國分功一郎のレビュー一覧
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我々のこの民主主義・民主制は、ある種の欺瞞のもと、何か別のものが民主的と呼ばれているにすぎないのではないかーー。そのような疑問から出発し、政治哲学の大家たちの論を紐解きつつ、彼らの「自然権」「主権」「立法」「行政」などの用語法の細かな異同に目を配りながら、何百年も前に提起された諸問題が今もなお熟慮に値することを明らかにしてゆく。
初めて書店で見かけた時は硬くストレートな題名には好感を抱きつつもこれで本当に売れるのかと心配になったが、数ページ読んでそれが杞憂であることを確信した。とにかく解り易い。変に奇を衒った所は全くなく、極めて簡潔な文体で淡々と論が進められてゆく。あまりに噛み砕かれると却って頭に残りにくいこともあるが、手軽さが重視される新書というメディアにおいてはこのシンプルネスは重要だろう。
立法権から行政権への秘密裏の権限移譲をジョン・ロックの建前主義に求めるくだりは舌鋒鋭く読み応えあり。ここがこの本の肝と思われ、立法権と行政権の遠近に関わるテーマはその後も繰り返し現れている。 -
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数ある対談本の中でも1,2を争う面白さ。
思想や哲学を生活に結びつけるということはきっとこういうことを言うのだろう。ショッピングモール、保育園、食など、誰もが身近に接するものから見える問題。そしてその問題との向き合い方のヒント。
今を代表する論者である國分功一郎氏と古市憲寿氏との対談はそれぞれの問題へのスタンスを明らかにする。國分氏は熱く、古市氏はクール。きっと大きな意見の隔たりもあるに違いないが、互いのリスペクトが対談を対立ではなく、協調へと導く。
対談自体もそうだが、批判の応酬からは問題の解決の糸口は見つからない。対談は最後は「反革命」というキーワードん出すが、まさにその通りで社会はマクロ視点からの批判では変わらない。現場でひとつひとつ変えてゆくしかないのである。
それは決して悲観するものではなく、地に足がついているが故に私には面白いものに思える。この対談自体がそうであるように。 -
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小平市都道328号線問題のような住民問題は、マンションや道路、ダム、ゴミ処理工場、最終処分場など、問題の構図として必ずと言っていいほど、《住民対自治体(行政)》の構図が浮かび上がってきた。そして、行政をチェックする機能としての議会も、行政の取り組みを認可するだけの役割に成り下がるだけの役割しか見えてこなくなっている…。
上記のような構図が毎回、テレビなどのマスコミで報道される。すると住民や世論は、そんな体たらくな行政を議会が正すべきだと、選挙の重要性をクローズアップする。要は「議会が機能すれば、行政が正常化する」と…。
本書をただ、小平市都道328号線問題がいかに行政がおかしいかを指摘した本だと思っていた。だが、読んでいくと、それ以上に、問題の構図が、上記のように挙げた、「民主主義についての意識自体が間違っているのではないか」ということを抉り出す。
近代政治哲学は、三権分立に代表されるように、「主権者が主体となって、議会、行政、裁判などに参画すれば、不備があっても少しずつ政治決定が行われて機能する」という大前提があった。だが、本書での指摘のように、議会で定められた制度や規則も、それを現実の個々の場面で判断・運用するのは行政官である。つまり、「政策決定・政治判断は、言わば、行政官の匙加減によって決められており、ここに主権者が参画することができない」ことが意識されていない。この問題がずっと置き去りにされてきたことを指摘する。それが如実に表れてしまうのが、小平市都道328号線問題のようなものと言うわけだ。
すると社会契約説などの近代・現代政治哲学は恐るべき欠陥を放置してきたことになる。そのようなスリリングさを著者の体験と専門分野の解説を織り交ぜながら、分かりやすく伝えてくれるのが本書である。 -
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ドゥルーズやデリダなどの研究を専門にする哲学者が、自らが住む小平市の道路建設に反対する運動に関わる過程で得た現在の民主主義への違和感と課題についてまとめられた本。タイトルにもなっている「来るべき民主主義」は著者が専門とする哲学者ジャック・デリダの言葉だ。「現在の民主主義を見直し、これからの新しい民主主義について考えることが本書の目的である」とのこと。
その内容を端的に言うと、実際の決定は行政機関によってなされるのに、立法権に間接的に選挙で関わることが担保されているが、行政権には公式にアクセスする手段がないということが問題だということになる。立法権の優越は、近代民主主義における欠陥だというのが著者の見解だ。そこには「多」と「一」を結びつけるというそもそも原理的に無理なことをやっているとの主張だ。
本書は小平市都道328号線施工反対を巡る市民活動がきっかけになっているが、いわゆる「市民活動」にまつわる'うさんくささ'にも触れられている。この問題は微妙な問題だ。小平市都道328号線の活動では、その微妙さに抗するために、「反対」と言う代わりに「議論への参加」を条件として住民投票を行っている。肯定的なビジョンこそが、市民運動を違うものにするための要件であるというのが、いわゆる「市民活動」を取り戻すための処方箋になるということだろう。
活動における行政とのやりとりの中では、住民投票の結果を50%の投票率がないと無効であるとの条例を住民投票の開催が決まった後に出してきたり、道路の必要性を示すためのグラフがあきらかに意図的にねじまげられた表現になっていたり、といったことが発生している。この行政機関の対応に関しては、この人たちの「動機」はどこにあるのか考えざるをえない。著者は、「住民と行政がうまく手を取り合える仕組みさえ作ってしまえば」と言う。行政も人なのであるから、その動機を知るべきだろう。組織における「体面」と「忖度」の問題がここでも発生しているのであれば、そこに対して対策を講じることが必要になる。
民主主義は、常に「来るべき」ものに留まるという。つまり、民主主義は常に改善されていく必要がある。今の制度が正であることは決してないということである。タイトルから、著者が「民主主義」のあり方を変えていく意志を見ることができるだろう。少なくとも今は「民主主義の名に値する民主主義は存在していない」のだ。完全なる民主主義はありえない。不断の改善のみが民主主義の名に値すると、そう主張しているように思える。それは行政機関にとって、困難であり、強い意志とときに組織外からの圧を必要とするものであるだろう。
具体的には審議会などの諮問機関を設けていくことを提案しているが、そこでは情報通信技術の向上の浸透による影響を考慮するべきであろう。今の間接民主主義の手法もきっと過去の技術的制約から来ている部分もあるはずである。その上で、「ツールとしての政治家」という考え方も有効である。そして同じく「ツールとしてのマスコミ」も。
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文中に「人の気持ちというのは何を言っているかというよりも、何を言っていないかを通じて見えてくるものだ。」とある。何を言っていないかは、長い時間を通してその人のことを初めて理解できるものだ。人と人とのつながりが前提になる。まさにその通りであり、また深い言葉だと思う。 -
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豊かな社会の道しるべ : 「小さな参加の革命」(3/3) 山崎亮×國分功一郎
この対談記事を読んで、読んでみたくなりました。
民主主義の胡散臭さに自然と距離をおきたくなる自分と、民主主義国家と言われる国に住む自分にとって何らかのカタチで上手いこと理解し、自分のスタンスを固めたいと思う自分が交差する中で、この本と出逢いました。
公務員であり、また市民活動を行政職員、市民団体、有志ボランティアと協働で行っている私にとって、この本の提案は、私が可能性を見出し、実践していることと、とても重なり合う部分が多かったです。
議会の変革のみならず、住民が自ら『自分ごと』を起点として、仲間と共に政策を考え、提案し、強い力を持つ行政と意見を交わしながら政策を練り上げていく仕組み…制度…が創れたらいい。
著者は、行政権に民衆がオフィシャルに関われる制度として、住民投票、審議会などの諮問機関の改革、パブリック・コメントを挙げている。
私は、それらの充実に加え、行政側に自治体内シンクタンクの立ち上げ、プロジェクトチームによる課題解決制度の創設、市民側に政策研究会の設立と政策提案制度の制定を挙げたい。
住民、市民と行政が互いに問題解決のために共に話し合い、議論し、政策を練り上げていく仕組み…制度をカタチ創って行きたいと改めて思った。
そのためには、行政の言葉と市民、住民の言葉を翻訳し、上手いこと絡め合いながら物事をじわりじわりと推し進めていけるファシリテーターが必要になる。
著書の中で、そのことについては、後半の住民参加ワークショップにおけるファシリテーターの役割以降で、述べられています。
この内容については、山崎さんの『コミュニティデザイン』、『コミュニティデザインの時代』を参考に‼
その他、政治を突き詰めれば、敵か友か…多と一を結びつける困難な営み…制度が多いほど、人は自由になれる…など、読み応えある部分がたくさんありました。
きっけとなった対談はコチラ -
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ネタバレ若林:國分さんの『はじめてのスピノザ』には、体験を伴った真理について描かれていますよね。それを読んでこんなことを思ったんです。25歳くらいのときに、面白かったら玉を転がすという番組に出て、100人くらいいるのに3個しか転がってこなかったんですよ。おそらく最低記録でしょう。そこで僕の真理はバラバラに崩れたんです。何が言いたいかというと、若い時って体験が伴っていないからこその自信過剰ってあるじゃないですか。それと、スピノザの言う自己を変容するくらいの確実性というのは、似て非なるものなんですかね。
國分:うまくお答えできるか分からないんですけど、僕も若いころ、学会で発表してボロクソに言われる経験があって、そのとき、自分には確実だって本当に思えているのに、それが受け入れられないことに猛烈に悩んだことがありました。若林さんがいまお話ししてくれたことと似た経験かも知れない。
今もあまり変わらないかもしれませんけど、でも、以前よりは自分が信じ込んでいることを距離をとって見ることはできるようになったかなと思います。それはやはり体験を伴った真理を以前よりも手に入れたからかなと思うんです。若いときは、自信が先行しすぎて、体験していないのに体験した気になっていたようにも思えます。
若林:キューバやモンゴルに行って思ったのは、承認欲求と所属の欲求の両輪があるとして、その2つが同じくらいのサイズだと人は安定するのかなということです。いままでの僕は、承認欲求のタイヤがめちゃくちゃデカくて、所属の欲求不満が強かったんですが、同じような走り方をしている人が多いんじゃないかという気がしています。
たとえば、Instagramで、フォロワーが何十万人いても、夜は孤独になってしまう。そういう感じの人はけっこういるんじゃないでしょうか。哲学って、そういう所属の欲求というか、仲間の意味に対してけっこう研究は積み重なっているんですか。
國分:承認についてはそれこそヘーゲルから始まる研究の伝統があります。でも、若林さんが承認と所属や仲間の問題を分けられたのは非常に鋭くて、他者から承認されることと、何かに所属したり、誰かと仲間になることって全然違いますよね。承認というのはやはりどこか独りぼっちなんですね。そして、やっぱり哲学には一人で考えるというのが基本にある。だから、さきほど言ったように、哲学は仲間みたいな関係についてはあまり考えてきてないと思います。
若林:それも興味深いですよ。思索ってひとりのものなんですか。
國分:そこが大問題なんですよ。若林さんの文章は、自問自答を台詞の形でよく書いていますよね。あれは素直な感覚として、自分の中で対話をしている感じがあるということですよね。
若林:そうですね。ずっと、自分としゃべっているような人間なんです。
國分:哲学の始まりにいるソクラテスもそう考えていたようですし、20世紀の哲学者ハンナ・アレントもそれを受けて、ものを考えることは自分と対話することだと言っています。孤独の中で自分自身と対話するのが思索なんだと。
アレントはそこから非常に大切な結論を導き出していて、思索は自分自身との対話であるから、思索を仕事にしている哲学者が一番やってはいけないのは、自分に嘘をつくことだというんです。自分に嘘をつくと、自分自身と対話できないんです。「お前、さっき、いいって言ったじゃん」「言ってないよ」となったら、自分の中で対話が進まないからものを考えることができない。
変に持ち上げるわけじゃないですけど、自問自答の形で書かれた台詞をみて、若林さんは自分に嘘をつかない人なんだろうなってすごく思ったんです。
國分:前回の対談から1年ぶりですが、この1年間はコロナで大変でした。大学は講義も会議も全部オンライン。でも、先週、やっと対面の授業ができたんです。そのとき最後に自分の率直な感想として出てきたのが、「オンラインではいったい何に時間をロスしていたんだろう」という疑問でした。オンラインより対面の方が圧倒的に効率が良かった。非常にたっぷりと話ができたんです。
授業ってどこか演劇に似ていて、毎回が舞台なんです。授業中に学生が質問してくることもありますけれども、それよりも、自分の発言が受けてるかスベってるか、その反応を受けて僕もその話題の語り方を学んでいき、学生はその内容を学んでいく。授業ではこれが猛スピードで繰り返されているんですね。思えば、いまはテレビを収録するスタジオにもお客さんがいませんよね。すごくやりにくいんじゃないかと想像しますが、どうですか。
若林:やりにくいです。相方は共演者を笑わせる方が得意なようで生き生きとしていますが、僕はきついですね。山里亮太と無観客漫才を2時間やったんですけど、反応がないから地獄でした。授業とか、一人で喋るって大変ですよね。この前選挙があったので政見放送を見ていて、当然、全員一人じゃないですか。あれって言葉に力を入れるのが難しいよなと。前にキューバに行った時知ったのが、カストロが革命広場で人を集めてスピーチしたら、6時間誰も帰らなかったらしいんですよ。エンタメじゃないですか。ラップみたいな感じもして、いま喋ることと気持ちの連動性に興味があるんです。
國分:カストロの6時間はすごいですね。普通じゃ考えられない。比べたらおかしいかもしれませんけど、前総理の菅さんの話なんて、聞いていても全然言葉が頭に入ってきませんでしたね。多分自分の口から出ている音声と意味が、自分の頭の中で結び付いていなかったんだと思います。官房長官時代から、事態をごまかすような発言を散々してきたから、むしろ、音声が持っている意味をきちんと受け取っていたら精神が危うくなっていたのかもしれません。その結果として、言葉が聞き手に届かない話し方が出来るようになってしまったのではないか。
若林:何が幸福なのかについての認識は多様化し、細分化されてきてるじゃないですか。高度経済成長の頃の日本の幸せ像はいまやばらばらになっている。テレビもゴールデンで冠番組を持っても、もうゴールじゃない。だから各々が何が好きかを考えることが始まったの、ここ数年だと思うんですよ。そうすると実は、哲学的なことを自然と皆がやっていますよね。自分で考えなきゃいけなくなっちゃった。だから今こそ、哲学は有効なんじゃないのかなと思うんですよね。
國分:本当にそう思います。さっき「頭の中で概念を組み立てて結論にたどり着く」って言いましたけど、これは様々な場面で必要な能力ですよね。ある概念をぱっとつかんで、理解して、他のところに応用する能力がビジネスで役に立たないはずがないので、哲学やってたのに就職がいいんじゃなくて、哲学やってたから就職がいいっていうふうになるはずなんですけどね。ゼミではずっとそう言ってました。ただ、哲学的なものの考え方が企業活動でも有効な面を持っていることは、いまではかなり理解されているかもしれません。企業の研修で哲学を講じてくださいという依頼はよくあるんですよ。
國分:いつも刺激がある状態に置かれていると、よっぽどの刺激がないとドーパミンが出ない状態に脳が慣れてしまうと言います。つまり退屈しやすくなる。だから集中力もつかない。都市にいてたとえばネットゲームとか過激なことしかない状況に置かれていると、そのような状態になってしまうのではないでしょうか。退屈しない人間というのは、本を読んだりお茶を飲んだりしただけでも幸福感が得られる状態をつくれている。たとえば、ネグレクトされたり、虐待を受けている子どもはずっと緊張状態に置かれているために、落ち着いた状態に耐えられなくなってしまうと言われています。
若林:芸人のレジェンドと呼ばれるような先輩たちを見ていて思うんですけど、一生使いきれないほどの資産を持っているはずなんです。でも仕事を辞めない。つまりお金じゃないんですよね。テレビで活躍するのは、ものすごく自己有用感を高めることだと思います。衣食住じゃ使い切れないぐらい金を稼いでも、そこから降りるということは非常に難しい。
國分:前の対談で当事者研究についてお話ししたと思うんですが、いまアスリートの当事者研究が盛んになっていると聞きました。トップアスリートでなくとも、小さい頃からスポーツを頑張ってきた人の引退後のケアが全然ない。だから、引退後の苦しくなった時にどうするかについて盛んに当事者研究が行われているとのことです。
芸を見せたり、創作活動をする人にも共通することがあると思います。活動を続けないと自分を保てない人たちは一定数いると思うので、そういう人は続けた方がいいですが、辞めたいのに辞められないとか、辞めた後に苦しくなるんだったら、それはサポートがあってもいいのかもしれない。こうじゃなきゃいけないというのではなくて、どうしたら張り合いがある生き方になるのかということだと思います。
若林:少し前ですが、若い世代で「チル」っていう言葉が流行っていた時があるなと感じたことがあります。シーシャを吸ったり、ゆったりする時間を持つのを大事にしている。学生さんと話していて、資本主義を推し進めてきた上の世代に対して、批判的だと感じることはありますか。
國分:批判的な勢力も増えていると思います。アメリカではZ世代というのがひとつの指標になって論じられもしています。他方で、若い世代を見ていると、この現状に何とか適応しながら生きる術を知っているという感じも受ける。Twitterで意見を言って炎上することがあるじゃないですか。そういう話を若いことしたら、「國分さんね、Twitterやインターネットは素直に意見を述べる場所じゃないですよ。夜道みたいな場所で、夜道は一人で歩かないでしょ」って言われたんですよね。その「夜道」の中でアカウントを使い分けながら、危ない場所を避け、友達と楽しく話したり、情報収集したりするんだと。これはデジタルネイティヴの子たちが身につけてきた適応の術なんでしょうね。
だから僕が「でも、僕がTwitterを始めた頃は、好き勝手なこと言って議論したりしてたけど」って言うと懐古趣味と言われる(笑)。これは資本主義ではなくインターネットの話ですけど、いろいろきつい中で、彼らなりの生き残り戦略を考えてきている。なので物申すぞっていうZ世代的な人たちもいる一方、この荒野のような世の中をどうにか生き延びようとしてる若い人たちも多いと感じますね。
若林:そうしないと生きていけないっていうのはあるかもしれないですね。これも若い子に聞いたんですが、婚活アプリでは40手前くらいの、いわゆる非モテだけどお金を持っているお医者さんに、23,4の女の子の需要がすごいらしいんですよ。若い子はそれだけでかなりモテて、おじさんが高いものを食べさせてくれる。でもこんなに歳の離れた人とは結婚できないとなって、同世代に目を向けると、まだお金を持っていないので魅力的に見えない。これは社会の断片だと思うんですが、それを聞いて、原始的な恋愛に戻っているんじゃないかと感じました。石器時代とかは強い男が当然モテただろうし、力のあるところに女性が集まった。つまり資本主義が進んで、人間関係が初期に戻っている。
國分:婚活アプリの話、非常に面白いですね。その話は、恋愛や結婚に関しても自由市場の考え方が完全に浸透したという風に捉えることができると思います。お金にしても結婚にしても、もともとはものすごく規制があったわけです。お金の流れというのも規制されるのが当たり前だった。例えば、1964年に海外渡航が自由化されても、外国に持ち出せる現金は年1回500ドルまでだった。海外との商取引にも規制があった。そもそも歴史の中でお金の流れというのはずっと規制されてきたものなんですね。
恋愛に関しても、放っておくと必ず誰かがあぶれてしまうから、お見合いや許嫁といった制度的な規制があった。それが生きていく知恵だった。でも近代に入って、皆がそれは嫌だと思ったわけです。もっと自由に生きたいと願った。近代文学においても、身分が違うから結婚できないというのは大きなモチーフでした。
ここで問題なのは、そうやって近代の人間がもとめた自由と、自由市場のもたらした自由が果たして一緒なのかということですね。
婚活アプリは、恋愛の自由市場が完璧に定着したところに登場した新しい株式市場みたいなものじゃないでしょうか。40前後の医者がその歳まで独身なのも、規制がゼロだからですよね。昔だったら結婚させられていた可能性が高い。
恋愛に限らず、人類史においては規制が大きな役割を果たしてきた。ところが、近代は自由を求めてそれらを次々に廃止してきた。その果てに、あらゆる場面を自由市場が覆い尽くすようになり、単に競争が激化した社会になってしまった。それはキツい。しかし、規制があった頃に戻るのは多くの人は嫌がるだろうし、もはや無理。これは後期近代の様々な場面に見いだせる普遍的問題だと思います。
若林:近代以前に戻りたいか、このままがいいのかはものすごく難しいですね。規制があった頃の文学を読むと今でよかったと思うし、でも今は今でシビア。婚姻率も下がっているし、少子化でもあるわけで、色々な理由があると思いますが、恋愛市場が自由化したのもおおきいですよね。
國分:何らかの形で安心を作っていけば、規制ではなくて、自由を保ちながら生きていける気がします。お金に関しても、安心がいくつものセイフティネットで保障されていれば必要以上に働く必要もない。恋愛や結婚にしても、生活に安心があれば、人が人を好きになるのは決して稀なことじゃないわけだから、どんどん減っていくことはないのではないか。じゃあ、どうやってその安心を作るか。それを考えないといけない。
若林:2月に東京ドームでライブ(「オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム」)をやったんです。僕らの世代ぐらいのディレクターの人は若いころからブラックな環境で働いていて、東京ドームのライブもブラックなことを経験してきた人たちでチームを作っていた。そうすると、1個の企画を考えるのに何日も深夜まで無駄にも思える話をするんですよ。やっぱりこれって楽しいなと思っちゃった。
國分:それは分かります。
若林:効率もいいんですけど、効率重視世代の新しい世代の作品を読んだり見たりしても、なんかあんまり面白くない。僕のOSが古くて感動できないだけかもしれないけど、僕はこのOSでやっていくしかないしな、と。やっぱり好きなんですよね、非効率なただ熱い時間が。そればっかりでは良くないんですけど。
國分:世の中的にはコンプライアンスが大事だし、非常に難しいとも思いますが、熱くなって夜遅くまで話し合いをすることがあってもいいんじゃないですか。強制してはいけないのは分かるけど。でも、それがちょっとでも強制っぽく見えるといけないっていうんで、四角四面にこれは駄目ですって言う規則が増えちゃっているんですよね。
若林:そうですよね。だからフロー状態に入ってるメンバーで会社のチームができて、その人たちが走っちゃうことまで良くないよねって、そこに規則が侵食してくるのはもったいない気もする、くらいの話かも知れないです。
國分:どうしたらいいのかな。人間が仕事や勉強をする時に、なんの強制力も働かないことはあり得ないと思うんですよね。宿題とか強制じゃないですか。もちろん僕は強制に賛成したいわけじゃないし、そしてこういうことを言うと、ドラマの『不適切にもほどがある!』みたいに受け止められちゃうから難しいんですけど昭和を肯定したわけでもない。
ただ、人間が熱中することを阻害するような規則が次々とできることは、おっしゃる通り大変もったいないことだと思うんですよね。働くときはがんがん働いて、もっと休めばいいと思います。週休3日ぐらいにして、働いている日は1日くらい徹夜するとか。
若林:本当にそうだなと今思ったのが、昔のおやじたちは土日、完全に休んでたじゃないですか。スマホとかないから。だけど、我々は日曜日にショッピングモール歩きながら仕事をしている。頭のどこかで、この時間って休んでいいんだっけと思っているのが不健康な気がします。メールで「あれどうなってますか」が入ってくる時もあるし、メリハリが利いていないんですよね。
國分:それはみんな感じると思います。有給休暇も絶対に取らせなきゃいけない法律があるわけですが、大学だと本当にナンセンスなんですよ。僕らなんて裁量労働制なので毎日職場に行くわけじゃないから、有給休暇を取るのはあまり意味がないんですよ。なのに、取らないと学部長が処罰の対象になる。だから、あまり忙しくない時期に有給休暇取得の手続きをする。実際に人を休ませるんじゃなくて、むしろ手続きをする時間を僕から奪ってるんですね。
國分:選挙は本当に時間がないですよね。そもそも民主主義は時間がかかるもので、時間がなければ考えることも調べることもできない。
あと、労働で疲れ切っていたら民主主義はできないですよ。疲れたら考えられないし、調べられないから。だから、みんなが疲れたってなってる社会は、もう民主主義が死んで、面倒くさいから誰かやってくれっていう、独裁制が望まれる社会なんですよね。
若林:民主主義にかける時間がない、その末にこの間の都知事選の掲示板あるんだと思ったら、恐ろしいです。でも時間もないし、資本主義のほうが力が強いから、誰のせいでもない気もします。だから止まらないんでしょうね。
國分:若林さんは大学院生に講義をしてもらって、それがいろんな気づきになっていると前にもおっしゃっていましたよね。それは本当にいい話だと思います。現実と和解し始めた時、「もっとこうしておけばよかった」というのは、誰にでもあると思います。その時、知識や学問、哲学と言ってもいいと思うんですけと、そうしたものが自分の中に少しでもあると、そこからまた気づきを得ることができる。若林さんが茫然自失することにはならず、自分が納得することを大事にしていきたいと自信が持てるようになったのも、知識がちゃんとあるからですよね。
この対談を通して読んでいただいた方には、ちょっとした知識、例えば「ネオリベって初めて聞きました」でもいいんですけど、それが元になって、こうしていきたいという自信になって欲しいと思います。自信というか、確信かな。これはこうであるっていう確信がないと、人間は本当に生きづらいと思う。
若林:カルト宗教とかでも閉じ込めて、外部の情報を入れないようにするじゃないですか。ネオリベの大きな枠組みの中で、外からの刺激や風穴を開ける針が入ってこないと、その中で地獄の回し車が始まっちゃう。だから、勉強というとちょっとお堅い言葉になっちゃうけど、知識は大事ですよね。
國分:ネオリベや「設定された目的-手段」の独占状態は、まさにカルト宗教と一緒だと思います。その外側があるって思わせないんだから、本当は外側がバリバリにあるわけで、それに気づいて行動をしないといけない。
若林:ネオリベの外側を作らない力はすごいですよね。でも郊外に住んで気がついたんですが、東京を抜けるくらいで、ネオリベの帳が実は終わるんですよ(笑)。勉強だけじゃなくて、エンタメや推しを見る、音楽を聴くなんかも、水を差すというか、外側を知る感じになりますよね。
國分:空気に対して水を差す。そしてこのネオリベというカルト集団の外側に行くと。
若林:この対談も、本屋で目的と手段がなきゃダメなんだっていうネオリベの本の隣において欲しいですね。なんか爆弾を仕掛けてあるみたいな感じで。
國分:ビジネスマンとかで本当にちょっと怒る人がいるんじゃないかなと思って、心配にもなります(笑)。
若林:僕はビジネス書を読んでて、20代はブラック気味に仕事して強みを見つけて、30代でその強みをもとに、社会的資本で仕事すんだよ、みあたいなのが嫌なんですよ。だって20代で死ぬかもしんねえしって、思う。「享受の快」でも哲学でもカウンターパンチを1個2個自分で持っておくのは大事ですよね。
いま子どもを幼稚園に送った後に、喫茶店でネタや話すことを考えている時間が本当に好きなんです。もしかしたら、舞台でそのネタをやるより好きかもなと思うくらいです。それが僕が見つけた「享受の快」で。なので、これを読んでる人に勇気を持ってほしいと思います。それがネオリベの帳にワインをぶちまける力になる。
國分:若林さんがおっしゃった、勇気という言葉がじわじわ沁みてきています。勇気を持つためには確信が必要。確信を持つためには、知識、認識、勉強、哲学、なんでもいいけど、まずはネオリベの帳の先があることを知るだけでいい。それが伝わることで、「設定された目的-手段」の独占状態を変えられる気がします。この対談が、その手助けに少しでもなればいいですね。AIの普及で大忙しになったら、また違う問題が出てくるかもしれないですが(笑)。 -
Posted by ブクログ
好きな人×好きな人の対談は面白いのか?
そりゃあ面白い
良かった
So Good!
急に英語、どうした?
まぁいい
とにかく良かった
若林さんが感じた雑多な事柄に、國分先生が哲学的な解答を提示する
そんな構成が多く見られた
でもベクトルは逆に向いてたんじゃなかろうか?
実は哲学的な話を若林さんの疑問が「解説」となっていたような気がする
これってこんな気持ちを表現するために生まれた考え方なんじゃねーか?みたいな
まぁ、とにかく頑張り過ぎないことが大切
わいは二人の対談からそんなことを受け取った
お二人はもしかしたら、いやこんなことは渡してないと言うかもしれんが、こっちの勝手である
以上 -
Posted by ブクログ
とても面白かったです。
若林さんの「表参道のセレブ犬〜」と國分さんの「暇と退屈の倫理学」のファンとしては必読の書でした。
また、最近「急に具合が悪くなる」を読み、映画も観た自分にとって、資本主義の限界と「人間」という自然の生き物である我々との相性の悪さを感じていたのですごくタイムリーな話題でもありました。
若林さんは「表参道のセレブ犬〜」の頃から一貫して、ずっと「資本主義」「新自由主義」「成果主義経済」のような今の社会を動かすシステムに対して、"今の社会の第一線にいながらも"疑問を持ち続けているのがとても面白い方だなと思います。
私自身も今後の働き方や生き方について、どういう方法が一番幸せなのか改めて考えるきっかけになりました。