あらすじ
「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう――現代の消費社会において気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加えて待望の文庫化。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
〜〜〜要約〜〜〜
豊かで、革命が喫緊の課題ではないような社会を生きる現代人は、その余った時間をどう使っているのだろうか?
資本社会において、満足をもたらす「浪費」(食べ物を永遠に食べることはできないから満足する)が減り、意味や物語といった「観念」を「消費」するようになったことで満足しにくくなった。このように、供給側の意図によって、満足することのない「消費」が促されている…
退屈には3つのかたちがある。
① 目的を果たすまで待つ時間の退屈。(バス待ってる時間)
② 楽しみを求めて何かをしているにも関わらず感じる退屈。(パーティきたけどなんか退屈)
③ 理由がない、「なんとなく退屈」という退屈。
①と③は性質が近い。人はこのような退屈に対して、気晴らしとして刺激を求める。しかし、結局何をしていても退屈に感じる②の状態が生じる可能性がある。
刺激について考えると、生物としては刺激が少ない方が安全であるように思われる。しかし人間は、刺激を積極的に求める存在でもある。人間は環境に順応してしまうため、刺激はやがて効力を失う。そこで常に現在とは異なる環境に身を置くことで、新たな刺激を得ようとする。それは仕事である場合もあり得る。そこでも②の退屈が生じうる。
②の退屈はなぜ生じるか?パーティを楽しめるほどの教育や訓練を受けていないからだ。アートとか野球とか、美味しいものも、知っていて、楽しむ訓練をしていれば楽しく感じるだろう。結局、楽しむための教育や訓練を通じて対象を深く味わう力を身につけない限り、この退屈の循環から抜け出すことはできない。
最後に、人間は退屈による空白が耐えられない。空白が生じると、嫌な記憶とかが思い起こされたりするから…
で、あってるかな〜???全く読み返さずに書いたから、私の偏った理解が入ってるかも?
〜〜〜感想〜〜〜
非常に論理的でクリティカルな内容だった。なんで仕事や遊びで忙しいのに、大好きな友達がいっぱいいるのに、退屈と感じてしまうのか気になっていたので、読んだ。
読んだけど、私の退屈は解消される気がしない。楽しむ訓練はかなり難しいと考える。私は長く真剣にやっている趣味が多いが、たまにしか楽しいとは感じていないと思う。旅行なんて、友達とのおしゃべりが楽しいわけで、その土地に出向くことの楽しさがまだわからない。
そしてみんな、趣味としているものをやっていても、ふと飽きたって思ってしまうことはないだろうか?
また、最後の方に関して疑問を感じたのでそこまで重要ではないかもしれないが要約で触れてみた。「退屈が嫌な記憶を呼び起こす」のは、本当に精神状態によるんじゃない?
退屈には教育や訓練で対処するか?動物的な、ある意味「無意識」な瞬間を積み重ねるべきか?と議論を並べると、これらは「退屈」に対する概念とはまた違う次元の話をしている気がする。
「退屈が時間の無駄である」としたら、対処すべきだが、そうでなければ退屈もいいんだろうな、とよく友達と話しているが…私の、意味づけのない時間、「退屈」への不満は解消されない。
物事に対する感情の起伏をコントロールするようにしていたら、刺激を刺激と感じにくくなってしまった…退屈だなぁ
ただ、時代背景や哲学と退屈を結びつけて論じられていることがとても面白くて、かつ、哲学への批判的な考察に納得させられて、読んでる間は退屈しなかったので⭐︎5!
Posted by ブクログ
めちゃくちゃ簡潔に言うと、
「退屈を恐れすぎず、気晴らしに身を任せ、楽しみ方を訓練して心得よ。」
というふうに解釈したが、それに至る過程を理解していなければ、真に実行出来ない、という意味で、読んで非常に良かったと感じる。
人間は1万年ほど前から、気候変動による植生の変化により、定住を余儀なくされた。それ以前、遊動生活をしていた際に、遺憾なく発揮された洞察力や探索する力は、定住と農業によって必要性を失った。そして発揮する場所を失った人間の能力は、文明や文化の発展へと向かうことになる。
暇を得た人間は気晴らしをせざるを得ない。現代社会、消費社会では産業からあらゆる形の気晴らしが供給される。そこでは、産業が消費者に訴えかけて消費者の内に欲を生み出している。この構造により、産業は消費者に、物でなく観念を、消費させ続けることになった。観念の消費は、物の浪費に対して、満足しない。すると、消費によって我々は、「したかったこと」のはずのものに、「これじゃない感」を感じてしまうのである。
豊かな社会、人々が総じて暇を得る前、有閑階級は暇を飾る方法を知っていた。ありふれた生活を如何に楽しむことが出来るかを知っていた。楽しみ方は訓練によって獲得することが出来た。
ところで、ハイデッガーによると、人間の体験する退屈には、①時間がぐずつき、周りが言うことを聞いてくれない退屈、②退屈と気晴らしが絡み合ったもの、③なんとなく退屈、の3つの段階があった。ハイデッガーは、いずれも③を根底に持つと考え、人間は③の状態にあるとき、あらゆる可能性の先端に位置しており、決断によって可能性を発揮するべきであると主張した。
ハイデッガーは、環世界を人間以外の動物が持ち、人間は環世界を持たないからこそ、「とりさわれる」ことがなく、自由であり、自由故に退屈すると考えた。しかし、人間もそれぞれ環世界は持っている。人間とそれ以外を区別するのは、環世界間を移動する能力が相対的に、しかし非常に、高いことだ。つまり、人間は一定の環世界に留まっていられない。それ故に「とりさらわれ」続けることが出来ず、故に退屈する。
すると、様々な環世界を行き来し、気晴らしをしながら生きている人間の姿は、退屈の②の段階にあてはまる。多くの人間の多くの過ごし方は②に当てはまっていると考えることが出来る。②には、①と③には無い、余裕と安定と均整が存在する。そこでは、楽しみ方を訓練することによって、退屈を飾ることが出来る。
人間の生は、主に②であり、ときどき「何となく退屈だ」という感覚が大きくなると①=③に逃げ込みたくなる。その後②に戻るのだが、①③にい続けては仕事の奴隷になってしまう。
②を過ごすうち、楽しみ方を心得たり、環世界を獲得するうちに、どういった状況が自分に「とりさらわれ」を引き起こすのか理解できるようになる。すると、意図したような「とりさらわれ」も不可能では無い。このようにすると、人間が何かに没頭する、つまり退屈から解放される方法を獲得することも可能なのかもしれない。
より多くの人に読んでほしい。
2024年12月読了。
ず〜っと気にして買っていたのに、中々手が伸ばせずに積ん読状態だったのだが、数年前にTVでオードリーの若林さんが称賛していたのを見て興味が湧き、読み始めたのだが、自分はうつ病を患っており、その時は具合が悪く途中で手を止めてしまった。
その後(つい最近だが)思うところがあり、改めて初めから読み返したところ、夢中に成る面白さで、半日弱で読み終えてしまった。
哲学書でこんなに読み易い本は、早々お目に掛かれない良書だと思った。そして若い読者にも理解しやすい書き方で、現国のテキストに使われたのも頷ける内容だった。
中身を多くは語るまい。読み終えた人だけが、感想をスタート地としてそれぞれに思考を進めていければ良いのだ。
恐ろしく単純に云うとしたら、凸凹の「凹」の真ん中(低い所)に居ると思っている人達に、「そうじゃないんだよ、貴方の居る(べき)場所は、実は凸(の高い所)なんだよ。だから右往左往しないで世の不条理に惑わされず、絶えず《学ぶ》ことが一番大事なんだよ!」という、素晴らしく明快な答えを教えてくれる良書だと云う事だ。
と言っても、コレは読んだ人なら分かる、読んだ人にしか意味が分からない感想かもしれないけどw、補編の《痛みについての考察》は、心の痛み(うつ病)を抱える身の自分にもヒットする部分を感じて、とても嬉しかった。再読して、この病と闘っていこうとも強く思った。
國分先生、病と立ち向かう勇気を貰えました。ありがとうございました。
Posted by ブクログ
いわゆる哲学書で気にはなっていた(積読状態)→「スマホ時代の哲学」から続けて読んでみた。
関連する話題でもあり、相関もあって興味深い。(記憶が混同するデメリットもあるけど)
分かりやすく面白いが、簡単ではないし読むのに時間はかかる。
整然と論理構成をまとめて教えてくれる形式ではなく、ひとつずつ問いかけ、考察を加えるという形で物語的、あるいはドキュメンタリー的に進めていき、長旅に付き合う感覚。咀嚼して頭にすっとはいってくる訳ではなく、自分で頭を整理する必要がある。
スマホ時代の哲学同様、ことばの定義に注意が必要。
スマホに比べればトリッキーな語用は少ないのでまだ理解しやすいが。
結論では、要は目の前のことに真剣に楽しんでいるか、というところに行きついたが、
それはスマホ時代の哲学にも(孤独と趣味という言い方)つながるし、
たとえばLISTENで人は人の話を聞いているようで聞いていない、という話にもつながってきた。
過去未来ではなく、今その場の感覚に意識を集中しよう、という禅やマインドフルネスにもつながっていないか。
まずは目の前の料理を味わうとか、今その瞬間を楽しむことを意識してみることを何度も説かれた感覚。
Posted by ブクログ
筆者の考えを全て理解できたかと言われると、追いつかなかった部分もあるが、おもしろかった。
消費社会に取り込まれてしまっているいま、“生きること”を取り戻す必要があるように感じた。
自身の時間の過ごし方と、3歳の子どもの時間の過ごし方を見ていると、子どもは「人間であること」を楽しみ、「動物になる」ことができているように感じるのだが、第二形式を楽しむことには訓練が必要であるにも関わらず、訓練していなそうな子どもが楽しむことができているというのは、どういうことなのだろうか。楽しむことを大人になる過程で忘れる/失ってしまい、訓練により取り戻す必要があるということなのだろうか。
自分は第三=第一形式に入ってしまうことが時折あると感じた。マインドフルネス的なものとはまた何か違うのだろうか。そのあたりがまだしっかり理解できていない。
Posted by ブクログ
定住生活の開始により探索能力有り余り、退屈発生。退屈により非日常、切り離された今日を求める。他方、生物は安定を好む。一方、ヒトは環世界移動できる、しようとする、でも、習慣化によって安定する。が故に退屈が生まれる。そのため、新たな環世界でどうぶつになりたがる。この堂々巡りが、第一=第三形式に陥らない第二形式か?それでは、そもそも何故退屈は生じるのか。安定は過去の記憶に潜む痛みを呼び起こしてしまい苦しめるから。これが退屈の正体では。以上が本書の私の理解。簡単に纏めることなんてできないけど、備忘録として。この類いの本、あまり読まないので、最後まで通読できて良かったです。
Posted by ブクログ
Audible!!
よくある「明日から使える!」系のビジネス書じゃなくて、ひとつのテーマを徹底的に深掘りして、論理を積み上げていくタイプの本!
なのでかなり難解だけど読み応え抜群でした。
【学んだこと】
◆「暇」と「退屈」は別物
ヒマ:客観的(あの人は暇に見える)
退屈:主観的(この仕事は退屈だ)
目指すべき状態は「暇だけど、退屈していない人」
成り易いのは「退屈しているのに、暇がない人」
◆退屈は3つに分解できる
① 電車を待つ退屈(奴隷モード)
「電車まだ?早く来い」ってイライラしてる時。これは時間や外部の状況に支配されてる「仕事の奴隷」と同じ状態らしい
② パーティの退屈(気晴らしモード)
楽しいはずのパーティや飲み会なのに、ふと虚しさがよぎる、、
③ なんとなくの退屈(究極モード)
理由は特にないけど、深い虚無感が襲ってくる
これが一番深くて怖い「究極の退屈」
➡︎③から逃げるために社畜になったり、スマホを見続けたりして、「①奴隷モード」へ自ら逃げ込んでしまう。
◆退屈を回避するには
そもそも人はエネルギー節約のため「考えない仕組み=習慣=環世界」を作る。けど、この習慣が惰性や他者依存だと、「環世界」が狭いままになり、すぐに飽きて①の奴隷的な退屈に陥る。
そこで、「自分で考えるエネルギーを使い」、「自分で選んだ習慣(環世界)」を能動的に作る。
料理でも、音楽でも、アートでも、知識がないと「つまんない」で終わるけど、自分で学び、向き合うことで「面白い!」に変わる感じ。
それによって自分で作った環世界は深く、広いため、退屈と能動的に向き合って「楽しむ訓練」が可能になり、「暇だけど退屈ではない」状態が生まれる。
頑張るじゃなく楽しめですね(・_・;
Posted by ブクログ
退屈から逃れるためには、「人間であること」を楽しむことで「動物になること」を待ち構える。いろんな物事に対して、疑問を持ったり、どうすればより良い物を作れるかなど、思考をできるのは人間だけ。その思考によってある種フロー状態になり動物のように物事に入り込んで楽しめる。仕事で重要な姿勢のようにも感じた。
本書の内容は普通に面白かったがそれ以外に、著者は高校生の頃から自分の哲学を意識しており、それを実際に本書で実現させたという部分のストーリーが興味深かった。
Posted by ブクログ
今の自分にこれ以上の評価をつける哲学に対する知識を持ち合わせていない。もっと哲学に対する造詣が深くなれば、あと⭐️2つはつけれるだろう。
とはいえ、⭐️3つ分の内容を以下に記したい。
習慣化することは、ある環世界に浸ることだと考える。ただ、習慣化しただけでは退屈してしまうので、人は新しいものを取り入れる。
この流れ自体が、1つの環世界となると、常に新しい物事を取り込みながらも、退屈のしない幸せな生活が待っているんじゃないかと感じた。
特に、自分自身が「習慣化」をテーマに生活をしているので、これからもこの本に書かれたことを指針の1つにしていきたい。