【感想・ネタバレ】はじめてのスピノザ 自由へのエチカのレビュー

あらすじ

私たちはまだ、「自由」を知らない――。
覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。
気鋭の哲学者による、心揺さぶる倫理学(エチカ)入門。

★現代人の「思考のOS」を書き換えるスピノザ哲学のエッセンス★

□すべての個体はそれぞれに完全である。
□善悪は物事の組み合わせで決まる。
□「力」こそ物の本質である。
□自殺や拒食の原因は人の内側にはない。
□一人ひとりの自由が社会の安定につながる。
□必然性に従うことこそ自由である。
□自由な意志など存在しない。
□意志は行為を一元的に決定しない。
□真理の外側に真理の基準はない。
□新しい主体のあり方が真理の真理性を支える。

*「NHK 100分de名著」『スピノザ エチカ』に新章を加えた増補改訂版*

[目次]
はじめに
1. 組み合わせとしての善悪
1)スピノザとは誰か
2)哲学する自由
3)神即自然
4)『エチカ』はどんな本か
5)組み合わせとしての善悪
6)善悪と感情
2. コナトゥスと本質
1)コナトゥスこそ物の本質
2)変状する力
3)多くの仕方で刺激されうる状態になること
4)コナトゥスと「死」の問題
5)万物は神の様態
6)神は無限に多くの属性から成る
7)コナトゥスと社会の安定
3. 自由へのエチカ
1)「自由」とは何か
2)自由の度合いを高める倫理学
3)自由な意志など存在しない
4)行為は多元的に決定されている
5)現代社会にはびこる意志への信仰
4. 真理の獲得と主体の変容
1)スピノザ哲学は「もうひとつの近代」を示す
2)真理は真理自身の基準である
3)真理と向き合う
4)物を知り、自分を知り、自分が変わる
5)主体の変容と真理の獲得
6)AIアルゴリズムと人間の知性
5. 神の存在証明と精錬の道
1)懐疑の病と治癒の物語
2)真理への精錬の道
3)精錬の道は自ら歩まねばならない
4)対話相手としてのスピノザとデカルト
おわりに

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Posted by ブクログ

國分さんの本はとにかく面白いので、いつか読むだろうと本書も積読しておりました。

スピノザは國分さんの本ではたびたび登場する人物であり、他の人の本でも肯定的に引用されることが多い印象で、どうやら日本人が好きそうな人物です。なぜ現代に肯定的に受け取られているのかを考えながら読んでおりました。

まず代表的な考え方である、「神即自然」。神は自然であると言い切るスピノザ。キリスト教神学が支配している時代で、この考え方を提示できるのはすごいです。。。自然信仰が馴染んでいる日本人にも受け取りやすい考え方でしょう。

國分さんは本書の初めにスピノザの凄さを伝えるためにこのように述べています。

「哲学者とは、真理を追求しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です」

つまり、スピノザは命を奪われてもおかしくないヤバい哲学を掲げた人物ということです。その生涯では認められることはなかったようですが、その考え方は今の現代人に突き刺さるものがあります。

「人が無理なく自分らしい力を発揮できることが自由である」というスピノザの自由は、現代の私たちに自分らしく生きる希望を与えてくれるものであると感じます。その上で、その力を発揮するために、自分が刺激されるような状態を作ることが有益である、つまり精神的な余裕や学ぶという行為を肯定する考え方は、完全に同意です。

今こそスピノザに学ぶべし、に納得しました。

なお本書は単独でももちろん面白いですが、國分さんの名著『中動態の世界』の副読本としてもお勧めです!

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2025年11月25日

Posted by ブクログ

國分功一郎はスピノザの哲学を、やや象徴的に「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」の哲学と形容する。
実際に、近代哲学の在り方を規定したのはスピノザではなくデカルトだ。現在の社会も、多かれ少なかれデカルト的な考え方に則って成立している。

本書はそういった「近代的な」発想とは異なる、スピノザ哲学の概念を紹介する。
各章ごとに①組み合わせとしての善悪(↔︎一般的観念としての善悪)、②力としての本質(↔︎形相としての本質)、③必然性としての自由(↔︎自由意志としての自由)、④自己変容としての真理(↔︎客観性、明晰性としての真理)といった具合だ。

これらの概念は新鮮というよりむしろ、現代社会において通説的になりつつある概念というように感じられた。
どれも煎じ詰めれば個人の尊重や個性の重視、人間の意識の複雑さ、成果主義からプロセスの重視へといった、近ごろよく聞くような話である。
この本自体がNHKの「100分de名著」のテキストが元になっているらしいし、おそらく時代の要請に応える形でスピノザに注目が集まっているのだろう。

「おわりに」で引用されたドゥルーズの言葉、『哲学とは概念を創造する営みだ』が印象深い。
300年以上前にスピノザが創造した概念が、現代社会に生きる我々が自己や社会を分析するツールとして新たな意義を獲得する。そう考えるとなかなかロマンのある話だ。

国家論に触れる箇所も興味深かった。
スピノザは社会契約説に賛成しつつ、契約を一度きりのものではなく日々の生活の中で絶えず更新される反復的契約と捉えるそう。

國分功一郎の本を読むのは初めてだが、読みやすさや分量、本題と傍論のバランス、どれを取っても新書として素晴らしい出来栄えだった。
いい新書は演劇のように楽しめるものだ。

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2025年10月06日

Posted by ブクログ

善いものと悪いものを分ける、自分の行動は自分の意志で決定している、自由は制約を受けない。現代で当たり前に考えられている認識を疑うことができた。組み合わせによる善悪、中動態の存在、制約の中で力を発揮できる自由。これから何度も読み返すだろう名著。

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2025年07月29日

Posted by ブクログ

 国分さんの解説するスピノザの思想は、万人に寄り添ってくれるような思想で、自分にとってはすごく心強い考え方であった。

 特に印象に残っているのは、自由であるとは能動的であり、能動的であるとは自分の力が表現できている時であるという。また、スピノザは自由を度合いで考える。完全な自由になることはできないが、人間は生まれてから体の使い方を覚え、言語を覚え少しずつ自由になってきた。大人になってからもそれは同じで、自分の力を最大限に表現できるコトを模索していかなければならない。

 完全な自由は存在しないが、その自由の度合いを高めることはできるという考え方はすごく勇気をもらえた。今の情報社会では、他人と比べて自分にないものを求め、少しでも自由になろうと終わりなき追求をしてしまうが、答えは自分の中にあり、自分に合った方法で少しずつ自由になろうよという考え方に救われた。

 いつかスピノザの『エチカ』も読破してみたいなあと思った。次は国分さんの『スピノザ』を読んで、スピノザ理解をもっと深めたい。

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2025年03月20日

Posted by ブクログ

これはいわば、自由を求める者たちへの指南書だ。

スピノザは言った。「物事それ自体に善悪は存在しない。善悪を決めるのは組み合わせだ」と。目から鱗でした。例えば、毒キノコはそれ自体が悪いのではない。人間と掛け合わせると悪い作用が働く。動物が食べても問題はない。すべては組み合わせなんだ、と。さらに人間は無意識と意識でできているから、真の自由は手にすることができないと言う。だからこそ己の真理、己の美学を探究する必要がある、と。

自由を手にすることはできない。限りなく自由に近づくには、自分に合った組み合わせを見つけなければならない。自分にとっての真理とは、自身が変わっていくことで生まれるのだから、という話だった。

最適な組み合わせを見つけるには、試行錯誤するしかない。その試行錯誤をするために、今日も歩むのだ。

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2025年01月10日

Posted by ブクログ

今まで読んだエチカ解説本の中では一番わかりやすい。
語彙も平易で、読みやすい工夫が凝らしてある良作。
しかし、根本のエチカが難解なので、まだまだ小生の努力が必要である。

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2024年12月08日

Posted by ブクログ

『エチカ』のエッセンスを、近代社会のとは異なる価値観として捉えて論じていく。現代人の常識からは、まさにOSの入替を要求される内容である。

本質というとガチガチに固定された不変の形状という認識であるが、スピノザは個々人の活動能力を高める力であるという。人間を画一的に定義するのではない、人間に対する寛容さ、温かな眼差しを読み取ることができる。
近年徐々に広がりつつある個人を尊重し認め合う風潮は、スピノザ的な感覚なのではないかとも思う。

一旦は読み通したが、各章を自分なりにまとめ直したいと思える良著。国分さんの文章は主張が押し付けがましくなく、読みこぼしてしまう読者にも優しく手を差し伸べてくれる度量の広さがあり、読書を楽しくさせてくれる。

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2024年11月02日

Posted by ブクログ

ありえたもう一つの近代。
國分さんの、哲学者が作り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることという言葉に、スピノザを学ぶ生き方が見えた気がしました。
 学ぶことで、少し楽に生きることができます。

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2024年09月29日

Posted by ブクログ

少し難解だった点がいくつかあったが、スピノザの概念について浅くではあるが理解できたと思う

まだ早い気もするがいつかエチカを読んでみたい

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2024年07月23日

Posted by ブクログ

めちゃくちゃ分かりやすかったです。
ドゥルーズの入門書がどれも難解過ぎて、一度スピノザを理解したらドゥルーズの世界観を理解しやすいんじゃないかと思って読んでみたら大当たり。檜垣先生の『ドゥルーズ入門』(ちくま新書)が格段に読み進められるようになりました。
自分も、デジタルよりアナログを信仰しているので、スピノザの汎神論はぶっ刺さりました。

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2024年04月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

・「エチカ」を読んでみたい。

・スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方。

・「『いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ』、そのように感じることができるのは、何かを確実に認識した後のことだとスピノザは言っている」これは数学を学んでいてその通りだと感じる。

===
●位置: 289
神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。

●位置: 294
すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。

●位置: 297
神すなわち自然は外部をもたないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、 自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。 「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの「神即自然」の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。

●位置: 368
そのことを指摘したスピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います。存在している個体は、それぞれがそれ自体の完全性を備えている。自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれにただ存在しているのである。このことはいわゆる心身の「障害」にも当てはまります。「障害」というのも、マジョリティの視点から形成された一般的観念に基づいて判断されているにすぎません。個体それ自体は、一個の完全な個体として存在しているのです。

●位置: 374
自然界に完全/不完全の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは言います。印象的な一節を引用してみましょう。善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。(第四部序言)

●位置: 393
自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だとスピノザは考えているわけです。

●位置: 468
コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス) の原理に非常に近いと言うことができます。たとえば私という個体の中の水分が減ると、私の中に水分への欲求が生まれ、それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。

●位置: 493
このエイドス的なものの見方は、道徳的な判断とも結びついてきます。人間について考えてみましょう。たとえば男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史をもち、どんな環境で誰とどんな関係をもって生きてきて、どんな性質の力をもっているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしくしろということになりかねないわけです。

●位置: 499
「力」こそ本質とする転換それに対しスピノザは、各個体がもっている力に注目しました。物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。


●位置: 670
神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、「実体 substantia」とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは 実際に存在しているもの のことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。 私たちは神という実体の変状である というのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えません。

●位置: 694
私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する 様式 であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を 表現している と考えることができます。

●位置: 699
人間の存在は「神は人間みたいな仕方でも存在できるんだぞ」と、水の存在は「神は水のような仕方でも存在できるんだぞ」と、太陽の存在は「神は太陽のような仕方でも存在できるんだぞ」と、それぞれの個物が神の力を表現していると考えられるわけです。個物が「神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する」というのはそういう意味です。

●位置: 706
スピノザの言う様態について、ジョルジョ・アガンベン(一九四二~ ) というイタリアの哲学者が面白いことを言っています。個物、すなわち様態は名詞ではなくて、副詞のようなものだというのです(『身体の使用』上村忠男訳、みすず書房、二七六頁)。

●位置: 709
私たち一人ひとりを実体だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスやデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実体は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんな風に考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。rapidly(速く) とかslowly(ゆっくり) とかclearly(はっきり) など、副詞は名詞とは異なり、主語としては存在できません。それは動詞や形容詞などのありさまを説明し、表現するものです。ならば、確かにスピノザの言う様態は、神にとって副詞のようなものだと考えることができます。ただし、スピノザは様態を幻想のようなものと考えているわけではないことには注意しなければなりません。

●位置: 725
スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」(精神と身体(物体)をそれぞれ独立したものとする考え方) への批判として捉えることができます。デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました。巨大ロボットの頭に小さな人間が乗って操縦しているイメージですね。それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、というか、そもそも精神と身体をそのように分けることがおかしいと考えました。精神で起こったことが身体を動かすのではなくて、精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これを「心身並行論」と言います。

●位置: 731
たとえば怒りに駆られた時、怒りの観念が確かに精神の中に現れますが、同時に体が熱くなったり、手が震えたりします。落胆すると、その観念が精神の中に現れますが、同時に体の力が抜けます。それらは私という様態の中で 同時に起こっている ことです。

●位置: 735
スピノザはそれを批判しました。同じ一つの事態が、思惟の属性と延長の属性の両方で表現されているにすぎないと考えたのです。これを神の側から見てみましょう。神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、その それぞれ が神の力を表現している。「個物は神の 属性 をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。

●位置: 775
一人ひとりが自由に生きられることこそ、社会が安定するために一番必要なことです。ですから、コナトゥスは自分本位の原理ではないかと考えるのではなくて、人々が共同で安定して暮らしていくためには一人ひとりのコナトゥスを大切にすることが必要だと考えなければならないのです。

●位置: 784
スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活していること、それこそが契約だというのです。

●位置: 797
一人ひとりの権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしないというのがスピノザの考えでした。一人ひとりがうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ、集団は長続きする。なぜならばその時に人は自由であるからというわけです。

●位置: 808
スピノザはそのようには考えません。制約がないだけでは自由とは言えない。そもそも全く制約がないことなどありえないというのがスピノザの出発点になります。

●位置: 816
腕や足を自由に動かせるというのは、それらの条件を超え出るということではありません。その条件のもと、 その条件に従って、腕や足をうまく動かせる時、私たちはそれらを自由に動かすことができている。自分に与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。

●位置: 821
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは 自由である と言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは 必然的である、あるいはむしろ 強制される と言われる。(第一部定義七)

●位置: 859
自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対が「強制」であることです。

●位置: 867
本質が踏みにじられている状態さて、強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態と言えます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。

●位置: 870
この自由の反対としての強制のことを考えると、いつも、『エチカ』で紹介されているあるエピソードを思い起こします。親の叱責に耐えきれなかった青年が、家を捨てて軍隊に走り、「家庭の安楽と父の訓戒との代りに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負担を身に引受ける」という話です(第四部付録第一三項)。

●位置: 876
『エチカ』によれば、復讐心とは、憎しみの感情から害悪を加えた者に対して、同じく憎しみの感情から害悪を加えるように人を駆り立てる欲望です(第三部諸感情の定義三七)。この青年は親に対して直接に復讐を果たすことができない。だからその代わりに自分の心身を痛めつけている。そのような状態にある時、この青年はかつて受けた虐待という外部の圧倒的な原因に、ほぼ自身のすべてを支配されています。彼の行動の全体がこの復讐のためにある。これこそ「強制」の状態、自由とは正反対の状態に他なりません。外部の原因によって存在の仕方を決定されてしまっている状態です。

●位置: 886
スピノザによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動と言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動であるわけです。これは次のように定義されています。我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば〔……〕 我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が 働きをなす〔能動〕と言う。(第三部定義二)

●位置: 905
ふつう原因と結果は、前者が後者をひき起こす関係にあるものだと考えられています。ところが、『エチカ』の哲学体系においては、原因と結果の関係はそこに留まりません。原因は、 結果の中で自らの力を表現するもの として理解されているのです。どういうことでしょうか。個体とは神の変状でした。神という実体が一定の形と性質を帯びることで個体になる。その意味で、存在しているすべての物は、 神をその存在の原因としています。他方、前章の「様態」の説明のところで見た通り、どの個体も、 神の力を表現している と言われるのでした。存在するすべての物は、神が存在する仕方、すなわち様態であるからです。

●位置: 912
存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する〔……〕。言いかえれば〔……〕 存在するすべての物は神の能力を──万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。(第一部定理三六証明)ここでスピノザが用いている「表現する」という動詞は、「説明する」とも言い換えることができます。自然界に存在する一つひとつの物は、神の力を説明していると考えられるわけです。

●位置: 916
たとえば、神すなわち自然には、水のようなさらさらで透明な液体を作り出す力がある。あるいはまた、ものを考えて哲学という営みをもたらす人間のような存在を作り出す力もある。神すなわち自然には実に豊かな力があります。その中に存在している一つひとつが、それぞれの仕方で、「神にはこんなこともできるよ」「自然にはこんな力があるよ」と説明してくれている。そしてそのような万物を作り出した原因が神なのでした。すると、原因と結果の関係は、同時に、表現の関係でもあることになります。 神という原因は、 万物という結果において自らの力を表現している ことになります。

●位置: 929
私は自らの行為において 自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。先の軍隊に走った青年の例を思い出してください。復讐に燃える彼は、ある意味では非常に活発に活動するように見えるかもしれません。しかし、彼を動かしているのは、かつて親から受けた虐待への復讐心です。つまり、彼の親こそが彼の活発な活動の原因になっているのです。彼の本質はこの圧倒的な外部の原因によって踏みにじられている。彼の行為はいずれも、彼の力というより、彼の親の力を表現しているのです。

●位置: 944
スピノザの能動/受動の概念ならば違います。スピノザはその行為が誰のどのような力を表現しているかに注目します。銃で脅してくる相手に私がお金を手渡すという行為は、その相手の力をより多く表現しています。その相手には、他人に金を差し出させるような力がある(といっても、それは大部分が銃のおかげですが)。私の行為はその相手の力を表現しているわけです。

●位置: 973
完全に能動にはなれない私たちも、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はありえません。しかし、これまでより少し自由になることはできる。自由の度合いを少しずつ高めていくことはできる。実際、私たちは自分たちの身体の使い方も分からない段階から、そうやって少しずつ自由になってきたのではないでしょうか。こう考えると、スピノザの哲学が本当に実践的であることが分かります。何か完全な自由を実現しようとするのではなくて、一人ひとりが少しずつ自由になっていくことをこの哲学は求めているのです。

●位置: 1,015
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第二部定理三五備考)

●位置: 1,066
一つの行為は実に多くの要因のもとにあります。それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、 行為は多元的に決定されている のであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。けれどもどうしても私たちは自分の行為を、自分の意志によって一元的に決定されたものと考えてしまいます。繰り返しになりますが、それは私たちの意識が結果だけを受け取るようにできているからです。

●位置: 1,073
スピノザは意志が自由な原因であることを否定しました。しかし、私たちが意志の存在を 意識する ことは否定していません。確かに私たちはそのような精神の力を感じるのです。

●位置: 1,098
現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです。意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。──これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。この論法が全く疑われないわけですから、純粋な自発性としての意志など存在しえないという、ちょっと考えれば分かることですら共有されません。このように意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。

●位置: 1,139
現代社会では、意志がほとんど信仰のように強く信じられていることは分かっておいていただきたいと思います。その信仰を解除すれば、私たちはもう少しだけ自由になれるのではないか。

●位置: 1,171
実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。

●位置: 1,186
真理の基準は存在しえない、もう少し正確に言えば、真理の外側にあって、それを使えば真理を判定できる、そのような真理の基準を見出すことは原理的に不可能だということです。

●位置: 1,194
真理が真理自身の基準であるとはどういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないということです。

●位置: 1,267
スピノザは最初に挙げた「真理は真理自身と虚偽との規範である」という文言の直前でこう述べています。あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。(第二部定理四三備考)どういうことでしょうか。 「いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ」、そのように感じることができるのは、何かを確実に認識した後のことだとスピノザは言っているのです。

●位置: 1,287
ように認識はスピノザにおいて、何らかの主体の変化と結びつけて考えられているのです。自らの認識する能力についての認識が高まっていくわけですから、これはつまり、少しずつ、より自由になっているのだと考えることができます。

●位置: 1,414
スピノザの考える真理の特徴は、それが主体の変容を求めることでした。ある真理を獲得するためにはそれに見合うだけの主体へとレベルアップしなければならない。真理を獲得した者は自分がそれを有していることを知ると同時に、その確実性を疑うことができないというのがスピノザの考えであったことは前章で見ましたが、なぜスピノザがそのように考えられたのかといえば、真理の獲得と主体の変容をセットで考えていたからです。

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2024年03月12日

Posted by ブクログ

スピノザの概念が実例を交えてて分かりやすい。
後半のデカルトとの関連性も面白い。
最後の方に語られる実践編についても聞いてみたい。

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2024年02月08日

Posted by ブクログ

とても面白かった。何年も前からぼんやりと考えては、うまく考えが進まなかったことを、ずっと前の時代の哲学者がかんがえていたのだなあ、と感慨深かった。

スピノザの本質概念の転換のところがとくに面白く、いろんな人のいろんなあり方のそのままを肯定しよう、というやっと今になって広がってきた考えをそんなに前から考えていた人がいたのかあ、とびっくりしたし、スピノザの考え、いいなあ!と思うと同時に、哲学者の考えが難しいから全部賢い人のいうことだし、わからないけどなんか正しいんやろうなあ、みたいに思っていたのが、対比する哲学者の考えを知ることで、あー、そっちの理屈は肌に合わないわあ、とか、それは偏ってるんじゃないの、的な、畏怖を超えた目線をいろんな哲学者の言っていることに対して持てたのが収穫だった。

意思の概念への疑い、という考え方もものすごく面白く、また気が楽になった。この目線、もっと広がってほしい。

p124抜粋

「意志教」の時代
意志の話をしましたので、最後に少し現代社会について考えておきたいと思います。というのも、現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです…
…意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。

意思とは普遍的概念ではなく、古代ギリシャ哲学にも無かったらしい。
東洋哲学ではどうだろう…やっぱりあまり、意思を全面にというよりは、鍛錬とか孝行とか社会の中の自分みたいな考え方のほうが確かに強い印象がある。
ハンナアーレントによれば、意思の概念はキリスト教哲学の文脈からアウグスティヌス(紀元後4-5世紀)らの時代に見出されていった、らしい。その影響下に私たちも知らぬ間にいるということなのか…。

ちなみに、読みながら調べたところ、孔子や孫子が、アリストテレスやソクラテス、プラトンよりもさらに古い時代の人と知り、心底驚いてしまった。

私たちが孔子の影響を現代でも強く感じるということは、西洋の人たちの生活文化にも、アリストテレスやプラトンの思想の影響が強くあるのだろうし、そりゃあやっぱり考え方が西洋とは違うわけだよな、と妙に納得してしまった。

ともかく読みやすく、興味深い本で、この著者の本をまた読んでみようと思う。

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2025年10月15日

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「エチカ」というスピノザの著作について、その存在を知ったのは、わたしの場合やはりPodcastからだった。
知ってからもルソーの「エミール」とよく混乱した。カタカナのエで始まるなんか短い名前の本っていう括りだからかな。

本で、活字で、ちゃんと読む…というのは、わたしにとってはとても意義がある行為なんだな、と今回改めて感じた。
たぶんもう「エミール」と間違えたりしないと思う。

さて、そんなわたしにとっては
「暇と退屈の倫理学」以来2冊目の國府功一郎さんのこちらの著作、17世紀オランダの哲学者、スピノザが残した「エチカ」についての解説本である。
「NHK100分de名著」に新たな1章を書き加えて全体を再構成したものらしい。
タイトルにあるスピノザという名詞に少しビビったが、めちゃくちゃ読みやすくて、文体もやさしかった。

とりあえず、「エチカ」にもスピノザの他の著作にも、この中に出てくるデカルトにも、そのままズバリの濃い状態の哲学書で摂取したわけでないわたしが、この本を読んでみた感想。
スピノザの哲学って東洋思想みたいだな、ということ。

「エチカ」はどのように生きるか、どのように自由に生きられるか、という問いについて書かれたものなのかな、と理解した。
その中で、神の存在について、自然も人間も宇宙も何もかも全てが神である…、國府先生のシーツの例えがめちゃくちゃわかりやすかったんだが、
個人における出来事、人間の個性でさえ、大きなシーツ(神)にたまたま寄った皺のようなものだというところ。
大きなネットワーク自体が神そのもの(宇宙そのもの)で、そのネットワーク上にいるわたし自身が神の一部である(梵我一如)みたいなことを想像した。
それにしてもこれは確かに17世紀のヨーロッパではなかなか勇気のいる定義だったろう。

自由意思についての考え方も、これまたシンプルに因果論に通じると思ったし、
真理について…、
これは飲茶さんの「史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち」にあった、積み上げ方で築いていく西洋哲学に対して、東洋思想はいきなり「これが真理だ!」と言きってしまうというところに、スピノザが言っていることは近いような気がした。

どんなカタチにせよ、神の存在を前提としている部分が東洋思想とは決定的に違うが、デカルトがうちたてた近代哲学とはOSが違っているという國府先生の主張もよくわかる。
善悪の定義や、本質についての捉え方が問いの真っ只中にいる凡人のわたしにとっては興味深く面白かったので、
この本を補助線にして、「エチカ」読んでみようかな、という気持ちになった。
難解ながらも自分なりに何か掴めるかもしれない。

しかし、やはり哲学沼はめちゃくちゃ深そうだなー。

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2025年08月25日

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すごい平易な言葉で説明されてるっぽいのにむず〜、何度も寝落ちしかける
でも面白いので進む時は進む
そしてまたしばらくして読み始めるとどこまで読んでたかわからなくなり1章分くらい意図せず振り返ることになる

107p
受動と能動
一般的には行為の方向性を指すが、スピノザはその行為が誰の力を示しているかで判断する
親の虐待への復讐心で戦争に走る青年は結局のところ親の力を示しているので受動

お〜と思ったけど、一般的にもそうじゃね?
脅されてお金を出すのが能動とはもともと思えぬ

p45
それ自体として善も悪もない

これはそう
最近仕事のチームメイトのやる気のなさ後向き発言にやられてるが、組み合わせなんだろうな〜、そのチームメイトは私がやりやすいと感じている別の同僚とはうまくやってるので、まあ、組み合わせなのだ
だからその同僚が悪ではないのだ、人の多面性とも言えるのかも

p101
強制、本質が踏みにじられている状態

これもそう
同じチームメイトに今私の本質は踏みにじられてられている
私は改善/変化が好きだが、彼は属人/現状維持を好む
変化の方がパワーがかかるが、そこに冷や水を浴びせられることでより負荷がかかる
疲れちゃうよね〜、コナトゥスもしょんぼりだよ

p106
能動とは自らの力を表現すること

最近まるでこれができない
休日すら「休みの日の過ごし方の正解とは…」と自分の外に力を求めている
コナトゥスがやられてるからかもね〜、くそ〜

真理の獲得は自己の変容が必要つーのも、その前で説明されてた「自由意思」についてクソ長い本を読書会で読み続けてやっと「ああそういうことか」と腹落ちしたのを思い出す
セキスペもこないだ落ちちゃったけど、きっとまだ変容までいけてなかったのかもな〜くやし

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2025年07月24日

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【神即自然】
・神は無限である→すべては神の中にある。神は宇宙のような存在(自然)
・神すなわち自然は外部を持たないから、他のいかなるものからも影響をうけない→自分の中の法則だけで動いている

【コナトゥス】
・個体を今ある状態に維持しようと働く力
・スピノザは、コナトゥスをそのものの本質と考えている。すわなち、物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えた。

【変状する力】
・刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きく変化する・
・変状(affectio):刺激による変化。あるものが何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びること。
・欲望:刺激によって変化した状態が、自分にあることをなすように働きかけ

【本質】
・人間は多くの刺激で刺激されうる状態になることが豊かであるとする
・死は、私の本質を支えていた諸々の部分の関係が変化して別々のものになること
・神は、自然であるだけでなく、実体(=実際に存在している)であるとする。すなわち実際に存在しているのは神だけであり、万物は神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生する個物、すなわち変状したもの(=様態)
・属性;人間には精神に対応する「思維」と物体に対応する「延長」という2つの属性があるが、これらは同一のものとした。これはデカルトの心身二元論への反論。
・一人一人のコナトゥスを尊重することが社会の成立に必要。社会契約説が、安全のための社会契約を行なったという一回きりの契約を主張するのに対し、スピノザのそれは、反復的契約説と国分は論じている

【真理】
・真理は真理自体の基準である。なぜなら真理の真理性を真理の外側に示すのはできないから。
・デカルトは、だれをも説得できる公的な真理を重んじたのに対して、スピノザは自分と真理の関係を問題にしている。
・スピノザは、認識することによって主体が変容すると述べているというように私的性格を強調している。

【神の存在証明】
・スピノザは、神の存在を理解するためには、精錬のあゆみ、すわなち主体の変容を必要とする、とする

『エチカ』
・ethica:倫理学を意味するラテン語。
・スピノザの死後に刊行された。
・定義、定理などの断章で構成される
第一部:神について
第二部:精神の本性および起源について
第三部:感情の起源および本性について

第四部:人間の隷属あるいは感情の力について
・自然界には完全/不完全の区別はない。これらは人間が自分のもつ一般的観念と比較することからうまれる
・善悪はそれ自体として善/悪であるものはなく、それぞれの組み合わせできまる
・第四部定理八証明「我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(・・・)言い換えれば(・・・)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。」
・スピノザ的な倫理は、いわゆる道徳の既存の超越的な価値を強制するのと異なり、個別具体的な組み合わせを考慮することを要求する、すなわち、実験することを求める。

第五部:知性の能力あるいは人間の自由について
「自由/不自由」
・自由:与えられた条件のもとで、自分の力をうまく発揮できること
・不自由:強制された状態。外部の原因に支配されていること。
「能動/受動」
・能動:自らが原因となって何かをなすこと。すなわち自由。
 また下の「原因/結果」の解釈から、自らの行為のおいて、自分の力を表現しているときに能動。他人の力をより多く表現しているとき、受動。
「原因/結果」
・原因:同時に表現の関係でもある。すなわち神という原因が、万物という結果においてみずからを表現している

・スピノザにおける自由は、必然性や能動性と結びついている。それは自発的、すわわり、何者からも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となる、ということではない。すなわち、自由意志というものは存在しない。

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2025年07月06日

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スピノザの診察室という本から、スピノザ哲学とはどんなものだろうと手に取った本です。
スピノザの診察室のセリフにもあったようにとにかく難しい印象でした。

しかし、例え話や現代の身近な話に置き換えて説明してくれるこの本は楽しく読めました。

印象に残ったのは必然性に従うことこそ自由であり
足や手は可動域に限界があるが、その範囲を動かすこと自由に動かしていることになる。
という、スピノザ哲学の自由という概念に関しての例え話は心にスッと入ってきました。

哲学系の本は考えた気にさしてもらえる。かりそめな思考かもしれませんが、その感覚だけでも充実感がありました。

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2025年04月22日

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・1回通読。学びつづけることに対して背中を強く押してくれる良書
・受け取れる刺激の幅を広げるもの、例えば精神的な余裕、学ぶことが有益である。ものを知り、自分を知り、自分が変わる。真理、神の存在を悟るためには、主体の変容、自己精錬が必要。これらの考え方は、腹落ちかつ目から鱗な金言
・神即自然、自由意志の否定などの表面だけ見てると、決定論的構造主義的な考えに偏ってるような印象を持つけど、上述のような主張を見るに、実存主義的な考えも併せ持っていると思った。そういうところはニーチェにも通ずるところを感じた

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2024年09月05日

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とても噛み砕いて、例えも多用されており、わかりやすい説明だった。ほんの少しだけ理解できたような気がする。スピノザは難解なので何回も挑戦していくしかないと再認識した。

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2024年06月13日

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正直なところ、優しく教えてくれてるのにその内容は難しく結局のところなんだったのかわからない。
感動もあまりできなかったので何も身についていない。
國文先生に関心があってスピノザにはあまり興味がなかったことに気づいた。
でももっと深く知ったら自分の中で何か変わる気がするので、時間のある時にもう一度読みたいです。

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2024年05月02日

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基本、哲学で言ってる意味がよくわからんことがあるが、こういった易しく教えてくれる本があれば理解できた気がしてくる笑。
デカルトとの摺合せなんかも面白かった。

スピノザの概念として一部。

組み合わせとしての善悪→解りやすい

力としての本質→これも解りやすい・現代に必要な気がする

必然性としての自由→易しく教えてくれました

主体の変容をもたらす真理の獲得→わかった気がする

認識する力の認識→なんとなく理解できた

哲学をうまく使って人生を豊かにしたい。

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2024年04月29日

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実践的な哲学!完全/不完全、善/悪の判断基準は自分の中の指針にしていきたいなと思う。より善く生きることは「活動能力を増大」させるという考え方も面白い。いろんな刺激を楽しめるようになるために、自分と善い組み合わせのものを探すために、新しいことに挑戦するのは大切だと感じた。

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2024年01月19日

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自由についての章が面白かった
哲学というより純粋な論理学みたい
スピノザがすごくとっつきやすく思えている
錯覚かもしれない
明快な文章でさくっと読めてしまうものだから、スピノザもデカルトもするっと読めるような気がしてきてしまった
錯覚だな

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2025年06月07日

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デカルトの心身二元論への批判が、スピノザの根本にあるという。神は無限だから、宇宙そのものが神である。実体である神の様態が個々のもので、人間の精神も身体も神の様態なので、二元論にはならない。デカルトやライプニッツのア・ポステリオリな神の証明は、極めて論理的だが、意外なことに、同じデカルトにはア・プリオリな証明がなされていて、神の証明には神についての私的な精錬が必要だという。スピノザも真理は私的なもので、主体の変容を要求するものだという。近代の基礎となったい言われるデカルトの思想にも実はこういう観点があったのだ。スピノザの神の証明は、神はいかなる存在であるかの描写に過ぎないという。神の証明には私的な精錬を必要とするということを表しているのだろう。
後、善悪、自由、能動と受動、意思と意識についても述べられていた。現代は意思教に陥っているという。AIについての著者の見解も面白かった。AIは複雑なアルゴリズニズムというだけに過ぎないという。AIには心はないので他人への想像力はないのだ。
そうそう、スピノザの人物像がなかなか興味深い。結構強かでたくましい。

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2025年03月31日

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哲学書を初めて読んだが、理解しやすく面白かった。
現代では自分の意志で選択することが重要視されているがそもそも意志なんてものはないというスピノザの考え方を知り、心が軽くなった。

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2025年02月14日

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▼元々100分de名著だったもののようです。スピノザ入門。スピノザさんは17世紀のオランダの哲学者。ユダヤ人ながらユダヤ教から破門されているそうで、それは彼の考える思想のせいだそう。「エチカ」が有名ですね。

▼正直に言うと、「神」の有無を巡る議論はよくわかりませんでした。(こちらがに関心が無いせいかもしれません)

▼おもしろかったのは、「個人の自由と幸せと社会」みたいな事柄ですね。
 つまりは各位各個人の尊厳が他人様との交流の中で安全に保たれているのが、それが幸福な自由の条件だ、みたいな話。
 一見、すごく、「自由」という言葉と反している気がしますが、これはこれで納得ができる。つまりぢゃあ、完全に他者と関わりがない状態が、「幸福な自由」と言えるかということになります。
 ほどよい関わりで充足している中で、自発的に?能動的に?動けることが「自由(幸福)」なんでしょうね。

▼そういうなんか、「ほどほど」みたいなバランスが大事、みたいなのはすごく腑に落ちましたね。あと、人間の「体」や「精神」がどこまでのことをなしえるのか、ということを、我々はわからなくて生きて死んでいく、みたいなのも面白かったです。

▼あと、へ~、と思ったのは、ヨーロッパなどの地域で17世紀、つまり1600年代、というのが、その後につながる科学が勃興したんだそう。それを支えたのが哲学である。中世が終わらんとする胎動ですかね。1500年代がルターであり活版印刷だったりすると思うので、そこから革命とナポレオンの18世紀へと「繋ぐ」時代だったのでしょう。中世的な、平たくいえば「迷信」みたいなものが、きっと欧州では密接に「キリスト教」と関わっていたはずで、そこから脱出するというか離陸するために、「自分とはなんなのか」「神とはなんなのか」みたいなことからはじめないといけなかったんだろうな、と。そういう流れに「我思う故に我あり」のデカルトがいたり、スピノザがいたりした。その中で、結局、「自分以外の他人様や社会とどう関わっていくのか」「その中で幸せとか自由ってどう感じるのか」みたいな、資本主義社会になっても不変な項目だけが、21世紀の日本でも「活きた言葉」として読まれているんですね。

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2024年12月31日

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ネタバレ

ちょっと難しかったなぁ

哲学書って「それって当たり前じゃね」って思うことが多いけど今回もそんな感じだったような気がする

コナトゥス、エイドスの話は覚えておこうと思った

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2024年08月10日

Posted by ブクログ

眠い時に読んではいけない本だった…
引用の後に書いてある筆者の解説を読むと「エチカそのまま読んだら絶対理解できない!」ということはわかったので、頭が元気な時にもう一回読みたいです…

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2024年06月14日

Posted by ブクログ

Audibleにて。
依存症について調べていくとここに行き着く。真の自由、完全に独立した意志による行動選択などないとする考え方。中動態につながるのがコナトゥスか。

 「人間がやがてAIに取って代わられるのではないか?」という不安は、合理化を進めた末に動かなくなっていった精神活動に対する自信の無さから生まれたもの…というのは面白い。人間がAIに近づいていくというのもいい得て妙だ。

 合理化の果てに自由な発露手段を失った精神が、それでもその円環から抜け出せず、窒息しそうになっている。
 優しさと、各種自己対象を見つけづらくなった社会構造の背景には、「全てのものを神は内包する」と捉えられず、神を私物化しようとした人の歴史が横たわっているように思う。
 これを「傲慢」と一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も解決しない。まずは見つめ直すことから始めなければ。


コナトゥス
事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。

エソロジーとエチカは同じ「エートス」=個人のあり方を語源としている。競走馬とシマウマにおける形状の同質性と本質の違い。
前者は分類学、後者を見るのがエソロジー。見かけ上の異同に惑わされないという意味ではトポロジーに近い考え方かも。


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2024年05月04日

Posted by ブクログ

「あなたへのおすすめ」のなかに、本書の著者である國分功一郎氏の最近の本の名前が挙がっていたので、その前に、有名と思われるこの本をまずは読んでみた。

スピノザという17世紀のオランダの哲学者のことは全く知らなかったが、著者による解説を読む限り、とても魅力的な説に聞こえる。
「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」というキャッチコピーも秀逸。

とある漫画の、炭素の代わりにケイ素が生命の主要材料として使われる、もうひとつの「ケイ素生態系」を、ふと思い出した。

P5
やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。

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2024年01月27日

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