國分功一郎のレビュー一覧
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何かに駆り立てられるように生きている、何かに駆り立てられるように何かをしている、それでいて人間自体は虚しさを感じながらカラッポな状態で行きている。そのような現代社会の病理のようなものに言葉を与え、その解決として提案されるもので我々の生や思考に一つの道筋を提案する。
目的とも手段とも切り離された快を享受することで、所謂精神的な満腹状態に達し、消費社会、資本社会の構造に抵抗する、そして主体を取り戻す、ということがシリーズを通じて繰り返し述べられる。
「楽しむ」という卑近なテーマからスタートする思索であるが、巻末でも述べられているように、このまま行くと人間が、依存症に陥ることに留まらず、取り返し -
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すごい平易な言葉で説明されてるっぽいのにむず〜、何度も寝落ちしかける
でも面白いので進む時は進む
そしてまたしばらくして読み始めるとどこまで読んでたかわからなくなり1章分くらい意図せず振り返ることになる
107p
受動と能動
一般的には行為の方向性を指すが、スピノザはその行為が誰の力を示しているかで判断する
親の虐待への復讐心で戦争に走る青年は結局のところ親の力を示しているので受動
お〜と思ったけど、一般的にもそうじゃね?
脅されてお金を出すのが能動とはもともと思えぬ
p45
それ自体として善も悪もない
これはそう
最近仕事のチームメイトのやる気のなさ後向き発言にやられてるが、組み合わ -
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ネタバレ哲学の先生に対してメルマガの形で投げかけられた人生相談の回答をまとめた一冊。
人生相談においては言われていないことこそが重要であり。人は本当に大切なことを言わないのであり、それを探り当てなければならない。
この言葉にあるように、人の相談は文字にして読むと案外、何を求めているかは分かりにくい。
哲学の先生が質問の一言をヒントに、本当に大切なことを本当に聞きたいことを紐解く様子が面白い。
回答の中で、自分の人生においてもヒントになることがある。
恋と愛の違い。
幸せな人は心の穴を塞がない。折り合いをつける。
未練とはサービスを提供したにも関わらずその支払いを受けていないと思うこと。
自分の違和 -
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【神即自然】
・神は無限である→すべては神の中にある。神は宇宙のような存在(自然)
・神すなわち自然は外部を持たないから、他のいかなるものからも影響をうけない→自分の中の法則だけで動いている
【コナトゥス】
・個体を今ある状態に維持しようと働く力
・スピノザは、コナトゥスをそのものの本質と考えている。すわなち、物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えた。
【変状する力】
・刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きく変化する・
・変状(affectio):刺激による変化。あるものが何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びること。
・欲望:刺激によって変化した状態が、自分にあること -
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原子力は核兵器として利用される場合、反対されるが、「平和利用」という巧みなスローガンの元で発電に使われる場合は、長らく肯定されてきた。
それが、チェルノブイリや3.11福島などを経て、急激に反対に傾いている。
しかし、3.11以後も、事故が怖い、廃棄物質など忌避感情が強いにもかかわらず、再稼働への国家的な意志はうごめく。それはエネルギー問題に煩わずに生きたいという全能感への欲望だ。
ただ、ハイデガーのみが肯定が大多数だった時代にも、その技術的特異性に注目し、警鐘を鳴らしていた。根本から考えようとする哲学の威力発揮である。
原子力に取り憑かれないためには、考えることが必要だが、そのことを -
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『暇と退屈の倫理学』:國分功一郎
・消費は、終わりがない。浪費、すなわち物を受け取って、物を楽しむことを楽しめるようになれば良い。そうなれば、この消費社会から抜け出すことができる。
→「楽しむ」ということの定義がしっかりしていない。
・本書では「楽しむ」を定義する。
『判断力批判』:カント
・快の対象:快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの
①善いもの
・実践理性批判で提唱される、高次の欲求能力の実現
・自分自身を決定する根拠が純粋に自分自身の道徳法則にのっとってのみであることが、快を生み出すもととなるカントは、人間は自らのうちに目的を持ち、その目的から逃れることはできず、その目的の -
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自由の根幹は「移動の自由」
日本国憲法が示すように、場所を選び移動できることこそが自由の土台である。
行為の本質は“自己を守る営み”
ガンディーの言葉を引用し、「ほとんど無意味に見える行為」でも、世界に流されず主体性を保つうえで不可欠だと強調している。
目的に縛られた行為は自由ではない
「○○のためにやっている」と説明できる行為は、動機や目標に従属しており真の自由とは言えない。
目的を超えて“遊び”へ―手段‐目的連関からの逸脱
文化祭の準備の議論が次第に楽しくなる例のように、最初の目的を超えて自発的・創造的に広がる活動を著者は「遊び」と名づける。
社会運動にも“遊び”の要素が必要
運動 -
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・イギリスの料理が不味くなったのは、資本主義のせい?
ちょっと脱線しますが、皆さんは「イギリスの食事はまずい」とよく言われていることは知っていますか。
実際のところ、最近は美味しいんですけどね。確かに一時期までは本当にひどかったようです。かつてのクオリティーの食事を提供する古い食堂は残っていて、そういうところで食べると塩味が付いていない。
というのも、食卓にある胡椒と塩で各自が自分向けに調整して味付けすることになっているからです。これには面食らいました。
しかし、イギリスの料理はずっと昔からまずかったわけではなく、それは一九世紀に産業革命と農業革命から決定的な悪影響を受けたことの帰結で -
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受動態vs能動態の対立は、思っていたより私の思考にべったり貼り付いていたのだな…と思った。1番の原因はやっぱり英語教育かもしれない。「する」の反対は「される」であり、受動態の文は能動態の文で書き換えができるものなのだ、と。染みつきすぎているその当たり前から、読みながら少しだけ自由になれた気がする。
「なんだか理由が分からないけれどすき」なものってある。明確な理由は思い浮かばないけれど、なんとなくいつも選んでしまうもの、傍に居る人、足を運んでしまう土地。こういうものを敢えて説明しようと試みるとき、中動態という概念が必要なのかもしれないなー、なんて。両極に位置するものではなくて、質の差として考え -
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スピノザの診察室という本から、スピノザ哲学とはどんなものだろうと手に取った本です。
スピノザの診察室のセリフにもあったようにとにかく難しい印象でした。
しかし、例え話や現代の身近な話に置き換えて説明してくれるこの本は楽しく読めました。
印象に残ったのは必然性に従うことこそ自由であり
足や手は可動域に限界があるが、その範囲を動かすこと自由に動かしていることになる。
という、スピノザ哲学の自由という概念に関しての例え話は心にスッと入ってきました。
哲学系の本は考えた気にさしてもらえる。かりそめな思考かもしれませんが、その感覚だけでも充実感がありました。 -
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いつ読んでも面白い。
今回は「嗜好品」とカントを絡めながら、ただ快を味わうことを、目的に対する手段へとすり替えられることへの警句を示している。
健康であることは、それ自体で快い。
しかし、「健康」でありたいと目指して、サプリメントを飲んだり、毎日運動をすることで、それは目的と手段に代わってしまう。
ドイツではナチスが台頭した際に、ただチェスをすることは許されなかった。
能力を磨くという目的のための手段となった。
私たちが快さ、楽しさを享受することの、大切さ。
コスパ・タイパという世の中にあって、目的もない行為は、良しとされないのかもしれない。
ただ、私たちがパフォーマンスを求める、本 -
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本書は、カントの提唱する快の四分類(快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの)を丁寧に解説することから始まる。
- 快適なもの:感官的な快であり、個人的な好みに依存する。目的や合目的性を持たない、純粋な享受の対象。
- 美しいもの:反省の快であり、主観的ながら普遍性を要求する。目的はないが、合目的的に感じられるもの。
- 崇高なもの:理性的観照の快であり、人間の想像力を超える強大なものに対する畏敬の念から生じる。
- (端的に)善いもの:道徳法則に従うことによって得られる快であり、理性の実践的な働きによる。目的そのものであり、自律的な意志によって実現される。
美しいものや崇高なものが、そ