國分功一郎のレビュー一覧

  • スピノザ 読む人の肖像

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    「エチカ」を中心とし、それ以外の著書も解説しつつ、スピノザの哲学を肌感覚でも理解できるように書かれています。単にその著書の中身の解説というだけではなく、それが書かれた時代背景や、スピノザの置かれた状況も考えを伸ばし、その著書が書かれた順番にもできるだけ忠実に合わせて読解するようにされています。それにより、スピノザが言いたかったこと、書くという限界を超えた部分で到達したかった部分にまで考えを伸ばしていくことができます。そこからスピノザの書物を単に読むだけではなく、そこから何を成したかったのか、その課題が現代における私達に投げかけるもの、そして私達がその哲学を継承することから目指すものが見えてきます。まさに生きる哲学を本書から感じることができるものとなっています。
    スピノザの哲学の難解な部分が、なぜ難解なのか。それは現代の私達の認識を一度捨てなければ理解できない部分があるということ。しかしそれが為せると当然に出てくる明快な結論であること。ゆえに理解が進むと世界に対する新しい見え方が出来るようになること。そこから私達の生き方について、倫理についての考えを知ることができます。そのスピノザの考えを、現代の私達に伝える著者の努力が伝ってくる内容となっています。

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    2023年09月28日
  • 近代政治哲学 ──自然・主権・行政

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    ジャン・ボダン、ホッブス、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カント。
    スピノザもこの流れに入るんだ。ロックは哲学的じゃなかったんだ。
    細部に驚きがあった。

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    2023年09月15日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    相談者の文章やその中に書かれていないことにも注目して推測しながら分析する手法が面白い。
    自分に嘘をつくこと=[情動]という身体的な反応に対して[感情]が逆らうこと。
    違和感[情動]は無視したらダメってことですね。

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    2023年05月12日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    久々に読んだ國分功一郎先生の本。同じ悩みというわけではないけれど、時に辛辣な先生の言葉は私に言われているみたいに感じ、痛いところを突かれるなぁと思いながら読んだ。解説を千葉雅也先生が書いているが、そちらもなるほど〜と思う内容。
    誰かと話すこと、想いを伝えることって大切だ。

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    2023年05月05日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    まず、相談文を何とか理解しようとする姿勢に感服しました。そして多角的な見方による考察の鋭さが素晴らしかったです。
    面白かったのは「イロニー」を持ち出して回答していたこと。たまに自分も実行していたが、言語化出来ていないことだったので、なるほどと腹落ちしました。人間の精神エネルギーやプラス思考についての考え方も非常に共感できる内容でした。総じて勉強になる読書体験でした。

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    2023年03月13日
  • スピノザ 読む人の肖像

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    國分先生の説明力をもってしても「ぜんぜん文章として頭に入ってこね〜!!!」とパニクる部分も多々ありつつ、スピノザの知性のオーパーツぶりがなんとなくわかったかと思う。すべては相対、すべてはグラデーション、単純な二元論に逃げるやつはバカ。

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    2023年03月04日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    「書かれていることだけを読んでいてはダメである。人生相談においてはとりわけ、言われていないことこそが重要である。人は本当に大切なことを言わないのであり、それを探り当てなければならない」(本書あとがきより)

    相談者にかなりキツめの回答もあるが(というか殆どそんな感じだが)、哲学の知見に基づいて的確に丁寧に答えており、思いやりも優しさもあり、また自分自身の抱えている問題にも通じるエピソードもあり、大変面白く読めました。

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    2023年01月16日
  • 「利他」とは何か

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    中3生の模試の国語で、伊藤亜紗さんの『「うつわ」的利他』の一部が題材として出題されていて、興味をもったので読んでみました。
    「利他」は「偽善」「自己満足」「押しつけ」と紙一重で、特にネットではそんな言葉で全く関係のない赤の他人から揶揄されたり非難されたりする可能性もあって、最近はうっかり親切な行動もとれないような雰囲気があったりもします。だいたい、「偽善」「自己満足」「押しつけ」をすり抜ける「利他」ってどんなものなんだろう。そんな思いがありました。
    伊藤亜紗さんの章は読みやすく分かりやすかったですが、いちばん面白く興味深く読めたのは中島岳志さんの『利他はどこからやってくるのか』でした。志賀直哉の『小僧の神様』、チェーホフの『かき』、モースの『贈与論』に出てくる様々な贈与に関する慣習、「ありがとう」への違和感の話…ポロポロと目から鱗が落ちていく…「ふと」とか「思わず」とか、そういう「オートマティカルなもの」に動かされる。きっとそうなんだろうと思いました。
    國分功一郎さんの『中動態から考える利他ー責任と「帰責性」』は非常に難しくて、十分に理解できたとは思えていませんが、ここで述べられている「神的因果性」というのは中島さんの章で出てきた「オートマティカルなもの」と同じようなものかな、ととらえると少し分かる気がします。「中動態」については以前別のところで読んで、「そんな態があるのか!」と驚いたのを覚えています。自分の中で何かが動く状態を指す態。こんなことを思いつくなんて、学者さんて本当に本当に頭がいいんだなあ。

    「しよう」と思って善いことをするのも、いいことには違いないけれど、「思わずしちゃった」的にできればよりいいのかな。

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    2022年12月15日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    メルマガPLANETSが初出。参考図書も記載されているので、深堀りしたい場合に参考にできる。

    哲学とは何かを知らなくとも、この本はかなり面白かった。
    問いとして挙げられているのはいずれも人生相談なので、自分でもあるあるといった内容が多かった。
    それゆえ、自分の中でも経験した問いに対する、答えの1つをこの本では示していた。

    これだけだと他の本との差別化はないですが、その答えが哲学という観点で述べられているので、回答としてはかなり珍しい内容であることが多かった。

    読み終えて長らく経つが、記憶している面白い本。

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    2022年12月01日
  • 「利他」とは何か

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    以前に『借りの哲学』を読んだので、恩を受けると負債の考えが生じるというのは何となく理解してました。利他は自己満足を満たすため、というのも。震災で炊き出しをしていた某有名人に対して「偽善」、「売名か?」というコメントを思い出します。

    思いやりに満ちた世界の方が良いに決まっていても、なかなか利他には難しい側面があるのは事実です。個人の意識に対する小さい時からの教育と社会の制度、インフラ設備など、みんなが意識しないほど社会の仕組みに溶け込ませることが大事だと本書を読んであらためて思いました。

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    2022年11月27日
  • 来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題

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    立法と行政の観点から、民主主義について改めて考えさせられた。実質行政権が決定権あるのではと言う点について、感覚としてはわかっていたが、明確に言語化して整理ができたと思う。
    民主的と民主主義の違いについて、感覚的、概念的と言った視点違いでの説明など、スッと腑に落ちる理解ができた。

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    2022年11月09日
  • 「利他」とは何か

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    ネタバレ

    「利他」について5人が違うアプローチで切り込んでくる。「利他」を推奨するような本なのかと思っていたが、純粋に「利他」を科学している内容で、これはこれで大変興味深い。仏教的なアプローチはありそうだが、言語的なアプローチなど思いもしなかった。能動でも受動でも無い「中動態」も考えさせられる内容だった。おすすめ。

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    2022年10月20日
  • 「利他」とは何か

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    ネタバレ

    利他: うつわになること。意図的な行為ではなく人知を超えたオートマティカルなものであり、そこに利他が宿る。

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    2022年09月13日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    ネタバレ

     オタクと呼ばれている人の中には、モノや概念が純粋に好きな人もいます。しかし、オタクはうまく自己肯定できていない場合が多く、「モノや概念が好きな自分」が好き、「それについて他人より詳しく知っている自分」が好きであり、その意味で「多くの女性とセックスできる自分が好き」というナルシシズムで心の穴を埋めているヤリチンと極めて多くの共通点を持つことが考えられるのです。
     つまり、オタクが何かをきっかけにモテるようになり、その対象が「女性」に変われば、彼は簡単にヤリチンになるということです。
     二村さんはもっとすごいことも言っています。
     モノや概念に熱中することで、「苦手な人間関係から逃げている自分」を認めるのを避けているオタクがたくさんいる。そういう人たちは「キモいオタク」と呼ばれる。なぜ彼らがキモいのかと言うと、自分を「ごまかしている」こと、ナルシシズムが強すぎることが周囲にバレバレだからだ、というのです。
     つまり、「キモオタ」と呼ばれる存在は、その容姿とは全く関係ないということです。
     二村さんはこの「キモチワルイ」という存在容態が如何なるモノであるかを別のご著書で分析されています。それが『すべてはモテるためである』です。これが教科書の二冊目になります。この本は内容をかいつまんで説明することができないものになっています(つまり、最初からずっと読み進めて、読者が自分を問い直すような構成になっている)。ですので、要約はできませんが、「モテるオタクとモテないオタクの違い」「モテないオタクは、ある種のマンガを自分に都合よく読み間違えている」などといった箇所(前掲書、第二章第四節)が参考になるでしょう。
     とはいえ、全てを二村さんまかせにするわけにもいかないので、僕なりに、学術的にすこし説明を加えておきましょう。参照するのはフロイトです。メランコリーというのは愛する対象を失った場合に起こるのですが、たとえば死などによって愛する対象を失った人でも、全員が全員メランコリーになるわけではないとフロイトは言っています。どういうことかというと、その「愛」がもともと自己愛的傾向を強く持つ場合に、メランコリーになるというのです。(「喪とメランコリー」『フロイト全集14
    』)。
     オタクの場合は、そもそも自己愛が極度に強い。だから彼らは自分が、フロイトの指摘しているようなメランコリーに容易に陥ることを多少共無意識に感じ取っているのではないでしょうか。それ故に、自分をごまかして、別のものによって心の穴を埋めようとする。
     回遊魚さんの質問を読んでいますと、大変失礼ながら
    この「キモオタ」的なものを感じます。たとえば次の一節。
    「さらに自分の問題は、女性との関係構築の不得手さを、コミュニケーションが持つ原理的な暴力性(人は人の踏み込まれたくない領域を知ることはできない、など)に対して向き合っているナイーブな俺、という自意識で処理しているところです」
     ここには、自意識で処理するのはまずいということが意識できている俺、という自意識が読み取れます。自意識で処理してしまっている俺はダメだーーということが意識できている俺はダメじゃない、というロジックですね。自分は性的マイノリティーではないと思うが、そうかもしれないーーということが意識できている俺はダメじゃない、というのも同じロジックです。
     そして、このロジックはバレバレです。
     多分、周囲にもバレバレでしょう。
     さて、もし僕が回遊魚さんの近くにいる友人だったら、「お前、自意識を意識できてるなんて無言の主張はバレバレだから、ヤメレ」と言います。まぁ、それを言い続けたら、そのうち変わるかなぁ、みたいに思います。

     最初に僕が考えている語学の原理を述べておきたいのですが、語学の勉強というのは大変才能に左右されます。特に、発音も含めた喋る能力についてはそうです。配偶者が外国の方であっても、その外国の言葉の発音が全然なっていないという人もいます。要するに外国語の発音に関して、才能がないのです。
     しかし、そんなことは考えてみれば当たり前ではないですか? 発音なんて歌を歌うのと同じです。歌が上手い人なんてほとんどいませんよね? 歌が上手い人はどんな歌を歌ってもうまい。下手な人はどんな歌を歌ってもヘタ。だから、ある意味でどうしようもないんです。
     そしてこれは発音に限らず、ある言語の習得そのものについても言えると思います。やはり何年も外国に住んでいても、その現地の言葉がいっこうにうまくならない人というのがいるんです。自分が生まれ育ったところの言葉以外にはうまく入れない、入っていきたくない……そういう気持ちも含めての「才能」です。もうこれはどうしようもない。
     とはいえ、悲観することはありません。語学の世界ほど、努力が報われる世界もないからです。確かに才能の差はあるので、十のことを一の努力で出来てしまう人がいます。しかし、あなたに才能がないなら、十のことを十の努力でやればいいのです。結果は同じです。十のことができるようになります。
     ここで重要な問題が出てきます。十の努力をしてでも、十のことを自分のものにしたいのかどうか? そこまでして語学を本当にやりたいのか?
     語学の問題というのはここに尽きます。十の努力をしてでも十のことを身につけたいという欲望があるなら、十の努力ができますので身につきます。しかし、そういう欲望がないなら無理です。語学とは努力を強いるものであり、努力を可能にするのは欲望です。
     確かに発音がよくならないことはあります。しかし、聞いて理解したり、読んで理解したり、きちんと意思疎通して議論したりということは出来るようになります。
     ただ、やはり問題は欲望なのですよ! そこまでやりたいか、何としてでもそれをやりたいという必要を感じているか……。

     先日、とある数学者の方から、「運がいい人いうのは、心身で行っている計算の量が多いのかもしれない」という話を聞きました。この話、詳しく話をすると「計算とは何か?」という数学の重大問題につながるので軽く書きます。問題になっているのは、先ほどの「思い込むことで周りからのアドヴァイスを遮断」のことです。
     人間はものを考えたくありませんので、基本的に情報を選択的に吸収しています(この辺り、自分の本の紹介で恐縮ですが、『暇と退屈の倫理学』に書いた「環世界」の議論を参照してください)。思い込んでいる人間は、この選択がより強くなっていて、周囲からの情報収集を極端に遮断しています。そうでないと、思い込みを突き崩す情報に晒されて、再び苦しい状態に戻ってしまうからです。
     さて、このことが意味するのは、人によって周囲の環境から吸収する情報の量は大きく異なるし、同じ人でも心身の状態次第でその量が大きく変化するということです。情報の量が多くなると、普通人間はパニックを起こします。大量の情報を処理しきれないからです。ところが、どうやら、他の人よりも相対的に多くの情報を心身で受け取り、しかもそれが支障なく処理できている人がいるようなのです。
    「情報」といっても、「どこで何が売ってる」とかそういうことではありません。いや、むしろそういうことも含めた、ミクロな情報群のことです。前にいる全然関係ない人の顔色とか、毎日会っている友人や同僚の精神状態とか、テレビでやっているどうでもいいCMの雰囲気とか、さらには自分の体調の具合とか……。そういう自分に与えられている情報を他の人よりも多く受け取り、且つ無意識のうちにそれを処理できている人というのがいるのです。
     運のいい人というのは、そうした人のことではないか、というのが先の仮説です。運がいい人というのは、したがって、大量の情報を無意識のうちに処理・計算しており、日常生活のうちに無数に存在する選択の場面でそれが役立っている。つまり、後に「ラッキーである」と思われるような帰結をもたらす無数の選択を無意識のうちに、そして不断に行っているというわけです。
     僕はこの仮説はおそらく正しいと思います。そしてこの仮説が正しいならば、運は決して偶然ではないということになります。「運がいい」人は、これまで積み上げてきた厖大な情報処理に基づいて、無意識のうちに適切な選択をこれまた積み上げている。「運が悪い人」は、情報をできる限り排するようにして生きていて、計算結果を積み上げていないため、無意識のうちに行われている無数の選択場面で利用できる情報のリソースが乏しく、適切な選択が行えない(すこし前に「ざんねんな人」という言い回しが流行りましたが、それも多分このカテゴリーに入ります。一生懸命だけど、いや、一生懸命だからこそ、情報の受け取りを無意識に拒否しており、計算結果を積み上げることができていないわけです。だから常に残念な結果に終わる)。

     昔からそう思っていましたし、この人生相談を始めてこの考えの正しさを再認識しましたが、どんな悩み(問題)も一般的・抽象的である限りは解決しないのです。いかなる問題も個々の具体的状況の中にあります。そして個々の具体的状況を分析すると、必ず突破口が見えてくるのです。
     しかし、悩み(問題)が一般的・抽象的である場合にあ、そうやって分析する情報がほとんどない。だから、Aとも言えるがBとも言えるというような対立に陥ってしまって、答えが出ない。

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    2023年08月08日
  • 来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題

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    そうだよね、めざすものなんだよね。
    何にでも当てはまる話。

    思想というのは、それほど普遍的なのだと教えてくれた。

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    2022年06月29日
  • 近代政治哲学 ──自然・主権・行政

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    近代国家成立までの歴史や基本的な概念について。ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの思想がコンパクトにまとまっており読みやすい。一般の教科書では「ホッブズは絶対王政を擁護した〜」とか「ロックは抵抗権を認めてた」のような記述がよく見受けられるが、解釈としてミスリーディングな部分もあり原文をしっかり読む必要性も感じた。

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    2022年05月29日
  • 言語が消滅する前に

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    対談形式は諸刃の剣みたいなもので、両者の対話がマッチしているとすごく良いが、そうでない場合はあっさりと読む気を失ってしまう。中間はあまりなくて、良いか悪いかどちらかに偏る傾向がある。
    本書はお二人の相性がよく、それぞれが良い味を出している前者の好例だと感じた。

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    2022年05月20日
  • 言語が消滅する前に

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    石丸現象に即応する感じの対談。

    再読なので、それ以外ではパターン認識にしてしまわずに、中動態。スイッチ一発での切り替えのような反応に抗う気持ちがあった方がいいのだろうな。する、でも、されるでもなく。
    でないと、言葉の自動機械って感じになるか、メディアの濁流に飲み込まれるか、だな。

    まぁ、AIが全面展開したらもう、言葉でもないのかもしれんけど。

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    2022年02月18日
  • 言語が消滅する前に

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    20世紀の哲学は、言語論的転回ということだったんだけど、その「言語」が消滅しているという。ならば、21世紀の哲学はどうなのか?

    みたいな問いがあるのだが、直接的にそれを考えるというより、SNS、ポピュリズム、コロナなどなど、今起きていることを例にしながら、ぐるぐると周りながら、その問題に近づいていく感じ。

    もちろん、答えはないのだけど。

    言葉の力をもう一度取り戻すこと。それは、一種の貴族的、権威的なものの復活なのかもしれない。

    そして、しばしば思考のプロセスのなかで参照されるのが、アレント。國分さんは、フランス現代思想を踏まえつつ、スピノザの研究を起点にさまざまな思考を展開されているのだと思う。アレントは、スピノザとは逆の立場であることが多いと思っているのだが、アレントもスピノザも好きな私は、この辺が面白いところ。

    アレントの議論は、しばしばわかりにくく、最後にはなんだか変な結論に辿り着いてしまうことが多い気がするのだが、それでも彼女が問題にする問題、問題にアプローチする方法は、とても鋭いものがあって、思考を活性化させるパワーがあるように思う。

    そんなアレントの声が聞こえてくるようなところもこの対談の魅力。

    対談なので、軽く読めるのだが、この議論はかなり深い。

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    2022年02月13日
  • 言語が消滅する前に

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    『暇と退屈の倫理学』の國分氏と、『勉強の哲学』の千葉氏の対談。大学院の先輩後輩なのだと知る。

    LINEのスタンプの話があって。
    言葉を交わすことから、視覚的な情報の一コマにまで簡略化されたやり方で事足りるようになった。
    紡ぐものには、意趣や考えの余地があるけれど、スマホは言葉を〝予測〟さえしてくれる。

    ガラケー時代には絵文字一つで送ることに難を示したり、感情を読み取りきれない距離があったはず。
    私がスタンプだけのやり取りに抵抗があるのは、ある意味当然だったのだなぁ。

    以下、印象に残った箇所の引用。
    大きく三つが自分の気になっているポイントらしいと分かった。

    中動態的な教育の在り方のこと。
    ただ、教師は生徒を主体的にするという、この過程に中動態的な関わりを感じるので、アクティブラーニングは完全な主客転倒ともならない気がする。

    言葉の価値と依存のこと。
    本を読むことにも繋がるかもしれない。
    他者が言葉で作り上げてきた世界の偉大さ?に触れることが、自分にとっての線引きにもなる。
    エビデンス主義(笑)絶対的なものでしか、納得を得られないことの、浅さを知る。

    多様性と否定性のこと。
    一番最後の引用が、一番モヤモヤ抱えている。
    皆違って皆いい、ではなく、どこかしら否定性を持つことが、意味ある死に繋がると述べる。
    今の世の中には反した意見とも言える。
    否定性を他者にぶつけることではないような気がする、でも、否定性を自分の中で抱えること、違和感を流してしまわないことに意味があるのかな。
    それは苦しいことで、問うことに繋がる。


    「薬物依存に関して、有名な『ダメ。ゼッタイ。』という標語があるでしょう? 上岡さんたちは、『ダメ。ゼッタイ。』というとが『ゼッタイ、ダメ』だと言っています。意志の力で、『もうやりません、絶対やらない』と思っていると、絶対やっちゃうそうなんです」

    「でも、、僕は先生をやることに少し疲れていました。生徒になりたい、教わりたいという気持ちがあった。だからアテネ•フランセに行って、久しぶりに生徒として徹底的に教わる経験をして大きな満足がありました」

    「だから、最近流行りのアクティブラーニングとか言って、学生にアクティブに課題か何かやらせて、それに対して教師がアドバイザー的に関わるなんていうのは、能動•受動の二項対立の枠組みに囚われたまま反転しているだけだから、まったくダメ。アクティブラーニングより、これからはミドルボイスラーニングをやっていかなきゃいかんと思うわけですよ」

    「孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で、私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます」

    「エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだということが、まずは共有されなければならない」

    「それもあるけれども、僕がいま考えているのはドゥルーズのことで、『差異と反復』の序論に、優れた教師とは、『私のようにやりなさい』じゃなくて『私と一緒にやりなさい』と言う者だという話がありますよね。『一緒にやりなさい』と言う教師はコミュニケーションをしているわけではないんですよね。それこそある種の集団的主体がそこにできあがっている」

    「だからこそ、言語で構築された文学的な物語によって憲法の掲げる価値が理解されてきた側面にもう一度目を向けるべきではないか」

    「まず大事なのは、自分が他のものに依存していることを認めることだと思うんですよね。今の平等化は、みんなが自己権威化している状態になっている(中略)まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いるのが現在の状況です」

    「要するに、すべてのマイノリティが不快な思いをせず、安全に生きられればいちばんいいんだ、という考えが強まっているわけです。僕はそれがマイノリティの問題のすべてなのかとつねづね疑問を感じています。やっぱり多少苦労があったり、お互いに対する否定的なものがあったりしても、それとともに生きていくことにこそ、人間的な意味があるんじゃないのか」

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    2022年02月06日