國分功一郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
「暇だなぁ。どうにかこの時間を有意義に使えないものか」と読み始めた一冊。中身は思ってたものとだいぶ違い、先人たちの論を学びつつ、暇と退屈に付いて理解を深め、著書と一緒に熟考していく重厚なものだった。内容はとても深く、様々な意見に自身の考えを揉まれ、非常に頭を使わされたが、とてもよく整理されており、意外にも読みやすかった。手頃な自己啓発本とは違い、暇についての解決法は何度もじっくり読み返しつつ考えなければ答えを見つけられなそうだが、とても良いものを吸収できた気がする。
まぁ、難しかったけど倫理って首を突っ込むと簡単には抜け出せないくらい面白いものだぞってことがわかった!! -
Posted by ブクログ
上司に推奨されて読む。教養を付けるための入りとして読む。
物質や時間的余裕欲しさに豊かさを目指した結果、その豊かさに喜べない。また、暇や退屈の潰し方は広告などにより教えられている始末。暇と退屈にどう向き合うのが正しいかを考えるのが主題。
暇や退屈は定住生活により生まれ、過去脈々と苦しいものとして認識され続けているというのを過去の哲学者や経済史が示している。それらを振り返りながら、人間の世界の捉え方を認識し、暇と退屈への向き合い方を考えていく。
結論は、色々な環世界を創造しそれらを一つ一つ楽しむという「気晴らし」を継続してすることが人間らしい、暇と退屈との向き合い方であるとのこと。教えられ -
Posted by ブクログ
とても面白かった。何年も前からぼんやりと考えては、うまく考えが進まなかったことを、ずっと前の時代の哲学者がかんがえていたのだなあ、と感慨深かった。
スピノザの本質概念の転換のところがとくに面白く、いろんな人のいろんなあり方のそのままを肯定しよう、というやっと今になって広がってきた考えをそんなに前から考えていた人がいたのかあ、とびっくりしたし、スピノザの考え、いいなあ!と思うと同時に、哲学者の考えが難しいから全部賢い人のいうことだし、わからないけどなんか正しいんやろうなあ、みたいに思っていたのが、対比する哲学者の考えを知ることで、あー、そっちの理屈は肌に合わないわあ、とか、それは偏ってるんじゃ -
Posted by ブクログ
「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国 -
Posted by ブクログ
「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。
実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。
第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。
生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。
第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。
浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった -
Posted by ブクログ
行為する、されるといる能動と受動の対比には人の「意思」が中心にそえられる。「意思」それは、過去を担う「記憶」との対比として未来を担う器官とする考えであり
過去からの断絶を前提とする。行為の責任の帰属先を明確にするためにもその考えが必要な社会が現代である。しかし過去からの断絶とは本来的にありえない概念であり、何にも影響されない事象、行動はありえない。そうした意味でも現代の意思の定義はずれているかもしれない。
中動態とは能動でも受動でもない第三の態ではない。受動、再帰、自動詞の意味を含む根源的な人と世界の関わりのあり様をしめした態である。
言語の歴史的にも能動と受動の対立をベースとするパースペス -
Posted by ブクログ
「日常生活が目的の為の手段と化した皆に告ぐ。救いはあまりないが、ヒントはある。」
拒食症はご存知だろうか。
端的に言えば「食べたくても食べられない」病であり、現在私が罹患している病でもある。正確にはトレーニングを積んで飲み食いをゆっくりなら出来るが嚥下が苦手である。だがそこには「食事の楽しみを剥奪された人間」が確かに居る。
本書はカントの快の分類を援用しつつ、「目的や手段を持たない、純粋に快適を享受する」ことが「目的達成の為の手段としての‘‘病的‘’行為」に貶されないように、「目的ー手段」に人生を従属させないことを説いている。本書の例をアレンジするならばこう言えるだろう。「喫煙は快適を享受 -
Posted by ブクログ
現代社会では、あらゆる行動が何らかの目的に向かうことが当然視されている。
その結果、「第四象限の純粋な享受を守る」ことは、ほとんど不可能に思える。
目的を伴わない行動は奇異と受け取られやすく、自分自身もつい「何のためにやるのか?」と目的を探してしまうからだ。
そんな社会で、私ができるささやかな抵抗は、第三象限と第四象限のはざまを意識的に往復することだと考えている。
具体的には、
• 何かを成し遂げるための手段として行動しながらも
• その手段自体にも純粋な快を見いだし続ける
つまり「目的に向かいつつも目的に縛られない」問いかけを日常に散りばめる。
この生き方こそが、手段化された快の連鎖から自 -
Posted by ブクログ
記号化されたもの。
その最も象徴的な概念は「数字」だが、それを存分に纏った存在が「お金」や「偏差値(学歴ステイタス)」、「年収(これもお金だが、それに繋がる就職先や社会的ステイタス)」だ。本著の指摘で重要なポイントは〝記号は際限なく消費される“というもの。
大学に入るのがゴールではない、部長になるのがゴールではない、お金自体は目的ではないはず。しかし、記号化された、その二次的な価値自体を追い求めてしまう。著者はこれを「本来は手段であるはずのもの」と捉え、それに縛られて生きる社会に警鐘を鳴らしている。
本質を見失った人たち。
お金が欲しい。良い大学。出世がしたい。
それで、何がしたいの。た