【感想・ネタバレ】中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)のレビュー

あらすじ

誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態”に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。時代を画する責任論を新たに収録。

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Posted by ブクログ

「免責が引責を可能にする」
この一節に私はしびれた。

なにかミスがあると、世の中では「責任をとれ!」という話になる。言い換えれば「このミスを犯す意志を持ったものは誰か?」というお話。本書では、このような「意志によって根拠付けられる責任」を「堕落した責任」と呼ぶ。

責任とは、そういうものではない。責任とは応答することなのだ、と。そしてその応答としての責任の生成は、実は免責※によって生まれる、と本書はいう。

※ここでいう免責とは、無罪放免にする、という意味ではなく、自らの行為が、意志ではなく、無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きのことを指す

この考えに、私は驚いた。
コペルニクス的転回!
そして全く考えたこともない発想だったけれど、ものすごく腑に落ちる気がしたのだ。

國分功一郎さんの本は、確かに咀嚼するのに時間がかかる(そして私はまだ咀嚼しきれていない)のだが、そこから得るエッセンスがもたらす思考的影響が、半端ない。

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2025年12月04日

Posted by ブクログ

「読んでて難しい」「難解だ」と感じる人ほど(少なくとも私はこちら側だと思う…)、「能動↔︎受動」の言語に基づく思考体系に浸かってしまっているということなのでしょう……


中動態について、言語の歴史やスピノザ哲学など、あらゆる側面から國分先生の哲学論が展開されていきます。難しくても読み終えて初めて「中動態の世界」の入り口に立てるのかもしれない。
最後に能動態↔︎中動態的思考から「責任論」に話は移行していきますが、社会の分断が進む現代社会が進むべきヒントを与えてくれるカギとなるのではないでしょうか。

「暇と退屈の倫理学」でもあった通り、本書もまた「(理解しきれない部分があったとしても)通読してはじめて意味を持つ」のだと感じました。


この感想を読んでくださった方も、なにかのご縁だと思って、たとえ本書を読み始めてから難しいと感じたとしても、最後まで読んでみてほしいです。。

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2025年11月09日

Posted by ブクログ

斎藤環さんが紹介されていたので読んでみたのですが、この夏一番の読書になったように思います。

中動態の「世界」とタイトルしているように、中動態をめぐっての哲学や言語学の先人達を批評していかれているからです。大変ではあったのですが、書き手の丁寧な記述で、ポイントを繰り返し確認しながら、読み進めることができます。斎藤さんによれば、思想界にもインパクトがあったとのことでしたが、デリダやドゥルーズといった20世紀末に流行った哲学者も批評の対象になったからだろうと思いました。

中動態についていえば、これと関連して、以下の記述でポイントを押さえることができるかと思います。
「自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為するものは自由である、と。」
「自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。」
スピノザのいう自由に向けての実践的な示唆なのですが、ギリシア悲劇だけでなく、自己治癒的な物語を読んでいくことも実践の一つだろうと思いました。

「責任」については、責任を負うことになる当事者が目の前にいるだけに、より課題が大きいように思います。
「たとえば当事者研究で、「家に火をつけてはいけない」という世俗的な規範をいったん脇に置いて、自分が火を付けたときのことを他人事のように下達とき、そこは一度面積される空間だと思います。でも不思議なことに、その面積の段階を経て初めて、引責が可能になる。」
免責の空間を経て引責が可能になるステップや有り様について、これを多くの人で共有できる記述が必要なように思いました。

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2025年08月28日

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主体と行為について、能動態や受動態だけではなく、中動態の視点で解釈することで、意思や責任について捉え直すことができる

言語学や哲学の議論の一般書として、また意思や自己責任を通じて感じる生きづらさや孤独感に対する問いかけとして、興味深く読むことができた

主体と行為の関係については、龍樹(ナーガールジュナ)の「中論」に登場する「運動の考察」と、直接的ではないものの通底する思想を感じた

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2025年08月25日

Posted by ブクログ

出版当時から書評をみて気になっていた本を、ようやく文庫で読みました。
言語学の世界を入口に、これほど豊潤で人間的な世界を再発見するなんて。
途中、言葉の歴史を推察し、意思と言葉の関係を定義し、哲学を読み直し。
古代の人に意思はなかったという主旨の本があったが、その曖昧さも払い。
一度見えなくなった世界を再発見するのが、どれだけ困難で素晴らしいか。
その感動を味わいながら、読み終えた処です。著者には感謝しかないです。
それと、この読み応えのある本が数十万部も売れるこの国も素敵だと思う。

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2025年07月12日

Posted by ブクログ

やはり最高に面白い。単行本版を読んでから数年の間に國分功一郎さんの著作も『暇と退屈の倫理学』『責任の生成』『言語が消滅する前に』『目的への抵抗』などなど読んできていたので本書の議論についても新たな気づきや理解が深まるところが多かった。補遺も國分さん自身が思考を深め、進めてきているから社会的な実践に関わるポイントが明快で素晴らしい。

個人的には最近國分さんとは別の角度からアーレントのことを考えていたのでアーレントが「区別」の人であることに色々と思いを馳せた。

國分さんがアーレントに質問したかったこと、私も私なりの関心から同じことを聞いてみたい。

“一度でよいので実際に会ってお話をしてみたかった。「ビリーもクラッガードもヴィアも我々そのものではないでしょうか?アレント先生には彼らのようなところはありませんか?」ーーーその際におうかがいしたかったことはただ一つこれである”

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2025年06月23日

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中動態の世界を読んで、明日生きやすくなる哲学というより、今自分が置かれてる状況と感情を正確に捉え直したくなる哲学だった

また今後の人生で、受動態や能動態を認識した際に、中動態を意識せざるを得ないインパクトを自分にもたらした

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2025年06月07日

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ネタバレ

かつて、出来事を描写する言語は、行為を行為者に帰属させる言語へ移行した。ここで、選択(プロアイレシスorリベルム・アルビトリウム)と区別される意志が、本来多くの要素の協働から実現される過程であるはずの行為を、ある主体に私有化させその責任を占有させることを可能にする装置として現れる。
名詞から非人称動詞が生まれ、非人称動詞から中動態が生まれ、中動態から、自動詞、自発、受動態が派生したと考えられる。ひいては、能動態も中動態から派生したと憶測することもできる。中動態と能動態が対立するパースペクティブは、やがて能動/受動のパースペクティブに取って代わられ抑圧されたが、現在の言語でも例外的なイディオムという形で、症候として存在している。
現在の能動/受動のパースペクティブは、行為の責任の所在を尋問する性質をもち、その責任をもたらす装置としての意志の存在を前提とする。ハイデガーは、このパースペクティブひいては意志の領域から脱却し、中動的な実存に自らを放下することを説いた。
ライプニッツは、深さたる実体を条件として表面に出来事を纏い、その出来事の効果の表現としてモナド=個体と発現するとした。それぞれの出来事が両立可能な状態で分岐し系列を成し、諸々の系列が収束した束として世界は発生する。
ライプニッツの論を「静的発生」とし、対してドゥルーズは「動的発生」を唱えた。この論では、動詞の不定法が名詞に優越する。ただし動詞は、行為ではなく出来事を表現する。ここでは、名詞の格変化(エピクロス派:原子の傾き)と行為、動詞の活用(ストア派:出来事同士の接合)と反応過程がそれぞれ結びつく。
スピノザは、神即ち自然を唯一の実体とし、実体が様々に変状して表現された様態として全ての個物が存在するとした。各々の様態は実体がどのような仕方で存在できるのかという副詞的な表現だといえる。ここでは、内的原因たる神がその結果である個物において自らの力を表現する。個物は絶えず他の個物から刺激や影響を受けて変状するが、様態のあり方はあくまで中動的である。個物の本質は変状する能力と定義でき、それを司る力としてコナトゥスがある。受動態、自動詞、再帰を内包する中動態のように、刺激を受けて変状しその変状の影響を自らも受ける。スピノザは能動/受動を行為の方向ではなく、個体が受ける刺激と力としての本質という、二つの変数の度合いに依存する変状の質の差として説明する。私に起こる変状が私の力としての本質を十分に表現するとき私は能動=自由であり、外部からの刺激の影響に変状を支配されるときそれは受動=強制である。コナトゥスの作用及び変状する能力の表現は一人一人異なる。自由意志の存在は否定されたが、本質を十分に表現する意味での自由は追求できる。世界が中動態のもとにあることを認識することで、自らのコナトゥスのあり方に思惟が及び、それを明晰に認識することで、強制から脱し自由への道が開かれる。
人は、身体ないし気質、半生ないし感情、歴史ないし社会などを背景に、完全に自由ではいられない。一方で完全に強制された状態にもなりえない。中動態の世界を認識することで、少しずつでも自由に近づくことができる。

補遺
善悪ではなく徳と悪徳によって社会秩序は保たれる。徳を司る法は責任の所有者として近代的個人の存在を前提とする。この意味での、能動/受動のパースペクティブに基づく責任は帰責性と言い表せる。対して、本来の意味での責任とは応答能力であり、行為の原因を個人の意志ではなく先んじる数多の刺激とそれに応答して起こる変状に求め、当事者研究的に中動的に分析することで立ち現れる。ギリシア悲劇において、応答能力としての責任は神的因果性に対応し、帰責性は人間的因果性に対応し、二つは混同せずレンマの状態で共存する。同様に、中動/能動(力としての本質、応答能力たる責任、行為のコミュニズム)と受動/能動(近代的個人、帰責性、行為の私的所有)も二律背反のまま共存しうる。

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2025年04月24日

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行為する、されるといる能動と受動の対比には人の「意思」が中心にそえられる。「意思」それは、過去を担う「記憶」との対比として未来を担う器官とする考えであり
過去からの断絶を前提とする。行為の責任の帰属先を明確にするためにもその考えが必要な社会が現代である。しかし過去からの断絶とは本来的にありえない概念であり、何にも影響されない事象、行動はありえない。そうした意味でも現代の意思の定義はずれているかもしれない。

中動態とは能動でも受動でもない第三の態ではない。受動、再帰、自動詞の意味を含む根源的な人と世界の関わりのあり様をしめした態である。
言語の歴史的にも能動と受動の対立をベースとするパースペスティブは新しいものであり、その枠組みにとらわれていると説明できない言葉がおおくある。
我々は気質、感情、社会の影響を受けてしまい、本当に自由に行動することは出来ない不自由な生き物である。だが完全に受動的であり、意思なるものがないわけでもない。完全に自由でもなく、完全に不自由でもない。中動態の世界をもって我々自身を認識することが求められる。
また意思なき中動態の世界は無責任の世界ではない。責任とは自身が責を負い、受け入れ、かわることであるため中動態の考えをもってなされるべきである。
能動と受動の関係から、意思があることを責任の根拠とすることは本当の責任をおうことにつながらないこともある。
神的因果性と人間的因果性の矛盾を受け入れ維持する‐「私は加害者であるが被害者である。だが、被害者であるが加害者てある」‐。これが人間の生き方の一つの考え方の提起なのかもしれない。

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2025年09月21日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自由意志の否定、行為は意志を原因としない
言語は思考の可能性を規定する
選択と意志の区別は明確である
権力と暴力
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行
中動態は主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティブにおいて理解されねばならない
異なった仕方の変状
完全に能動たりうるのは神のみ。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる
変状の画一的な出現を避ける
中動態の哲学は自由を志向する
妬んでいる時人は相手に自分を見ている
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない
善の性質を身に纏うことで、相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する
意志概念の切断機能

理解度が正の2次関数のようだった。中盤はかなり難解だった。ただこの考えは自分が考えていた能動受動の曖昧さをうまく言語化してくれた。読解力の向上と哲学的背景の知識を得て再挑戦したい。

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2025年09月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。

1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。

暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。

中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。

ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。

行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。

國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎

個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。

自分の中でまた追求欲が出てきた。
正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。

ごちゃついた感想になったけど、
また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。

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2025年08月30日

Posted by ブクログ

能動態-受動態の対立する枠組みで物を考えることは現代人にとって至極当たり前のことに感じられる。しかしながら、歴史を遡ると言語にはより古いところに能動態-中動態という対立軸があった。
能-受の対立に強く結びつく意志と責任の概念が、能-中の対立のもとで批判され、意志概念の不可能性が明らかになる。
さらに、補遺では意志なき能-中的世界観の中における責任とは何かの論考が追加されており、論のさらなる進展が見られる。
「暇と退屈の倫理学」と比較して言語的な分析が大半をしめており、ある程度言語哲学に慣れていないと読むのは少し大変かも。

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2025年08月11日

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「意志」とは何か、という哲学的なテーマを、〈中動態〉というかつてあった文法的な概念から読み解いていく。現在当たり前となっている〈能動態⇔受動態〉だけでは説明がつかないことも、中動態という概念が加わることで絡まった紐が解れる。「暇と退屈の倫理学」同様、このほどけていく過程を楽しめる一冊です。

英語でも、受動態なのに能動的な意味の表現があったと思います。ああいうのも、中動態が歴史的に除かれていってしまったことによる弊害のようです。

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2025年07月14日

Posted by ブクログ

読み進めるのに苦労したけれど、最終章で急に理解しきれなかったここまでのことが、像を結ぶような感じがした。
しばらく置いてもう一度読んでみたい。

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2025年07月04日

Posted by ブクログ

124ページすごい。ある、は主体的な行動であるとはみなされていない。よかった!本多勝一の日本語の本で主語に関しての議論をこの間読んだのとリンクしてた。ここら辺はやはり日本語使いの方が理解しやすいのだろうか。この間、日本語好きな香港人と話したんだけど、主語がないとか最高だから日本に永住したいって言ってた。意思と責任とかの議論もよい。

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2025年06月27日

Posted by ブクログ

受動態vs能動態の対立は、思っていたより私の思考にべったり貼り付いていたのだな…と思った。1番の原因はやっぱり英語教育かもしれない。「する」の反対は「される」であり、受動態の文は能動態の文で書き換えができるものなのだ、と。染みつきすぎているその当たり前から、読みながら少しだけ自由になれた気がする。

「なんだか理由が分からないけれどすき」なものってある。明確な理由は思い浮かばないけれど、なんとなくいつも選んでしまうもの、傍に居る人、足を運んでしまう土地。こういうものを敢えて説明しようと試みるとき、中動態という概念が必要なのかもしれないなー、なんて。両極に位置するものではなくて、質の差として考えた時の受動と能動のちょうど真ん中らへんの、心地よいところなのかもなー、なんて。
思いつきのこういった考察をこれから自分でブラッシュアップしていけたら楽しいだろうな。

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2025年04月27日

Posted by ブクログ

難解だけれどどうしても分かりたくなる!読み進めたい!と思わせてくれるのは筆者の丁寧な先行の哲学の精読と確かな(そして誠実な)筆力によるものと思います。ただ難解でとっつきにくい本と感じて読まないのはあまりにも勿体ない、難解だけれど確かに分かる・共感できる部分がたくさんある、哲学によって人を救済したいという真摯で優しい願いを不思議と感じられる書籍。
哲学用語や言語学の用語、概念など難しいところは検索したり調べたりしつつの読書となりましたがとっても有意義な時間になりました。

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2025年04月03日

Posted by ブクログ

●意志と責任について、思考の拠り所となる言葉の側面から考え、能動態と受動態の対立からなる思考ではなく、どちらにも属さない中動態から意志と責任をめぐる諸問題を分析した本。
●非常に読み応えのある本だった。本書のキーワードは、「中動態」と呼ばれる聞きなれない言葉だ。現在の文法には、能動態と受動態があるが、かつては受動態ではなく中動態が機能しており、のちに中動態から派生して受動態や自動詞が生まれたと本書では解説している。本書では、意志という概念を否定して、中動態の世界における責任のあり方を提示した。意志とは、何某かの加害行為について帰責性を問うために、突如出現する無根拠な概念であると説明する。このようは意志なるものから生ずるものとは、「誰かのせい」にして責任(のようなもの)を負わせる立場でしかない。このようなものは「責任」と呼べないというのが本書の主張だという理解をした。

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2025年11月24日

Posted by ブクログ

自分で何かをする「能動態」でも、誰かに何かをされる「受動態」でもない、「中動態」という概念が古代の言語にはあった。誰かを好きになるのは、自分の意志なのか。依存症に陥るのは、その人の意志が弱いからなのか。自己責任論が跋扈する現代社会に於いて、その概念は昨今の様々な出来事について大事な視点を齎してくれる。非常に有意義かつ面白い知的冒険だった。

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2025年10月21日

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