【感想・ネタバレ】中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)のレビュー

あらすじ

誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態”に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。時代を画する責任論を新たに収録。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

かつて、出来事を描写する言語は、行為を行為者に帰属させる言語へ移行した。ここで、選択(プロアイレシスorリベルム・アルビトリウム)と区別される意志が、本来多くの要素の協働から実現される過程であるはずの行為を、ある主体に私有化させその責任を占有させることを可能にする装置として現れる。
名詞から非人称動詞が生まれ、非人称動詞から中動態が生まれ、中動態から、自動詞、自発、受動態が派生したと考えられる。ひいては、能動態も中動態から派生したと憶測することもできる。中動態と能動態が対立するパースペクティブは、やがて能動/受動のパースペクティブに取って代わられ抑圧されたが、現在の言語でも例外的なイディオムという形で、症候として存在している。
現在の能動/受動のパースペクティブは、行為の責任の所在を尋問する性質をもち、その責任をもたらす装置としての意志の存在を前提とする。ハイデガーは、このパースペクティブひいては意志の領域から脱却し、中動的な実存に自らを放下することを説いた。
ライプニッツは、深さたる実体を条件として表面に出来事を纏い、その出来事の効果の表現としてモナド=個体と発現するとした。それぞれの出来事が両立可能な状態で分岐し系列を成し、諸々の系列が収束した束として世界は発生する。
ライプニッツの論を「静的発生」とし、対してドゥルーズは「動的発生」を唱えた。この論では、動詞の不定法が名詞に優越する。ただし動詞は、行為ではなく出来事を表現する。ここでは、名詞の格変化(エピクロス派:原子の傾き)と行為、動詞の活用(ストア派:出来事同士の接合)と反応過程がそれぞれ結びつく。
スピノザは、神即ち自然を唯一の実体とし、実体が様々に変状して表現された様態として全ての個物が存在するとした。各々の様態は実体がどのような仕方で存在できるのかという副詞的な表現だといえる。ここでは、内的原因たる神がその結果である個物において自らの力を表現する。個物は絶えず他の個物から刺激や影響を受けて変状するが、様態のあり方はあくまで中動的である。個物の本質は変状する能力と定義でき、それを司る力としてコナトゥスがある。受動態、自動詞、再帰を内包する中動態のように、刺激を受けて変状しその変状の影響を自らも受ける。スピノザは能動/受動を行為の方向ではなく、個体が受ける刺激と力としての本質という、二つの変数の度合いに依存する変状の質の差として説明する。私に起こる変状が私の力としての本質を十分に表現するとき私は能動=自由であり、外部からの刺激の影響に変状を支配されるときそれは受動=強制である。コナトゥスの作用及び変状する能力の表現は一人一人異なる。自由意志の存在は否定されたが、本質を十分に表現する意味での自由は追求できる。世界が中動態のもとにあることを認識することで、自らのコナトゥスのあり方に思惟が及び、それを明晰に認識することで、強制から脱し自由への道が開かれる。
人は、身体ないし気質、半生ないし感情、歴史ないし社会などを背景に、完全に自由ではいられない。一方で完全に強制された状態にもなりえない。中動態の世界を認識することで、少しずつでも自由に近づくことができる。

補遺
善悪ではなく徳と悪徳によって社会秩序は保たれる。徳を司る法は責任の所有者として近代的個人の存在を前提とする。この意味での、能動/受動のパースペクティブに基づく責任は帰責性と言い表せる。対して、本来の意味での責任とは応答能力であり、行為の原因を個人の意志ではなく先んじる数多の刺激とそれに応答して起こる変状に求め、当事者研究的に中動的に分析することで立ち現れる。ギリシア悲劇において、応答能力としての責任は神的因果性に対応し、帰責性は人間的因果性に対応し、二つは混同せずレンマの状態で共存する。同様に、中動/能動(力としての本質、応答能力たる責任、行為のコミュニズム)と受動/能動(近代的個人、帰責性、行為の私的所有)も二律背反のまま共存しうる。

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2025年04月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自由意志の否定、行為は意志を原因としない
言語は思考の可能性を規定する
選択と意志の区別は明確である
権力と暴力
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行
中動態は主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティブにおいて理解されねばならない
異なった仕方の変状
完全に能動たりうるのは神のみ。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる
変状の画一的な出現を避ける
中動態の哲学は自由を志向する
妬んでいる時人は相手に自分を見ている
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない
善の性質を身に纏うことで、相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する
意志概念の切断機能

理解度が正の2次関数のようだった。中盤はかなり難解だった。ただこの考えは自分が考えていた能動受動の曖昧さをうまく言語化してくれた。読解力の向上と哲学的背景の知識を得て再挑戦したい。

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2025年09月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。

1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。

暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。

中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。

ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。

行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。

國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎

個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。

自分の中でまた追求欲が出てきた。
正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。

ごちゃついた感想になったけど、
また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。

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2025年08月30日

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