國分功一郎のレビュー一覧
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「免責が引責を可能にする」
この一節に私はしびれた。
なにかミスがあると、世の中では「責任をとれ!」という話になる。言い換えれば「このミスを犯す意志を持ったものは誰か?」というお話。本書では、このような「意志によって根拠付けられる責任」を「堕落した責任」と呼ぶ。
責任とは、そういうものではない。責任とは応答することなのだ、と。そしてその応答としての責任の生成は、実は免責※によって生まれる、と本書はいう。
※ここでいう免責とは、無罪放免にする、という意味ではなく、自らの行為が、意志ではなく、無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きのことを指す
この考えに、私は驚いた。 -
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國府先生、これはかなり難しかった。何回も行きつ戻りつしてやっと一周読みましたが理解が追いつかない。。。
私なりに理解したところによると、目的を持たない快(酒やタバコをを嗜むような)が、現代では目的に蝕まれつつある=純粋に行為自体を快楽として受け取る余裕がなくなってるよ、っていう警鐘なのかなと思いました。実際私も酒びたりのときが一時期あり、現実から一瞬でも思考を切り離す道具として酒を飲んでいたなぁと今は思います、当時は美味しいから沢山飲んでると思い込んでましたが(病)。
前作の新書より具体性が上がってるのについていけない自分の理解力のなさに悲しみを覚えつつ、一方で凡人がついていけないレベルの内 -
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國分さんの本はとにかく面白いので、いつか読むだろうと本書も積読しておりました。
スピノザは國分さんの本ではたびたび登場する人物であり、他の人の本でも肯定的に引用されることが多い印象で、どうやら日本人が好きそうな人物です。なぜ現代に肯定的に受け取られているのかを考えながら読んでおりました。
まず代表的な考え方である、「神即自然」。神は自然であると言い切るスピノザ。キリスト教神学が支配している時代で、この考え方を提示できるのはすごいです。。。自然信仰が馴染んでいる日本人にも受け取りやすい考え方でしょう。
國分さんは本書の初めにスピノザの凄さを伝えるためにこのように述べています。
「哲学者と -
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「読んでて難しい」「難解だ」と感じる人ほど(少なくとも私はこちら側だと思う…)、「能動↔︎受動」の言語に基づく思考体系に浸かってしまっているということなのでしょう……
中動態について、言語の歴史やスピノザ哲学など、あらゆる側面から國分先生の哲学論が展開されていきます。難しくても読み終えて初めて「中動態の世界」の入り口に立てるのかもしれない。
最後に能動態↔︎中動態的思考から「責任論」に話は移行していきますが、社会の分断が進む現代社会が進むべきヒントを与えてくれるカギとなるのではないでしょうか。
「暇と退屈の倫理学」でもあった通り、本書もまた「(理解しきれない部分があったとしても)通読して -
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國分功一郎はスピノザの哲学を、やや象徴的に「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」の哲学と形容する。
実際に、近代哲学の在り方を規定したのはスピノザではなくその少し後のデカルトだ。現在の社会も、多かれ少なかれデカルト的な考え方に則って成立している。
本書はそういった「近代的な」発想とは異なったスピノザ哲学の概念を紹介する。
各章ごとに①組み合わせとしての善悪(↔︎一般的観念としての善悪)、②力としての本質(↔︎形相としての本質)、③必然性としての自由(↔︎自由意志としての自由)、④自己変容としての真理(↔︎客観性、明晰性としての真理)といった具合だ。
これらの概念は新鮮というよりむしろ、 -
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何回でも読み直したい作品
ここ最近で一番、日常における認識にざらつきを与えてくれる本だった
p.131
人が積極的意志(「…をしよう」)によって真理に至ることはない。真理は常に、思考を余儀なくされたことの結果として獲得される。人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。
p.298
欲望のアレンジメントは、権力装置を伴うだろう(…)だが、権力装置はアレンジメントの様々な構成要素の中に位置づけられねばならない。(…)権力装置とは、したがってアレンジメントの一構成要素ということになるだろう。
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哲学者・國分功一郎先生が記すジル・ドゥルーズの研究書です。ドゥルーズの方法と対象を、國分先生が精緻に分析し、その実像に鋭く迫ったものですが、お読みになる場合には「格闘する」と言う言葉が当てはまります。
正直なところを言ってしまえば、僕は國分功一郎先生の本に出会わなければ、ジル・ドゥルーズの哲学に関心を持つことはなかったのかもしれません。本書は哲学者、國分功一郎先生によるジル・ドゥルーズの哲学を読み解いた『研究書』であります。
元々、國分先生の専門はスピノザ研究との事で、全体の構成や「発生」はヒューム。「潜在性」についてはライプニッツからのアプローチが行われております。
ただ、本書を -
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講話を収めているからかめちゃ読みやすい。
第一部のアガンペンの主張から始まる読者への問いかけ。刺激的なものをそれを理由に排斥してしまうのではなく、それを足がかりに自らを問い直すことの意義。
社会にとってチクリと刺してくる虻のような存在としての哲学の役割。
賛成/反対のテンプレを越え、自ら問うてみる姿勢で批判的に物事を見ることの重要性はそれはもうわかる。
ただ自分が考え、主張し何の意味があるのか。「何も変わらないじゃないか」という論調が強いのが昨今の潮流な気がする。
この論調を否定するでもない、フレーミングを提示してくれた。
「あなたがすることのほとんどのことは無意味であるが、それでもしなく -
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斎藤環さんが紹介されていたので読んでみたのですが、この夏一番の読書になったように思います。
中動態の「世界」とタイトルしているように、中動態をめぐっての哲学や言語学の先人達を批評していかれているからです。大変ではあったのですが、書き手の丁寧な記述で、ポイントを繰り返し確認しながら、読み進めることができます。斎藤さんによれば、思想界にもインパクトがあったとのことでしたが、デリダやドゥルーズといった20世紀末に流行った哲学者も批評の対象になったからだろうと思いました。
中動態についていえば、これと関連して、以下の記述でポイントを押さえることができるかと思います。
「自由をスピノザは次のように定 -
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目的こそが重要であり、目的のない言動は意味がないと思っていたが、目的に盲目的に縛られることに警鐘を鳴らす。例えば、「行動の自由」は、〇〇の自由の権利の中でも大事なものだが、コロナ禍において、私たちは、行動規制を意外とあっさり受け入れた。法律に基づいたものではなく、要請だったにも関わらず、旅行や出張は消滅し、帰省すら批判の対象となるほどであった。感染を防ぐという目的は正しいと思うが、安易に受け入れることが、その後のさらなる規制等を無批判に受容してしまうことにつながるのではないかという危機感。哲学者は社会の虻で時々ちくりと刺すことで社会を目覚めさせる、というのは言い得て妙。
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やはり最高に面白い。単行本版を読んでから数年の間に國分功一郎さんの著作も『暇と退屈の倫理学』『責任の生成』『言語が消滅する前に』『目的への抵抗』などなど読んできていたので本書の議論についても新たな気づきや理解が深まるところが多かった。補遺も國分さん自身が思考を深め、進めてきているから社会的な実践に関わるポイントが明快で素晴らしい。
個人的には最近國分さんとは別の角度からアーレントのことを考えていたのでアーレントが「区別」の人であることに色々と思いを馳せた。
國分さんがアーレントに質問したかったこと、私も私なりの関心から同じことを聞いてみたい。
“一度でよいので実際に会ってお話をしてみたか -
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高校・大学生向けの講話を書籍化。語りかける文体なので、肩ひじ張らず読みやすい。上に、國分先生の語り口が優しく、構成力もさすが。
ジョルジョ・アガンペンの論考を引合に出しながら、コロナ禍における自粛や不要不急といった対応を分析し、人間の本質に迫る。『暇と退屈の倫理学』で述べた贅沢を楽しもうという主張から更に論考を進め、「信じる」ことの大切さ、目的に縛られない行為の自由の大切さへと思考は深まっていく。
まさにコロナ禍体験者の一人として、行政主導で人間の基本的な主権への制限を無批判に受け入れていた。
感染拡大を防ぐためには必要なことであったと今でも納得はしているけれど、一事が万事このように受け身