけどw、補編の《痛みについての考察》は、心の痛み(うつ病)を抱える身の自分にもヒットする部分を感じて、とても嬉しかった。再読して、この病と闘っていこうとも強く思った。
國分先生、病と立ち向かう勇気を貰えました。ありがとうございました。
Posted by ブクログ
人間が、特に明確な原因はないけど、なんとなく漠然と死にたいと思うのもここからきてるのかなーと思った。
普段あまりこういう新書に近いものは読まないが、周りがあまりにもすすめてくるので気になって読んでみた。面白くて最後まで一気に読み進められた。
とても難しいことを簡単に、簡単なことを面白く説明してくれている本だった。自分の持論で「人類皆寂しがりや説」というのがあるのだが、第5章で似たような話がでてきてびっくり。時間なくて読みきれない!という人はせめて5章だけでも読んでほしい。
自分が前に挫折した「生物から見た世界」が出てきたのでこれを機にもう一度チャレンジしたいと思う。
Posted by ブクログ
初めての哲学書。
読みやすかった。
暇も退屈も感じるのは、人間の定め。それでいいんだ。
その上で、私たちは日常を楽しまなければならない。
どんなことにもそこにはどんなワクワクがあるか、探し続けたい。
ただ、習慣化されたり慣れたりするとまた退屈は始まるよね。
その時その時で退屈がやってきたって気づくことが大切かな。
そして、気づいたらその退屈が消え去る何かを待つ。
そのために、本を読んだり人に会ったり、映画を見たり美術館に行ったり、自分の好きなことをする。
それを忘れちゃいけないんだ。
第二形式の暇と退屈を感じる時、私はものすごく虚しくなる。
同じ熱量で楽しめていない時、私は強く虚しさを感じる。
でも、本を読んで人それぞれ違う環世界を生きているから、当たり前なんだと思えた。
自分が楽しんだらいいんだって。
ずっと環境を変えたら、何か変わるかもって思っている節がある。
けど、そうじゃないのかもと思えた。
やっぱ、自分がその物事をどう楽しむかどう捉えるかが鍵だな。
Posted by ブクログ
暇ではないが人生に退屈を感じていたので、テーマはちょうど良かった。読者の感じる暇と退屈を、この本のなかで扱われる哲学の系譜のなかに(なんとなく)位置づけられると面白い本になると思う。
文章に関しては、意図的に同じことを繰り返し述べているのだと思う。ところどころ難しかったり、話が進むと前の内容を忘れてしまう。ときどき、前の内容を振り返って述べてくれるのはありがたかった。
Posted by ブクログ
◾️メモ
楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。
◾️感想
暇と退屈はなんとなくある。
それを人類学の観点で始まりから定義していく。
聞いたことのある哲学者たちの思想から紐解いていくプロセスが腑に落ちる部分や理解が追いつかない部分があり、ここに本書の醍醐味を感じた。
Posted by ブクログ
いろいろと忙しくて本が読めないことは、人生的に暇で退屈することと矛盾することではないんだということをいろいろとちょっと複雑に書かれていた。
個人的には飽きるという言葉をよく使うけれど、
つまりもっと今とは違う生き方とかしたい、という欲でもあり、
でもそうやって今を否定してばっかではいられないので、
いろんな可能性にあふれている世の中でも、
今ここで自分が実現できる気晴らしを実践してそれを実感して毎日を送っていくことはまあまあ大事だなーと思った。
あとは、現実逃避に対しては否定的なイメージがあるけれど、
日常という現実ばかりが大事な現実ではないのかもしれないなーとあらためて思った。
Posted by ブクログ
注の部分を抜いても400ページ超ある文庫で、断続的に読んでいたこともあり、読み終わるまでに一カ月ほど時間がかかった。このままでは読み終えることができないと思い、GW中に一気に読むことにした。
読み応えのある本だったが、哲学的な内容であるため、自分の中で消化できていない、理解できていないモヤモヤした読後感が残るのは悲しいところ。
ただ、暇と退屈についての考察は自分の経験上から、なるほどと思うところもあり、読み物としてはこの手の本としては面白いところもあった。
この本、売れているので、本当によい本なのだろうし、読んでいてもなんとなくいい本なのだろうなという気がする(そこまで自分が評価できるレベルに至っていないのが悲しい)。
本当はもう一回ぐらい読み直して、理解を深めていくのがよいのだろうが、読み終わった今の状況ではその気力はおきない(苦笑)。
Posted by ブクログ
ただ漠然と暇と退屈の抽象的な議論がされているのかと思いながら読み始めたが、全くそんなことはなかった。これは人間の生き様を抽象的かつ具体的に議論できる根幹となる倫理学だ。であるからこそ、自分にも容易に投影できた。
時間を忘れて夢中になれることが自分には無いことをコンプレックスのように捉えてきた人生だった。「自分には何か没頭できるものがあるはずだ」「自分には天職があるはずだ」と。その退屈さに対して無理矢理に自分の進むべき方向を「決断」してきた。その決断が大きかったうえに、あまり幸福とは言えない経験を辿った過去がある故に、とても響く内容だった。
退屈さを受け入れ、思考する。そんな簡素な結論は自分には充分すぎるアドバイスに思える。
Posted by ブクログ
この手の本にしては非常に読みやすかった気がする。色々な哲学者や理論を知らずとも論理明解に落としていくし、結論もまとめられているしでスッキリ読めた。
Posted by ブクログ
「人間であること」を楽しむことで「動物になること」を待ち構えることができるようになる。
この本を読む前は、
・暇をなくすこと、いわば「奴隷になること」
もしくは、
・自分が退屈ではない幸せなのだとと抑え込むように考えること
が退屈しないための手段なのかなと漠然と考えていた。
ポジティブな結論を展開してくれたこの本にあっぱれ!
Posted by ブクログ
今のタイミングで読めてよかった。
人生暇になることが怖かったけれど、結局、退屈と気晴らしを行き来するのが人間らしく生きることであって、人間らしく生きていくしかない、と納得した!
今考えるのは主に婚活だけど、結婚してもしなくても、生活に慣れることによって環世界のようなものはできてしまって、結局その移動によって、楽しみを得ていくしかないのかもしれないなぁ、と思った。
結婚して子どもがいたほうが、自動的に環世界が移っていくかと思っていたけど、仕事でステップアップしていくことと何が違うというのか、いや、同じといえるのではないか。
Posted by ブクログ
日常的な楽しみに関しても楽しむことの訓練を経て習得しているから楽しむことができる視点が面白かった。
しかし、楽しむことの訓練を通してでも個人の性格や価値観、状況によってはそれを楽しめないこともあるのではないかと思う。楽しむことの訓練を受けているにも関わらず、あえて物を受け取らずに退屈を感じる人もいると感じた。
Posted by ブクログ
暇と退屈を過去の哲学者や思想家のスキームなども紹介しながら土台を整えつつ、
暇と退屈をメタ的に考えた書籍
そして倫理というからには、一定のすべきまでを提示している。
個人的に印象的だったところを雑多メモ
17世紀パスカルのうさぎ狩りの例
今から兎狩りに行く人にすでにとれた兎を渡しても彼らは満足しない。兎狩りそのもの、つまり気晴らし的なこと、プロセスへの没頭的なところが欲望原因であり、兎はその対象になっているだけなのだと。これは現代社会のいろいろなところに見て取れるたとえである。
暇の誕生
狩猟採取や遊動的な暮らしは、その日暮らしで、常にやることがあり、移動により新しい土地に新しい景色、新しい刺激というものが日常的に飛び込んでくる状態であった。また、食物やゴミ。廃棄物なども。昔はそんなに自然を壊すような人工物はなかったかもしれないが、そういったものも基本的には放置していれば自然に帰った。
元々人間はこちらのライフスタイルから出発している。
一方で気候変動や様々な要因から推定して遊動的な暮らしが難しくなったときに、定住型へと移動し、農業作物栽培へと移行していった。すると頻繁に移動していたときに比べて外界からの刺激が少なくなる。
そうすると、これまで脳を刺激するような行いの代わりの行いを見つけ出すようになり、それが土器の装飾、暮らしのルールづくり、新しい道具の開発、などの技能の探求や、コミュニティのルールづくりなどを行っていった。
一方で、農耕社会は作物を貯蔵することで富の概念が生まれ、それによって余暇と労働の割合が人によってグラデーションになっていった。富んでいる人ほど余暇もあり、それは高貴な証拠担っていった。
貴族は暇を嗜むための遊戯を発達させた。芸術や狩猟、スポーツなども古くはそうであろう。
そして時代は経て、産業革命、資本主義のよる労働者と資本家の関係になってからも、労働者を健康的に働いてもらうためにも、余暇と気晴らし的なものが必要に社会是正されていき、一定の余暇時間がある程度等しく生まれることになっていった。
その結果として、人は暇、余裕が生まれることになったのであるが、ここでこの暇で何をしようとなる。ここで企業群は、暇、退屈を埋めるような製品サービスを余暇の消費のために新たに開発して需要を喚起するようになった。これは消費行為であり、たえず要望を刺激し、退屈を埋める某を発信してくる。終わらない消費活動へと組み込まれていく。
ハイデッガーの退屈の形態
1:何かによって退屈させられる(仕事への隷属)
2:何かに際して退屈する(暇と退屈の均衡)
3:なんとなく退屈(1や何かへの渇望)
ユクスキュルの環世界の話。まさかの個人的にもよく使う環世界の思考フレームがここにもでてくるとは思わなかった。
人間:環世界を生き来するのが比較的容易
動物:所与の環世界を生きる
人間は生き来するからこそ、気晴らしもできるし、退屈もする。自分の環世界を深めることをせずに、ほいほいよその環世界にいってると自分というものが無個性的になってしまったり、何かをしてても退屈に感じてしまう。そこで、何かに隷属する、没頭するようなモードにもチェンジし得る。
これは今風な発露の仕方でいうとオタクとか推し活的なものもそうかもしれない。自分の環世界に掲げた刺激を内在化、深化するように、特定の何かを浪費していくのだ。
こうした暇と退屈への気晴らしをほどよくこなしたり、それらじたいには退屈してきたら、退屈と感じる間もないくらい、何かに身を捧げるのだと。
AIが普及すればするほど、なおさら考えざるを得ないテーマでもあり、このタイミングで読めて良かった作品であった。
個人的にも色々と派生探求したい作品であった。
Posted by ブクログ
哲学書なのにすごく軽く読めて読みやすかった。
暇と退屈の違いというのを改めて認識することができたし、暇になりたい。
暇を楽しめるように環世界の移動を苦なくできるように、訓練したい
Posted by ブクログ
物を享受することが気晴らしと退屈が絡み合う生を豊かにする。
しかし、今の消費社会は享受することを困難にしている(妨害している)。
だから我々は楽しむ訓練によって享受できるものの数を増やし、失われた贅沢を取り戻す必要がある。
めっっちゃ簡単に言えば、楽しむ訓練(教養を身につけるが1番わかりやすい)によって視野を広くすれば、受け取れる物の数は増えて人生ハッピーになるねってことかな。環世界を構成する要素が増えるたびに思考を余儀なくされ、それはすなわち享受であり贅沢である。だから豊かになるって意味だと自分は受け取った。
まぁその通りだと思う。色んな楽しみを知っている人の方がそりゃ豊かだもんね。
退屈とは切り離せない気晴らしをどういうものにするか、その重要性を教えてくれた本。
Posted by ブクログ
暇とは何か。退屈とは何か。それは本当に主観的な感情なのか。それとも、近代社会が構造的に生み出した状態なのか。
著者である國分功一郎は、古代から近代に至る思想史を横断しながら、退屈を倫理の問題として再定義する。
刺激過多の社会において、私たちは退屈を回避することに最適化されている。しかしその回避行動そのものが、実は退屈の深化である。この逆説が中々目から鱗。
退屈とは、世界との関係が断絶した状態であると同時に、新しい関係を開きうる契機でもある。刺激を消費し続けるのではなく、世界を再び見るための余白。それが退屈。
正直に言えば、私はこれまで「暇」や「退屈」について真剣に考えたことがほとんどなかった。むしろ忙しさを誇り、退屈を感じないことを美徳のように扱っていた。しかし本書を読んで気づく。
退屈を感じないのではない。退屈を感じないように訓練されていただけなのだと。
暇とは空白ではない。
退屈とは欠如ではない。
それらは、世界の見え方が変わる瞬間の入口なのかもしれない。
読後、自分の時間感覚がわずかにずれる。その“ずれ”こそが、この本の最大の効能である。
でも読んだ所でなにか倫理観が変わるのかといったら、全くそうでもない気がする。
Posted by ブクログ
「暇と退屈」に直面した時、人はとにかく悪い方向に思考が転がってしまいがち。暇と退屈があるから、悩んだり、過去の嫌なことを思い出して落ち込んだり、今の幸せを疑ったり、人生に絶望したりする。
人類はこんなにも暇と退屈を恐れ、悩ませられて来たのかとまず驚いた。
人類が暇と退屈とどう出会ってしまったのか。
人類の文化は暇と退屈によって発展してきたのではないか。
そんな本著の展開は実にスリリングでエキサイティングだった。
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。とパスカルは指摘している。
しかし、人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。
暇と退屈という存在は、人間らしさの象徴のようなものだと感じた。苦しめられつつも、人間を形作っている大きな存在だ。そんな暇と退屈という人間らしさとぐるぐる一緒に迷うことのできるような内容だった。
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メモ
・ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない。
・人間は〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉を取り間違える。ウサギが欲しいからウサギ狩りに行くのだと思い込む。
・ここに人間のみじめさの本質がある。人間はいとも簡単に自分を騙すことができるのである。
・人間は部屋でじっとしてられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみをもとめることすらある。
・飢餓や貧困や戦争にははっきりとした外的原因がある。あるいはそれが分かっている。しかし、日常的な不幸にはそれがない。なんとなく不幸であるのに、なぜだかが分からない。だからこそ、逃れようにも逃れられない。そのことがこの不幸をますます耐え難くする。
・人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。だから、今日を昨日から区別してくれるものをもとめる。
20260518-66冊目/年
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前半おもしろかったけど、だんだん理解がふわっとしてきた。
つまりこういうこと、と端的に書かれていないので、皆さんがレビューでまとめてくれたものを読んでやっと頭が整理できた。
結論、この本はわかりにくいんだと思う。
暇と退屈の違い、消費と浪費の違い、ルソーの「疎外」、本来性など、読者メモは色々埋まったけどここには書かない。
人間が定住をしなくなったことで哲学的にも大きな変化があったことや、退屈から逃れるために人は熱中を望み、熱中のためには負荷が必要というパスカルの考えがなるほどと思い面白かった。
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奇妙なタイトルである。暇と退屈、一見すると同義に思われる両者に対して、倫理の視点から論説するらしい。割と分厚い本であるが、回りくどい説明が膨らませているのでは?と思いながら読んだ。暇と退屈は、暇だから退屈する、といった因果関係にあるのではなく、相関関係にある。暇と退屈、それぞれの有無で、対応関係を作り、分析を整理していく。暇とは何もすることのない、する必要のない時間を指していて、暇の中にいる人の在り方や感じ方とは無関係で、客観的条件に関わっている。一方、退屈とは、何かをしたいのにできないと言う感情や気分を指していて、人の在り方や感じ方に関わるので、主観的な状態になる。著者は、ハイデッガーの分類をもとに、退屈を分析し、対処に踏み込んでいく。ハイデッガーの分類では、退屈を下記2タイプに分けている。
①何かによって退屈させられること
②何かに際して退屈すること
哲学的思索が、両者を特徴化させ、そこに対処を導き出していくが、その論旨の先に、さらに退屈の新たな類型が提供される。
③なんとなく退屈だ
我田引水的な論究に追随していくのは、迷路に入り込んだようで、ふわっとした納得感へと続く。果たして理解したのか、煙に巻かれたのか、不安定な気持ちが残る。
Posted by ブクログ
哲学書はほとんど読んだことはないけれど興味深いテーマなので読んでみた
テーマとしては確かに面白く
今までない視点による気付きも存在したのだが
哲学書がそうなのか
作者が悪いのか
はたまた自分に原因があるのか
いまいち読み進めることができず読破に3週間ほどもかかってしまった
なんというか回りくどく
同じことを繰り返し
多数の引用をして横道に逸れ
その割には独善的に引用先を否定する
論理の展開も納得できるものもあるが自分の感覚的にはあまり受け入れられないようところも少なくない
ただまぁだとしても誰かの論理の流れを追い
それについて思考すること自体が哲学というものなのかな
というわけで暇と退屈については解決することはありませんが
それについてこれからも自分なりに向き合っていこうと思います