オタクと呼ばれている人の中には、モノや概念が純粋に好きな人もいます。しかし、オタクはうまく自己肯定できていない場合が多く、「モノや概念が好きな自分」が好き、「それについて他人より詳しく知っている自分」が好きであり、その意味で「多くの女性とセックスできる自分が好き」というナルシシズムで心の穴を埋めているヤリチンと極めて多くの共通点を持つことが考えられるのです。
つまり、オタクが何かをきっかけにモテるようになり、その対象が「女性」に変われば、彼は簡単にヤリチンになるということです。
二村さんはもっとすごいことも言っています。
モノや概念に熱中することで、「苦手な人間関係から逃げている自分」を認めるのを避けているオタクがたくさんいる。そういう人たちは「キモいオタク」と呼ばれる。なぜ彼らがキモいのかと言うと、自分を「ごまかしている」こと、ナルシシズムが強すぎることが周囲にバレバレだからだ、というのです。
つまり、「キモオタ」と呼ばれる存在は、その容姿とは全く関係ないということです。
二村さんはこの「キモチワルイ」という存在容態が如何なるモノであるかを別のご著書で分析されています。それが『すべてはモテるためである』です。これが教科書の二冊目になります。この本は内容をかいつまんで説明することができないものになっています(つまり、最初からずっと読み進めて、読者が自分を問い直すような構成になっている)。ですので、要約はできませんが、「モテるオタクとモテないオタクの違い」「モテないオタクは、ある種のマンガを自分に都合よく読み間違えている」などといった箇所(前掲書、第二章第四節)が参考になるでしょう。
とはいえ、全てを二村さんまかせにするわけにもいかないので、僕なりに、学術的にすこし説明を加えておきましょう。参照するのはフロイトです。メランコリーというのは愛する対象を失った場合に起こるのですが、たとえば死などによって愛する対象を失った人でも、全員が全員メランコリーになるわけではないとフロイトは言っています。どういうことかというと、その「愛」がもともと自己愛的傾向を強く持つ場合に、メランコリーになるというのです。(「喪とメランコリー」『フロイト全集14
』)。
オタクの場合は、そもそも自己愛が極度に強い。だから彼らは自分が、フロイトの指摘しているようなメランコリーに容易に陥ることを多少共無意識に感じ取っているのではないでしょうか。それ故に、自分をごまかして、別のものによって心の穴を埋めようとする。
回遊魚さんの質問を読んでいますと、大変失礼ながら
この「キモオタ」的なものを感じます。たとえば次の一節。
「さらに自分の問題は、女性との関係構築の不得手さを、コミュニケーションが持つ原理的な暴力性(人は人の踏み込まれたくない領域を知ることはできない、など)に対して向き合っているナイーブな俺、という自意識で処理しているところです」
ここには、自意識で処理するのはまずいということが意識できている俺、という自意識が読み取れます。自意識で処理してしまっている俺はダメだーーということが意識できている俺はダメじゃない、というロジックですね。自分は性的マイノリティーではないと思うが、そうかもしれないーーということが意識できている俺はダメじゃない、というのも同じロジックです。
そして、このロジックはバレバレです。
多分、周囲にもバレバレでしょう。
さて、もし僕が回遊魚さんの近くにいる友人だったら、「お前、自意識を意識できてるなんて無言の主張はバレバレだから、ヤメレ」と言います。まぁ、それを言い続けたら、そのうち変わるかなぁ、みたいに思います。
最初に僕が考えている語学の原理を述べておきたいのですが、語学の勉強というのは大変才能に左右されます。特に、発音も含めた喋る能力についてはそうです。配偶者が外国の方であっても、その外国の言葉の発音が全然なっていないという人もいます。要するに外国語の発音に関して、才能がないのです。
しかし、そんなことは考えてみれば当たり前ではないですか? 発音なんて歌を歌うのと同じです。歌が上手い人なんてほとんどいませんよね? 歌が上手い人はどんな歌を歌ってもうまい。下手な人はどんな歌を歌ってもヘタ。だから、ある意味でどうしようもないんです。
そしてこれは発音に限らず、ある言語の習得そのものについても言えると思います。やはり何年も外国に住んでいても、その現地の言葉がいっこうにうまくならない人というのがいるんです。自分が生まれ育ったところの言葉以外にはうまく入れない、入っていきたくない……そういう気持ちも含めての「才能」です。もうこれはどうしようもない。
とはいえ、悲観することはありません。語学の世界ほど、努力が報われる世界もないからです。確かに才能の差はあるので、十のことを一の努力で出来てしまう人がいます。しかし、あなたに才能がないなら、十のことを十の努力でやればいいのです。結果は同じです。十のことができるようになります。
ここで重要な問題が出てきます。十の努力をしてでも、十のことを自分のものにしたいのかどうか? そこまでして語学を本当にやりたいのか?
語学の問題というのはここに尽きます。十の努力をしてでも十のことを身につけたいという欲望があるなら、十の努力ができますので身につきます。しかし、そういう欲望がないなら無理です。語学とは努力を強いるものであり、努力を可能にするのは欲望です。
確かに発音がよくならないことはあります。しかし、聞いて理解したり、読んで理解したり、きちんと意思疎通して議論したりということは出来るようになります。
ただ、やはり問題は欲望なのですよ! そこまでやりたいか、何としてでもそれをやりたいという必要を感じているか……。
先日、とある数学者の方から、「運がいい人いうのは、心身で行っている計算の量が多いのかもしれない」という話を聞きました。この話、詳しく話をすると「計算とは何か?」という数学の重大問題につながるので軽く書きます。問題になっているのは、先ほどの「思い込むことで周りからのアドヴァイスを遮断」のことです。
人間はものを考えたくありませんので、基本的に情報を選択的に吸収しています(この辺り、自分の本の紹介で恐縮ですが、『暇と退屈の倫理学』に書いた「環世界」の議論を参照してください)。思い込んでいる人間は、この選択がより強くなっていて、周囲からの情報収集を極端に遮断しています。そうでないと、思い込みを突き崩す情報に晒されて、再び苦しい状態に戻ってしまうからです。
さて、このことが意味するのは、人によって周囲の環境から吸収する情報の量は大きく異なるし、同じ人でも心身の状態次第でその量が大きく変化するということです。情報の量が多くなると、普通人間はパニックを起こします。大量の情報を処理しきれないからです。ところが、どうやら、他の人よりも相対的に多くの情報を心身で受け取り、しかもそれが支障なく処理できている人がいるようなのです。
「情報」といっても、「どこで何が売ってる」とかそういうことではありません。いや、むしろそういうことも含めた、ミクロな情報群のことです。前にいる全然関係ない人の顔色とか、毎日会っている友人や同僚の精神状態とか、テレビでやっているどうでもいいCMの雰囲気とか、さらには自分の体調の具合とか……。そういう自分に与えられている情報を他の人よりも多く受け取り、且つ無意識のうちにそれを処理できている人というのがいるのです。
運のいい人というのは、そうした人のことではないか、というのが先の仮説です。運がいい人というのは、したがって、大量の情報を無意識のうちに処理・計算しており、日常生活のうちに無数に存在する選択の場面でそれが役立っている。つまり、後に「ラッキーである」と思われるような帰結をもたらす無数の選択を無意識のうちに、そして不断に行っているというわけです。
僕はこの仮説はおそらく正しいと思います。そしてこの仮説が正しいならば、運は決して偶然ではないということになります。「運がいい」人は、これまで積み上げてきた厖大な情報処理に基づいて、無意識のうちに適切な選択をこれまた積み上げている。「運が悪い人」は、情報をできる限り排するようにして生きていて、計算結果を積み上げていないため、無意識のうちに行われている無数の選択場面で利用できる情報のリソースが乏しく、適切な選択が行えない(すこし前に「ざんねんな人」という言い回しが流行りましたが、それも多分このカテゴリーに入ります。一生懸命だけど、いや、一生懸命だからこそ、情報の受け取りを無意識に拒否しており、計算結果を積み上げることができていないわけです。だから常に残念な結果に終わる)。
昔からそう思っていましたし、この人生相談を始めてこの考えの正しさを再認識しましたが、どんな悩み(問題)も一般的・抽象的である限りは解決しないのです。いかなる問題も個々の具体的状況の中にあります。そして個々の具体的状況を分析すると、必ず突破口が見えてくるのです。
しかし、悩み(問題)が一般的・抽象的である場合にあ、そうやって分析する情報がほとんどない。だから、Aとも言えるがBとも言えるというような対立に陥ってしまって、答えが出ない。