ブックライブでは、JavaScriptがOFFになっているとご利用いただけない機能があります。JavaScriptを有効にしてご利用ください。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで100万冊以上配信中!
来店pt
閲覧履歴
My本棚
カート
フォロー
クーポン
Myページ
4pt
「楽しむ」とはどういうことか? 『暇と退屈の倫理学』にはじまる哲学的な問いは、『目的への抵抗』を経て、本書に至る。カントによる「快」の議論をヒントに、「嗜好=享受」の概念を検証。やがて明らかになる、人間の行為を目的と手段に従属させようとする現代社会の病理。剥奪された「享受の快」を取り戻せ。「何かのため」ばかりでは、人生を楽しめない――。見過ごされがちな問いに果敢に挑む、國分哲学の真骨頂!
アプリ試し読みはこちら
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
Posted by ブクログ
國府先生、これはかなり難しかった。何回も行きつ戻りつしてやっと一周読みましたが理解が追いつかない。。。 私なりに理解したところによると、目的を持たない快(酒やタバコをを嗜むような)が、現代では目的に蝕まれつつある=純粋に行為自体を快楽として受け取る余裕がなくなってるよ、っていう警鐘なのかなと思いまし...続きを読むた。実際私も酒びたりのときが一時期あり、現実から一瞬でも思考を切り離す道具として酒を飲んでいたなぁと今は思います、当時は美味しいから沢山飲んでると思い込んでましたが(病)。 前作の新書より具体性が上がってるのについていけない自分の理解力のなさに悲しみを覚えつつ、一方で凡人がついていけないレベルの内容でも平易な言葉で何回も何回も丁寧に説明して書いてくださる國府先生の姿勢に、そこに痺れる憧れる〜!となってしまう一冊です。おすすめです、帯の先生の写真もかっこいいし!
人生に目的手段の連関がある程度必要なのも事実だが、享楽の快という単なるそれ自体を楽しむことを意識して過ごしていきたいと感じる、とても良い著書だった ただ、消費社会の原因が資本主義にあるかのように述べられてることには違和感を持った 確かに消費社会は資本主義から生まれたことには同意するが、それを消費...続きを読むしてしまう個々人の内面的事情に大きな問題があると自分は見ており、資本主義というより、資本主義であるこの社会に対しての思考があまりに脆弱な人間が問題なのでは、と思ってしまうのは自分だけなのだろうか
「楽しむ」とは何か。 楽しむとは、何かの目的のためにするのではなく、ただすること。ただその行為が心地よいということ。と読み取った(間違っているかもしれないが)。 私にとって、楽しむとは、読書することかな。読むこと自体が楽しい。 …とはいえ、読書をして「賢くなりたい」「世間を色鮮やかに見たい」といった...続きを読む、手段としての側面もある。そういった動機は「楽しむ」とは少し違うかもしれない。 でも、ただ読むこと、それを楽しむ感覚。 それこそが「楽しむ」と思う。 また、著者は「楽しむことは、誰からも奪われてはならない」と書いており、共感した。
カントの「判断力批判」を元に、快の対象を四つに分け、そのうち「ただ快適なもの:享受の快」を重視する議論を展開する内容。(p85の図がわかりやすい) これと混同されがちな快として、「設定された目的にとって手段として有用なもの:目的達成の快」がある。 たとえば健康はそれ自体が快適だが、健康であろうと...続きを読むする目的で運動をするとか野菜を多く食べるとかは純粋な享受の快ではないとされる。(p82) お酒の例で言えば、お酒を味わって楽しんでいることは享受の快だが、アルコールに酔いたいという目的のための手段として使われればもはや享受の快は失われている(p92) その最たる例がドラッグであり、これは正に目的(ハイになる、リラックスするなど)のための純粋な手段として用いられ、享受の快は全く無い(p101)。 この本の帯にも引用された下記の表現が最も印象的だ。 「享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開く。社会がこのまま進み、すべてを手段化した時、我々はおそらく、『これまで見たこともないような依存症』に出会うことだろう」(p109) 過去作『目的への抵抗』『暇と退屈の倫理学』よりも難解で、具体的な解決策の無い本書だが、人間の快い生き方について注意深く論を進めたことで、資本主義が全てを手段化して人間の享受の快を剥奪することへの強い警鐘を鳴らしている。 今後の手がかりとしては、下記の2つが挙げられている。 「アディクションと資本主義についての考察を深める」(p203) 「主体が再来するためのヒントの一つはおそらく『習慣(habit)』にある。我々主体は無数の大小の習慣の集積であるが、現代の経済体制では常に新しい需要、目的を追い求めさせられる。我々は習慣を作る暇もなく、主体を失っている」(p207) 現代をめぐる著者の哲学について、引き続きフォローしていきたい。
現代社会の風潮が、手段に支配されつつあるという感覚は、確かに感じる。楽しいてなんだろう。なぜ趣味が思い浮かばないのか?趣味も手段化しているのではないのか?例えば、子供の頃は泳ぐのが楽しかったのに、大人になると健康維持の為の手段となっているように感じる。睡眠も、仕事のパフォーマンスを上げる手段になって...続きを読むいる。資本主義というOSが知らず知らずに自らをそのように仕向けているのかなと、読みながら思い当たった。
嗜好品とは何なのか。そうした疑問へのヒントを得るために、今回はカントの哲学の深淵に迫る。 カントはその認識論で有名であるが、今回は、カントの著作をもとに、享受の解を探る。 途中の理屈付けはやや納得できない、理解が難しいところもあったが、カントは何かの目的のために行うことを低次の欲求能力を満たすものと...続きを読む位置付けた。定言命法によって理屈付けられる、つまりそれ自体が目的となるような(目的なき合目的性)事象は崇高や美とされるが、なんらかの目的があるからそれを行う、接種するというような事象はレベルの低い欲求とされる。 本書を読んで、個人的に腹落ちした部分としては、『健康経営』というコンセプトへの生理的な忌避感が言語化できたところであった。本書でも、健康はそれ自体が快適なものであるが、何らかの目的のために健康であるという、健康の手段化が行われてしまうと、それは低いレベルの欲求を満たすことになってしまう。 健康経営は経産省発信のコンセプトで、健康な労働力が生産性を向上させ、結果として健康に取り組む会社は業績が良くなるので、株価が高くなるという情報発信である。 個人的には、過酷な職場やメンタルヘルスに悩む友人等を見るに、企業が健康経営に取り組むことは9割は納得しているが、1割だけもやもやとした感情があった。それは、私たちは生産性を上げるために健康であるのではなく、ただ単に健康そのものが快適であるから健康を目指すという視点が抜け落ちており、まさに我々の健康というものが資本を増やすための手段に置き換わってしまうことの違和感である。これはある種の疎外であり、その違和感があった。 会社は健康な社員を臨むが、その単純な目的と手段の関係性ではなく、本来どの人間にもあるはずの、健康そのものへの快適さやを、個人の裁量で追求する、享受するという観点が必要なのではないかと感じた。
カント哲学に範を取り、手段ー目的の連環に汲み取られない「享受」の基礎づけと可能性を論じている。噛んで含めるように、読者を置いておくことはせず、スモールステップで議論が進んでいく。
Youtubeの企画で朝井リョウがおすすめしていたため、手に取ってみましたが、、、 あまりにも哲学的すぎて、私にはなかなか理解が追い付かない点が多かった。
掲載された元の論文も読んでいたが、改めて面白かった。どうしてかはわからないけど善いとか心地よいとか美しいと感じる感性を呼び覚ましたい。 あと、あとがきにあった目的に縛られた主体は経験を失う、という視点がすごい。窮屈さや寂しさを感じるのは経験によって何も蓄積されないからかもしれない。目的と手段に多様性...続きを読むは求められない。
「日常生活が目的の為の手段と化した皆に告ぐ。救いはあまりないが、ヒントはある。」 拒食症はご存知だろうか。 端的に言えば「食べたくても食べられない」病であり、現在私が罹患している病でもある。正確にはトレーニングを積んで飲み食いをゆっくりなら出来るが嚥下が苦手である。だがそこには「食事の楽しみを剥奪...続きを読むされた人間」が確かに居る。 本書はカントの快の分類を援用しつつ、「目的や手段を持たない、純粋に快適を享受する」ことが「目的達成の為の手段としての‘‘病的‘’行為」に貶されないように、「目的ー手段」に人生を従属させないことを説いている。本書の例をアレンジするならばこう言えるだろう。「喫煙は快適を享受するが、健康目的の禁煙パッチを利用する人間は病的である」と。 では「目的ー手段」から逃れるためには何が出来るのか。自己の道徳法則に従わせる他に、享受の快適を受け取る術を知ることだと著者はカントを読み解き言う。なお、後者のみに生きることにはカントは批判的であるが、後者自体は否定していない。 この結論は『暇と退屈の倫理学』と同じ話である。焼き増しではないか。ただ本書は「嗜好品」についての考察が続く。嗜好品を味わうことは、目的達成の満足の為の手段ではなく、その行為から快適を得られる、だと言う。つまり「目的ー手段」から外れた存在だというわけだ。 本書では、嗜好品たるアルコールやタバコと依存物質であるドラッグを大きく区別している。ただ、これは何とも納得感がない。依存物質の多い少ないで決められるものなのか。快適の享受に普遍性はなく、個別的なものである。単に私は楽しみ方を知らないだけなのか。(とすれば、著者はドラッグの楽しみ方を知らないということになる。) ここで白状しよう。このレビューはタリーズで書いている。飲み込むのが苦手なのを克服する目的でコーヒーを飲んだのだ。飲み始めはリハビリとして飲んでいるので、快適ではない。「目的ー手段」関係だから当然である。だがどうだろう。レビューを一生懸命書いているうちに、確かに昔のようにコーヒーを楽しんでいる人間がそこにはいた。 「自然と快適を享受していた」現象は、「目的ー手段」関係からの解放とは言えないだろうか、國分先生。
レビューをもっと見る
新刊やセール情報をお知らせします。
手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)
新刊情報をお知らせします。
國分功一郎
フォロー機能について
「新潮新書」の最新刊一覧へ
「学術・語学」無料一覧へ
「学術・語学」ランキングの一覧へ
いつもそばには本があった。
来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題
近代政治哲学 ──自然・主権・行政
言語が消滅する前に
原子力支援 「原子力の平和利用」がなぜ世界に核兵器を拡散させたか
原子力時代における哲学
真理と政治/政治における嘘
時代の動かし方 日本を読みなおす28の論点
「國分功一郎」のこれもおすすめ一覧へ
一覧 >>
▲手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書) ページトップヘ