國分功一郎のレビュー一覧
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単に哲学に興味がある人だけでなく、生活に充実感を感じつつも、漠然とした物足りなさを感じている、そんな人におすすめの一冊。
「自由」について真剣に、かつ遊びをもって考えることができた。
個人的に社会人になってからというもの、顧客数、売上、利益率の目標などといった分かりやすい「目的」を達成するために日々生活している気がする。
もちろん生活の為に何かしらの「目的」を達成することは大切なのだけれど、そればっかりになっている気がするなと、この本を読んだ後には思えてきた。
本著に出てくる対比として、
「目的」と「手段」
「消費」と「贅沢」
「行政」と「立法」
などが並ぶ。
これから通関しているのが新鮮で、かつ著者の思考の深みが伺えた。仕事に熱中しがちな現代人こそ読む一冊。 -
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「目的への抵抗」
このタイトルを本屋で見た瞬間、私の手がスーッと伸びた。
私は、目的という言葉が、あまり好きではなかった。
けれども、錦の御旗を掲げた軍のように、「目的」という言葉は、批判するにはあまりに絶対勢力すぎる。
ケチをつけたが最後「お前はぜんぜん分かってない!」という批判が矢のように飛んできそうな気がして、ケチをつけるのも憚られたのだ。
だからこのタイトルを見たとき、しかもそれを國分功一郎さんが書いていることを知ったとき、私は大喜びで、本を手に取ったのだ。
素晴らしい内容だった。
特に印象に残った文章を、メモとして引用したい。
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重要なのは人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由があるということです。(P195より引用)
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目的とは「手段の正当化」であること。
人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求めるということ。
目的が、自由や贅沢という概念とつながっていることが、面白かったな。
今後もうちょっと読み込んで、自分のなかに落とし込んでいきたいと思う。 -
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古代の世界で使用されていた文法「中動態」を起点に、能動・受動の捉えなおしながら、「私がなにごとかをなす」ことを分析していく哲学書。
先人たちの言語学と哲学の研究を紐解きながら、丁寧に中動態を解釈していくさまに感嘆しかない。前提となる情報で土台を作って、論理をひとつひとつ積み上げて、中動態とはいったいなんなのかを紐解いていく。その過程はまるで、強固な城を建設しているような印象だ。言葉の意味を的確に拾っていかないと、筆者の言わんとしていることについていけなくなるので、辞書をお供に読み進める。哲学は言葉のひとつひとつの意味を大切にする学問であることを実感する。
能動態と受動態の区別は、主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるかで定義され、主語の内に位置づけられるのが中動態である。ざっくり解釈すると、自分の行動の行き先の矢印が自分に向かっているのが中動態、というイメージをもった。その前提でスピノザの唱える能動・受動の概念を考えていくプロセスが、難しいけれど面白い。刺激を受けたうえで生じる行動が、自分の本質的な行為か、それとも外部からの刺激に圧倒された本質的でない行為か。行為の質の差で能動・受動であるかを考える。すると、冒頭で登場した「プロローグ――ある対話」の見え方が変わってくる。「暇と退屈の倫理学」でも思ったけれど、筆者の國分先生の本は、言葉や文章を追いかけていたら、いつの間にか見える世界が少しだけ変わっている感じがする。時間がかかったけれど読み終えることができて良かったし、読み終えた自分にすこし自信がついた気がする一冊だった。 -
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意見や世論はできあがったものとしては存在していない。
作り上げていくもの。
アレントは完成された自由を求める。
革命は漸進的にしかなりえない。
國分
哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに応える概念
ex 依存症患者との出会いで中動態という答えを見つけたように
●教育は中動態的であるべき
プロセスを見せる
悩み続ける
すべてがコミュニケーションに支配されて、すべての手段が交換可能、変換可能になっている。
ね。プロジェクトと言えば、何と言ってもハイデガーですね。ハイデガーは「投企」という言葉を使って、人間をプロジェクトする存在として捉えました。
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確かに人間はプロジェクトする存在だけれども、その中には中動態的な喜びがあり、そして勉強はその中でも格別の喜びを与えてくれる中動態的な営みで
アイロニーよりもユーモア
教師のとても大事な機能というのは、孤独な時間がなければ人は何かを成し遂げることはできないと教えること
ドゥルーズ
権威主義でない権威
= 選択の余地があるけれども、服従する。
歴史は、勉強しないと認識できない。
仮説は物語
言語を学ぶことは生成変化すること
半他者に私淑する
広さと深さ
周りの声を聞いて自身の規範を内省する
優れた教師とは、「私のようにやりなさい」じゃなくて「私と一緒にやりなさい」と言う者だという
コミュニケーションではなくて、一緒に主体形成することが大切だと思うし、教育はそういうものではないか。
ポスト・デモクラシーの問題として。特異性に反応する、原理なき判断。
エビデンス主義への抗い
二一世紀にもし言語の弱体化が起きているんだとすると、それは二〇世紀的な人文学のモデルとは違うものに移ろうとしていることになります。
●つまり言語というのは、直接的満足の延期であり、もっと簡単に言うと我慢なんですよ。
現代社会では我慢を強いられる状況が減ってきていて、即座に快楽が得られるようになっている。つまり言葉を連ねることによって、直接的満足を我慢することをしなくなっているわけです。
欲望(挟まれること)と快楽(達すること)の違い
ドゥルーズ
今日の民主主義においては、努力によって弁証法的苦難を乗り越えて出現するようなヒーローを抹消することこそが民主主義になるわけです。
シュミット的な理論の克服
敵味方論
レスネス
自分を少なくすることで関わる
遊戯的な政治
人は必ず何かを使用することで主体化していってるはずですね。そのことが認められれば、自分が主体化するときに「使用」した他者や物に対する敬意やそれを慈しむ心も出てくる。
→ものを大事にすること
支配ではなく使用
オカルトとエビデンス
インピュタビリティ(他責)と
レスポンシビリティ(内初
ジャスティスは時間がかかる
コレクトネスはすぐ判断できる
「正義とは法外なもの」
★原爆も言葉から生まれた
「これは善ではない。だが、より大きな悪を防ぐための選択だ」
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「免責が引責を可能にする」
この一節に私はしびれた。
なにかミスがあると、世の中では「責任をとれ!」という話になる。言い換えれば「このミスを犯す意志を持ったものは誰か?」というお話。本書では、このような「意志によって根拠付けられる責任」を「堕落した責任」と呼ぶ。
責任とは、そういうものではない。責任とは応答することなのだ、と。そしてその応答としての責任の生成は、実は免責※によって生まれる、と本書はいう。
※ここでいう免責とは、無罪放免にする、という意味ではなく、自らの行為が、意志ではなく、無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きのことを指す
この考えに、私は驚いた。
コペルニクス的転回!
そして全く考えたこともない発想だったけれど、ものすごく腑に落ちる気がしたのだ。
國分功一郎さんの本は、確かに咀嚼するのに時間がかかる(そして私はまだ咀嚼しきれていない)のだが、そこから得るエッセンスがもたらす思考的影響が、半端ない。 -
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國府先生、これはかなり難しかった。何回も行きつ戻りつしてやっと一周読みましたが理解が追いつかない。。。
私なりに理解したところによると、目的を持たない快(酒やタバコをを嗜むような)が、現代では目的に蝕まれつつある=純粋に行為自体を快楽として受け取る余裕がなくなってるよ、っていう警鐘なのかなと思いました。実際私も酒びたりのときが一時期あり、現実から一瞬でも思考を切り離す道具として酒を飲んでいたなぁと今は思います、当時は美味しいから沢山飲んでると思い込んでましたが(病)。
前作の新書より具体性が上がってるのについていけない自分の理解力のなさに悲しみを覚えつつ、一方で凡人がついていけないレベルの内容でも平易な言葉で何回も何回も丁寧に説明して書いてくださる國府先生の姿勢に、そこに痺れる憧れる〜!となってしまう一冊です。おすすめです、帯の先生の写真もかっこいいし!
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「読んでて難しい」「難解だ」と感じる人ほど(少なくとも私はこちら側だと思う…)、「能動↔︎受動」の言語に基づく思考体系に浸かってしまっているということなのでしょう……
中動態について、言語の歴史やスピノザ哲学など、あらゆる側面から國分先生の哲学論が展開されていきます。難しくても読み終えて初めて「中動態の世界」の入り口に立てるのかもしれない。
最後に能動態↔︎中動態的思考から「責任論」に話は移行していきますが、社会の分断が進む現代社会が進むべきヒントを与えてくれるカギとなるのではないでしょうか。
「暇と退屈の倫理学」でもあった通り、本書もまた「(理解しきれない部分があったとしても)通読してはじめて意味を持つ」のだと感じました。
この感想を読んでくださった方も、なにかのご縁だと思って、たとえ本書を読み始めてから難しいと感じたとしても、最後まで読んでみてほしいです。。 -
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何回でも読み直したい作品
ここ最近で一番、日常における認識にざらつきを与えてくれる本だった
p.131
人が積極的意志(「…をしよう」)によって真理に至ることはない。真理は常に、思考を余儀なくされたことの結果として獲得される。人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。
p.298
欲望のアレンジメントは、権力装置を伴うだろう(…)だが、権力装置はアレンジメントの様々な構成要素の中に位置づけられねばならない。(…)権力装置とは、したがってアレンジメントの一構成要素ということになるだろう。
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哲学者・國分功一郎先生が記すジル・ドゥルーズの研究書です。ドゥルーズの方法と対象を、國分先生が精緻に分析し、その実像に鋭く迫ったものですが、お読みになる場合には「格闘する」と言う言葉が当てはまります。
正直なところを言ってしまえば、僕は國分功一郎先生の本に出会わなければ、ジル・ドゥルーズの哲学に関心を持つことはなかったのかもしれません。本書は哲学者、國分功一郎先生によるジル・ドゥルーズの哲学を読み解いた『研究書』であります。
元々、國分先生の専門はスピノザ研究との事で、全体の構成や「発生」はヒューム。「潜在性」についてはライプニッツからのアプローチが行われております。
ただ、本書を読むにいたってはドゥルーズ・國分の両哲学者と『がっぷり四つに組んだ』状態と言う言い方が相応しく、
「ちょっとかじってエッセンスでも。」
と言う安易な姿勢で読み始めると、手痛いしっぺ返しを受けることでありましょう。
僕は自分でも思ったほど多くの哲学についての関連書を読んできたわけではないんだな、と言うことに改めて気づかされたわけですが、國分先生による丁寧な語り口は本書の中でも健在であり、そのスタンスが一貫して存在していたことについては、敬意を表したいです。
國分先生は本書のテーマの一つとして、『政治的ドゥルーズ』と『非政治的ドゥルーズ』と言う「二つの像」があることを示し、前者を許容する側がいる一方で、後者を批判する側がいる。ドゥルーズはそれに応えるために、ガタリとの『共著』と言うスタイルをとったと論じているのです。
それを存分に展開させたのが第5章で、『監獄の誕生』などで有名なフーコーからアプローチをかけ、結論部で
『ドゥルーズが権力構造の分析を通じて現代社会に下した判断は、決して薔薇色ではない。しかし、そのドゥルーズの哲学が自由を志向するものであった、という事実は我々に勇気を与える。』(p225)
と記しているのです。
と、ここまで書いておいてやはり、本書を読んでこうして文章にしたためるということはまさに『格闘』そのものでありました。
西洋哲学や、ドゥルーズについて余り予備知識がない、と言う方にはあまりお勧めできませんが、僕は國分先生の人生相談『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)を先日読んで、そのあまりの切れ味の鋭さに
「この人の奥には一体何が潜んでいるんだろう?」
と言うのがきっかけでありましたので、その一端を知ることができたのは、僕にとって幸いでありました。
※追記
本書は2025年9月11日、講談社より『ドゥルーズの哲学原理 (講談社学術文庫 2880)』として加筆修正の上文庫化されました。 -
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講話を収めているからかめちゃ読みやすい。
第一部のアガンペンの主張から始まる読者への問いかけ。刺激的なものをそれを理由に排斥してしまうのではなく、それを足がかりに自らを問い直すことの意義。
社会にとってチクリと刺してくる虻のような存在としての哲学の役割。
賛成/反対のテンプレを越え、自ら問うてみる姿勢で批判的に物事を見ることの重要性はそれはもうわかる。
ただ自分が考え、主張し何の意味があるのか。「何も変わらないじゃないか」という論調が強いのが昨今の潮流な気がする。
この論調を否定するでもない、フレーミングを提示してくれた。
「あなたがすることのほとんどのことは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
第二部が深化していき面白かったな。
大量消費の市場社会が、合目的的な社会の形成の一助になっていたかもしれないというのは面白い。ごく当然の論理として、目的化された消費と浪費の反規範化が行われ、それをあまりにも当たり前に受け入れていたことか。
序章の文章「自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える」まさしくこれが、紆余曲折を経て主張される。 -
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斎藤環さんが紹介されていたので読んでみたのですが、この夏一番の読書になったように思います。
中動態の「世界」とタイトルしているように、中動態をめぐっての哲学や言語学の先人達を批評していかれているからです。大変ではあったのですが、書き手の丁寧な記述で、ポイントを繰り返し確認しながら、読み進めることができます。斎藤さんによれば、思想界にもインパクトがあったとのことでしたが、デリダやドゥルーズといった20世紀末に流行った哲学者も批評の対象になったからだろうと思いました。
中動態についていえば、これと関連して、以下の記述でポイントを押さえることができるかと思います。
「自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為するものは自由である、と。」
「自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。」
スピノザのいう自由に向けての実践的な示唆なのですが、ギリシア悲劇だけでなく、自己治癒的な物語を読んでいくことも実践の一つだろうと思いました。
「責任」については、責任を負うことになる当事者が目の前にいるだけに、より課題が大きいように思います。
「たとえば当事者研究で、「家に火をつけてはいけない」という世俗的な規範をいったん脇に置いて、自分が火を付けたときのことを他人事のように下達とき、そこは一度面積される空間だと思います。でも不思議なことに、その面積の段階を経て初めて、引責が可能になる。」
免責の空間を経て引責が可能になるステップや有り様について、これを多くの人で共有できる記述が必要なように思いました。 -
Posted by ブクログ
目的こそが重要であり、目的のない言動は意味がないと思っていたが、目的に盲目的に縛られることに警鐘を鳴らす。例えば、「行動の自由」は、〇〇の自由の権利の中でも大事なものだが、コロナ禍において、私たちは、行動規制を意外とあっさり受け入れた。法律に基づいたものではなく、要請だったにも関わらず、旅行や出張は消滅し、帰省すら批判の対象となるほどであった。感染を防ぐという目的は正しいと思うが、安易に受け入れることが、その後のさらなる規制等を無批判に受容してしまうことにつながるのではないかという危機感。哲学者は社会の虻で時々ちくりと刺すことで社会を目覚めさせる、というのは言い得て妙。