國分功一郎のレビュー一覧
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●感想、印象に残った点
「暇と退屈の倫理学」の方が読み応えがあった。こちらは講演ということで、読みやすくなっていて、質疑応答部分があり、よかった。
・すべてが目的や効率に回収されると、人間は自由でいられない。
・権利は、今ある状態だけを見ると「与えられていて当然」に見えるけれど、実際には先人が権力と衝突し、ときには命まで失いながら勝ち取ったもの。一度手放すと単にゼロへ戻るのではなく、「その権利は、なくてもよいものだった」となる可能性があることが危険
・死者の権利について、どこまで生者が語っていいのか
・目的への手段は100%正当化される、されてしまう
・無目的の魅力
●本概要
「ただ生きている」。本当にそれだけでいいのだろうか――。
自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか――。コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫る。ソクラテスやアガンベン、アーレントらの議論をふまえ、消費と贅沢、自由と目的、行政権力と民主主義の相克などを考察、現代社会における哲学の役割を問う。名著『暇と退屈の倫理学』をより深化させた革新的論考。
【目次より】
はじめに――目的に抗する〈自由〉
第一部 哲学の役割――コロナ危機と民主主義
コロナ危機と大学、高校/自己紹介/近くにある日常の課題と遠くにある関心事/自分で問いを立てる/ある哲学者の警鐘/アガンベンの問題提起/「例外状態」と「伝染病の発明」/アガンベンという哲学者の保守性/第二の論考/三つの論点(1)――生存のみに価値を置く社会/三つの論点(2)――死者の権利/保守主義/考えることの危険と哲学すること/社会の虻として――哲学者の役割/三つの論点(3)――移動の自由の制限/支配の条件/ルソーの自然状態論/支配の複雑性/移動の自由と刑罰/日本国憲法における移動の自由/政治家と哲学者――メルケルとアガンベン/アンティゴネ、そして見舞うという慈悲/殉教者と教会の役割/行政権力とは何か/行政権が立法権を超える時/二〇世紀最悪の「例外状態」/ヴァイマル期/改めて三権分立について
【質疑応答】
移動の制限はある程度仕方がないのでは?/日本ではどのような制限を行政権に加えるべきか?/なぜ人々は自由に価値を置くことをやめたのか?/出発の自由と到着の自由があるのでは?/高校生が将来のためにやっておくべきこととは?/日本で健全な政治を行うために必要なこととは?/警告が届かないのはマスメディアのせい?/生存以外の価値を人々は求めているのか?/死者の権利とは?/テロリズムの脅威は?/マスクを着けたくない人々についてどう思いますか?/哲学者はどこまでその役割を求められるのか?/どうすれば話し相手を増やしていくことができるか?/主張を訴えたとして、社会は変わるものなのか?/「死者の権利」を生者が語るのは傲慢なことではないか?/現代は死生観が昔よりポジティヴになったのか?/今日高校生とのやり取りで感じたことは?
第二部 不要不急と民主主義――目的、手段、遊び
前口上/日本では炎上しなかったアガンベンの発言/「不要不急」/必要と目的/贅沢とは何か/消費と浪費/消費と資本主義/浪費家ではなくて消費者にさせられる/イギリスの食はなぜまずくなったのか?/目的からはみ出る経験/目的にすべてを還元しようとする社会/目的の概念/目的と手段/チェスのためにチェスをする/すべてが目的のための手段になる/ベンヤミンの暴力論/「目的なき手段」「純粋な手段」/カップ一揆とルール蜂起/ベンヤミンの思考のスタイル/キム少年――再びアーレントについて/無目的の魅力/官僚制と官僚支配/自由な行為とは何か/動機づけや目的を超越すること/遊びについて/パフォーマンス芸術/政治と行政管理/遊びとしての政治とプラトン/社会運動が楽しくてはダメなのか/まとめ
【質疑応答】
コロナ危機と自由の関係について/責任について
おわりに
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ネタバレ『暇と退屈の倫理学』を読んで
國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、私は退屈というものを、単に「することがなくてつまらない状態」と考えていたことに気づいた。本書では、退屈は人間の欲望、労働、消費、幸福、さらには自由の問題と深く結びついている。とりわけ印象に残ったのは、人間は暇を得れば自然に幸福になるわけではなく、むしろ暇をどのように過ごせばよいか分からないために退屈するという指摘である。
パスカルは、人間は静かに自分自身と向き合うことに耐えられず、退屈から逃れるために気晴らしを求めると考えた。仕事、遊び、社交、賭博などに夢中になるのは、それ自体が目的だからというより、自分の有限性や死、不安について考えずに済むからである。この考えは、現代のスマートフォンやSNSにも当てはまるように思う。私自身、少しでも時間が空くと、特に目的もなく動画やSNSを見てしまうことがある。その行動は本当に楽しみたいからではなく、何もしていない時間に耐えられないからなのかもしれない。
これに対してラッセルは、退屈を完全に排除しようとすることが、かえって人間を幸福から遠ざけると考えた。刺激を求め続けると、同じ刺激では満足できなくなり、さらに強い刺激が必要になる。穏やかな生活や継続的な学びを楽しむためには、ある程度の退屈に耐える力が必要である。この議論から、幸福とは刺激の多さではなく、日常の中から満足を受け取る能力に関係しているのだと感じた。
本書における「浪費」と「消費」の区別も興味深かった。浪費とは、必要以上のものを受け取り、それを十分に味わうことである。一方、消費とは、物そのものではなく、それに付けられた流行や地位、個性といった意味や記号を求める行為である。食事や音楽を心ゆくまで楽しむ浪費には、満足による終わりがある。しかし、記号を追い続ける消費には明確な終わりがない。そのため、現代人は多くの物を持っていても満足できず、次の商品や情報を求め続ける。
有閑階級と労働者階級の議論からは、暇そのものが必ずしも自由を意味しないことが分かった。有閑階級は、働かないことや浪費できることを社会的地位の象徴として示した。一方、労働者階級は長時間の労働から解放されても、疲労や習慣によって自由時間を主体的に使えず、用意された娯楽を消費して暇を埋めることがある。人々は自由時間を得るために働いているはずなのに、得られた時間を楽しむ方法が分からない。この矛盾は、現在の私たちの生活にも残っていると思う。
また、ユクスキュルの「環世界」という考え方は、退屈を別の角度から理解する手がかりになった。それぞれの生物は、同じ物理的空間に存在していても、自分にとって意味のある刺激によって構成された異なる世界を生きている。人間も、知識、経験、関心、職業などによって異なる環世界を生きている。同じ森を見ても、植物学者と写真家では見えているものが異なる。つまり世界が退屈なのではなく、自分が世界から意味を受け取れなくなっている場合があるのである。
人間は学習や経験によって環世界を広げることができる。音楽を学べば、それまで聞き分けられなかった音の違いが分かるようになり、植物を学べば、単なる草むらが多様な生命の集まりに見えてくる。退屈を乗り越えるために必要なのは、刺激を増やすことではなく、同じ世界からより多くのものを受け取れるようになることなのだと思った。
ハイデッガーは退屈を三つの段階に分け、特に「深い退屈」を重視した。深い退屈では、特定の対象ではなく、世界全体が意味を失ったように感じられる。しかし彼は、この状態を単なる苦痛とは考えず、人間が日常の役割や目的から離れ、存在そのものに向き合う契機と捉えた。この考えから、退屈は避けるべき失敗ではなく、自分が何を望み、どのように生きたいのかを問い直す時間にもなり得ると分かった。
ただし著者は、退屈から逃れるために、強い使命や大きな決断へ向かうことには慎重である。人は自分を強く刺激し、方向づけてくれる思想や集団に引き寄せられる危険があるからである。本書が提案するのは、退屈を劇的に克服することではなく、物や文化を十分に楽しむ力を身につけることである。
私は本書を通して、自由とは何にも縛られないことではなく、何かに夢中になりながら、必要なときにはそこから離れ、別の世界へ移ることのできる状態なのだと考えるようになった。退屈を消費によって埋め続けるのではなく、本を読むこと、音楽を聴くこと、学ぶこと、人と話すことを丁寧に味わう。そのための知識や経験を積み重ねることが、暇を本当の意味で享受することにつながるのだと思う。
『暇と退屈の倫理学』は、退屈をなくす方法を教える本ではない。むしろ、なぜ自分は退屈するのか、何を本当に望んでいるのか、与えられた時間をどのように生きるのかを問いかける本である。これからは退屈をすぐにスマートフォンや娯楽で埋めるのではなく、一度立ち止まり、自分がどのような世界を生き、そこから何を受け取っているのかを考えてみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ難しかったです。
気付きとしては、私なりに言語化する。
誤読してたらすいません。
憲法では、立憲主義と民主主義のバランスを取れることが、日本国民に求められている。民主主義に偏り過ぎ、戦争への兆しが見えた時、立憲主義へ大きく寄せたのが天皇だと見た。結果的には、天皇に頼ってしまって、日本国民は成熟できてはいないことが分かった。
この日本国民の未成熟について深掘りすると、日本国憲法の制定に主体性が持てていない、ねじれが存在する。
主体性が持てないことは、当時の天皇をはじめとした日本国の正式な加害性の謝罪が明瞭化されなかった。ねじれは基本的人権を天皇が持てない憲法条文になっている飛び地状態であることに国民は認識していないでいること。
気になるのは責任無能力者とは何だろうか?
印象に残ってるのは、加害者は被害者意識があり、加害性の認識ができていないことです。確かに先の大戦の日本政府の意見の雰囲気も被害者っぽい印象を受けますし、教育も自国の被害について誇張して伝えていたかなと思い返す。
そう思うとみっともないな、恥ずかしいと思う。日本国民のマインドにこの被害者意識がデフォルトになっているのは、なんとなくわかる気がする。靖国参拝時に報道される中国の発言もわかる気がしてきた。
戦争が続くのはこのような加害者の被害者意識というのも大きく関係しているのかもしれない。
今の世代も関係ないとは言えないと感じた。 -
Posted by ブクログ
・民主主義と立憲主義の緊張関係
・民主主義のみではだめp56
・P68 天皇への敗北
天皇による護憲的立場に頼ってしまっている
(天皇はそもそも憲法に内蔵されている仕組み)
安倍政権時 憲法秩序が危機を迎えた際、
民主主義的な手段での対抗はほとんど力を持たなかった
→メモ:天皇は家父長制の頂点にある存在であり、その意味で象徴天皇制の廃止を求める意見もある。が、憲法秩序の維持において天皇が果たしている役割を知り、天皇制廃止する・しない と短絡的に考えることはできないなと思った
・P123 戦後 という観点で考えないこと
それはゼロの出発を想定することになり、主体として戦争責任を引き受けることはできない
加藤の指摘:現代と戦前の日本との連続性の欠如
連続性をどうつくるか(自己欺瞞をどうなくすか)
・P135 アクチュアルな問題に取り組むことによって、連続性を作る
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Posted by ブクログ
大好きな國分功一郎さんの新刊
もちろん読ーーーむ!
しかし最近わいは保守派への転向を明言してるのだが、よく考えたら國分功一郎さんもゴリゴリのリベラルなんよな
ゴリゴリのリベラルの人を大好きと言ってしまう保守派ってなんやねん!っていうね
まぁ、いいじゃないか
あっちにふらふらこっちにふらふらでもいいじゃないか
それがわい
今回の國分功一郎さんは憲法について考察する
そこから戦後の責任論や天皇制についても言及している
あ!本作でも加藤典洋さんの『敗戦後論』を取り上げてたな
どっかで読まねばなるまいね
そして天皇制な
天皇に基本的人権ないやないか!というのが論点のひとつになっていて、もちろん「天皇は例外」って位置付けなんだけど、そこはもっと明確にして国民の中でそれで良いのか悪いのか考えるべきだ!と仰っている
あれ?明確になってない?なってないかな〜
いずれにせよ左派はすぐ「天皇かわいそうじゃね?」に持っていって「こんなどいひーな天皇制やめようぜ!」に繋げようとするんよ
で、わいはと言うと、天皇陛下たいへんだな〜と思うけどやっぱ天皇制は続けたい
だってそれが(理屈抜きで)日本だと思うから
勝手なこと言ってるとは思うので、せめて感謝の気持ちは忘れないようにしたいな -
Posted by ブクログ
途中で読んでる本がなくなるってのはあるんだけどこの本なくなった。暇と退屈のから入った私というか、みんなだいたいそうだと思うけど、からするとまあ軽くはない話題だよね。まあテキストに対する考察と言えるかもしれん。途中でなくなったのでまあ読まれなかった手紙的なことなのか?違
僕のキリスト教に対しての興味は、バイブルスタディというようなサークル活動!が成り立つのかという引っかかり、正しくなくても勝てばいいというディベートの文化、聖書に書かれてるわけじゃねえから変えていいんだって言い回し、it doesn’t make senseという言い回しとかをひっくるめた英語と日本語の違いのもとなんだろう。みたいなことなんだけど。憲法の正当性とは何か?って考えるとこれは日本のバイブルスタディにはなるわなって感じなわけ。そして、ジャンプとかで論理鍛えられている日本のマーケットであれば憲法漫画とかワンチャンいけんじゃね?つて思った。面白いよ。まあ新書っていいよねって感じ! -
Posted by ブクログ
ネタバレ哲学というのは、ここまで日常的な概念(意志/責任)を深く掘り下げられるのかと感じさせられる。確かに自分たちは「意志」という概念を能動的なものとして捉えているし、これを責任をもたらす重要な概念として捉えている。しかし、あくまでも意志は無数のファクターにより導かれた結果であり、完全に能動とも受動とも言えず、故に中動態という忘れ去られた態を参照し直す必要がある。これに取り組んだ一冊。
「意志」を純粋な能動と捉えることは、即ち過去との断絶(影響したファクターの無効化)を意味し、これはある種の全能感をもたらす。しかし神ではない人間はあくまで中動態の世界に生きており、様々なファクターの影響を受けつつ、自由と強制の狭間を行き来しながら生きていることを自覚する必要がある。そしてきっと、これを自覚することは自分だけでなく、他者に対する配慮にも繋がりうる。また、スピノザの「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」という考え方も、この中動態の議論に奥行きをもたらしてくれる。即ち、人は社会の中で求められる役割や自分が担いたい役割の葛藤を抱える中で、自分の本性の必然性(例:ワンピースで言うところの「海賊王におれはなる」と同じか。海賊王に「なりたい」ではないのがポイント)に従い行為することができれば自由になれる、ということ。但し、この「自分の本性」なるものにどこまで敏感であることができるか、は極めて難しいことのように思う。それは日々の生活の中から浮かび上がるものかもしれないが、ここでも中動態の世界に生きている、つまり自分は導かれながらかつ自分で選択もしながらここまで進んできた、ということを自覚することで、少しずつ自らの本性に耳を傾けることができるのではないだろうか。
また、個人的にはあとがきに書いてあった「読めよ。さらば救われん」という言葉も好きである。生成AIを駆使し、過去の議論や論文をさらっと読めるようになっている時代であるが、やはり地道に読むことこそが自分の思考を形成し、また救ってくれるものであると信じている。
特に印象に残った箇所は以下
・私が何ごとかをなすとき、私は意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意志」を行為の源泉と考えるのも難しい(p.25)
・中動態を定義したいのならば、われわれがそのなかに浸かってしまっている能動対受動というパースペクティブを一度括弧に入れなければならない(p.109)
・能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる(p.120〜121)
・言語が思考を規定するのではない。言語が思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ(p.152)
・ある単語の不在は、出発点ではなくて結果である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない(p.154)
・こう考えると、選択と意思の区別は明確であり、実に単純であると言わねばならない。望むと望まざるにかかわらず、選択は不断に行われている。意志は後からやってきてその選択に取り憑く(p.183)
・権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む(p.203)
・ハイデッガーはつまり、意思することは忘れようとすることだと述べている(p.287)
・われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p.361)
・その自由をスピノザは次のように定義している。すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である、と(p.366)
・だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうと言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ(p.368〜369)
・完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく(p.411〜412)
・やはり、「読めよ。さらば救われん」こそが研究における真理である(p.482)