・「エチカ」を読んでみたい。
・スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方。
・「『いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ』、そのように感じることができるのは、何かを確実に認識した後のことだとスピノザは言っている」これは数学を学んでいてその通りだと感じる。
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●位置: 289
神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。
●位置: 294
すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」と言います(「神そく自然」あるいは「神すなわち自然」と読みます)。
●位置: 297
神すなわち自然は外部をもたないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、 自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。超自然的な奇跡などは存在しないということです。 「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの「神即自然」の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。
●位置: 368
そのことを指摘したスピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います。存在している個体は、それぞれがそれ自体の完全性を備えている。自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分のもつ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれにただ存在しているのである。このことはいわゆる心身の「障害」にも当てはまります。「障害」というのも、マジョリティの視点から形成された一般的観念に基づいて判断されているにすぎません。個体それ自体は、一個の完全な個体として存在しているのです。
●位置: 374
自然界に完全/不完全の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは言います。印象的な一節を引用してみましょう。善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。(第四部序言)
●位置: 393
自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だとスピノザは考えているわけです。
●位置: 468
コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス) の原理に非常に近いと言うことができます。たとえば私という個体の中の水分が減ると、私の中に水分への欲求が生まれ、それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。
●位置: 493
このエイドス的なものの見方は、道徳的な判断とも結びついてきます。人間について考えてみましょう。たとえば男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史をもち、どんな環境で誰とどんな関係をもって生きてきて、どんな性質の力をもっているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしくしろということになりかねないわけです。
●位置: 499
「力」こそ本質とする転換それに対しスピノザは、各個体がもっている力に注目しました。物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。
●位置: 670
神のもう一つの定義を紹介しなければなりません。神は自然であるだけでなく、「実体 substantia」とも呼ばれます。実体というのは哲学で古くから使われてきた言葉ですが、その意味するところは決して難しくはありません。実体とは 実際に存在しているもの のことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。 私たちは神という実体の変状である というのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えません。
●位置: 694
私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する 様式 であると考えられます。そもそも自然は無限に多くの個物からなっているわけですから、神はそれら個物として存在している。個物は神が存在する仕方であり、その存在の様式なのです。これこそ、個体が様態と呼ばれるゆえんです。この論点はさらに敷衍することができます。個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を 表現している と考えることができます。
●位置: 699
人間の存在は「神は人間みたいな仕方でも存在できるんだぞ」と、水の存在は「神は水のような仕方でも存在できるんだぞ」と、太陽の存在は「神は太陽のような仕方でも存在できるんだぞ」と、それぞれの個物が神の力を表現していると考えられるわけです。個物が「神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する」というのはそういう意味です。
●位置: 706
スピノザの言う様態について、ジョルジョ・アガンベン(一九四二~ ) というイタリアの哲学者が面白いことを言っています。個物、すなわち様態は名詞ではなくて、副詞のようなものだというのです(『身体の使用』上村忠男訳、みすず書房、二七六頁)。
●位置: 709
私たち一人ひとりを実体だと考えるならば、一人ひとりが名詞のような存在だということになるでしょう。これはアリストテレスやデカルトなどの考え方に対応しています。ところが、スピノザの考えでは実体は神だけです。私たち一人ひとりは、神の存在の仕方を表現する様態でした。ならばこんな風に考えられます。ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人ひとりは神の存在の仕方を説明しているというわけです。rapidly(速く) とかslowly(ゆっくり) とかclearly(はっきり) など、副詞は名詞とは異なり、主語としては存在できません。それは動詞や形容詞などのありさまを説明し、表現するものです。ならば、確かにスピノザの言う様態は、神にとって副詞のようなものだと考えることができます。ただし、スピノザは様態を幻想のようなものと考えているわけではないことには注意しなければなりません。
●位置: 725
スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」(精神と身体(物体)をそれぞれ独立したものとする考え方) への批判として捉えることができます。デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました。巨大ロボットの頭に小さな人間が乗って操縦しているイメージですね。それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、というか、そもそも精神と身体をそのように分けることがおかしいと考えました。精神で起こったことが身体を動かすのではなくて、精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これを「心身並行論」と言います。
●位置: 731
たとえば怒りに駆られた時、怒りの観念が確かに精神の中に現れますが、同時に体が熱くなったり、手が震えたりします。落胆すると、その観念が精神の中に現れますが、同時に体の力が抜けます。それらは私という様態の中で 同時に起こっている ことです。
●位置: 735
スピノザはそれを批判しました。同じ一つの事態が、思惟の属性と延長の属性の両方で表現されているにすぎないと考えたのです。これを神の側から見てみましょう。神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在する(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。そして先に見た通り、その それぞれ が神の力を表現している。「個物は神の 属性 をある一定の仕方で表現する様態」とはこの事態を意味しています。
●位置: 775
一人ひとりが自由に生きられることこそ、社会が安定するために一番必要なことです。ですから、コナトゥスは自分本位の原理ではないかと考えるのではなくて、人々が共同で安定して暮らしていくためには一人ひとりのコナトゥスを大切にすることが必要だと考えなければならないのです。
●位置: 784
スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活していること、それこそが契約だというのです。
●位置: 797
一人ひとりの権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしないというのがスピノザの考えでした。一人ひとりがうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ、集団は長続きする。なぜならばその時に人は自由であるからというわけです。
●位置: 808
スピノザはそのようには考えません。制約がないだけでは自由とは言えない。そもそも全く制約がないことなどありえないというのがスピノザの出発点になります。
●位置: 816
腕や足を自由に動かせるというのは、それらの条件を超え出るということではありません。その条件のもと、 その条件に従って、腕や足をうまく動かせる時、私たちはそれらを自由に動かすことができている。自分に与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。
●位置: 821
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは 自由である と言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは 必然的である、あるいはむしろ 強制される と言われる。(第一部定義七)
●位置: 859
自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対が「強制」であることです。
●位置: 867
本質が踏みにじられている状態さて、強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態と言えます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。
●位置: 870
この自由の反対としての強制のことを考えると、いつも、『エチカ』で紹介されているあるエピソードを思い起こします。親の叱責に耐えきれなかった青年が、家を捨てて軍隊に走り、「家庭の安楽と父の訓戒との代りに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負担を身に引受ける」という話です(第四部付録第一三項)。
●位置: 876
『エチカ』によれば、復讐心とは、憎しみの感情から害悪を加えた者に対して、同じく憎しみの感情から害悪を加えるように人を駆り立てる欲望です(第三部諸感情の定義三七)。この青年は親に対して直接に復讐を果たすことができない。だからその代わりに自分の心身を痛めつけている。そのような状態にある時、この青年はかつて受けた虐待という外部の圧倒的な原因に、ほぼ自身のすべてを支配されています。彼の行動の全体がこの復讐のためにある。これこそ「強制」の状態、自由とは正反対の状態に他なりません。外部の原因によって存在の仕方を決定されてしまっている状態です。
●位置: 886
スピノザによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動と言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動であるわけです。これは次のように定義されています。我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば〔……〕 我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が 働きをなす〔能動〕と言う。(第三部定義二)
●位置: 905
ふつう原因と結果は、前者が後者をひき起こす関係にあるものだと考えられています。ところが、『エチカ』の哲学体系においては、原因と結果の関係はそこに留まりません。原因は、 結果の中で自らの力を表現するもの として理解されているのです。どういうことでしょうか。個体とは神の変状でした。神という実体が一定の形と性質を帯びることで個体になる。その意味で、存在しているすべての物は、 神をその存在の原因としています。他方、前章の「様態」の説明のところで見た通り、どの個体も、 神の力を表現している と言われるのでした。存在するすべての物は、神が存在する仕方、すなわち様態であるからです。
●位置: 912
存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する〔……〕。言いかえれば〔……〕 存在するすべての物は神の能力を──万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。(第一部定理三六証明)ここでスピノザが用いている「表現する」という動詞は、「説明する」とも言い換えることができます。自然界に存在する一つひとつの物は、神の力を説明していると考えられるわけです。
●位置: 916
たとえば、神すなわち自然には、水のようなさらさらで透明な液体を作り出す力がある。あるいはまた、ものを考えて哲学という営みをもたらす人間のような存在を作り出す力もある。神すなわち自然には実に豊かな力があります。その中に存在している一つひとつが、それぞれの仕方で、「神にはこんなこともできるよ」「自然にはこんな力があるよ」と説明してくれている。そしてそのような万物を作り出した原因が神なのでした。すると、原因と結果の関係は、同時に、表現の関係でもあることになります。 神という原因は、 万物という結果において自らの力を表現している ことになります。
●位置: 929
私は自らの行為において 自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。先の軍隊に走った青年の例を思い出してください。復讐に燃える彼は、ある意味では非常に活発に活動するように見えるかもしれません。しかし、彼を動かしているのは、かつて親から受けた虐待への復讐心です。つまり、彼の親こそが彼の活発な活動の原因になっているのです。彼の本質はこの圧倒的な外部の原因によって踏みにじられている。彼の行為はいずれも、彼の力というより、彼の親の力を表現しているのです。
●位置: 944
スピノザの能動/受動の概念ならば違います。スピノザはその行為が誰のどのような力を表現しているかに注目します。銃で脅してくる相手に私がお金を手渡すという行為は、その相手の力をより多く表現しています。その相手には、他人に金を差し出させるような力がある(といっても、それは大部分が銃のおかげですが)。私の行為はその相手の力を表現しているわけです。
●位置: 973
完全に能動にはなれない私たちも、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできます。スピノザはいつも度合いで考えるのです。自由も同じです。完全な自由はありえません。しかし、これまでより少し自由になることはできる。自由の度合いを少しずつ高めていくことはできる。実際、私たちは自分たちの身体の使い方も分からない段階から、そうやって少しずつ自由になってきたのではないでしょうか。こう考えると、スピノザの哲学が本当に実践的であることが分かります。何か完全な自由を実現しようとするのではなくて、一人ひとりが少しずつ自由になっていくことをこの哲学は求めているのです。
●位置: 1,015
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第二部定理三五備考)
●位置: 1,066
一つの行為は実に多くの要因のもとにあります。それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、 行為は多元的に決定されている のであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。けれどもどうしても私たちは自分の行為を、自分の意志によって一元的に決定されたものと考えてしまいます。繰り返しになりますが、それは私たちの意識が結果だけを受け取るようにできているからです。
●位置: 1,073
スピノザは意志が自由な原因であることを否定しました。しかし、私たちが意志の存在を 意識する ことは否定していません。確かに私たちはそのような精神の力を感じるのです。
●位置: 1,098
現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです。意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。──これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。この論法が全く疑われないわけですから、純粋な自発性としての意志など存在しえないという、ちょっと考えれば分かることですら共有されません。このように意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。
●位置: 1,139
現代社会では、意志がほとんど信仰のように強く信じられていることは分かっておいていただきたいと思います。その信仰を解除すれば、私たちはもう少しだけ自由になれるのではないか。
●位置: 1,171
実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
●位置: 1,186
真理の基準は存在しえない、もう少し正確に言えば、真理の外側にあって、それを使えば真理を判定できる、そのような真理の基準を見出すことは原理的に不可能だということです。
●位置: 1,194
真理が真理自身の基準であるとはどういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということです。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないということです。
●位置: 1,267
スピノザは最初に挙げた「真理は真理自身と虚偽との規範である」という文言の直前でこう述べています。あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。(第二部定理四三備考)どういうことでしょうか。 「いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ」、そのように感じることができるのは、何かを確実に認識した後のことだとスピノザは言っているのです。
●位置: 1,287
ように認識はスピノザにおいて、何らかの主体の変化と結びつけて考えられているのです。自らの認識する能力についての認識が高まっていくわけですから、これはつまり、少しずつ、より自由になっているのだと考えることができます。
●位置: 1,414
スピノザの考える真理の特徴は、それが主体の変容を求めることでした。ある真理を獲得するためにはそれに見合うだけの主体へとレベルアップしなければならない。真理を獲得した者は自分がそれを有していることを知ると同時に、その確実性を疑うことができないというのがスピノザの考えであったことは前章で見ましたが、なぜスピノザがそのように考えられたのかといえば、真理の獲得と主体の変容をセットで考えていたからです。