あらすじ
誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態”に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。時代を画する責任論を新たに収録。
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Posted by ブクログ
やはり國分先生の本は勉強になる。
自分は浅識であるので、新しいことをたくさん知れた。
ただ、内容の理解は半分くらい?
いや、恥ずかしながら3分の1くらいかな?笑
もっと難しい本も読んでいきたいなと。
メモ
それぞれの単語を二項対立で捉えることは多い。
「対義語」などがまさにそうだ。ただ言葉には中間もある。教える、学ぶ際に忘れがちなことである。
p150「言語とは形式を持った意味作用の構造であり、思考するとは言語の記号を操ること」
p152「言語は思考の可能性の条件」
国語を教える際しっかりと伝えていきたいことだ。
p221「純粋に自発的な同意もありえない」
p354「欲望とは、人間の本質が与えられたその各々のへんじょうにおいてあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて人間の本質そのものである。」
p365「思惟能力、つまり考える力をそれに対応できるほど高めていたのなら」
「変状の画一的な出現を避けること」
p392「読解は歴史というコンテキストによって決定される」
p406「悲劇は、法律は人間のために作られたのであって、天使や悪魔のためにつくられたのではない」
p516「選択なき決断、自らの意図からは完全に独立した責任、これこそがギリシア人における意志である。」
Posted by ブクログ
哲学というのは、ここまで日常的な概念(意志/責任)を深く掘り下げられるのかと感じさせられる。確かに自分たちは「意志」という概念を能動的なものとして捉えているし、これを責任をもたらす重要な概念として捉えている。しかし、あくまでも意志は無数のファクターにより導かれた結果であり、完全に能動とも受動とも言えず、故に中動態という忘れ去られた態を参照し直す必要がある。これに取り組んだ一冊。
「意志」を純粋な能動と捉えることは、即ち過去との断絶(影響したファクターの無効化)を意味し、これはある種の全能感をもたらす。しかし神ではない人間はあくまで中動態の世界に生きており、様々なファクターの影響を受けつつ、自由と強制の狭間を行き来しながら生きていることを自覚する必要がある。そしてきっと、これを自覚することは自分だけでなく、他者に対する配慮にも繋がりうる。また、スピノザの「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」という考え方も、この中動態の議論に奥行きをもたらしてくれる。即ち、人は社会の中で求められる役割や自分が担いたい役割の葛藤を抱える中で、自分の本性の必然性(例:ワンピースで言うところの「海賊王におれはなる」と同じか。海賊王に「なりたい」ではないのがポイント)に従い行為することができれば自由になれる、ということ。但し、この「自分の本性」なるものにどこまで敏感であることができるか、は極めて難しいことのように思う。それは日々の生活の中から浮かび上がるものかもしれないが、ここでも中動態の世界に生きている、つまり自分は導かれながらかつ自分で選択もしながらここまで進んできた、ということを自覚することで、少しずつ自らの本性に耳を傾けることができるのではないだろうか。
また、個人的にはあとがきに書いてあった「読めよ。さらば救われん」という言葉も好きである。生成AIを駆使し、過去の議論や論文をさらっと読めるようになっている時代であるが、やはり地道に読むことこそが自分の思考を形成し、また救ってくれるものであると信じている。
特に印象に残った箇所は以下
・私が何ごとかをなすとき、私は意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意志」を行為の源泉と考えるのも難しい(p.25)
・中動態を定義したいのならば、われわれがそのなかに浸かってしまっている能動対受動というパースペクティブを一度括弧に入れなければならない(p.109)
・能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる(p.120〜121)
・言語が思考を規定するのではない。言語が思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ(p.152)
・ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない(p.154)
・こう考えると、選択と意思の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く(p.183)
・権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む(p.203)
・ハイデッガーはつまり、意思することは忘れようとすることだと述べている(p.287)
・われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p.361)
・その自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である、と(p.366)
・だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうと言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ(p.368〜369)
・完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく(p.411〜412)
・やはり、「読めよ。さらば救われん」こそが研究における真理である(p.482)
Posted by ブクログ
自由意志の否定、行為は意志を原因としない
言語は思考の可能性を規定する
選択と意志の区別は明確である
権力と暴力
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行
中動態は主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティブにおいて理解されねばならない
異なった仕方の変状
完全に能動たりうるのは神のみ。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる
変状の画一的な出現を避ける
中動態の哲学は自由を志向する
妬んでいる時人は相手に自分を見ている
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない
善の性質を身に纏うことで、相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する
意志概念の切断機能
理解度が正の2次関数のようだった。中盤はかなり難解だった。ただこの考えは自分が考えていた能動受動の曖昧さをうまく言語化してくれた。読解力の向上と哲学的背景の知識を得て再挑戦したい。
Posted by ブクログ
100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。
1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。
暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。
中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。
ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。
行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。
國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎
個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。
自分の中でまた追求欲が出てきた。
正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。
ごちゃついた感想になったけど、
また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。