あらすじ
私たちはまだ、「自由」を知らない――。
覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。
気鋭の哲学者による、心揺さぶる倫理学(エチカ)入門。
★現代人の「思考のOS」を書き換えるスピノザ哲学のエッセンス★
□すべての個体はそれぞれに完全である。
□善悪は物事の組み合わせで決まる。
□「力」こそ物の本質である。
□自殺や拒食の原因は人の内側にはない。
□一人ひとりの自由が社会の安定につながる。
□必然性に従うことこそ自由である。
□自由な意志など存在しない。
□意志は行為を一元的に決定しない。
□真理の外側に真理の基準はない。
□新しい主体のあり方が真理の真理性を支える。
*「NHK 100分de名著」『スピノザ エチカ』に新章を加えた増補改訂版*
[目次]
はじめに
1. 組み合わせとしての善悪
1)スピノザとは誰か
2)哲学する自由
3)神即自然
4)『エチカ』はどんな本か
5)組み合わせとしての善悪
6)善悪と感情
2. コナトゥスと本質
1)コナトゥスこそ物の本質
2)変状する力
3)多くの仕方で刺激されうる状態になること
4)コナトゥスと「死」の問題
5)万物は神の様態
6)神は無限に多くの属性から成る
7)コナトゥスと社会の安定
3. 自由へのエチカ
1)「自由」とは何か
2)自由の度合いを高める倫理学
3)自由な意志など存在しない
4)行為は多元的に決定されている
5)現代社会にはびこる意志への信仰
4. 真理の獲得と主体の変容
1)スピノザ哲学は「もうひとつの近代」を示す
2)真理は真理自身の基準である
3)真理と向き合う
4)物を知り、自分を知り、自分が変わる
5)主体の変容と真理の獲得
6)AIアルゴリズムと人間の知性
5. 神の存在証明と精錬の道
1)懐疑の病と治癒の物語
2)真理への精錬の道
3)精錬の道は自ら歩まねばならない
4)対話相手としてのスピノザとデカルト
おわりに
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Posted by ブクログ
もっと読み込まないと。
でも、スピノザの哲学は自分な現代に生きるすべての人にとって一種の救いになるようなものだと感じる。
いろんな解釈に触れて理解を深めていきたい。
Posted by ブクログ
〜感想〜
國分功一郎先生の暇と退屈の倫理学がわかり易く、面白かったので、國分先生が教えてくれるスピノザなら間違いないはずだと思い、本書を手に取りました。結論、國分先生のこともスピノザのこともさらに好きになりました!
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〜印象的なスピノザ論〜
『すべての個体はそれぞれに完全である』
(この家は) 「まだ屋根がついていないから完成していない」
これは、私たちが完成された家についての一般的観念をもっていて、それと比較しているからである。
一般的観念というのはいわゆる偏見で、これまで何度も見たものに基づいて作られた観念にすぎない。それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているにすぎない。
存在している個体は、それぞれがそれ自体の完全性を備えている。自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれにただ存在しているのである。
『善悪は物事の組み合わせで決まる』
音楽それ自体は善くも悪くもない。ただそれは組み合わせによって善くも悪くもなる。つまり、自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だ
『善は活動能力を高める』
我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを〔……〕、言いかえれば〔……〕我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第四部定理八証明)
私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるもの。そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べた。
『何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえにねたみはしない』(第三部定理五五系)
ねたみは憎しみそのものであり、したがって悲しみの感情である。そうやってねたんでいる時、私たちはより小なる完全性へと向かいつつあり、活動能力を低下させていることになる。
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〜印象的な語彙〜
コナトゥス(conatus)個体をいまある状態に維持しようとして働く力のこと。
エイドス(eidos)形相
変状(affectio) ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びること。
Posted by ブクログ
スピノザの診察室から。
スピノザの思想をかじってみようかなくらいのテンションで読んでみたら、価値観がアップデートされるほどの衝撃を受けた。
特に「自由」についての考え方が心に残った。
「自由」とは、自分が何でもできるようになることではなく、自分のできる範囲で力をうまく発揮することだという。
これは自分が最近考えていた、教育観にもつながる。以前は、経験によって自分のレベルが上がれば今できないこともいずれできるようになり、最適な教育が可能になると思っていた。でも、それは違うのかもしれない。教師にも置かれた環境、人間関係などによってできることは制限されるし、公教育における限界もある。それを理解した上で、どうすれば自分の力を発揮できるのか考え、トライアンドエラーしていくことが「自由」な働き方なのかとわかった。
「真理」に対する考え方も面白かった。真理とは誰もが疑うことのない絶対的なものではなく、自分自身が到達するものである。それは本人が気付くかどうかの問題であるということだ。つまり、真理を理解するために、自分にその力があるかどうか、メタ的にみる必要がある。すなわち、自分自身をよく知ることが何よりも大切だと感じた。
Posted by ブクログ
國分さんの本はとにかく面白いので、いつか読むだろうと本書も積読しておりました。
スピノザは國分さんの本ではたびたび登場する人物であり、他の人の本でも肯定的に引用されることが多い印象で、どうやら日本人が好きそうな人物です。なぜ現代に肯定的に受け取られているのかを考えながら読んでおりました。
まず代表的な考え方である、「神即自然」。神は自然であると言い切るスピノザ。キリスト教神学が支配している時代で、この考え方を提示できるのはすごいです。。。自然信仰が馴染んでいる日本人にも受け取りやすい考え方でしょう。
國分さんは本書の初めにスピノザの凄さを伝えるためにこのように述べています。
「哲学者とは、真理を追求しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です」
つまり、スピノザは命を奪われてもおかしくないヤバい哲学を掲げた人物ということです。その生涯では認められることはなかったようですが、その考え方は今の現代人に突き刺さるものがあります。
「人が無理なく自分らしい力を発揮できることが自由である」というスピノザの自由は、現代の私たちに自分らしく生きる希望を与えてくれるものであると感じます。その上で、その力を発揮するために、自分が刺激されるような状態を作ることが有益である、つまり精神的な余裕や学ぶという行為を肯定する考え方は、完全に同意です。
今こそスピノザに学ぶべし、に納得しました。
なお本書は単独でももちろん面白いですが、國分さんの名著『中動態の世界』の副読本としてもお勧めです!
Posted by ブクログ
國分功一郎はスピノザの哲学を、やや象徴的に「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」の哲学と形容する。
実際に、近代哲学の在り方を規定したのはスピノザではなくその少し後のデカルトだ。現在の社会も、多かれ少なかれデカルト的な考え方に則って成立している。
本書はそういった「近代的な」発想とは異なったスピノザ哲学の概念を紹介する。
各章ごとに①組み合わせとしての善悪(↔︎一般的観念としての善悪)、②力としての本質(↔︎形相としての本質)、③必然性としての自由(↔︎自由意志としての自由)、④自己変容としての真理(↔︎客観性、明晰性としての真理)といった具合だ。
これらの概念は新鮮というよりむしろ、現代社会において通説的になりつつある概念というように感じられた。
どれも煎じ詰めれば個人の尊重や個性の重視、人間の意識の複雑さ、成果主義からプロセスの重視へといった、近ごろよく聞くような話である。
この本自体がNHKの「100分de名著」のテキストが元になっているらしいし、おそらく時代の要請に応える形でスピノザに注目が集まっているのだろう。
「おわりに」で引用されたドゥルーズの言葉、『哲学とは概念を創造する営みだ』が印象深い。
300年以上前にスピノザが創造した概念が、現代社会に生きる我々が自己や社会を分析するツールとして新たな意義を獲得する。そう考えるとなかなかロマンのある話だ。
国家論に触れる箇所も興味深かった。
スピノザは社会契約説に賛成しつつ、契約を一度きりのものではなく日々の生活の中で絶えず更新される反復的契約と捉えるそう。
國分功一郎の本を読むのは初めてだが、読みやすさや分量、本題と傍論のバランス、どれを取っても新書として素晴らしい出来栄えだった。
いい新書は演劇のように楽しめるものだ。
Posted by ブクログ
善いものと悪いものを分ける、自分の行動は自分の意志で決定している、自由は制約を受けない。現代で当たり前に考えられている認識を疑うことができた。組み合わせによる善悪、中動態の存在、制約の中で力を発揮できる自由。これから何度も読み返すだろう名著。
Posted by ブクログ
国分さんの解説するスピノザの思想は、万人に寄り添ってくれるような思想で、自分にとってはすごく心強い考え方であった。
特に印象に残っているのは、自由であるとは能動的であり、能動的であるとは自分の力が表現できている時であるという。また、スピノザは自由を度合いで考える。完全な自由になることはできないが、人間は生まれてから体の使い方を覚え、言語を覚え少しずつ自由になってきた。大人になってからもそれは同じで、自分の力を最大限に表現できるコトを模索していかなければならない。
完全な自由は存在しないが、その自由の度合いを高めることはできるという考え方はすごく勇気をもらえた。今の情報社会では、他人と比べて自分にないものを求め、少しでも自由になろうと終わりなき追求をしてしまうが、答えは自分の中にあり、自分に合った方法で少しずつ自由になろうよという考え方に救われた。
いつかスピノザの『エチカ』も読破してみたいなあと思った。次は国分さんの『スピノザ』を読んで、スピノザ理解をもっと深めたい。
Posted by ブクログ
これはいわば、自由を求める者たちへの指南書だ。
スピノザは言った。「物事それ自体に善悪は存在しない。善悪を決めるのは組み合わせだ」と。目から鱗でした。例えば、毒キノコはそれ自体が悪いのではない。人間と掛け合わせると悪い作用が働く。動物が食べても問題はない。すべては組み合わせなんだ、と。さらに人間は無意識と意識でできているから、真の自由は手にすることができないと言う。だからこそ己の真理、己の美学を探究する必要がある、と。
自由を手にすることはできない。限りなく自由に近づくには、自分に合った組み合わせを見つけなければならない。自分にとっての真理とは、自身が変わっていくことで生まれるのだから、という話だった。
最適な組み合わせを見つけるには、試行錯誤するしかない。その試行錯誤をするために、今日も歩むのだ。
Posted by ブクログ
今まで読んだエチカ解説本の中では一番わかりやすい。
語彙も平易で、読みやすい工夫が凝らしてある良作。
しかし、根本のエチカが難解なので、まだまだ小生の努力が必要である。
Posted by ブクログ
『エチカ』のエッセンスを、近代社会のとは異なる価値観として捉えて論じていく。現代人の常識からは、まさにOSの入替を要求される内容である。
本質というとガチガチに固定された不変の形状という認識であるが、スピノザは個々人の活動能力を高める力であるという。人間を画一的に定義するのではない、人間に対する寛容さ、温かな眼差しを読み取ることができる。
近年徐々に広がりつつある個人を尊重し認め合う風潮は、スピノザ的な感覚なのではないかとも思う。
一旦は読み通したが、各章を自分なりにまとめ直したいと思える良著。国分さんの文章は主張が押し付けがましくなく、読みこぼしてしまう読者にも優しく手を差し伸べてくれる度量の広さがあり、読書を楽しくさせてくれる。
Posted by ブクログ
ありえたもう一つの近代。
國分さんの、哲学者が作り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることという言葉に、スピノザを学ぶ生き方が見えた気がしました。
学ぶことで、少し楽に生きることができます。
Posted by ブクログ
・2回通読。学びつづけることに対して背中を強く押してくれる良書
・受け取れる刺激の幅を広げるもの、例えば精神的な余裕、学ぶことが有益である。ものを知り、自分を知り、自分が変わる。真理、神の存在を悟るためには、主体の変容、自己精錬が必要。これらの考え方は、腹落ちかつ目から鱗な金言
・神即自然、自由意志の否定などの表面だけ見てると、決定論的構造主義的な考えに偏ってるような印象を持つけど、上述のような主張を見るに、実存主義的な考えも併せ持っていると思った。そういうところはニーチェにも通ずるところを感じた
・再読時(2026/01/10)メモ。著者は近代以降の一般的な考え方とOSが異なると言っていた。取り扱う概念は他の哲学者達と共通しているし、近しい主張を共有する者も古今東西にいるだろうけど、スピノザのコナトゥスに基づく新鮮ユニークな表現を通じて、自身のコナトゥスを省みるきっかけになる。コナトゥスは個物および状況に応じて異なるが、エソロジーとして人類が共有する部分もある。その部分は哲学心理学社会学行動経済学脳科学などの学問を通じて部分的に認識できるかもしれないと思った
以下、メモ
17世紀、デカルトから近代哲学、ニュートンから近代科学、社会契約論が始まった頃、オランダにてあり得たかもしれないもう一つの近代を示す哲学を打ち立てた
スピノザ哲学を脳内で作動させるためには、思考のOSを切り替えなければならない
ベントー
スピノザの先祖はスペイン系ユダヤ人。スペインからポルトガル、オランダへ。オランダ語は不得意
バールーフ
ユダヤ教会から破門される。神学・政治論、ヘブライ語文法網領を執筆。暴漢に襲われた時の穴あき外套を民族記念品として保持
ベネディクトゥス
誰のものでもない言語ラテン語で哲学を記す
「私は大いに笑うことと、今後自活していくのに必要なだけ働いて、夜は哲学を研究して過ごせるようにすることを望んでいます」
神学・政治論では、思想の自由、社会契約論についても論じる
迫害や誹謗中傷が激しく、友人を虐殺され激しく憤り、無知者を批難するという側面。現代SNS炎上との類似性
エチカのサブタイトル「幾何学的秩序によって論証された」
定義、公理、定理と証明、備考から構成される
組み合わせとしての善悪。人の考える完全性も善性も主観的相対的。上手く組み合わさって活動能力を増加させるものが善。倫理学は個別の実験を求める
自分の存在を維持しようとする力、コナトゥスが万物の本質である。形を本質とする見方からの転換。触発される力は個別であり、時と場合にもよる。刺激による変状、変状への反応としての欲望、これらもコナトゥスであり本質
生態学や動物行動学エソロジーとエチカは共にエートスを語源とする
受け取れる刺激の幅を広げるもの、精神的な余裕や学ぶという行為は有益である
個別のコナトゥスを把握するには実践が必要で、それを促すような教育が望まれる
自死や拒食は外部原因に強制されるもの。コナトゥスのキャパオーバー
コナトゥスが大幅に組み変わることはある種の死。子供時代や記憶喪失など
万物は神というただ一つの実体の変状、様態である。様態は無限の属性から成り、精神のような思惟の属性、物体のような延長の属性もその一部。個物は神の属性を表現する様態
コナトゥスが上手く働いている自由な人たちは、互いに感謝し合い、信義をもって行動し、法律を守ることを欲する
スピノザの政治論国家論、反復的契約説
自由とは、与えられた条件、自身の必然性、例えば自身の精神や身体の条件の中で、力を発揮すること。その必然性は実験を通じて把握していく
自由の反対は強制であり、本質を踏み躙られること
自由であるとは、能動的になること、自らが原因であるような行為を作り出すこと、自らの力が表現されている行為を作り出すこと。神の属性を個物が各々表現
自由、能動は純粋にはなり得ず、度合いがある
行為は、意識、無意識、習慣、身体的な協応構造など、多元的に決定されており、意志が一元的に決定してるわけではない
意志と意識は異なる。意識は観念の観念、メタ観念。欲望を認識すること等。自由意志と違い、意識は存在する
意志教が蔓延る現代(著者の考え)
真理は真理自身と虚偽との規範。光が光自身と闇とを顕わすように。真理の外側に真理の基準はない。近代科学のあり方には抵触する
デカルトの真理は、公的に他者を説得できる客観的真理
スピノザの真理は、真理と真理に向き合う人の関係を問題とする主体的真理
物を知り、自分を知り、自分が変わる。何事かを認識することは、自らの認識する力やその仕方を認識することでもある。この体験は主体の変化を伴う。真理の獲得には主体の変容を要する
神の存在証明。デカルトは「神の何たるかを充分精密に探究した後は」と条件付け、スピノザは「多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解し得ないだろう」と述べる
Posted by ブクログ
めちゃくちゃ分かりやすかったです。
ドゥルーズの入門書がどれも難解過ぎて、一度スピノザを理解したらドゥルーズの世界観を理解しやすいんじゃないかと思って読んでみたら大当たり。檜垣先生の『ドゥルーズ入門』(ちくま新書)が格段に読み進められるようになりました。
自分も、デジタルよりアナログを信仰しているので、スピノザの汎神論はぶっ刺さりました。
Posted by ブクログ
スピノザの主著『エチカ(倫理学)』。その難解な迷宮に足を踏み入れるための地図として本書を手に取った。そこで示されていたのは、「どのように生きるか」という問いに対する、現代的で力強い視点であった。
1. 世界の捉え方:神の「副詞」としての人間
スピノザが説く神とは、外部をもたない自然そのものである。私たちは自立した個別の「名詞」ではなく、神(自然)という唯一の実体が特定の現れ方をした「様態」に過ぎない。
本書で著者が用いた「私たちは副詞のような存在だ」という比喩は、非常に腑に落ちるものだった。私たちは独立して存在するのではなく、神という存在の「あり方」を表現している一つの現れなのだ。この世界観に立つとき、自分と世界は地続きになり、孤独な個体から宇宙の一部へと視界が開ける感覚を覚えた。この感覚は、インド哲学の「梵我一如」やアドラー心理学の「共同体感覚」にも通ずるものがある。
2. 善悪の再定義:能力を高める組み合わせ
次に、善悪の捉え方が倫理学の前提を覆す。スピノザは、物事自体に絶対的な善悪はないと断じる。あるのはただ、対象と自分が「うまく組み合わさるか否か」という事実だけだ。
自分を破壊する組み合わせを「悪」とし、自らの存在を維持しようとする力(活動能力)を高めてくれる組み合わせを「善」とする。道徳的な規範に縛られるのではなく、自らの力が発揮できる良い組み合わせをいかにして見つけ出すか。これこそがスピノザの言う倫理学の本質なのだと理解した。
3. 自由の解釈:意志の否定と真の自由
最も深く考えさせられたのは、自由の定義である。私たちは通常、自分の意志で何かを決めること(自発性)が自由だと考える。しかしスピノザは、意志もまた何らかの原因によって決定された結果に過ぎず、一つの行為は無数の要因が協同した多元的な決定であると説く。
では、人間に自由はないのか。スピノザはそうは言わない。彼にとっての自由とは、意志の有無ではなく「能動的であること」なのだ。自分に与えられた身体的・精神的な条件を認め、その条件に則りながら、自らの力を十分に表現できている状態。それこそが自由なのだと気付かされた。
結論:自由へのエチカ
自発性という幻想を捨て、自分を規定する条件を受け入れた上で、いかに能動的に生きるか。本書を通じて、自由とは「何でもできること」ではなく、「自分自身の本質をうまく発揮できること」なのだと教わった。
『エチカ(倫理学)』という高い山を登るための最初の一歩として、本書は「自由とは何か」という問いに対する力強い指針を与えてくれた。これからの私は、自分にとっての良い組み合わせを探索し、自らの力を表現する能動性を少しずつ広げていきたいと思う。
Posted by ブクログ
とても面白かった。何年も前からぼんやりと考えては、うまく考えが進まなかったことを、ずっと前の時代の哲学者がかんがえていたのだなあ、と感慨深かった。
スピノザの本質概念の転換のところがとくに面白く、いろんな人のいろんなあり方のそのままを肯定しよう、というやっと今になって広がってきた考えをそんなに前から考えていた人がいたのかあ、とびっくりしたし、スピノザの考え、いいなあ!と思うと同時に、哲学者の考えが難しいから全部賢い人のいうことだし、わからないけどなんか正しいんやろうなあ、みたいに思っていたのが、対比する哲学者の考えを知ることで、あー、そっちの理屈は肌に合わないわあ、とか、それは偏ってるんじゃないの、的な、畏怖を超えた目線をいろんな哲学者の言っていることに対して持てたのが収穫だった。
意思の概念への疑い、という考え方もものすごく面白く、また気が楽になった。この目線、もっと広がってほしい。
p124抜粋
「意志教」の時代
意志の話をしましたので、最後に少し現代社会について考えておきたいと思います。というのも、現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです…
…意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。
意思とは普遍的概念ではなく、古代ギリシャ哲学にも無かったらしい。
東洋哲学ではどうだろう…やっぱりあまり、意思を全面にというよりは、鍛錬とか孝行とか社会の中の自分みたいな考え方のほうが確かに強い印象がある。
ハンナアーレントによれば、意思の概念はキリスト教哲学の文脈からアウグスティヌス(紀元後4-5世紀)らの時代に見出されていった、らしい。その影響下に私たちも知らぬ間にいるということなのか…。
ちなみに、読みながら調べたところ、孔子や孫子が、アリストテレスやソクラテス、プラトンよりもさらに古い時代の人と知り、心底驚いてしまった。
私たちが孔子の影響を現代でも強く感じるということは、西洋の人たちの生活文化にも、アリストテレスやプラトンの思想の影響が強くあるのだろうし、そりゃあやっぱり考え方が西洋とは違うわけだよな、と妙に納得してしまった。
ともかく読みやすく、興味深い本で、この著者の本をまた読んでみようと思う。
Posted by ブクログ
「エチカ」というスピノザの著作について、その存在を知ったのは、わたしの場合やはりPodcastからだった。
知ってからもルソーの「エミール」とよく混乱した。カタカナのエで始まるなんか短い名前の本っていう括りだからかな。
本で、活字で、ちゃんと読む…というのは、わたしにとってはとても意義がある行為なんだな、と今回改めて感じた。
たぶんもう「エミール」と間違えたりしないと思う。
さて、そんなわたしにとっては
「暇と退屈の倫理学」以来2冊目の國府功一郎さんのこちらの著作、17世紀オランダの哲学者、スピノザが残した「エチカ」についての解説本である。
「NHK100分de名著」に新たな1章を書き加えて全体を再構成したものらしい。
タイトルにあるスピノザという名詞に少しビビったが、めちゃくちゃ読みやすくて、文体もやさしかった。
とりあえず、「エチカ」にもスピノザの他の著作にも、この中に出てくるデカルトにも、そのままズバリの濃い状態の哲学書で摂取したわけでないわたしが、この本を読んでみた感想。
スピノザの哲学って東洋思想みたいだな、ということ。
「エチカ」はどのように生きるか、どのように自由に生きられるか、という問いについて書かれたものなのかな、と理解した。
その中で、神の存在について、自然も人間も宇宙も何もかも全てが神である…、國府先生のシーツの例えがめちゃくちゃわかりやすかったんだが、
個人における出来事、人間の個性でさえ、大きなシーツ(神)にたまたま寄った皺のようなものだというところ。
大きなネットワーク自体が神そのもの(宇宙そのもの)で、そのネットワーク上にいるわたし自身が神の一部である(梵我一如)みたいなことを想像した。
それにしてもこれは確かに17世紀のヨーロッパではなかなか勇気のいる定義だったろう。
自由意思についての考え方も、これまたシンプルに因果論に通じると思ったし、
真理について…、
これは飲茶さんの「史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち」にあった、積み上げ方で築いていく西洋哲学に対して、東洋思想はいきなり「これが真理だ!」と言きってしまうというところに、スピノザが言っていることは近いような気がした。
どんなカタチにせよ、神の存在を前提としている部分が東洋思想とは決定的に違うが、デカルトがうちたてた近代哲学とはOSが違っているという國府先生の主張もよくわかる。
善悪の定義や、本質についての捉え方が問いの真っ只中にいる凡人のわたしにとっては興味深く面白かったので、
この本を補助線にして、「エチカ」読んでみようかな、という気持ちになった。
難解ながらも自分なりに何か掴めるかもしれない。
しかし、やはり哲学沼はめちゃくちゃ深そうだなー。
Posted by ブクログ
すごい平易な言葉で説明されてるっぽいのにむず〜、何度も寝落ちしかける
でも面白いので進む時は進む
そしてまたしばらくして読み始めるとどこまで読んでたかわからなくなり1章分くらい意図せず振り返ることになる
107p
受動と能動
一般的には行為の方向性を指すが、スピノザはその行為が誰の力を示しているかで判断する
親の虐待への復讐心で戦争に走る青年は結局のところ親の力を示しているので受動
お〜と思ったけど、一般的にもそうじゃね?
脅されてお金を出すのが能動とはもともと思えぬ
p45
それ自体として善も悪もない
これはそう
最近仕事のチームメイトのやる気のなさ後向き発言にやられてるが、組み合わせなんだろうな〜、そのチームメイトは私がやりやすいと感じている別の同僚とはうまくやってるので、まあ、組み合わせなのだ
だからその同僚が悪ではないのだ、人の多面性とも言えるのかも
p101
強制、本質が踏みにじられている状態
これもそう
同じチームメイトに今私の本質は踏みにじられてられている
私は改善/変化が好きだが、彼は属人/現状維持を好む
変化の方がパワーがかかるが、そこに冷や水を浴びせられることでより負荷がかかる
疲れちゃうよね〜、コナトゥスもしょんぼりだよ
p106
能動とは自らの力を表現すること
最近まるでこれができない
休日すら「休みの日の過ごし方の正解とは…」と自分の外に力を求めている
コナトゥスがやられてるからかもね〜、くそ〜
真理の獲得は自己の変容が必要つーのも、その前で説明されてた「自由意思」についてクソ長い本を読書会で読み続けてやっと「ああそういうことか」と腹落ちしたのを思い出す
セキスペもこないだ落ちちゃったけど、きっとまだ変容までいけてなかったのかもな〜くやし
Posted by ブクログ
【神即自然】
・神は無限である→すべては神の中にある。神は宇宙のような存在(自然)
・神すなわち自然は外部を持たないから、他のいかなるものからも影響をうけない→自分の中の法則だけで動いている
【コナトゥス】
・個体を今ある状態に維持しようと働く力
・スピノザは、コナトゥスをそのものの本質と考えている。すわなち、物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えた。
【変状する力】
・刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きく変化する・
・変状(affectio):刺激による変化。あるものが何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びること。
・欲望:刺激によって変化した状態が、自分にあることをなすように働きかけ
【本質】
・人間は多くの刺激で刺激されうる状態になることが豊かであるとする
・死は、私の本質を支えていた諸々の部分の関係が変化して別々のものになること
・神は、自然であるだけでなく、実体(=実際に存在している)であるとする。すなわち実際に存在しているのは神だけであり、万物は神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生する個物、すなわち変状したもの(=様態)
・属性;人間には精神に対応する「思維」と物体に対応する「延長」という2つの属性があるが、これらは同一のものとした。これはデカルトの心身二元論への反論。
・一人一人のコナトゥスを尊重することが社会の成立に必要。社会契約説が、安全のための社会契約を行なったという一回きりの契約を主張するのに対し、スピノザのそれは、反復的契約説と国分は論じている
【真理】
・真理は真理自体の基準である。なぜなら真理の真理性を真理の外側に示すのはできないから。
・デカルトは、だれをも説得できる公的な真理を重んじたのに対して、スピノザは自分と真理の関係を問題にしている。
・スピノザは、認識することによって主体が変容すると述べているというように私的性格を強調している。
【神の存在証明】
・スピノザは、神の存在を理解するためには、精錬のあゆみ、すわなち主体の変容を必要とする、とする
『エチカ』
・ethica:倫理学を意味するラテン語。
・スピノザの死後に刊行された。
・定義、定理などの断章で構成される
第一部:神について
第二部:精神の本性および起源について
第三部:感情の起源および本性について
第四部:人間の隷属あるいは感情の力について
・自然界には完全/不完全の区別はない。これらは人間が自分のもつ一般的観念と比較することからうまれる
・善悪はそれ自体として善/悪であるものはなく、それぞれの組み合わせできまる
・第四部定理八証明「我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(・・・)言い換えれば(・・・)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。」
・スピノザ的な倫理は、いわゆる道徳の既存の超越的な価値を強制するのと異なり、個別具体的な組み合わせを考慮することを要求する、すなわち、実験することを求める。
第五部:知性の能力あるいは人間の自由について
「自由/不自由」
・自由:与えられた条件のもとで、自分の力をうまく発揮できること
・不自由:強制された状態。外部の原因に支配されていること。
「能動/受動」
・能動:自らが原因となって何かをなすこと。すなわち自由。
また下の「原因/結果」の解釈から、自らの行為のおいて、自分の力を表現しているときに能動。他人の力をより多く表現しているとき、受動。
「原因/結果」
・原因:同時に表現の関係でもある。すなわち神という原因が、万物という結果においてみずからを表現している
・スピノザにおける自由は、必然性や能動性と結びついている。それは自発的、すわわり、何者からも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となる、ということではない。すなわち、自由意志というものは存在しない。
Posted by ブクログ
スピノザの診察室という本から、スピノザ哲学とはどんなものだろうと手に取った本です。
スピノザの診察室のセリフにもあったようにとにかく難しい印象でした。
しかし、例え話や現代の身近な話に置き換えて説明してくれるこの本は楽しく読めました。
印象に残ったのは必然性に従うことこそ自由であり
足や手は可動域に限界があるが、その範囲を動かすこと自由に動かしていることになる。
という、スピノザ哲学の自由という概念に関しての例え話は心にスッと入ってきました。
哲学系の本は考えた気にさしてもらえる。かりそめな思考かもしれませんが、その感覚だけでも充実感がありました。
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とても噛み砕いて、例えも多用されており、わかりやすい説明だった。ほんの少しだけ理解できたような気がする。スピノザは難解なので何回も挑戦していくしかないと再認識した。
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正直なところ、優しく教えてくれてるのにその内容は難しく結局のところなんだったのかわからない。
感動もあまりできなかったので何も身についていない。
國文先生に関心があってスピノザにはあまり興味がなかったことに気づいた。
でももっと深く知ったら自分の中で何か変わる気がするので、時間のある時にもう一度読みたいです。
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基本、哲学で言ってる意味がよくわからんことがあるが、こういった易しく教えてくれる本があれば理解できた気がしてくる笑。
デカルトとの摺合せなんかも面白かった。
スピノザの概念として一部。
組み合わせとしての善悪→解りやすい
力としての本質→これも解りやすい・現代に必要な気がする
必然性としての自由→易しく教えてくれました
主体の変容をもたらす真理の獲得→わかった気がする
認識する力の認識→なんとなく理解できた
哲学をうまく使って人生を豊かにしたい。
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自由についての章が面白かった
哲学というより純粋な論理学みたい
スピノザがすごくとっつきやすく思えている
錯覚かもしれない
明快な文章でさくっと読めてしまうものだから、スピノザもデカルトもするっと読めるような気がしてきてしまった
錯覚だな
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デカルトの心身二元論への批判が、スピノザの根本にあるという。神は無限だから、宇宙そのものが神である。実体である神の様態が個々のもので、人間の精神も身体も神の様態なので、二元論にはならない。デカルトやライプニッツのア・ポステリオリな神の証明は、極めて論理的だが、意外なことに、同じデカルトにはア・プリオリな証明がなされていて、神の証明には神についての私的な精錬が必要だという。スピノザも真理は私的なもので、主体の変容を要求するものだという。近代の基礎となったい言われるデカルトの思想にも実はこういう観点があったのだ。スピノザの神の証明は、神はいかなる存在であるかの描写に過ぎないという。神の証明には私的な精錬を必要とするということを表しているのだろう。
後、善悪、自由、能動と受動、意思と意識についても述べられていた。現代は意思教に陥っているという。AIについての著者の見解も面白かった。AIは複雑なアルゴリズニズムというだけに過ぎないという。AIには心はないので他人への想像力はないのだ。
そうそう、スピノザの人物像がなかなか興味深い。結構強かでたくましい。
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哲学書を初めて読んだが、理解しやすく面白かった。
現代では自分の意志で選択することが重要視されているがそもそも意志なんてものはないというスピノザの考え方を知り、心が軽くなった。
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▼元々100分de名著だったもののようです。スピノザ入門。スピノザさんは17世紀のオランダの哲学者。ユダヤ人ながらユダヤ教から破門されているそうで、それは彼の考える思想のせいだそう。「エチカ」が有名ですね。
▼正直に言うと、「神」の有無を巡る議論はよくわかりませんでした。(こちらがに関心が無いせいかもしれません)
▼おもしろかったのは、「個人の自由と幸せと社会」みたいな事柄ですね。
つまりは各位各個人の尊厳が他人様との交流の中で安全に保たれているのが、それが幸福な自由の条件だ、みたいな話。
一見、すごく、「自由」という言葉と反している気がしますが、これはこれで納得ができる。つまりぢゃあ、完全に他者と関わりがない状態が、「幸福な自由」と言えるかということになります。
ほどよい関わりで充足している中で、自発的に?能動的に?動けることが「自由(幸福)」なんでしょうね。
▼そういうなんか、「ほどほど」みたいなバランスが大事、みたいなのはすごく腑に落ちましたね。あと、人間の「体」や「精神」がどこまでのことをなしえるのか、ということを、我々はわからなくて生きて死んでいく、みたいなのも面白かったです。
▼あと、へ~、と思ったのは、ヨーロッパなどの地域で17世紀、つまり1600年代、というのが、その後につながる科学が勃興したんだそう。それを支えたのが哲学である。中世が終わらんとする胎動ですかね。1500年代がルターであり活版印刷だったりすると思うので、そこから革命とナポレオンの18世紀へと「繋ぐ」時代だったのでしょう。中世的な、平たくいえば「迷信」みたいなものが、きっと欧州では密接に「キリスト教」と関わっていたはずで、そこから脱出するというか離陸するために、「自分とはなんなのか」「神とはなんなのか」みたいなことからはじめないといけなかったんだろうな、と。そういう流れに「我思う故に我あり」のデカルトがいたり、スピノザがいたりした。その中で、結局、「自分以外の他人様や社会とどう関わっていくのか」「その中で幸せとか自由ってどう感じるのか」みたいな、資本主義社会になっても不変な項目だけが、21世紀の日本でも「活きた言葉」として読まれているんですね。
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ちょっと難しかったなぁ
哲学書って「それって当たり前じゃね」って思うことが多いけど今回もそんな感じだったような気がする
コナトゥス、エイドスの話は覚えておこうと思った
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眠い時に読んではいけない本だった…
引用の後に書いてある筆者の解説を読むと「エチカそのまま読んだら絶対理解できない!」ということはわかったので、頭が元気な時にもう一回読みたいです…
Posted by ブクログ
Audibleにて。
依存症について調べていくとここに行き着く。真の自由、完全に独立した意志による行動選択などないとする考え方。中動態につながるのがコナトゥスか。
「人間がやがてAIに取って代わられるのではないか?」という不安は、合理化を進めた末に動かなくなっていった精神活動に対する自信の無さから生まれたもの…というのは面白い。人間がAIに近づいていくというのもいい得て妙だ。
合理化の果てに自由な発露手段を失った精神が、それでもその円環から抜け出せず、窒息しそうになっている。
優しさと、各種自己対象を見つけづらくなった社会構造の背景には、「全てのものを神は内包する」と捉えられず、神を私物化しようとした人の歴史が横たわっているように思う。
これを「傲慢」と一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も解決しない。まずは見つめ直すことから始めなければ。
コナトゥス
事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。
エソロジーとエチカは同じ「エートス」=個人のあり方を語源としている。競走馬とシマウマにおける形状の同質性と本質の違い。
前者は分類学、後者を見るのがエソロジー。見かけ上の異同に惑わされないという意味ではトポロジーに近い考え方かも。