國分功一郎のレビュー一覧

  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    カントの三大「批判」書のエッセンスを、美、崇高、善、快適という視点で整理。
    現代は、快適なものが直感的なものとして楽しめず、目的を手段化してはいないか、と指摘する。
    健康であることさえ、手段化する。そこには、人間の作った資本主義、消費社会のシステムが見え隠れする。デジタル社会だから逃れようも無いとも言えようが、デジタルデトックスした状態で、暇と退屈を直感的に楽しむ余地は持っていたいと、つくづく思った。

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    2025年06月22日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    『暇と退屈の倫理学』:國分功一郎
    ・消費は、終わりがない。浪費、すなわち物を受け取って、物を楽しむことを楽しめるようになれば良い。そうなれば、この消費社会から抜け出すことができる。
    →「楽しむ」ということの定義がしっかりしていない。
    ・本書では「楽しむ」を定義する。


    『判断力批判』:カント
    ・快の対象:快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの
    ①善いもの
    ・実践理性批判で提唱される、高次の欲求能力の実現
    ・自分自身を決定する根拠が純粋に自分自身の道徳法則にのっとってのみであることが、快を生み出すもととなるカントは、人間は自らのうちに目的を持ち、その目的から逃れることはできず、その目的の実現のために意志し、行為することを運命づけられているとする。
    ・享受=嗜好のためだけに生きていてはいけない。

    ②美しいもの
    ・判断力批判で提唱される、高次の快
    ・「美しい」と判断する働きを趣味判断と呼ぶ。
    ・趣味判断は個別的(⇔論理的判断)であると同時に、普遍的(感官判断:快適である、などの個別判断)であるという特徴をもつ。
    ・本来、構想力は対象が現前していなくてもその対象を直観し多様なものを一つの表象にまとめあげる(図式化作用)能力であり、感性で感じたものを悟性で整理する際に、語性をサポートする。すなわち、構想力は悟性に従う。
    ・趣味判断においては、「構想力と悟性が自由な戯れ」をするという。「美しい」ものを見た際に、構想力がひとりでに何らかの形象を生み出し、悟性がその中に合法則性をみいだし、構想力も悟性に自らの産物が受け入れられたことを喜ぶ。
    ・「目的」とは、もののあるべき姿を意味している。
    ・「構想力と悟性が自由な戯れ」の状況下では、美しさの根拠となる概念(悟性によって作られる)は決して先に与えられないのに、すなわちそうあるべきだといいうる根拠がないのに、そうあるべきだと感じてしまう状態を「目的なき合目的性」と呼ぶ。

    ③崇高なもの
    ・判断力批判で提唱される、高次の快。下記のように、内面に抗争がうまれるという点で、高次の不快ともよべる
    ・我々を圧倒するような「ものすごい」ものに対して発生する感情
    ・対象が圧倒的であるがゆえに構想力は全体を図式化することができない。認識されることはできないものを扱う概念である「理性」が独立して働く。構想力は理性に対し無力感をかんじるとともに反発を感じる。
    ・この構想力の挫折・抗争によって、人間性という目的が再認識される。すなわち崇高も合目的性とされる。ただし、崇高は、外部の対象そのものが合目的性であるわけでなく、判断者の心のうちに合目的性があるとする

    ④快適なもの
    ・享受の快。
    ・美しいもの、との差異:美しいものの趣味判断は普遍的であるのに対し、快適なものの感官判断は個別的である。しかし、感官判断が普遍的である状態(快適なものについての日普遍的で個別的な判断を、万人が同じ対象に下す事態)
    ・善いもの、との差異:カントは2つの善いものを区別している。それ自体として善いもの(高次の欲求能力)、すなわち直接的によいもの、と「何かのために善いもの」(低次の欲求能力)である。後者は、快を直接あたえるものでないということで、、カントは快の対象としていない。

    ・低次の欲求能力によって行為しているとき、pathologischであるという。欲求能力の低次の実現とは、あらかじめ設定した何らかの目的を達成するのに役立つからよい、という考えである。
    ・行為が目的意識に満たされているとき、快適なものを享受するはずの行為は、手段として有用なものに変容してしまう。

    ・快適なものだけが目的と無関係である。また、快の対象の4つは、欲求能力の低次の実現と異なり、手段と無関係である。一方で、快適なものは、そこに手段-目的連関がもちこまれるとすぐに欲求能力の低次の表現となる。

    ・嗜好品は、目的手段連関から独立した、享受の快をもたらす。しかし、酔うためのアルコールなどのように容易に目的と化すとともに、依存症におちいることもある。依存症では行為のすべてが目的手段連関に奉仕する形で進行する。

    ・現在の消費社会は、享受の快について、万人が同一の快適なものについて、同一の非普遍的で個別的な判断を下すという、これまでとは違う状態が訪れている。これは、固有の趣味を獲得する機会を奪う第一歩であるとともに、嗜好品の排除という問題もある。目的を持ち込まれたとたんに存在することをやめる享受の快をはく奪することは、依存症への道を開く。

    ・人間から享受の快をはく奪してはならない。それは人間の生すべてを目的手段連関に従属させることだから。

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    2025年06月24日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    自由の根幹は「移動の自由」
    日本国憲法が示すように、場所を選び移動できることこそが自由の土台である。

    行為の本質は“自己を守る営み”
    ガンディーの言葉を引用し、「ほとんど無意味に見える行為」でも、世界に流されず主体性を保つうえで不可欠だと強調している。

    目的に縛られた行為は自由ではない
    「○○のためにやっている」と説明できる行為は、動機や目標に従属しており真の自由とは言えない。

    目的を超えて“遊び”へ―手段‐目的連関からの逸脱
    文化祭の準備の議論が次第に楽しくなる例のように、最初の目的を超えて自発的・創造的に広がる活動を著者は「遊び」と名づける。

    社会運動にも“遊び”の要素が必要
    運動それ自体が目的化すると形骸化する。喜びやワクワク感を保つことで、手段が目的を呑み込む事態を防ぐべきだと述べる。

    自由は“必要”や“目的”をはみ出すところに宿る
    犠牲を正当化する目的論から離れ、余分(広義の贅沢)を許容する余地を持つとき、人は人間らしい喜びと楽しみを得る。

    まとめると、本書のハイライトは「目的を達成するためだけに行為を閉じ込めるのではなく、そこからはみ出し“遊び”となる瞬間にこそ人間の自由と充実がある」という思想を示している。

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    2025年06月10日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    決断が必要なときは?意図せずに行われていた逡巡と熟考の末に、ああ、これがなすべきことだったという仕方ですでに決心ができている自分に気づく。

    決断とは受動的なもの。人間はこうしようという形で決断するのではなく、そうなってしまうという形で決断する。
    もっともっと今自分が置かれている自体を見つめること。そして自分の中に決断が出来上がるのを待つ。
    焦ってはいけない。焦りは今心の中に出来上がりつつあるパターンから目を背けさせる。

    こういうことをやっていた人間はこうなれると思わないこと。答えはない。

    愛するとは相手を認めること。相手が存在していることを心からいいと受け止めること。

    心な穴からは確かに寂しさや欠点が出てくる。しかしあなたの魅力もそこから生まれている。
    誰もが心の穴を持っている。けれども幸せな人はその心の穴を無理に塞いだりしようとせず、おりあいをつけている。心からの充実感なんてウソ。しかし、ほんのりとした充実感はありえる。横っちょに大きな穴があいていて、もしかしたらそこに落ちてしまうかもしれないけど、うまくこの辺りに立っていれば落ちないし、楽しいこともできる…。
    はらぺこあおむしから感じられるゆったりとした落ち着きと素敵な感覚。

    一般的、抽象的に考えている限り、理想は実現しない。なぜなら一般的、抽象的なものはこの世に存在しないから。存在しているのは個別的、具体的なものだけ。
    仕事はおもしろくない。でもおもしろくする方法はある。それは調べて情報を入れて理解すること。具体的なことを考える。理想をどんどん具体的にすること。

    失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。

    自分に嘘をつくというのが生きることにおいて一番良くないことである。

    情動と感情。違和感を感じても、それでも、も考えてしまうのが感情。違和感を感じたらそれを大切に。自分に嘘をつかないとはそういうこと。

    プライドが高い。それは自信があるの正反対。自信がない。だから誰かを見下すことで自分のプライドを維持しようとする。

    どんな悩みも一般的抽象的な限り解決しない。どんな問題も具体的状況の中にある。ここの具体的状況を分析すると必ず突破口が見えてくる。

    頑張れば何かが解決するわけじゃない。頑張るんじゃなくて考えることの方が必要。
    自分が本当にそれをやりたかったのかどうかがわからなくなる。それは、その対象についての情報と理解が欠如しているから。

    じゃあ自分は具体的になりがやりたいんだ?何かを大々的に打ち出して行くというよりは、仲介して、スムーズに進めるとか、そういうことしかできなさそうだよな。だったら一つの言葉を極めて、ノウハウとか、他の人が得ることができないいろんな考え方をたくさん学ぶことか。で、それを新しいノウハウにする。

    弱音を吐く、悲観的な人に対してイライラしている人に対して。
    プラス思考でいるのにもエネルギーがいる。不安を抑圧しないといけないから。で、つらくなってくる。弱音を吐く人の気持ちが想像できなくなってくる。そういう人もいるんだよ。
    そして、くるみさんもご主人に愚痴や弱音を聞いてもらってよいのですよ。つらい時に助け合うために一緒にいるのです。

    人間の精神エネルギーには一定の量があり、どこかが大量にエネルギーを消費すると、他の部分には多くのエネルギーを使うことができなくなる。
    やる気そのものが精神の限られたエネルギー資源に依存している。将来に対する不安なことがあるなら、新しい可能性を探すためのエネルギーも少なくなる。

    誰かに弱音を言ってみようかな、というより、ちょっと観念を物質化してみる。

    仕事の仕方、友人との付き合い方、配偶者との関係、どんなことについても、こうでなければならないなんてことはない。大切なのは自分の気持ちを少しずつほぐしていって、折りたたまれていたまのを開いていって、見えてきたものに対して素直になること。そのときにかすかにおぼろげに責任というものが見えてきてそれが引き受けられるようになる。

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    2025年05月12日
  • 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    読みにくいけど、読みたい内容。
    その行為が、それ自体を楽しむものでなく、何らかの目的のための行為、手段としての行為になってしまうことの警鐘と受け止めました。目的だろうがなんだろうが何かに支配されていくのは嫌だな思いますが、依存行動と付き合っていくにも、そこから卒業するにも、基本の理解として役立つ考えだったと感じています。

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    2025年05月09日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    ・イギリスの料理が不味くなったのは、資本主義のせい?

    ちょっと脱線しますが、皆さんは「イギリスの食事はまずい」とよく言われていることは知っていますか。

    実際のところ、最近は美味しいんですけどね。確かに一時期までは本当にひどかったようです。かつてのクオリティーの食事を提供する古い食堂は残っていて、そういうところで食べると塩味が付いていない。

    というのも、食卓にある胡椒と塩で各自が自分向けに調整して味付けすることになっているからです。これには面食らいました。

    しかし、イギリスの料理はずっと昔からまずかったわけではなく、それは一九世紀に産業革命と農業革命から決定的な悪影響を受けたことの帰結であるという西洋経済史家、小野塚知二氏の研究があります。

    もともとはイギリスにも豊かな食文化があった。それが産業化によって破壊されたというのです。

    「産業化の過程で村と祭りを破壊したイギリスは、培ってきた食の能力を維持できず、味付けや調理の基準も衰退して、料理人の責任放棄が蔓延することとなった。他国の農業革命はイギリスほど徹底的に村と祭りを破壊しなかったので、民衆の食と音楽の能力は維持されたのである」とあります

    (「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL二〇一七年季刊秋号』、六七ページ)。

    >>>本書p100

    イギリスの料理がまずいという話はよく聞くが、イギリスが元から料理が下手だったんじゃなく、資本主義に文化を破壊されたからだったとは....

    資本主義が真っ先に発達したからこそ、その原理をせっせと体現した結果、料理が不味くなってしまったなんてあまりにも可哀想。

    その原理とは何か?

    それが生産と消費。消費とは、必要を満たすが満足をもたらさない経済活動。現代だったらカロリーメイトだけ食べて仕事するような姿がイメージできる。

    ただ生産という目的を達成するために、労働力を復活させるためなら、料理に味はいらなくなる。生命を維持する栄養が取れればいいからだ。

    こんな風に、目的にとらわれると、どんな手段でも肯定されてしまうという恐ろしさに、人間性の喪失に警鐘を鳴らすのが本書。

    というのも、資本主義で料理が不味くなったのは笑い話で済むが、この目的至上主義はナチスへの道につながってもいるからだ。


    >>>

    決定的に重要な一節だと思います。全体主義においては、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない。全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん、食事のための食事も許されない。

    衝撃的なのは、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間〉という言い回しは、「ヒムラー」や「SS隊員」への言及を取り除いてしまったら、現代ではむしろ肯定的に受け止められる言い回しではないかということです。どんな無駄も排し、常に目的を意識して行動する。チェスのためにチェスをすることも、食事のために食事をすることもない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。必要を超え出ること、目的からはみ出ることを許さない。不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない……。

    >>>本書p109

    食事のための食事ができなくなってしまったイギリス。現代だったら、インスタのための食事しかできなくなった若者。一昔前なら、仕事のためにしか家庭を持てなくなった労働者。

    何かのための何かをし続けるのは、何にも満足できない事態と表裏一体だ。常に失格を押され続けているとも言えるかもしれない。「あなたはまだまだですよ」と。(個人的に疲れた時にビジネス書をみるとそう感じる.....)

    じゃあ、満足するにはどうすればいい?

    国分さんが示す目的主義からの脱出口は、目的にとらわれない、純粋な手段。それは概念的なものじゃなくて、子供たちが砂場で水を通すトンネルを必死になって掘るような、真剣な遊びでいい。水を通す目的なんて、結果としてあれば十分。楽しいのは、トンネルを掘っている時だ。遊んでる時、誰から肯定される必要もなく満たされているんじゃないだろうか。

    満足と自己肯定への道は、「遊び」というスコップで拓ける。いや、遊んでたら自然と満足がもたらされるだろう。

    仕事を、食事を、政治を遊ぼう。

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    2025年05月05日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    コロナにおける緊急事態での移動制限を容易に受け入れてしまった社会に対する警告とも言えるアガンペン氏の論考をもとに自由について考える。

    そこから筆者は目的以外の遊び、自由を認めない社会への警輪をならす。効率化を求め目的以外の活動を認めない。そこには楽しみもない。満足できる浪費もなくただ記号としての消費をさせられる。そんなただ生きることのみの権利を大事にする社会にアガンペンは一石を投じていると。

    確かに、説明可能な目的以外の活動は組織においてどんどん排除される。そしてその影響が会社員、労働者割合の増加とともに社会にも侵食。

    その際たるものが、塾や習い事漬けと受験戦争として子どもに影響を及ぼしているように思う。

    不寛容な社会、まさに隙のない目的に埋め尽くされた自由なき社会。

    とはいえ、仕事の中ではまさに目的に埋め尽くされた活動を求め合っている。自分もハッとさせられる。ただ、遊びと意外性の中からでないと創発は起こらない…

    この後、筆者は目的を整理して、手段に支配されないことへ論を進めるが、日常生活にも企業活動にも有用な論。

    この中で行政権が立法権より強まりやすいこと、特に危機に際して急ぐ時に、行政権に立法権を関与する間を与えず、立法権もそれを認めてしまう全体主義化への懸念も示している。まさにナチスの教訓を今に生かさなければ、先人に申し訳ない。

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    2025年03月31日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    学生に向けた講話。

    目的がないと生きられない世の中になり、その目的に抗ってみようかという提案。

    コロナ禍の状況を哲学の観点で考察されていたことは、医療従事者として興味深かった。

    命か経済か。
    命か自由か。
    その二項対立は目的に縛られているのではないか。
    (目的が何なのかがはっきりとわからないけれど、「社会をどう維持するか」「個人の幸福をどう定義するか」ということ?)

    感染した死者とは会えない。
    感染した死者をビニール袋に入れる。
    その行為は、生きている者に価値を置きすぎているのではないか。死者への尊厳が失われていないか。

    不要不急とは。
    線引きはどこ。

    (上記、私の記憶から出てきた内容だから、間違っているかもしれない。)

    コロナ禍の哲学的思考については、コロナ対策を批判し、炎上した哲学者アガンベンの主張が書かれていた。私もおそらく、炎上に油を注ぐ側の人間なのだろうと感じた。

    過去には、ヨーロッパで人口の1/3が亡くなるというパンデミックが起こったことがある。さらに何処かの国では、微生物兵器も開発されてるんじゃないかと私は思っている。コロナ対策を軽視しすぎると、未来の日本人の存在危機がやってくるなと感じている。

    医療従事者は、命に価値を置きすぎていると言われれば、全く同意してしまう。
    私の仕事が生きる力になってくれたらと願いながら働いている。傲慢なのかもしれない。

    でも、死者にも価値があるから死んでもいい、なんて思えない。自由を手に入れられないなら死んでもいい、とも思えない。

    コロナ禍以降、コロナに感染した患者が亡くなっていく姿をみてきた。今も、ウイルスは変異しながらも死者を出している。
    誰か知らない人は、亡くなっているかもしれないけれど、自由に生活したいし、経済大事ですからパンデミックでも外出制限はいたしませんとは、私はできない。

    哲学者に怒られるな。

    制限をたやすく受け入れるな、ちょっと立ち止まって考えてみようってことならわからんでもないけど。感染対策は、議論している間に取り返しがつかないことになるからね。哲学者は、ぜひ、パンデミックじゃない時に存分に時間を使って考えて議論して欲しい。今がその時か。

    國分功一郎さんの生の価値を「目的」ではなく、「ただ存在すること」に見出すべきだという考え方が好き。
    何者かにならないと無価値なんてない。

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    2025年03月22日
  • 「利他」とは何か

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    共感や信頼などの利他が、必ずしもいい方向に結びつかないことを学んだ。他者のために何か良いことをしようと支援するとコントロールすることになる。フィクションで感動するような作品は利他的なものが多いので、デメリットというところには気づきづらい。対人関係に疲れてしまうのも責任や力量を超えた意思などが原因なのかもしれない。利己的な部分と利他的な部分を両立させ、こころに余白を持たせたいなと考えさせてくれた本だった。

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    2025年02月21日
  • 「利他」とは何か

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    数値化すればするほど減っていく利他性。言動が内発的な利他性から、外発的もしくは内発的な利己性になってるから?

    人は信頼してる時、他者の自立性を尊重。悩んでる人に対して諭すことなくツンツンして自らの解決を待つ感覚

    利他とは聞くことを通じて相手の隠れた可能性を引き出すこと、と同時に自分が変わること

    二つそれぞれあるのに、不ニであり、一に似たのも。主語が2人の考えに似てるような気がした

    現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証とされるが、現実世界の説明としては非常に脆弱。むしろ矛盾のまま表現できる方がよほど現実的です。
    計算された利他は、本質的な意味では利他にはなりえない。

    自分がした利他の行動に対する相手の言動に過干渉にならず、任せたり信頼する姿勢

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    2025年01月05日
  • 「利他」とは何か

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    ネタバレ

    利他の最大の敵は、「これをしてあげたら相手にとって利があるだろう」という「私の思い」に基づいて、特定の目的に向けて他者をコントロールしてしまうこと。利他は本来、「自分の行為の結果はコントロールできない」「見返りは期待できない」という数量化し得ない、意味から自由な「余白」が原則である。

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    2025年01月02日
  • 「利他」とは何か

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    東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。

    「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。

    そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。

    それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。

    では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。

    では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。

    ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
    __________

    「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
    私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
    __________

    →ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。



    なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。

    __________

    「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。

    とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
    __________

    →物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。



    __________

    たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
    神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
    __________

    →当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。



    といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。

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    2024年12月29日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    読者からの人生相談に哲学の考え方を用いて答えていく形式
    哲学の考え方を基に回答しているから一般受けしないかんじはする
    自分の生活の場ですぐ実践できなかったり、すんなり納得できる回答じゃないという意味

    とはいえ面白かった
    年齢が上がったらより納得しながら読める本な気がする

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    2024年12月14日
  • 目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

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    長い歴史を紐解けば?  この本では目的や目標を持つこと自体を批判する。特に、コロナ禍での行政からの制約を例として、感染症封じ込めのためならば「移動の自由」を犠牲にしても良いのかというアガンベンの問題提起も引用しながら論じている。

     目的や目標がしばしば個人の幸福や満足感を犠牲にすることを指摘し、目的から解放された生き方を提唱している。

     学者らしく批判の矛先は政府や行政に向かいがちだが、この本を読んで私が真っ先に思い出したのは、目的のために他を犠牲にしがちな共産党や左翼活動家のことだ。一切触れられていない。

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    2026年01月18日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    こわいぐらい相談にズバっと斬り込んでいらっしゃる。でもどこか思い当たるような、すごく納得のいく話に着地していてとても参考になる。
    もうちょっと読み込んでみたい、そんな本です。

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    2024年07月03日
  • 「利他」とは何か

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     中島は人間の意思に還元できない利他的行為が存在するのだと言う。利他が宿る器になるために我々がすべきことはなんだろうか。

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    2024年07月01日
  • 近代政治哲学 ──自然・主権・行政

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    封建国家による統治が限界を迎えた先にどのように近代国家の輪郭が形成されていったのか、その輪郭の骨子はなにかを、順に登場する各思想家の考えに沿って読み解いた本。
    コテンラジオの「フランス革命編」を追体験し、より深く理解できたと感じる。

    個人的におもしろかったのは、ぼんやりとしか捉えられていなかった封建国家の解像度が上がったことと、「行政権」を捉え直すことで「民主主義」という概念と実態のチグハグさが見えるようになったことか。
    自身が組み込まれた政治体系をただ受け入れるだけでなく、主権の一部を担う民として政治体系を捉え直し自意識として組み込むことの重要性を主張しているように感じた。
    国分さんの本は4冊目だけど、一貫してこの主張がなされている。
    あとは「思想家」と「哲学者」の違いが見えたのもよかったな。根拠を提示せずにフレームを語るジョン・ロックは哲学者ではなく思想家だと感じた。
    ただ、世の中を大きく変えるのは哲学者ではなく、置かれた現状を''上手に''説明する思想家なのだなぁとも。
    いい本でした。

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    2024年05月18日
  • 「利他」とは何か

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    うつわ的存在であることが大事

    今までは、「意思」という概念を使って帰責(その人に責任を押し付ける)ことが責任の概念のコアだと思っていたけど、國分功一郎さんは、中動態の概念を用いることにより、その「意思」を否定することで、神的因果性(人は運命に巻き込まれて行為させられる、あるいは、自らの行為かわ思ってもいなかった効果をもたらしてしまうこと)と、人間的因果性(その行為をその人間がなしたこと、加害者として人間を捉える)の両方を肯定し、責任を考えることができるという考え方には感銘を受けた。

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    2024年03月11日
  • 哲学の先生と人生の話をしよう

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    「暇と退屈の倫理学」で國分先生のことを知り 長めのタイトルに興味がわき手に取った。

    読者の方から寄せられた人生相談に國分先生が答えていくという内容の1冊。
    読者からよせられた文章には"書かれていない部分“に視点を持っていき 時にズバッと時に優しく回答をされている様があたたかい(ズバッとなんだけど)

    人生相談と哲学 一見??という組み合わせだが読み進めながら
    哲学=ちょっと難しいことを議論したり 考える学問という認識だったが よりよく生きていくために必要な 活かしてこその学問なのかもしれないと感じた。

    哲学って面白いのかもしれない。って思う

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    2024年02月04日
  • スピノザ 読む人の肖像

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    『はじめてのスピノザ―自由へのエチカ』(2020年、講談社現代新書)につづいて新書で刊行された、著者のスピノザ入門書です。

    本書の前半では、『デカルトの哲学原理』や『知性改善論』などの検討を通して、スピノザの哲学研究の方法に焦点をあてた解説がおこなわれています。とくに、懐疑を哲学的思索の出発点としたデカルトが、みずからを説得するようなしかたで神の存在証明を展開しているのに対して、スピノザは神についての観念を正しく形成することさえできれば神の存在にまつわる問題は解決すると考えていたことに目を向け、デカルトの方法が「分析的方法」でありスピノザの方法が「総合的方法」であるという整理がなされています。

    後半では、『エチカ』や『神学・政治論』、『国家論』などの著作がとりあげられています。著者は、ドゥルーズのスピノザ解釈を参照しつつ、スピノザによる自由意志の否定の議論について考察をおこない、意志よりも欲望を人間の本質とするスピノザの立場が、意識によって完全に見通すことのできない多様な原因によってわれわれの行為が決定されているという主張に通じていることを明らかにします。さらに著者は、こうしたスピノザの倫理学とそれにもとづく国家論が、同時代の社会契約論に対してどのような関係にあったのかということについて、立ち入った考察を展開しています。

    前著『はじめてのスピノザ』が、スピノザの思想を現代において読む意義について明快に語った入門書であったのに対して、本書は前著の解釈を踏襲しながら、スピノザの思想の全体像にせまることをめざした本ということができるように思います。

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    2024年01月10日