【感想・ネタバレ】手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)のレビュー

あらすじ

「楽しむ」とはどういうことか? 『暇と退屈の倫理学』にはじまる哲学的な問いは、『目的への抵抗』を経て、本書に至る。カントによる「快」の議論をヒントに、「嗜好=享受」の概念を検証。やがて明らかになる、人間の行為を目的と手段に従属させようとする現代社会の病理。剥奪された「享受の快」を取り戻せ。「何かのため」ばかりでは、人生を楽しめない――。見過ごされがちな問いに果敢に挑む、國分哲学の真骨頂!

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Posted by ブクログ

(著者にとっても意外かもしれないが)間違いなく、かつてなく四半期の数字目標が厳しく喧伝される現代ビジネスの中で、マーケターはじめ、ブランドづくりに関わるすべての人間にとって、必読の一冊だった。
凝り固まった思考の根本OSを、一発ガツンと、叩きのめして、UPDATEしてくれる。

目的ー手段の関係が当たり前のように叩き込まれる商売人の思考回路において、自らが作るモノやコトを、手段から解き放つのは非常に難しい。

でもそれこそが、現代社会が抱える病理に、いやそんな小難しい話を抜きにしても、シンプルに、「よりよいものづくりに勤しむ」ためにこそ、欠かせないはずだという直観に、出会えたような気がする一冊。

この本はじめ、『暇と退屈の倫理学』以降、國分先生の議論には感動を覚え、勉強しているものの、憎き存在として描かれる文化産業こそ、まさに私の本業。ぼくら商売人は、どう生きるべきか?非常に難しい難題。この本でも、やっぱり文化産業は悪役。でも、悪役にだって、抗い方はあるんではないか?
むしろ、作り手として、楽しむ心を促す方向で、腕を振るうことができるのではないか?そんな予感を得られた。國分哲学、もっと恥肉にしていきたい。

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2025年02月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「酔うために飲む。酒を楽しむ行為そのものは目的からも手段からも自由であるのに、それが酔うという目的のための手段にされてしまう。」

これは國分の言葉を抜粋したものだ。ドキッとした人も多いように感じる。私は酒を飲まないが、楽しむ行為が何かの目的の手段になっていないかと思うことはある。目的や手段から解放された「楽しみ」が私にはちゃんとあるのだろうか。そんなことを考えてしまう。なんとなく日常であまり楽しみがないなと思ってしまった人は是非とも本書を読みもう一度自分と向き合ってほしい。國分の哲学はいつも日常に即していて尚且つ理解しやすく書かれている。次回作も楽しみだ。

あと國分に手段から解放された楽しみはなんなのかと聞いてみたいな。

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2025年01月30日

Posted by ブクログ

國分さんのシリーズ哲学講話の2冊目。

1冊目の「目的への抵抗」が面白かったので、次を楽しみに待っていたところ。

タイトルからして、前作の議論の続きであることが分かる。つまり、全てが目的とそれを達成するための手段になってしまっている今の世の中の苦しさから抜け出ること、自由といったことがテーマになっている。

といっても、そうしたテーマに直接的に切り込むのではなく、過去の哲学者がどう考えていたのかを再解釈しながら、アプローチしていくところが彼の議論の面白いところ。

今回のアプローチの起点は、「嗜好品」、つまり、タバコやアルコールなどのもたらす「快」という一見些細なこと。これを何とカントの議論を参照しながら、進めていくうちに、実践理性批判、判断力批判というカントの三大批判の2つと絡めながら、「嗜好品」というささやかな人間の楽しみといったものまでが「目的」を達成するための「手段」という構図に巻き込まれていることを導き出す。

現代社会というか、消費社会というか、資本主義というかが、全てを「目的と手段の関係」に巻き込んでいっているというのは何となく思っていたことなのだが(特にシリーズ前作の「目的への抵抗」以来)、身近な嗜好ということでこれを示されると、何だかその議論のリアリティが身に染みてくる。

國分さんの本は、一見、過去の哲学者の解釈について細かい議論をしているように見えて、実はその解釈の先に彼独自の哲学世界がある。つまり、哲学者について研究しているのではなくて、哲学をしているというのが伝わってくる。

今回の本では、國分さんとしては初めてカントに言及するようで、これまでの長い研究史があるところで、遠慮がちではあるが、これが面白い。

カントによると、人間の認知能力には構想力、悟性、理性、感性があるということになっているらしいのだが、國分さんは、この4つの能力が、それぞれが独立したキャラで、人間の中でこれらのキャラが議論したり、せめぎあっているようなイメージで説明していく。

この辺りが、何だかドゥルーズ的で面白い。國分さんは、ドゥルーズの「カントの批判哲学 」を訳しているので、そのあたりの影響もあるのかな?

國分さんは、アーレントに対して批判的なコメントもしばしばしているのだが、著書ではアーレントの問題提起から刺激を受けているところもしばしば語られる。

この本でも、アーレントの「エルサレムのアイヒマン」に触れて、アイヒマンがカントの実践理性批判の「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法に基づいて行動することを心がけていたという驚くべき発言を取り上げている。ここから、國分さんは、カントの定言命法が実行が難しいだけでなく、場合によっては、それを実行することがとてつもない全体主義の悪を生み出してしまう可能性があることを指摘している。

たしかに、その可能性はあるかもしれないと思ったし、もう少し考えてみたいテーマではあるが、アーレントの言っていることの解釈としてはやや無理がある気がした。

アイヒマンの発言は、定言命法を正しく理解してそれに基づいて行動しようとしたのだが、ナチスの時代においては、「普遍的な立法の原理」を「ヒトラーだったらどう考えるか」に置き換えて行動していたという趣旨である。

そして、この「定言命法」の解釈は、アイヒマンの独自解釈ではなく、ナチス時代の法学者の理解に沿うもので、おそらくはナチのエリートが共有していた考えである。アーレントはそこまで含めて、このエピソードを紹介していたのだと思う。

つまりアイヒマンは「定言命法」ぽくみえる「仮言命法」(目的達成のための手段的な行為)に基づいて行動していたということで、どちらかというとある種の「仮言命法」の危険性の問題ではないだろうか?

ということは、全体の中で小さな話しではあるが、ちょっと気になったので、書いてみた。

全体として、とても思考を刺激する本だと思う。

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2025年01月20日

Posted by ブクログ

目的の有無、高次低次で快を分別
現代社会は目的有の快に寄っており、目的の手段化を危惧
(チェスのためにチェスをすることは許されない)

目的無で高次な快に分類される崇高・畏怖などは、
悟性と構想力で理解できない不快を超えて、
理性で概念として把握でき、そこに人間の可能性を感じ快を覚えるとのこと
なるほどと思い同意

個人的には無目的側の快が好みのつもり
ただ麻雀やポーカーの不確定情報ゲームが面白いと思うのは、
ゲーム自体にのめりこめているのか、ギャンブル性にあてこまれてるかはずっと前から気になっていた
明確な線引きはできないものの既に形骸化した手段の中でしか生きていないかもしれない

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2025年03月15日

Posted by ブクログ

目的があることだけが善いことではない。楽しいからやる。快適だからやる。善だからやる。美しいから見る。
目的に連関する、目的を達成するために行う手段が個人の生と社会を覆い尽くしている。
という内容。
目的志向みたいなものの虚しさと限界を感じていたがそれをある視点から言語化してくれた本。
とは思いつつ、目的に連関しないことに価値を感じられるか、喜びを感じられるか?と考えてしまう自分が、もう既に目的志向に汚染されているのだろう。

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2025年03月06日

Posted by ブクログ

この人の本は読む、と決めている人のひとり
手段や目的に囚われない受動的な享楽の大事さ。

ただ嗜好品以外にも楽しむことへ切り込んで欲しかったし、「暇と退屈の倫理学」での"消費ではなく浪費"からの発展はあまり無い気がした
読みが足りんのかもしれんけど

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2025年03月04日

Posted by ブクログ

前作の深掘りで、享楽を手段化することで物事を楽しめなくなるということを哲学的に捉えた本。何かしら趣味や生活習慣を高尚なものか・役に立つかを考えてしまっていることは誰でもあると思うので、難解なカントの哲学を用いていても平易な説明も相まってスッキリと入ってきた。

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2025年01月22日

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