國分功一郎のレビュー一覧
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暇とは何か。退屈とは何か。それは本当に主観的な感情なのか。それとも、近代社会が構造的に生み出した状態なのか。
著者である國分功一郎は、古代から近代に至る思想史を横断しながら、退屈を倫理の問題として再定義する。
刺激過多の社会において、私たちは退屈を回避することに最適化されている。しかしその回避行動そのものが、実は退屈の深化である。この逆説が中々目から鱗。
退屈とは、世界との関係が断絶した状態であると同時に、新しい関係を開きうる契機でもある。刺激を消費し続けるのではなく、世界を再び見るための余白。それが退屈。
正直に言えば、私はこれまで「暇」や「退屈」について真剣に考えたことがほとんどなかった -
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前半は歴史的・政治的な話が多くてスっと入ってこないところがあったけど、後半は日常生活に当てはまって面白くて一気に読んじゃいました⚑⚐゛︎︎︎
特にハイデッガーの退屈の形式→環世界の話がすごく刺さった!
【 個人的なまとめ 】
~ 退屈の種類 ~
①第一形式…何かによって退屈させられること
⇒ 自分の今の生活にはほとんどない。例えば電車の時間(約15分)は仕事のお客様とのやりとりLINEと1日の振り返りを書くのに使うけどそれは自分にとって大事な時間で、そうじゃない時は本を読むようにしている。昔は退屈の気晴らしに携帯でSNSを見る毎日だったけどそれを辞めてからすごく有意義。大好きな仕事なので研修 -
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・とても読みやすい。一文の区切りが短いのと、情報の出る順番が丁寧だからだと思う。Aという主張をするために、前提となる情報を出す。この基本に忠実な文体。新しい情報を出す前に入念に復習や補足まで行なってくれる。優しい塾の先生みたいなやり方だと思った。
・消費と浪費は違う。モノそのものの価値ではなく、それが新しいだとか、みんなが使っているだとか、そこに付与した記号を買わされることを消費と定義されていた。三宅香帆さんの著書「考察する若者たち」で言及されていた、「報われ消費」と近い考え方だなと思った。
・消費というと、現代ならスマホが一番近いような気がする。スマホには天井がない。延々と続く情報の海に -
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スピノザの主著『エチカ(倫理学)』。その難解な迷宮に足を踏み入れるための地図として本書を手に取った。そこで示されていたのは、「どのように生きるか」という問いに対する、現代的で力強い視点であった。
1. 世界の捉え方:神の「副詞」としての人間
スピノザが説く神とは、外部をもたない自然そのものである。私たちは自立した個別の「名詞」ではなく、神(自然)という唯一の実体が特定の現れ方をした「様態」に過ぎない。
本書で著者が用いた「私たちは副詞のような存在だ」という比喩は、非常に腑に落ちるものだった。私たちは独立して存在するのではなく、神という存在の「あり方」を表現している一つの現れなのだ。この世界 -
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本格的にドゥルーズの解説を試みた本で、
非常に難しい。
どの程度理解できたかは不明。
気になった点は2点。
ドゥルーズの単著では唯一、提唱されているものと言っていいと思われる“無人島”という概念について。
“他者こそが対象の対象性を保証しているとするならば、他者を欠くと自我を想定できない”。
そもそも主観と客観というものが一般のレベルで意識されるようになったのは近代以降になる。
その後、欧州から個人主義が広まって今日に至る。
他者と他者のニッチにしか自我が存在しないなら、
例えば、『自分探しにインドに行った人』は『インドに行ったことがある人』というニッチが得られるのかな、とか。
自分を探すに -
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「贈与」や「利他」がタイトルに含まれる本が増えていますね。
現代に生きる私たちは、交換や利己によっぽど疲れているのでしょうか。
ただ「贈与」や「利他」に漂う胡散臭さがあるのも事実。
結局人間は純粋に利他的には生きられないのではないか。
最近、私の考えていたことです。
この本を読んで、その考えは合っていると感じるとともに、
利他は意図せずしっかりと存在することも実感できました。
それは自分という器を誠実に生きるということ。
自分が全力になれることを全力でやることが、人類の歴史や系譜に奉仕することになるという作家・磯﨑憲一郎さんの言葉は、私たちの迷いを幾分和らげてくれるのではないでし -
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とても面白かった。何年も前からぼんやりと考えては、うまく考えが進まなかったことを、ずっと前の時代の哲学者がかんがえていたのだなあ、と感慨深かった。
スピノザの本質概念の転換のところがとくに面白く、いろんな人のいろんなあり方のそのままを肯定しよう、というやっと今になって広がってきた考えをそんなに前から考えていた人がいたのかあ、とびっくりしたし、スピノザの考え、いいなあ!と思うと同時に、哲学者の考えが難しいから全部賢い人のいうことだし、わからないけどなんか正しいんやろうなあ、みたいに思っていたのが、対比する哲学者の考えを知ることで、あー、そっちの理屈は肌に合わないわあ、とか、それは偏ってるんじゃ -
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「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国 -
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「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。
実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。
第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。
生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。
第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。
浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった -
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行為する、されるといる能動と受動の対比には人の「意思」が中心にそえられる。「意思」それは、過去を担う「記憶」との対比として未来を担う器官とする考えであり
過去からの断絶を前提とする。行為の責任の帰属先を明確にするためにもその考えが必要な社会が現代である。しかし過去からの断絶とは本来的にありえない概念であり、何にも影響されない事象、行動はありえない。そうした意味でも現代の意思の定義はずれているかもしれない。
中動態とは能動でも受動でもない第三の態ではない。受動、再帰、自動詞の意味を含む根源的な人と世界の関わりのあり様をしめした態である。
言語の歴史的にも能動と受動の対立をベースとするパースペス -
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「日常生活が目的の為の手段と化した皆に告ぐ。救いはあまりないが、ヒントはある。」
拒食症はご存知だろうか。
端的に言えば「食べたくても食べられない」病であり、現在私が罹患している病でもある。正確にはトレーニングを積んで飲み食いをゆっくりなら出来るが嚥下が苦手である。だがそこには「食事の楽しみを剥奪された人間」が確かに居る。
本書はカントの快の分類を援用しつつ、「目的や手段を持たない、純粋に快適を享受する」ことが「目的達成の為の手段としての‘‘病的‘’行為」に貶されないように、「目的ー手段」に人生を従属させないことを説いている。本書の例をアレンジするならばこう言えるだろう。「喫煙は快適を享受 -
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現代社会では、あらゆる行動が何らかの目的に向かうことが当然視されている。
その結果、「第四象限の純粋な享受を守る」ことは、ほとんど不可能に思える。
目的を伴わない行動は奇異と受け取られやすく、自分自身もつい「何のためにやるのか?」と目的を探してしまうからだ。
そんな社会で、私ができるささやかな抵抗は、第三象限と第四象限のはざまを意識的に往復することだと考えている。
具体的には、
• 何かを成し遂げるための手段として行動しながらも
• その手段自体にも純粋な快を見いだし続ける
つまり「目的に向かいつつも目的に縛られない」問いかけを日常に散りばめる。
この生き方こそが、手段化された快の連鎖から自