國分功一郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ哲学というのは、ここまで日常的な概念(意志/責任)を深く掘り下げられるのかと感じさせられる。確かに自分たちは「意志」という概念を能動的なものとして捉えているし、これを責任をもたらす重要な概念として捉えている。しかし、あくまでも意志は無数のファクターにより導かれた結果であり、完全に能動とも受動とも言えず、故に中動態という忘れ去られた態を参照し直す必要がある。これに取り組んだ一冊。
「意志」を純粋な能動と捉えることは、即ち過去との断絶(影響したファクターの無効化)を意味し、これはある種の全能感をもたらす。しかし神ではない人間はあくまで中動態の世界に生きており、様々なファクターの影響を受けつつ、自由と強制の狭間を行き来しながら生きていることを自覚する必要がある。そしてきっと、これを自覚することは自分だけでなく、他者に対する配慮にも繋がりうる。また、スピノザの「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」という考え方も、この中動態の議論に奥行きをもたらしてくれる。即ち、人は社会の中で求められる役割や自分が担いたい役割の葛藤を抱える中で、自分の本性の必然性(例:ワンピースで言うところの「海賊王におれはなる」と同じか。海賊王に「なりたい」ではないのがポイント)に従い行為することができれば自由になれる、ということ。但し、この「自分の本性」なるものにどこまで敏感であることができるか、は極めて難しいことのように思う。それは日々の生活の中から浮かび上がるものかもしれないが、ここでも中動態の世界に生きている、つまり自分は導かれながらかつ自分で選択もしながらここまで進んできた、ということを自覚することで、少しずつ自らの本性に耳を傾けることができるのではないだろうか。
また、個人的にはあとがきに書いてあった「読めよ。さらば救われん」という言葉も好きである。生成AIを駆使し、過去の議論や論文をさらっと読めるようになっている時代であるが、やはり地道に読むことこそが自分の思考を形成し、また救ってくれるものであると信じている。
特に印象に残った箇所は以下
・私が何ごとかをなすとき、私は意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意志」を行為の源泉と考えるのも難しい(p.25)
・中動態を定義したいのならば、われわれがそのなかに浸かってしまっている能動対受動というパースペクティブを一度括弧に入れなければならない(p.109)
・能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる(p.120〜121)
・言語が思考を規定するのではない。言語が思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ(p.152)
・ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない(p.154)
・こう考えると、選択と意思の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く(p.183)
・権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む(p.203)
・ハイデッガーはつまり、意思することは忘れようとすることだと述べている(p.287)
・われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p.361)
・その自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である、と(p.366)
・だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうと言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ(p.368〜369)
・完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく(p.411〜412)
・やはり、「読めよ。さらば救われん」こそが研究における真理である(p.482) -
Posted by ブクログ
安保法制や憲法改正を掲げ日本中に大きな議論を巻き起こした第二次安倍政権。そんな政権から日本国憲法を守るためには、結局天皇の一言に頼るしかなかった。保守は憲法改正を断念せざるを得ず、当初は反天皇制であったはずのリベラルもそんな天皇を利用するしかなかった。立憲民主国家において日本国民の力で守るべき憲法も天皇の力を使うことでしか守ることができなかったことは、いわば日本国民の「天皇への敗北」である。
戦後の日本人の多くは、旧帝国の第二次世界大戦時の戦争責任は否定しないものの、大日本帝国の国民ではなく戦後生まれ変わった日本国の国民として、どこか「被害者意識」を持ってしまうのはなぜか?
では日本人が本当に「先の大戦について反省」するにはどういう態度が相応しいのか?ベストセラー哲学者國分先生が憲法学と戦後の文学者たちの二つのアプローチから迫っていく。
いま、再び急速に民主主義へ挑戦する権力が力を持ちつつあり、民主主義が危機に晒されている。第二次世界大戦とどう向き合い、膨れ上がる傲慢な権力へ対抗していくのか、それぞれがこれを読んで内省するべき一冊。 -
Posted by ブクログ
自分だったらここまでバッサリ言われると心が折れるかもしれませんが、第三者視点から見るととても面白かったです笑
國分先生が変に寄り添わず、情報不足があれば容赦なく詰めたり、独りよがりな相談であれば指摘するのは読んでいるこちらも背筋が伸びました。ただ、こういう風に言ってくれる人や機会はかなり貴重だとも思いました。
特に印象に残ったのはプラス思考のお話です。プラス思考とは考えることを放棄すること。物事のネガティブなところから目を背けることと言われ、確かにと思いました。
世間ではプラス思考=いいことだと言われがちですが、そうやって考えることを放棄するのは違う気がします。
関連しているかはわかりませんが、生成AIが基本ポジティブな返答をするのも、人間が思考を放棄するのを助長するかもしれません。現代社会において、生成AIは必要不可欠なものになりつつありますが、頼りすぎないようにしたいと思いました。
あとは一人で思い詰めず、人に話すこと。自分の仲の思いや感情を言葉にして「物質化」するのも大切だと思いました。泣くことはすっきりすると言いますが、もやもやした思いも言葉によって形にすることですっきりすることができるかもしれません。 -
Posted by ブクログ
本格的にドゥルーズの解説を試みた本で、
非常に難しい。
どの程度理解できたかは不明。
気になった点は2点。
ドゥルーズの単著では唯一、提唱されているものと言っていいと思われる“無人島”という概念について。
“他者こそが対象の対象性を保証しているとするならば、他者を欠くと自我を想定できない”。
そもそも主観と客観というものが一般のレベルで意識されるようになったのは近代以降になる。
その後、欧州から個人主義が広まって今日に至る。
他者と他者のニッチにしか自我が存在しないなら、
例えば、『自分探しにインドに行った人』は『インドに行ったことがある人』というニッチが得られるのかな、とか。
自分を探すには自分を見るよりも他者を観察するほうが大切、というのは分かっていたことのようでなかなか難しい。
2点目は5章の小題にもなっている「権力と欲望」。
“権力”と聞くとどうしても上の立場からの圧力のようなものを想起するけれど、ここでの“権力”は下の立場からも発生するとする。
まさに現在、〇〇ハラといった言葉が権力を持つような状態を指していると思う。
人は自由を指向していてもいつしか権力を握りしめてしまう。
結果として“自身”の広がりは“他者”への抑圧と表裏一体になってしまう。
なぜ人は自由を得るには至らないのか。
現在の“多様性の社会”はただの権力と権力のせめぎ合いになってはいないか。
ただ、認めること。
その単純で困難な一点を、いつか人類は突破できるのか。 -
Posted by ブクログ
「贈与」や「利他」がタイトルに含まれる本が増えていますね。
現代に生きる私たちは、交換や利己によっぽど疲れているのでしょうか。
ただ「贈与」や「利他」に漂う胡散臭さがあるのも事実。
結局人間は純粋に利他的には生きられないのではないか。
最近、私の考えていたことです。
この本を読んで、その考えは合っていると感じるとともに、
利他は意図せずしっかりと存在することも実感できました。
それは自分という器を誠実に生きるということ。
自分が全力になれることを全力でやることが、人類の歴史や系譜に奉仕することになるという作家・磯﨑憲一郎さんの言葉は、私たちの迷いを幾分和らげてくれるのではないでしょうか。
利他を考える前に、自分の器を磨き信じることが大切だなと感じ、今日も私は本を読むのでした。