國分功一郎のレビュー一覧

  • 中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)

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    行為する、されるといる能動と受動の対比には人の「意思」が中心にそえられる。「意思」それは、過去を担う「記憶」との対比として未来を担う器官とする考えであり
    過去からの断絶を前提とする。行為の責任の帰属先を明確にするためにもその考えが必要な社会が現代である。しかし過去からの断絶とは本来的にありえない概念であり、何にも影響されない事象、行動はありえない。そうした意味でも現代の意思の定義はずれているかもしれない。

    中動態とは能動でも受動でもない第三の態ではない。受動、再帰、自動詞の意味を含む根源的な人と世界の関わりのあり様をしめした態である。
    言語の歴史的にも能動と受動の対立をベースとするパースペスティブは新しいものであり、その枠組みにとらわれていると説明できない言葉がおおくある。
    我々は気質、感情、社会の影響を受けてしまい、本当に自由に行動することは出来ない不自由な生き物である。だが完全に受動的であり、意思なるものがないわけでもない。完全に自由でもなく、完全に不自由でもない。中動態の世界をもって我々自身を認識することが求められる。
    また意思なき中動態の世界は無責任の世界ではない。責任とは自身が責を負い、受け入れ、かわることであるため中動態の考えをもってなされるべきである。
    能動と受動の関係から、意思があることを責任の根拠とすることは本当の責任をおうことにつながらないこともある。
    神的因果性と人間的因果性の矛盾を受け入れ維持する‐「私は加害者であるが被害者である。だが、被害者であるが加害者てある」‐。これが人間の生き方の一つの考え方の提起なのかもしれない。

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    2025年09月21日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    「日常生活が目的の為の手段と化した皆に告ぐ。救いはあまりないが、ヒントはある。」

    拒食症はご存知だろうか。
    端的に言えば「食べたくても食べられない」病であり、現在私が罹患している病でもある。正確にはトレーニングを積んで飲み食いをゆっくりなら出来るが嚥下が苦手である。だがそこには「食事の楽しみを剥奪された人間」が確かに居る。

    本書はカントの快の分類を援用しつつ、「目的や手段を持たない、純粋に快適を享受する」ことが「目的達成の為の手段としての‘‘病的‘’行為」に貶されないように、「目的ー手段」に人生を従属させないことを説いている。本書の例をアレンジするならばこう言えるだろう。「喫煙は快適を享受するが、健康目的の禁煙パッチを利用する人間は病的である」と。

    では「目的ー手段」から逃れるためには何が出来るのか。自己の道徳法則に従わせる他に、享受の快適を受け取る術を知ることだと著者はカントを読み解き言う。なお、後者のみに生きることにはカントは批判的であるが、後者自体は否定していない。
    この結論は『暇と退屈の倫理学』と同じ話である。焼き増しではないか。ただ本書は「嗜好品」についての考察が続く。嗜好品を味わうことは、目的達成の満足の為の手段ではなく、その行為から快適を得られる、だと言う。つまり「目的ー手段」から外れた存在だというわけだ。

    本書では、嗜好品たるアルコールやタバコと依存物質であるドラッグを大きく区別している。ただ、これは何とも納得感がない。依存物質の多い少ないで決められるものなのか。快適の享受に普遍性はなく、個別的なものである。単に私は楽しみ方を知らないだけなのか。(とすれば、著者はドラッグの楽しみ方を知らないということになる。)

    ここで白状しよう。このレビューはタリーズで書いている。飲み込むのが苦手なのを克服する目的でコーヒーを飲んだのだ。飲み始めはリハビリとして飲んでいるので、快適ではない。「目的ー手段」関係だから当然である。だがどうだろう。レビューを一生懸命書いているうちに、確かに昔のようにコーヒーを楽しんでいる人間がそこにはいた。
    「自然と快適を享受していた」現象は、「目的ー手段」関係からの解放とは言えないだろうか、國分先生。

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    2025年09月21日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    現代社会では、あらゆる行動が何らかの目的に向かうことが当然視されている。
    その結果、「第四象限の純粋な享受を守る」ことは、ほとんど不可能に思える。
    目的を伴わない行動は奇異と受け取られやすく、自分自身もつい「何のためにやるのか?」と目的を探してしまうからだ。

    そんな社会で、私ができるささやかな抵抗は、第三象限と第四象限のはざまを意識的に往復することだと考えている。
    具体的には、
    • 何かを成し遂げるための手段として行動しながらも
    • その手段自体にも純粋な快を見いだし続ける
    つまり「目的に向かいつつも目的に縛られない」問いかけを日常に散りばめる。
    この生き方こそが、手段化された快の連鎖から自分を解放し、ほんの一瞬でも第四象限の自由な享受を取り戻す鍵になるはずだ。

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    2025年09月18日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    『権力は「例外状態」あるいは「緊急事態」というものを巧妙に利用して、民主主義をないがしろにしたり、人々の権利を侵害していくことがある。』

    コロナ禍でアガンベンが上げた危機感の話は、自分が不安に思っているさまざまな状況にとても似ている感覚がある。自由や制約、受け入れてしまう状態など社会状況と個人が地続きになっていて今読んでいる『奪われた集中力』ととても親和性があるように感じる。

    ベルリンの壁のドキュメンタリーは見てみたい。
    後半は『暇と退屈の倫理学』の復習で改めて自由と責任について考える。質疑応答がとても興味深い。

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    2025年09月11日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    國分先生の講和シリーズで「目的への抵抗」に続く一冊。「楽しむ」とはどういうことかを考えるもの。「〇〇のために楽しむ」のは一見当たり前なのだが、単純に、自然に、楽しむことから離れているのでは。「浪費」ではなく「消費」させられていることも主客逆転。時々こういうことを考えるのは大事だなあと思う。

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    2025年09月07日
  • 中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)

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    ネタバレ

    自由意志の否定、行為は意志を原因としない
    言語は思考の可能性を規定する
    選択と意志の区別は明確である
    権力と暴力
    出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行
    中動態は主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティブにおいて理解されねばならない
    異なった仕方の変状
    完全に能動たりうるのは神のみ。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる
    変状の画一的な出現を避ける
    中動態の哲学は自由を志向する
    妬んでいる時人は相手に自分を見ている
    人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない
    善の性質を身に纏うことで、相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する
    意志概念の切断機能

    理解度が正の2次関数のようだった。中盤はかなり難解だった。ただこの考えは自分が考えていた能動受動の曖昧さをうまく言語化してくれた。読解力の向上と哲学的背景の知識を得て再挑戦したい。

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    2025年09月06日
  • 中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)

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    ネタバレ

    100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。

    1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。

    暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。

    中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。

    ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。

    行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。

    國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎

    個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。

    自分の中でまた追求欲が出てきた。
    正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
    能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。

    ごちゃついた感想になったけど、
    また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。

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    2025年08月30日
  • はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

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    「エチカ」というスピノザの著作について、その存在を知ったのは、わたしの場合やはりPodcastからだった。
    知ってからもルソーの「エミール」とよく混乱した。カタカナのエで始まるなんか短い名前の本っていう括りだからかな。

    本で、活字で、ちゃんと読む…というのは、わたしにとってはとても意義がある行為なんだな、と今回改めて感じた。
    たぶんもう「エミール」と間違えたりしないと思う。

    さて、そんなわたしにとっては
    「暇と退屈の倫理学」以来2冊目の國府功一郎さんのこちらの著作、17世紀オランダの哲学者、スピノザが残した「エチカ」についての解説本である。
    「NHK100分de名著」に新たな1章を書き加えて全体を再構成したものらしい。
    タイトルにあるスピノザという名詞に少しビビったが、めちゃくちゃ読みやすくて、文体もやさしかった。

    とりあえず、「エチカ」にもスピノザの他の著作にも、この中に出てくるデカルトにも、そのままズバリの濃い状態の哲学書で摂取したわけでないわたしが、この本を読んでみた感想。
    スピノザの哲学って東洋思想みたいだな、ということ。

    「エチカ」はどのように生きるか、どのように自由に生きられるか、という問いについて書かれたものなのかな、と理解した。
    その中で、神の存在について、自然も人間も宇宙も何もかも全てが神である…、國府先生のシーツの例えがめちゃくちゃわかりやすかったんだが、
    個人における出来事、人間の個性でさえ、大きなシーツ(神)にたまたま寄った皺のようなものだというところ。
    大きなネットワーク自体が神そのもの(宇宙そのもの)で、そのネットワーク上にいるわたし自身が神の一部である(梵我一如)みたいなことを想像した。
    それにしてもこれは確かに17世紀のヨーロッパではなかなか勇気のいる定義だったろう。

    自由意思についての考え方も、これまたシンプルに因果論に通じると思ったし、
    真理について…、
    これは飲茶さんの「史上最強の哲学入門-東洋の哲人たち」にあった、積み上げ方で築いていく西洋哲学に対して、東洋思想はいきなり「これが真理だ!」と言きってしまうというところに、スピノザが言っていることは近いような気がした。

    どんなカタチにせよ、神の存在を前提としている部分が東洋思想とは決定的に違うが、デカルトがうちたてた近代哲学とはOSが違っているという國府先生の主張もよくわかる。
    善悪の定義や、本質についての捉え方が問いの真っ只中にいる凡人のわたしにとっては興味深く面白かったので、
    この本を補助線にして、「エチカ」読んでみようかな、という気持ちになった。
    難解ながらも自分なりに何か掴めるかもしれない。

    しかし、やはり哲学沼はめちゃくちゃ深そうだなー。

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    2025年08月25日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    「目的への抵抗」の続きのような哲学講話だったので、読んでみたくなりました。

    楽しむとはどういうことだろう。楽しいって何なのだろう。と十数年考えてこの本を書いたと言う。

    カントのタバコ論からはじまり
    嗜好品、享受の概念についての解説。

    スポーツや旅行を楽しむことも含まれるかと思っていましたが、タバコやお酒、お茶、珈琲などを楽しむことについてなので、あくまでも嗜好についてでした。

    前半は専門的な語彙が多いので分かりづらいところもありましたが、後半は東大での講話はとてもわかりやすく、腑に落ちました。

    カントの嗜好や享受の説明で、五感によるレベルがあるようで、触覚と視覚と聴覚はレベルが高くて、味覚と嗅覚はレベルが低いという。
    その中に「快」と「快適なもの」の違いなど、楽しむための「目的」が、いつのまにか「手段」としてすり替わってしまう恐ろしさとか。

    最後の手段化する現代社会として、お酒は楽しむためだったのに、依存症になってしまったことを「手段からの解放」とし、依存症の方たちのバックグラウンドが重要で、楽しむものが手段化してしまう社会を考えないといけないのではないか、と提唱していました。
    こうなってくると、まだまだ続きがありそうですね。
    いつも、ただの哲学ではないところが國分功一郎のドキドキするところです。

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    2025年08月24日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    シリーズ前作に比べると、前半部は論考の形を取り後半部がそれを受けた講話という構成もあるが、内容自体もカント哲学の辺縁から嗜好や享受についての考察ということでなかなか骨の折れる内容。(JT関連との共同研究)
    言われてみると、嗜好品やアディクションへの考察が社会学や生理学的に説かれるものは目にしたが、それを哲学上の議論で目にかかることも少なく、込み入った話になりがちなのかもしれない。
    朱喜哲氏の連載に、似たような話があったような。

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    2025年08月23日
  • スピノザ 読む人の肖像

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    先日『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』をaudibleで聴いて、オーディオブックで受け止めるには限界があるなと感じていたのですが、性懲りもなくこちらもaudibleに出ていたので聴いてしまって、案の定難しかった笑
    スピノザ哲学のポイントを掴めた感じはまだまだしないので、その内紙版で読み直したいなと思うが、國分先生のガイドでスピノザという人物自体にも触れることでこれまでと少しイメージが変わる部分があった。特にスピノザの「神」についての理解や表現について、「神即自然」というスピノザの表現を微妙な時代状況の中でのレトリック的表現なのかなと捉えてしまっていたけれど、宗教的な側面を含めたスピノザの生い立ちや、エチカや他の著作の中で神の存在やあり方がどのように表現されているのか、さまざまな角度から考え尽くされていることを感じられるようになったのは良かった。

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    2025年08月18日
  • 中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)

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    能動態-受動態の対立する枠組みで物を考えることは現代人にとって至極当たり前のことに感じられる。しかしながら、歴史を遡ると言語にはより古いところに能動態-中動態という対立軸があった。
    能-受の対立に強く結びつく意志と責任の概念が、能-中の対立のもとで批判され、意志概念の不可能性が明らかになる。
    さらに、補遺では意志なき能-中的世界観の中における責任とは何かの論考が追加されており、論のさらなる進展が見られる。
    「暇と退屈の倫理学」と比較して言語的な分析が大半をしめており、ある程度言語哲学に慣れていないと読むのは少し大変かも。

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    2025年08月11日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    コロナとアガンベンについてなど把握していない話は興味深く、『移動と階級』を読んだあとで掘り下げ方としてこういう思索のほうがやはり楽しめた。國分氏の著作では「講話」ということもあって読みやすい。

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    2025年08月10日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    カントの「快」に対する分析(快を①端的に善いもの、②美しいもの、③崇高なもの、④快適なものに分類)をベースとして、目的のために手段化する傾向の強い現代社会の問題を指摘し、④快適なもの(目的のための手段としての快ではなく、それ自体を楽しむ享受の快)の重要性を説くもの。

    カントについては名前を知っている程度で全く知識がなかったので、カントの議論を分かりやすく噛み砕いて説明されていて勉強になった。

    前半:論文をベースとしたもの、後半:講演をベースに文章化したものという構成であったため、前半パートでは難解であまり理解できなかったところもあったが、後半パートを読むことで理解が深まった。

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    2025年08月05日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    何かに駆り立てられるように生きている、何かに駆り立てられるように何かをしている、それでいて人間自体は虚しさを感じながらカラッポな状態で行きている。そのような現代社会の病理のようなものに言葉を与え、その解決として提案されるもので我々の生や思考に一つの道筋を提案する。

    目的とも手段とも切り離された快を享受することで、所謂精神的な満腹状態に達し、消費社会、資本社会の構造に抵抗する、そして主体を取り戻す、ということがシリーズを通じて繰り返し述べられる。

    「楽しむ」という卑近なテーマからスタートする思索であるが、巻末でも述べられているように、このまま行くと人間が、依存症に陥ることに留まらず、取り返しのつかない悲劇を繰り返しかねない、そのような社会の構造になってきていると筆者は懸念する(と僕は読んだ)。人間全体の生に関わる、大きなテーマ、大事なテーマのための思考のスタート地点として、本書、本シリーズは非常におもしろいし、刺激が得られる。

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    2025年07月27日
  • はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

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    すごい平易な言葉で説明されてるっぽいのにむず〜、何度も寝落ちしかける
    でも面白いので進む時は進む
    そしてまたしばらくして読み始めるとどこまで読んでたかわからなくなり1章分くらい意図せず振り返ることになる

    107p
    受動と能動
    一般的には行為の方向性を指すが、スピノザはその行為が誰の力を示しているかで判断する
    親の虐待への復讐心で戦争に走る青年は結局のところ親の力を示しているので受動

    お〜と思ったけど、一般的にもそうじゃね?
    脅されてお金を出すのが能動とはもともと思えぬ

    p45
    それ自体として善も悪もない

    これはそう
    最近仕事のチームメイトのやる気のなさ後向き発言にやられてるが、組み合わせなんだろうな〜、そのチームメイトは私がやりやすいと感じている別の同僚とはうまくやってるので、まあ、組み合わせなのだ
    だからその同僚が悪ではないのだ、人の多面性とも言えるのかも

    p101
    強制、本質が踏みにじられている状態

    これもそう
    同じチームメイトに今私の本質は踏みにじられてられている
    私は改善/変化が好きだが、彼は属人/現状維持を好む
    変化の方がパワーがかかるが、そこに冷や水を浴びせられることでより負荷がかかる
    疲れちゃうよね〜、コナトゥスもしょんぼりだよ

    p106
    能動とは自らの力を表現すること

    最近まるでこれができない
    休日すら「休みの日の過ごし方の正解とは…」と自分の外に力を求めている
    コナトゥスがやられてるからかもね〜、くそ〜

    真理の獲得は自己の変容が必要つーのも、その前で説明されてた「自由意思」についてクソ長い本を読書会で読み続けてやっと「ああそういうことか」と腹落ちしたのを思い出す
    セキスペもこないだ落ちちゃったけど、きっとまだ変容までいけてなかったのかもな〜くやし

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    2025年07月24日
  • 中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)

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    「意志」とは何か、という哲学的なテーマを、〈中動態〉というかつてあった文法的な概念から読み解いていく。現在当たり前となっている〈能動態⇔受動態〉だけでは説明がつかないことも、中動態という概念が加わることで絡まった紐が解れる。「暇と退屈の倫理学」同様、このほどけていく過程を楽しめる一冊です。

    英語でも、受動態なのに能動的な意味の表現があったと思います。ああいうのも、中動態が歴史的に除かれていってしまったことによる弊害のようです。

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    2025年07月14日
  • はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

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    【神即自然】
    ・神は無限である→すべては神の中にある。神は宇宙のような存在(自然)
    ・神すなわち自然は外部を持たないから、他のいかなるものからも影響をうけない→自分の中の法則だけで動いている

    【コナトゥス】
    ・個体を今ある状態に維持しようと働く力
    ・スピノザは、コナトゥスをそのものの本質と考えている。すわなち、物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えた。

    【変状する力】
    ・刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きく変化する・
    ・変状(affectio):刺激による変化。あるものが何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びること。
    ・欲望:刺激によって変化した状態が、自分にあることをなすように働きかけ

    【本質】
    ・人間は多くの刺激で刺激されうる状態になることが豊かであるとする
    ・死は、私の本質を支えていた諸々の部分の関係が変化して別々のものになること
    ・神は、自然であるだけでなく、実体(=実際に存在している)であるとする。すなわち実際に存在しているのは神だけであり、万物は神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生する個物、すなわち変状したもの(=様態)
    ・属性;人間には精神に対応する「思維」と物体に対応する「延長」という2つの属性があるが、これらは同一のものとした。これはデカルトの心身二元論への反論。
    ・一人一人のコナトゥスを尊重することが社会の成立に必要。社会契約説が、安全のための社会契約を行なったという一回きりの契約を主張するのに対し、スピノザのそれは、反復的契約説と国分は論じている

    【真理】
    ・真理は真理自体の基準である。なぜなら真理の真理性を真理の外側に示すのはできないから。
    ・デカルトは、だれをも説得できる公的な真理を重んじたのに対して、スピノザは自分と真理の関係を問題にしている。
    ・スピノザは、認識することによって主体が変容すると述べているというように私的性格を強調している。

    【神の存在証明】
    ・スピノザは、神の存在を理解するためには、精錬のあゆみ、すわなち主体の変容を必要とする、とする

    『エチカ』
    ・ethica:倫理学を意味するラテン語。
    ・スピノザの死後に刊行された。
    ・定義、定理などの断章で構成される
    第一部:神について
    第二部:精神の本性および起源について
    第三部:感情の起源および本性について

    第四部:人間の隷属あるいは感情の力について
    ・自然界には完全/不完全の区別はない。これらは人間が自分のもつ一般的観念と比較することからうまれる
    ・善悪はそれ自体として善/悪であるものはなく、それぞれの組み合わせできまる
    ・第四部定理八証明「我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(・・・)言い換えれば(・・・)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。」
    ・スピノザ的な倫理は、いわゆる道徳の既存の超越的な価値を強制するのと異なり、個別具体的な組み合わせを考慮することを要求する、すなわち、実験することを求める。

    第五部:知性の能力あるいは人間の自由について
    「自由/不自由」
    ・自由:与えられた条件のもとで、自分の力をうまく発揮できること
    ・不自由:強制された状態。外部の原因に支配されていること。
    「能動/受動」
    ・能動:自らが原因となって何かをなすこと。すなわち自由。
     また下の「原因/結果」の解釈から、自らの行為のおいて、自分の力を表現しているときに能動。他人の力をより多く表現しているとき、受動。
    「原因/結果」
    ・原因:同時に表現の関係でもある。すなわち神という原因が、万物という結果においてみずからを表現している

    ・スピノザにおける自由は、必然性や能動性と結びついている。それは自発的、すわわり、何者からも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となる、ということではない。すなわち、自由意志というものは存在しない。

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    2025年07月16日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    東大の教授でもある哲学者の著者のメルマガでの人生相談をまとめた本。
    相談は書かれていないことが重要とし、本当は何が言いたいのかを推測して鋭い指摘をされている回も多い。一方で親との関係に悩む大学生の回など、相談者の人生に大きな影響を与えるような回もある。

    哲学書を引用しながら相談に答えていくのだけれど、そんな捉え方、考え方があるのか、ということだらけで発見と学びの一冊だった。

    自分が何かを相談された時 表面の言葉だけ受け取って的を射ていない回答になってたんだろうなとか、相談する側のときはただ自己開示をしたいだけというのが滲み出ていたんだろうなと気付いてしまった。気付けてよかった。

    哲学書やそれ以外の本から得た知識を適切な形で引用できるとこんな素敵な相談相手になれるんだと、自分も頑張ってみたくなった。

    2025年下半期は哲学に触れたいと思っているので、まずは本書に出てきた本から、手始めに積んである暇と退屈の倫理学から読んでいきたい。

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    2025年06月26日
  • 原子力時代における哲学

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    原子力は核兵器として利用される場合、反対されるが、「平和利用」という巧みなスローガンの元で発電に使われる場合は、長らく肯定されてきた。

    それが、チェルノブイリや3.11福島などを経て、急激に反対に傾いている。

    しかし、3.11以後も、事故が怖い、廃棄物質など忌避感情が強いにもかかわらず、再稼働への国家的な意志はうごめく。それはエネルギー問題に煩わずに生きたいという全能感への欲望だ。

    ただ、ハイデガーのみが肯定が大多数だった時代にも、その技術的特異性に注目し、警鐘を鳴らしていた。根本から考えようとする哲学の威力発揮である。

    原子力に取り憑かれないためには、考えることが必要だが、そのことをパフォーマティヴに対話編で残したのもハイデガーだった。

    著者が講演という形式で、模索的に思索した集成が本書だ。

    問題意識はよくわかる。
    ハイデガーの哲学は難しいが、それを分かるように伝えてくれている。

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    2025年06月25日