土屋京子のレビュー一覧
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ナルニア国物語の3巻目。前作『ライオンと魔女と衣裳だんす』で即位したピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの治世の物語。
ナルニア国の南方にあるカロールメン国の漁師の子シャスタは、父親が自分を奴隷として売ろうとしていることに気がつき、ナルニア出身の〈もの言う馬〉ブリーにまたがり、北へ向かって逃げ出す。旅の途中、これまたやんごとない事情で逃げ出してきた貴族の娘アラヴィスとその愛馬フインと道連れになるも、タシュバーンの街でナルニア国と隣国アーケン国に迫る危機を知ることになり…。
翻訳ものを読むときは、せめてタイトルは原著タイトルを確認するようにしているが、解説にもあるように、本書の原著のタイトルは、“The Horse and His Boy”。そう、「馬と“彼の”少年」なのだ。メインは馬。もちろん、この「少年」ことシャスタが、少しずつ成長していくのが見どころでもある。冒険ファンタジーのおいしいところを、てんこ盛りにしたような本作。おもしろくないわけがない。世界中の子どもが夢中になって読むはずだ。
舞台がナルニアの外にまで広がり、かつ前作とのつながりも、ちらほら見え隠れ。本作のアスランはますます神がかり、訳者が意識しているのか、その物言いまでも聖書の神のようになってきた。物語の世界観がぐんと深まった感があるナルニア国物語。さて、次巻に進もう。 -
Posted by ブクログ
恥ずかしながら初読である。小学生の時だったか、岩波書店版の『ライオンと魔女』は読んだ記憶があるが、その先のシリーズまでは手が出なかった。理由はよくわからない。きっと飽きっぽい性格が災いして、一つの話がずっと続くものは避けたのだろう。そういえば、ナルニアと並ぶファンタジー巨編の『指輪物語』も『ゲド戦記』も、実際に読んだのは大人になってからだった。
そんなわけで、この正月休みを利用して、積年の心残りであったナルニア国物語にチャレンジをすることにした。
さて、岩波書店版と書いたが、本書『魔術師のおい』は岩波書店版ではシリーズ6作目にあたる。それが、この光文社文庫版ではシリーズ1作目となっているのは、岩波版が原著の刊行順としたのに対し、光文社版が作中の時系列順としたからである。
主人公はディゴリーとポリー。病気の母親と一緒に伯父と伯母が住むテラスハウスにやってきたディゴリーは、お隣の女の子ポリーと仲良くなり、屋根裏の探検を始める。屋根裏!子どもなら敏感に反応するに違いない。ルイス先生、わかってらっしゃる。そして、迷い込んだ伯父の部屋から、魔法の指輪で異世界へ行き、強大な魔女ジェイディスを復活させてしまうのだが…。
これはナルニアという世界の創造のお話だ。かの有名なライオンのアスランは威風堂々と登場したが、おぼろげに覚えていた衣装だんすが通路という設定ではなかった。それは次巻以降のお話か。
よく書かれた児童文学は大人が読んでもおもしろい、を地でいくような小説。本当におもしろく読めた。だがやはり、子どもの頃に読んでいるのが一番幸せな読み方だろう。子どもなら、途中で会社のメールやニュースが気になったり、キリスト教的な世界観が気になって作者のルーツを調べ出したりすることなく、一気に読み通したに違いない。少しの後悔とともに、2作目に進みたい。 -
Posted by ブクログ
2016年リオデジャネイロ五輪に難民五輪選手団の一員として参加したシリアの競泳選手ユスラ・マルディ二さんが、シリア内戦から逃れるためにトルコ、ギリシャを経てドイツまでたどり着くまでと、リオデジャネイロ五輪に参加するに至る経緯を自らつづったノンフィクション。
今日ではかなり危険な状況のシリアの首都ダマスカスですが、内戦が激化するまでは普通の暮らしが営まれる状況でした。次第にきな臭い情勢となり、ついに生活圏に戦車や軍隊が入り込み、ユスラさんの通うスイミングクラブにも不発弾が落ちる状況に至り、国外へ逃れる決心をします。
ユスラさんが辿ったのは、トルコ、ギリシャ、マケドニア、セルビア、ハンガリー、オーストリア、ドイツと至る「バルカンルート」でした。イスタンブールからギリシャ領レスボス島へはわずか数m足らずのゴムボートでエーゲ海を渡り、途中でボートの船外機の故障のためにボートから海へ降りて泳ぎながらたどり着く程の際どい状況をくぐりぬけ、ギリシャ以降は自らの命運を掛けるには信頼するのも疑わしい密入国を斡旋するブローカーを頼りにドイツを目指します。国境警備の厳しいハンガリーでは留置場に留め置かれる状況まで経験されました。
ドイツでようやく安寧の環境を得、難民五輪選手団の候補となった際には、「参加標準記録をクリアしていない自分が”難民”という理由で五輪に参加する意味があるのか」と苦悩しますが、自らの記録よりも難民への世界の理解を深めるためにも参加を決断し、のちにオバマ大統領との接見も果たされました。
EUに流入する難民のニュースは日本でも目にしますが、その大部分は難民を受け入れる側からの視点が多く、本書のように難民当事者から見た状況はなかなか知ることができません。
「難民のだれもが自ら好んで祖国を逃れたのでもなく、好きで難民になったわけでもない」と本書では何度も書かれています。本書でも触れていますが、ユスラさんは”幸運にも”ドイツまでたどり着けましたが、多くの難民がエーゲ海で遭難したり、ドイツに至る途中でお金が尽きてその地にとどまることを強いられています。
難民と一言で言っても、様々な状況がありますが、少なくともEUにおける難民の状況を知る手掛かりとなる貴重な記録であるからこそ、少しでも多くの人に読んでもらいたいノンフィクションです。400ページを超える大著ですが、次々と展開する状況に引き込まれ、一気に読み通しました。 -
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唯一無二の、きらきらした感じ。
物語の細部は、実は暴力と非情。ハードボイルドな「みんな悪者」ワールド。なのに、めくるめくピュア。「詩情」という実態の分からないコトバとは、この本の為にあるのかも知れません。
最強のペアの物語です。DV被害少年・ハックと、逃亡黒人奴隷・ジム。
ふたりの筏の旅は、ミシシッピーをくだり、黒人自由州へ。「ジムを密告するべきでは?」という張り裂けそうな危機を孕みながら。ハックの決断はー。
#
「ハックルベリー・フィンの冒険」光文社古典新訳文庫で上下巻。マーク・トウェイン。1885年発表。
世界は、(というかアメリカは、なのか)なんてグロテスクに不条理で、残酷で、暴力的で、反知性で、貪欲で下品で偽善的で、そして差別と偏見に満ちていることか。
だからと言ってそれを写実するだけではなくて、小説というサービス精神の中で描く。
そして読者は楽しませなくてはいけないし、最後には「良かった」という後味が必要、という作者の側のモラルを感じました。
なんて瑞々しく、スバラシイ。
#
「トム・ソーヤ―の冒険」(1876年発表)の、今風に言えば、スピンオフ。
なんだけど、元ネタの「トム・ソーヤーの冒険」の倍くらいの長さの長編小説。
話は「トム・ソーヤーの冒険」の直後から。1830〜40年頃の、ミズーリ州。偉大なる田舎。
ハックルベリー・フィンのもとに、飲んだくれで最低な父親が現れて、ハックを監禁して暴力を振う。
脱出したハックは、逃亡奴隷のジムとともに街を脱出。
目指すは、ジムが奴隷の身分から逃れられる自由州。ふたりの行く手には、さまざまな冒険が現れる。
発表されたのは1885年。リンカーンによる奴隷解放宣言が1862年、大まか20年前。発表当時の世論は黒人差別反対なんです。建前としては。
物語の中でハックは、逃亡奴隷のジムに友情を感じながらも、
「人の持ち物の奴隷を逃亡させるのは、してはいけないことなんだよなあ」
という、良心の咎めを感じながらミシシッピを流れていきます。密告か、共犯か。社会のルールなのか?個人の心情なのか?
社会のルール、正義って言うのは、ほんとに正しいのか?強者に都合の良いだけなんぢゃないのか?
もうこれだけで、永遠不滅の物語。
2017年現在ニッポンの僕たちも、他人事ではありません。
#
微妙に一話完結のように、連綿とつづられるふたりの冒険。親の暴力からの脱走。理不尽な殺戮。道徳にまで昇華している人種差別。拝金主義。詐欺。だまされやすい人々。残酷な集団ヒステリー。エトセトラエトセトラ...
大人社会の偽善を抉りながら、ジムの逃亡補助を巡る、ハックの葛藤が貫かれて行きます。ドキドキ。
実にハードボイルドに、そして明るくアッケラカンと局面をしたたかに生き抜くハックの一人称が、もぎたてで食べごろトマトのようなタマラナイ甘さと酸っぱさ。
人目を避けて、昼間はいかだを隠して休みます。そして日が暮れると流れを下る。
悠々たる巨大なミシシッピの闇。ウソのようなつぶらに近い星空。その自然を興奮豊かに描く下りは鳥肌もの。
(自然情景描写って、だいたいは僕は苦手なのですが、コレにはヤられました)
#
話しは随分と豊饒な寄り道を経つつ、大河を下るように不要不急にたゆたいます。
そして残酷な現実にジムとハックは追い詰められていきます。絶体絶命に。もう、だめか。
そのときもハックだけは諦めません。
諦めないハックのもとに、最終盤に現れる最強の味方。そう、トム・ソーヤーその人なんです。「いよっ!待ってました!」
大向こうの気分。ここからのわくわく感って言ったら、身悶えものです。
世界観は痛くて辛いんですが、それはそれ。
小説は小説です。イッキに愉快なハッピーエンドに向けて舵を切ります。この安心感。
正直、直前まで
「頼むからハックとジムを幸せに終わってあげてください!」
とトウェインさんに祈るばかりだったんです...恥ずかしながら。
#
ヘミングウェイが、そしてその後の文学者の多くが、「アメリカ文学が始まった瞬間」と位置付けた名作。さすが。
ではアメリカ文学とは何か?
大いなる田舎であり、無知であり、欲望であり。剥き出しの暴力と偏見と人種差別の渦。なんだと思います。
その代わり、欧州よりも宗教も身分制度も弱く、混沌と自由、そして不安と絶望もより強くあります。全て欧州より大味。
そんななかで、どうやって秩序を持って幸せに生きていけるのか。そんな冒険の物語。
そう考えると、風土として、習慣として、後味として、ヘミングウェイでありフィッツジェラルドであり。キングやエルロイまで至る大河の源泉をたゆたった気分です。
(そして考えようによっては、その流れにはジョン・フォードやイーストウッドや、そして村上春樹までが見え。ハックルベリーの子どもたちの、なんと豪華なことでしょう)
#
光文社古典新訳文庫、僕は相変わらず素敵な仕事をしていると思います。
こなれた訳文で、するすると読めました。
翻訳、大事なんですよね。ほんと。
(でも、読み終えて、「村上春樹訳で読んでみたいな」と思ってしまいました...。村上さん、やってくれないかなあ...) -
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唯一無二の、きらきらした感じ。
物語の細部は、実は暴力と非情。ハードボイルドな「みんな悪者」ワールド。なのに、めくるめくピュア。「詩情」という実態の分からないコトバとは、この本の為にあるのかも知れません。
最強のペアの物語です。DV被害少年・ハックと、逃亡黒人奴隷・ジム。
ふたりの筏の旅は、ミシシッピーをくだり、黒人自由州へ。「ジムを密告するべきでは?」という張り裂けそうな危機を孕みながら。ハックの決断はー。
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「ハックルベリー・フィンの冒険」光文社古典新訳文庫で上下巻。マーク・トウェイン。1885年発表。
世界は、(というかアメリカは、なのか)なんてグロテスクに不条理で、残酷で、暴力的で、反知性で、貪欲で下品で偽善的で、そして差別と偏見に満ちていることか。
だからと言ってそれを写実するだけではなくて、小説というサービス精神の中で描く。
そして読者は楽しませなくてはいけないし、最後には「良かった」という後味が必要、という作者の側のモラルを感じました。
なんて瑞々しく、スバラシイ。
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「トム・ソーヤ―の冒険」(1876年発表)の、今風に言えば、スピンオフ。
なんだけど、元ネタの「トム・ソーヤーの冒険」の倍くらいの長さの長編小説。
話は「トム・ソーヤーの冒険」の直後から。1830〜40年頃の、ミズーリ州。偉大なる田舎。
ハックルベリー・フィンのもとに、飲んだくれで最低な父親が現れて、ハックを監禁して暴力を振う。
脱出したハックは、逃亡奴隷のジムとともに街を脱出。
目指すは、ジムが奴隷の身分から逃れられる自由州。ふたりの行く手には、さまざまな冒険が現れる。
発表されたのは1885年。リンカーンによる奴隷解放宣言が1862年、大まか20年前。発表当時の世論は黒人差別反対なんです。建前としては。
物語の中でハックは、逃亡奴隷のジムに友情を感じながらも、
「人の持ち物の奴隷を逃亡させるのは、してはいけないことなんだよなあ」
という、良心の咎めを感じながらミシシッピを流れていきます。密告か、共犯か。社会のルールなのか?個人の心情なのか?
社会のルール、正義って言うのは、ほんとに正しいのか?強者に都合の良いだけなんぢゃないのか?
もうこれだけで、永遠不滅の物語。
2017年現在ニッポンの僕たちも、他人事ではありません。
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微妙に一話完結のように、連綿とつづられるふたりの冒険。親の暴力からの脱走。理不尽な殺戮。道徳にまで昇華している人種差別。拝金主義。詐欺。だまされやすい人々。残酷な集団ヒステリー。エトセトラエトセトラ...
大人社会の偽善を抉りながら、ジムの逃亡補助を巡る、ハックの葛藤が貫かれて行きます。ドキドキ。
実にハードボイルドに、そして明るくアッケラカンと局面をしたたかに生き抜くハックの一人称が、もぎたてで食べごろトマトのようなタマラナイ甘さと酸っぱさ。
人目を避けて、昼間はいかだを隠して休みます。そして日が暮れると流れを下る。
悠々たる巨大なミシシッピの闇。ウソのようなつぶらに近い星空。その自然を興奮豊かに描く下りは鳥肌もの。
(自然情景描写って、だいたいは僕は苦手なのですが、コレにはヤられました)
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話しは随分と豊饒な寄り道を経つつ、大河を下るように不要不急にたゆたいます。
そして残酷な現実にジムとハックは追い詰められていきます。絶体絶命に。もう、だめか。
そのときもハックだけは諦めません。
諦めないハックのもとに、最終盤に現れる最強の味方。そう、トム・ソーヤーその人なんです。「いよっ!待ってました!」
大向こうの気分。ここからのわくわく感って言ったら、身悶えものです。
世界観は痛くて辛いんですが、それはそれ。
小説は小説です。イッキに愉快なハッピーエンドに向けて舵を切ります。この安心感。
正直、直前まで
「頼むからハックとジムを幸せに終わってあげてください!」
とトウェインさんに祈るばかりだったんです...恥ずかしながら。
#
ヘミングウェイが、そしてその後の文学者の多くが、「アメリカ文学が始まった瞬間」と位置付けた名作。さすが。
ではアメリカ文学とは何か?
大いなる田舎であり、無知であり、欲望であり。剥き出しの暴力と偏見と人種差別の渦。なんだと思います。
その代わり、欧州よりも宗教も身分制度も弱く、混沌と自由、そして不安と絶望もより強くあります。全て欧州より大味。
そんななかで、どうやって秩序を持って幸せに生きていけるのか。そんな冒険の物語。
そう考えると、風土として、習慣として、後味として、ヘミングウェイでありフィッツジェラルドであり。キングやエルロイまで至る大河の源泉をたゆたった気分です。
(そして考えようによっては、その流れにはジョン・フォードやイーストウッドや、そして村上春樹までが見え。ハックルベリーの子どもたちの、なんと豪華なことでしょう)
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光文社古典新訳文庫、僕は相変わらず素敵な仕事をしていると思います。
こなれた訳文で、するすると読めました。
翻訳、大事なんですよね。ほんと。
(でも、読み終えて、「村上春樹訳で読んでみたいな」と思ってしまいました...。村上さん、やってくれないかなあ...) -
Posted by ブクログ
下巻。久しぶりに小説で熱くなった。ヘミングウェイをしてアメリカ文学の始原だと言わしめた、その余韻は強い。アメリカ的なものとは何であろうかと考えてしまうが、私自身が表現しえない、知りえないアメリカ的なものがここに原点を置いているということ。
トムソーヤーの前にこちらを読んでしまったので、前作でのハックを知らないが、文明じみておらず野生の色濃いハックの純真が強烈なメッセージになっている。マーク・トウェイン曰く、この作品は「健全な心と捻じ曲げられた良心がぶつかり合い、良心が敗北を喫する物語である」。文化、特に宗教的に根拠を置く社会的なしきたりは私たちの良心に善きにつけ悪しきにつけ強烈な影響を与える。現代から見れば考えられないような文化(奴隷制など)も、当時の人間からすれば宿命的な選びの問題であるし、身分の上下がどうであろうとその差異を破ることは、天国への約束を自ら捨てるという恐怖と隣り合わせの事柄だったはずだ。だからこそハックはあれほど悩んだ。
やはりこの作品のクライマックスは、ハックが自ら地獄を選択するシーンだろう。図らずも泣きそうになった。何という気高い純真だろうか。人間の美しさに久しぶりに触れた気がした。
トムが最終盤に出てきてジムを逃がすためにあれこれ、まどろっこしいことをやろうとするところは、賛否両論いろいろあるようだが、個人的にはトムをぶっ飛ばしたくなった笑
17.5.21 -
Posted by ブクログ
あしながおじさん!
子供のときにだいすきだった本。
年齢としては大人になった今、15年前を思い出しながら読んでみました。
昔は、素敵なジャーヴィー坊ちゃんと幸せになるシンデレララブストーリーにうっとりしてました。
あと、キャンパスライフの甘美な描写!
「ブルーのモスリンのドレス」「ファッジ」「糖蜜キャンディ」「イブニングドレス」「シルクのストッキング」
こんな言葉の響きにどきどきしながら、めいっぱいの想像力を働かせていたもの。
でも今読むと、それだけじゃなくて。
ジュディの生き生きとした魅力がわかるようになりました。
強さ、賢さ、明るさ、お茶目さ。
しんどい過去や逆境に負けないところ。
卑屈にならずに言いたいことを言うところ。
色んなことをユーモアに変えちゃう愛嬌と素直さ。
現状にあぐらをかかない自立心。
物欲の甘美な誘惑は素敵だけど、それより大事なものを見出して選べるところ。
ジャーヴィー坊ちゃんがどうしてジュディを好きになったのか
よーくわかるようになった気がします。
色褪せない小説です。