國分功一郎のレビュー一覧
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「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国の人や、そもそもその存在を意識していない問題にアプローチできない。
また、共感を得られないと助けてもらえないというプレッシャーにもつながる。助けが必要な人はいつも相手に好かれるようにへつらっていなければならない。
中島岳志さんは、贈与は支配と絡まってくるという。
哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して支配的な立場が生まれてしまう。
物をあげるという行為は、もらった側に負債の感覚を与えてしまうからだ。
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「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。
実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。
第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。
生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。
第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。
浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった。
遊びとしての政治という考え方は、自分にとっては斬新な考え方だった。
本書の続編となる、「手段からの解放」もぜひ読みたいと思う。 -
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行為する、されるといる能動と受動の対比には人の「意思」が中心にそえられる。「意思」それは、過去を担う「記憶」との対比として未来を担う器官とする考えであり
過去からの断絶を前提とする。行為の責任の帰属先を明確にするためにもその考えが必要な社会が現代である。しかし過去からの断絶とは本来的にありえない概念であり、何にも影響されない事象、行動はありえない。そうした意味でも現代の意思の定義はずれているかもしれない。
中動態とは能動でも受動でもない第三の態ではない。受動、再帰、自動詞の意味を含む根源的な人と世界の関わりのあり様をしめした態である。
言語の歴史的にも能動と受動の対立をベースとするパースペスティブは新しいものであり、その枠組みにとらわれていると説明できない言葉がおおくある。
我々は気質、感情、社会の影響を受けてしまい、本当に自由に行動することは出来ない不自由な生き物である。だが完全に受動的であり、意思なるものがないわけでもない。完全に自由でもなく、完全に不自由でもない。中動態の世界をもって我々自身を認識することが求められる。
また意思なき中動態の世界は無責任の世界ではない。責任とは自身が責を負い、受け入れ、かわることであるため中動態の考えをもってなされるべきである。
能動と受動の関係から、意思があることを責任の根拠とすることは本当の責任をおうことにつながらないこともある。
神的因果性と人間的因果性の矛盾を受け入れ維持する‐「私は加害者であるが被害者である。だが、被害者であるが加害者てある」‐。これが人間の生き方の一つの考え方の提起なのかもしれない。 -
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「日常生活が目的の為の手段と化した皆に告ぐ。救いはあまりないが、ヒントはある。」
拒食症はご存知だろうか。
端的に言えば「食べたくても食べられない」病であり、現在私が罹患している病でもある。正確にはトレーニングを積んで飲み食いをゆっくりなら出来るが嚥下が苦手である。だがそこには「食事の楽しみを剥奪された人間」が確かに居る。
本書はカントの快の分類を援用しつつ、「目的や手段を持たない、純粋に快適を享受する」ことが「目的達成の為の手段としての‘‘病的‘’行為」に貶されないように、「目的ー手段」に人生を従属させないことを説いている。本書の例をアレンジするならばこう言えるだろう。「喫煙は快適を享受するが、健康目的の禁煙パッチを利用する人間は病的である」と。
では「目的ー手段」から逃れるためには何が出来るのか。自己の道徳法則に従わせる他に、享受の快適を受け取る術を知ることだと著者はカントを読み解き言う。なお、後者のみに生きることにはカントは批判的であるが、後者自体は否定していない。
この結論は『暇と退屈の倫理学』と同じ話である。焼き増しではないか。ただ本書は「嗜好品」についての考察が続く。嗜好品を味わうことは、目的達成の満足の為の手段ではなく、その行為から快適を得られる、だと言う。つまり「目的ー手段」から外れた存在だというわけだ。
本書では、嗜好品たるアルコールやタバコと依存物質であるドラッグを大きく区別している。ただ、これは何とも納得感がない。依存物質の多い少ないで決められるものなのか。快適の享受に普遍性はなく、個別的なものである。単に私は楽しみ方を知らないだけなのか。(とすれば、著者はドラッグの楽しみ方を知らないということになる。)
ここで白状しよう。このレビューはタリーズで書いている。飲み込むのが苦手なのを克服する目的でコーヒーを飲んだのだ。飲み始めはリハビリとして飲んでいるので、快適ではない。「目的ー手段」関係だから当然である。だがどうだろう。レビューを一生懸命書いているうちに、確かに昔のようにコーヒーを楽しんでいる人間がそこにはいた。
「自然と快適を享受していた」現象は、「目的ー手段」関係からの解放とは言えないだろうか、國分先生。 -
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現代社会では、あらゆる行動が何らかの目的に向かうことが当然視されている。
その結果、「第四象限の純粋な享受を守る」ことは、ほとんど不可能に思える。
目的を伴わない行動は奇異と受け取られやすく、自分自身もつい「何のためにやるのか?」と目的を探してしまうからだ。
そんな社会で、私ができるささやかな抵抗は、第三象限と第四象限のはざまを意識的に往復することだと考えている。
具体的には、
• 何かを成し遂げるための手段として行動しながらも
• その手段自体にも純粋な快を見いだし続ける
つまり「目的に向かいつつも目的に縛られない」問いかけを日常に散りばめる。
この生き方こそが、手段化された快の連鎖から自分を解放し、ほんの一瞬でも第四象限の自由な享受を取り戻す鍵になるはずだ。 -
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ネタバレ自由意志の否定、行為は意志を原因としない
言語は思考の可能性を規定する
選択と意志の区別は明確である
権力と暴力
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行
中動態は主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティブにおいて理解されねばならない
異なった仕方の変状
完全に能動たりうるのは神のみ。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる
変状の画一的な出現を避ける
中動態の哲学は自由を志向する
妬んでいる時人は相手に自分を見ている
人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない
善の性質を身に纏うことで、相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する
意志概念の切断機能
理解度が正の2次関数のようだった。中盤はかなり難解だった。ただこの考えは自分が考えていた能動受動の曖昧さをうまく言語化してくれた。読解力の向上と哲学的背景の知識を得て再挑戦したい。 -
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ネタバレ100de名著のスピノザ「エチカ」、暇倫に続いて國分功一郎先生の本は3作目になる。
1番難しかった。再読が必須レベル。たぶん25%も理解してないし頭に入ってない。
暇倫よりもっと荒削りな書き口で、暇倫より前の作品かと思ったレベル。國分先生の中でも書き起こすのが難しかったんやろうと思う。
中動態ってのも初めて聞いたし、結果この未知の態についてよくわかったのかわかってないのかも不明。矢印ではなく丸っと帰ってくるイメージのみ残った。
ここ最近、悪手悪手で自滅するような人たちが多い。そういう人たちは責任を取れないのかなんなのか?と思っていた。広陵高校野球部のフロント陣とか、フジテレビの経営陣とか、池袋轢き逃げの飯塚受刑者とか、しょうもない炎上するインフルエンサーとか。
行為のコミュニズムの観点から見ると、これらは全部構造上の問題を孕んでて、問題となる行動をしたことやその後の不誠実な対応は、もはやよく言われる本人の意志とか責任とかいう次元ではないんやなと思った。
國分先生が最後の謝辞にバンヴェニストとアレントを入れているのはなかなか胸にきた。読んでる中でバンヴェニストすごって思ったし、アレントめっちゃ出てきて草って思ってもいた。結局アレントのこと好きなんかい!っていうのもほほえましくて◎
個性とは関数であるという関数個性論を自分は唱えてるんやが、中動態の世界、能動と受動の違い、外からの刺激に対してどんな応答をするかといったところが本性である的な話はすごく参考になった。
自分の中でまた追求欲が出てきた。
正直よくわからんかったけど、こういう気持ちになれたのはよかった。
能受対立ではない言語を1から作ってみたいかも。
ごちゃついた感想になったけど、
また読みますわ、しゃーなしやで國分先生。
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「目的への抵抗」の続きのような哲学講話だったので、読んでみたくなりました。
楽しむとはどういうことだろう。楽しいって何なのだろう。と十数年考えてこの本を書いたと言う。
カントのタバコ論からはじまり
嗜好品、享受の概念についての解説。
スポーツや旅行を楽しむことも含まれるかと思っていましたが、タバコやお酒、お茶、珈琲などを楽しむことについてなので、あくまでも嗜好についてでした。
前半は専門的な語彙が多いので分かりづらいところもありましたが、後半は東大での講話はとてもわかりやすく、腑に落ちました。
カントの嗜好や享受の説明で、五感によるレベルがあるようで、触覚と視覚と聴覚はレベルが高くて、味覚と嗅覚はレベルが低いという。
その中に「快」と「快適なもの」の違いなど、楽しむための「目的」が、いつのまにか「手段」としてすり替わってしまう恐ろしさとか。
最後の手段化する現代社会として、お酒は楽しむためだったのに、依存症になってしまったことを「手段からの解放」とし、依存症の方たちのバックグラウンドが重要で、楽しむものが手段化してしまう社会を考えないといけないのではないか、と提唱していました。
こうなってくると、まだまだ続きがありそうですね。
いつも、ただの哲学ではないところが國分功一郎のドキドキするところです。 -
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先日『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』をaudibleで聴いて、オーディオブックで受け止めるには限界があるなと感じていたのですが、性懲りもなくこちらもaudibleに出ていたので聴いてしまって、案の定難しかった笑
スピノザ哲学のポイントを掴めた感じはまだまだしないので、その内紙版で読み直したいなと思うが、國分先生のガイドでスピノザという人物自体にも触れることでこれまでと少しイメージが変わる部分があった。特にスピノザの「神」についての理解や表現について、「神即自然」というスピノザの表現を微妙な時代状況の中でのレトリック的表現なのかなと捉えてしまっていたけれど、宗教的な側面を含めたスピノザの生い立ちや、エチカや他の著作の中で神の存在やあり方がどのように表現されているのか、さまざまな角度から考え尽くされていることを感じられるようになったのは良かった。 -
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カントの「快」に対する分析(快を①端的に善いもの、②美しいもの、③崇高なもの、④快適なものに分類)をベースとして、目的のために手段化する傾向の強い現代社会の問題を指摘し、④快適なもの(目的のための手段としての快ではなく、それ自体を楽しむ享受の快)の重要性を説くもの。
カントについては名前を知っている程度で全く知識がなかったので、カントの議論を分かりやすく噛み砕いて説明されていて勉強になった。
前半:論文をベースとしたもの、後半:講演をベースに文章化したものという構成であったため、前半パートでは難解であまり理解できなかったところもあったが、後半パートを読むことで理解が深まった。
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何かに駆り立てられるように生きている、何かに駆り立てられるように何かをしている、それでいて人間自体は虚しさを感じながらカラッポな状態で行きている。そのような現代社会の病理のようなものに言葉を与え、その解決として提案されるもので我々の生や思考に一つの道筋を提案する。
目的とも手段とも切り離された快を享受することで、所謂精神的な満腹状態に達し、消費社会、資本社会の構造に抵抗する、そして主体を取り戻す、ということがシリーズを通じて繰り返し述べられる。
「楽しむ」という卑近なテーマからスタートする思索であるが、巻末でも述べられているように、このまま行くと人間が、依存症に陥ることに留まらず、取り返しのつかない悲劇を繰り返しかねない、そのような社会の構造になってきていると筆者は懸念する(と僕は読んだ)。人間全体の生に関わる、大きなテーマ、大事なテーマのための思考のスタート地点として、本書、本シリーズは非常におもしろいし、刺激が得られる。 -
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東大の教授でもある哲学者の著者のメルマガでの人生相談をまとめた本。
相談は書かれていないことが重要とし、本当は何が言いたいのかを推測して鋭い指摘をされている回も多い。一方で親との関係に悩む大学生の回など、相談者の人生に大きな影響を与えるような回もある。
哲学書を引用しながら相談に答えていくのだけれど、そんな捉え方、考え方があるのか、ということだらけで発見と学びの一冊だった。
自分が何かを相談された時 表面の言葉だけ受け取って的を射ていない回答になってたんだろうなとか、相談する側のときはただ自己開示をしたいだけというのが滲み出ていたんだろうなと気付いてしまった。気付けてよかった。
哲学書やそれ以外の本から得た知識を適切な形で引用できるとこんな素敵な相談相手になれるんだと、自分も頑張ってみたくなった。
2025年下半期は哲学に触れたいと思っているので、まずは本書に出てきた本から、手始めに積んである暇と退屈の倫理学から読んでいきたい。
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原子力は核兵器として利用される場合、反対されるが、「平和利用」という巧みなスローガンの元で発電に使われる場合は、長らく肯定されてきた。
それが、チェルノブイリや3.11福島などを経て、急激に反対に傾いている。
しかし、3.11以後も、事故が怖い、廃棄物質など忌避感情が強いにもかかわらず、再稼働への国家的な意志はうごめく。それはエネルギー問題に煩わずに生きたいという全能感への欲望だ。
ただ、ハイデガーのみが肯定が大多数だった時代にも、その技術的特異性に注目し、警鐘を鳴らしていた。根本から考えようとする哲学の威力発揮である。
原子力に取り憑かれないためには、考えることが必要だが、そのことをパフォーマティヴに対話編で残したのもハイデガーだった。
著者が講演という形式で、模索的に思索した集成が本書だ。
問題意識はよくわかる。
ハイデガーの哲学は難しいが、それを分かるように伝えてくれている。