國分功一郎のレビュー一覧
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『暇と退屈の倫理学』:國分功一郎
・消費は、終わりがない。浪費、すなわち物を受け取って、物を楽しむことを楽しめるようになれば良い。そうなれば、この消費社会から抜け出すことができる。
→「楽しむ」ということの定義がしっかりしていない。
・本書では「楽しむ」を定義する。
『判断力批判』:カント
・快の対象:快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの
①善いもの
・実践理性批判で提唱される、高次の欲求能力の実現
・自分自身を決定する根拠が純粋に自分自身の道徳法則にのっとってのみであることが、快を生み出すもととなるカントは、人間は自らのうちに目的を持ち、その目的から逃れることはできず、その目的の -
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自由の根幹は「移動の自由」
日本国憲法が示すように、場所を選び移動できることこそが自由の土台である。
行為の本質は“自己を守る営み”
ガンディーの言葉を引用し、「ほとんど無意味に見える行為」でも、世界に流されず主体性を保つうえで不可欠だと強調している。
目的に縛られた行為は自由ではない
「○○のためにやっている」と説明できる行為は、動機や目標に従属しており真の自由とは言えない。
目的を超えて“遊び”へ―手段‐目的連関からの逸脱
文化祭の準備の議論が次第に楽しくなる例のように、最初の目的を超えて自発的・創造的に広がる活動を著者は「遊び」と名づける。
社会運動にも“遊び”の要素が必要
運動 -
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・イギリスの料理が不味くなったのは、資本主義のせい?
ちょっと脱線しますが、皆さんは「イギリスの食事はまずい」とよく言われていることは知っていますか。
実際のところ、最近は美味しいんですけどね。確かに一時期までは本当にひどかったようです。かつてのクオリティーの食事を提供する古い食堂は残っていて、そういうところで食べると塩味が付いていない。
というのも、食卓にある胡椒と塩で各自が自分向けに調整して味付けすることになっているからです。これには面食らいました。
しかし、イギリスの料理はずっと昔からまずかったわけではなく、それは一九世紀に産業革命と農業革命から決定的な悪影響を受けたことの帰結で -
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受動態vs能動態の対立は、思っていたより私の思考にべったり貼り付いていたのだな…と思った。1番の原因はやっぱり英語教育かもしれない。「する」の反対は「される」であり、受動態の文は能動態の文で書き換えができるものなのだ、と。染みつきすぎているその当たり前から、読みながら少しだけ自由になれた気がする。
「なんだか理由が分からないけれどすき」なものってある。明確な理由は思い浮かばないけれど、なんとなくいつも選んでしまうもの、傍に居る人、足を運んでしまう土地。こういうものを敢えて説明しようと試みるとき、中動態という概念が必要なのかもしれないなー、なんて。両極に位置するものではなくて、質の差として考え -
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スピノザの診察室という本から、スピノザ哲学とはどんなものだろうと手に取った本です。
スピノザの診察室のセリフにもあったようにとにかく難しい印象でした。
しかし、例え話や現代の身近な話に置き換えて説明してくれるこの本は楽しく読めました。
印象に残ったのは必然性に従うことこそ自由であり
足や手は可動域に限界があるが、その範囲を動かすこと自由に動かしていることになる。
という、スピノザ哲学の自由という概念に関しての例え話は心にスッと入ってきました。
哲学系の本は考えた気にさしてもらえる。かりそめな思考かもしれませんが、その感覚だけでも充実感がありました。 -
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本書は、カントの提唱する快の四分類(快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの)を丁寧に解説することから始まる。
- 快適なもの:感官的な快であり、個人的な好みに依存する。目的や合目的性を持たない、純粋な享受の対象。
- 美しいもの:反省の快であり、主観的ながら普遍性を要求する。目的はないが、合目的的に感じられるもの。
- 崇高なもの:理性的観照の快であり、人間の想像力を超える強大なものに対する畏敬の念から生じる。
- (端的に)善いもの:道徳法則に従うことによって得られる快であり、理性の実践的な働きによる。目的そのものであり、自律的な意志によって実現される。
美しいものや崇高なものが、そ -
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コロナにおける緊急事態での移動制限を容易に受け入れてしまった社会に対する警告とも言えるアガンペン氏の論考をもとに自由について考える。
そこから筆者は目的以外の遊び、自由を認めない社会への警輪をならす。効率化を求め目的以外の活動を認めない。そこには楽しみもない。満足できる浪費もなくただ記号としての消費をさせられる。そんなただ生きることのみの権利を大事にする社会にアガンペンは一石を投じていると。
確かに、説明可能な目的以外の活動は組織においてどんどん排除される。そしてその影響が会社員、労働者割合の増加とともに社会にも侵食。
その際たるものが、塾や習い事漬けと受験戦争として子どもに影響を及ぼし -
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学生に向けた講話。
目的がないと生きられない世の中になり、その目的に抗ってみようかという提案。
コロナ禍の状況を哲学の観点で考察されていたことは、医療従事者として興味深かった。
命か経済か。
命か自由か。
その二項対立は目的に縛られているのではないか。
(目的が何なのかがはっきりとわからないけれど、「社会をどう維持するか」「個人の幸福をどう定義するか」ということ?)
感染した死者とは会えない。
感染した死者をビニール袋に入れる。
その行為は、生きている者に価値を置きすぎているのではないか。死者への尊厳が失われていないか。
不要不急とは。
線引きはどこ。
(上記、私の記憶から出てきた -
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コロナ禍に感染拡大防止などの御旗のもとに取られた、移動の権利などの諸々の権利制限が我々に課されたことは記憶に新しい。
筆者や、筆者が紹介する哲学者が疑問を抱くのは、そうした権利制限をたやすく受け入れているかのように見える、言い換えると、対統治者の苦難の歴史を乗り越えて勝ち得てきた重要な権利をたやすく手放して良いものか。統治者側、肥大する行政権の恣意で世の中がおかしな方向に進んでいきはしまいか。目的のために行為するだけの人間の孕む危険性―
そうした出発点から、哲学が問を発する意味(アブのようにちくちく刺すというような表現だった)、改めて、人間が人間らしく生きるということはどういうことなのか、