國分功一郎のレビュー一覧
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安保法制や憲法改正を掲げ日本中に大きな議論を巻き起こした第二次安倍政権。そんな政権から日本国憲法を守るためには、結局天皇の一言に頼るしかなかった。保守は憲法改正を断念せざるを得ず、当初は反天皇制であったはずのリベラルもそんな天皇を利用するしかなかった。立憲民主国家において日本国民の力で守るべき憲法も天皇の力を使うことでしか守ることができなかったことは、いわば日本国民の「天皇への敗北」である。
戦後の日本人の多くは、旧帝国の第二次世界大戦時の戦争責任は否定しないものの、大日本帝国の国民ではなく戦後生まれ変わった日本国の国民として、どこか「被害者意識」を持ってしまうのはなぜか?
では日本人が本当に「先の大戦について反省」するにはどういう態度が相応しいのか?ベストセラー哲学者國分先生が憲法学と戦後の文学者たちの二つのアプローチから迫っていく。
いま、再び急速に民主主義へ挑戦する権力が力を持ちつつあり、民主主義が危機に晒されている。第二次世界大戦とどう向き合い、膨れ上がる傲慢な権力へ対抗していくのか、それぞれがこれを読んで内省するべき一冊。 -
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自分だったらここまでバッサリ言われると心が折れるかもしれませんが、第三者視点から見るととても面白かったです笑
國分先生が変に寄り添わず、情報不足があれば容赦なく詰めたり、独りよがりな相談であれば指摘するのは読んでいるこちらも背筋が伸びました。ただ、こういう風に言ってくれる人や機会はかなり貴重だとも思いました。
特に印象に残ったのはプラス思考のお話です。プラス思考とは考えることを放棄すること。物事のネガティブなところから目を背けることと言われ、確かにと思いました。
世間ではプラス思考=いいことだと言われがちですが、そうやって考えることを放棄するのは違う気がします。
関連しているかはわかりませんが、生成AIが基本ポジティブな返答をするのも、人間が思考を放棄するのを助長するかもしれません。現代社会において、生成AIは必要不可欠なものになりつつありますが、頼りすぎないようにしたいと思いました。
あとは一人で思い詰めず、人に話すこと。自分の仲の思いや感情を言葉にして「物質化」するのも大切だと思いました。泣くことはすっきりすると言いますが、もやもやした思いも言葉によって形にすることですっきりすることができるかもしれません。 -
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スピノザの主著『エチカ(倫理学)』。その難解な迷宮に足を踏み入れるための地図として本書を手に取った。そこで示されていたのは、「どのように生きるか」という問いに対する、現代的で力強い視点であった。
1. 世界の捉え方:神の「副詞」としての人間
スピノザが説く神とは、外部をもたない自然そのものである。私たちは自立した個別の「名詞」ではなく、神(自然)という唯一の実体が特定の現れ方をした「様態」に過ぎない。
本書で著者が用いた「私たちは副詞のような存在だ」という比喩は、非常に腑に落ちるものだった。私たちは独立して存在するのではなく、神という存在の「あり方」を表現している一つの現れなのだ。この世界観に立つとき、自分と世界は地続きになり、孤独な個体から宇宙の一部へと視界が開ける感覚を覚えた。この感覚は、インド哲学の「梵我一如」やアドラー心理学の「共同体感覚」にも通ずるものがある。
2. 善悪の再定義:能力を高める組み合わせ
次に、善悪の捉え方が倫理学の前提を覆す。スピノザは、物事自体に絶対的な善悪はないと断じる。あるのはただ、対象と自分が「うまく組み合わさるか否か」という事実だけだ。
自分を破壊する組み合わせを「悪」とし、自らの存在を維持しようとする力(活動能力)を高めてくれる組み合わせを「善」とする。道徳的な規範に縛られるのではなく、自らの力が発揮できる良い組み合わせをいかにして見つけ出すか。これこそがスピノザの言う倫理学の本質なのだと理解した。
3. 自由の解釈:意志の否定と真の自由
最も深く考えさせられたのは、自由の定義である。私たちは通常、自分の意志で何かを決めること(自発性)が自由だと考える。しかしスピノザは、意志もまた何らかの原因によって決定された結果に過ぎず、一つの行為は無数の要因が協同した多元的な決定であると説く。
では、人間に自由はないのか。スピノザはそうは言わない。彼にとっての自由とは、意志の有無ではなく「能動的であること」なのだ。自分に与えられた身体的・精神的な条件を認め、その条件に則りながら、自らの力を十分に表現できている状態。それこそが自由なのだと気付かされた。
結論:自由へのエチカ
自発性という幻想を捨て、自分を規定する条件を受け入れた上で、いかに能動的に生きるか。本書を通じて、自由とは「何でもできること」ではなく、「自分自身の本質をうまく発揮できること」なのだと教わった。
『エチカ(倫理学)』という高い山を登るための最初の一歩として、本書は「自由とは何か」という問いに対する力強い指針を与えてくれた。これからの私は、自分にとっての良い組み合わせを探索し、自らの力を表現する能動性を少しずつ広げていきたいと思う。 -
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本格的にドゥルーズの解説を試みた本で、
非常に難しい。
どの程度理解できたかは不明。
気になった点は2点。
ドゥルーズの単著では唯一、提唱されているものと言っていいと思われる“無人島”という概念について。
“他者こそが対象の対象性を保証しているとするならば、他者を欠くと自我を想定できない”。
そもそも主観と客観というものが一般のレベルで意識されるようになったのは近代以降になる。
その後、欧州から個人主義が広まって今日に至る。
他者と他者のニッチにしか自我が存在しないなら、
例えば、『自分探しにインドに行った人』は『インドに行ったことがある人』というニッチが得られるのかな、とか。
自分を探すには自分を見るよりも他者を観察するほうが大切、というのは分かっていたことのようでなかなか難しい。
2点目は5章の小題にもなっている「権力と欲望」。
“権力”と聞くとどうしても上の立場からの圧力のようなものを想起するけれど、ここでの“権力”は下の立場からも発生するとする。
まさに現在、〇〇ハラといった言葉が権力を持つような状態を指していると思う。
人は自由を指向していてもいつしか権力を握りしめてしまう。
結果として“自身”の広がりは“他者”への抑圧と表裏一体になってしまう。
なぜ人は自由を得るには至らないのか。
現在の“多様性の社会”はただの権力と権力のせめぎ合いになってはいないか。
ただ、認めること。
その単純で困難な一点を、いつか人類は突破できるのか。 -
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「贈与」や「利他」がタイトルに含まれる本が増えていますね。
現代に生きる私たちは、交換や利己によっぽど疲れているのでしょうか。
ただ「贈与」や「利他」に漂う胡散臭さがあるのも事実。
結局人間は純粋に利他的には生きられないのではないか。
最近、私の考えていたことです。
この本を読んで、その考えは合っていると感じるとともに、
利他は意図せずしっかりと存在することも実感できました。
それは自分という器を誠実に生きるということ。
自分が全力になれることを全力でやることが、人類の歴史や系譜に奉仕することになるという作家・磯﨑憲一郎さんの言葉は、私たちの迷いを幾分和らげてくれるのではないでしょうか。
利他を考える前に、自分の器を磨き信じることが大切だなと感じ、今日も私は本を読むのでした。 -
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とても面白かった。何年も前からぼんやりと考えては、うまく考えが進まなかったことを、ずっと前の時代の哲学者がかんがえていたのだなあ、と感慨深かった。
スピノザの本質概念の転換のところがとくに面白く、いろんな人のいろんなあり方のそのままを肯定しよう、というやっと今になって広がってきた考えをそんなに前から考えていた人がいたのかあ、とびっくりしたし、スピノザの考え、いいなあ!と思うと同時に、哲学者の考えが難しいから全部賢い人のいうことだし、わからないけどなんか正しいんやろうなあ、みたいに思っていたのが、対比する哲学者の考えを知ることで、あー、そっちの理屈は肌に合わないわあ、とか、それは偏ってるんじゃないの、的な、畏怖を超えた目線をいろんな哲学者の言っていることに対して持てたのが収穫だった。
意思の概念への疑い、という考え方もものすごく面白く、また気が楽になった。この目線、もっと広がってほしい。
p124抜粋
「意志教」の時代
意志の話をしましたので、最後に少し現代社会について考えておきたいと思います。というのも、現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われるからです…
…意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。
意思とは普遍的概念ではなく、古代ギリシャ哲学にも無かったらしい。
東洋哲学ではどうだろう…やっぱりあまり、意思を全面にというよりは、鍛錬とか孝行とか社会の中の自分みたいな考え方のほうが確かに強い印象がある。
ハンナアーレントによれば、意思の概念はキリスト教哲学の文脈からアウグスティヌス(紀元後4-5世紀)らの時代に見出されていった、らしい。その影響下に私たちも知らぬ間にいるということなのか…。
ちなみに、読みながら調べたところ、孔子や孫子が、アリストテレスやソクラテス、プラトンよりもさらに古い時代の人と知り、心底驚いてしまった。
私たちが孔子の影響を現代でも強く感じるということは、西洋の人たちの生活文化にも、アリストテレスやプラトンの思想の影響が強くあるのだろうし、そりゃあやっぱり考え方が西洋とは違うわけだよな、と妙に納得してしまった。
ともかく読みやすく、興味深い本で、この著者の本をまた読んでみようと思う。 -
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「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国の人や、そもそもその存在を意識していない問題にアプローチできない。
また、共感を得られないと助けてもらえないというプレッシャーにもつながる。助けが必要な人はいつも相手に好かれるようにへつらっていなければならない。
中島岳志さんは、贈与は支配と絡まってくるという。
哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して支配的な立場が生まれてしまう。
物をあげるという行為は、もらった側に負債の感覚を与えてしまうからだ。
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「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。
実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。
第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。
生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。
第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。
浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった。
遊びとしての政治という考え方は、自分にとっては斬新な考え方だった。
本書の続編となる、「手段からの解放」もぜひ読みたいと思う。