土屋京子のレビュー一覧
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ネタバレ再びナルニアへ。
ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーは再びナルニアに呼ばれる。自分たちが前にいたナルニアはすでに神話の世界となり、テルマール人に支配されていた。カスピアン王子を助けるためにきょうだいは仲間たちと共に戦う。
よく知っているファンタジー。あのリーピチープが登場するのはここだったのか。悪をくじき、王子を助ける。最後にテルマール人がどこから来たのかが語られ、アスランによって元の世界に戻るよう計らわれる。わくわくするファンタジーで、映画にもしたくなるよなぁと。
ピーターとスーザンは育ちすぎたからもうナルニアには戻れない、というところで、ピーターパンを思い出した。末っ子のルーシーに特別な立場があるのも、物語によくある感じ。 -
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ネタバレシャスタはまだ見ぬナルニアを目指す。
ピーターたち四きょうだいが王や女王として即位していた時代のひとつの物語。カロールメン国の海辺に住み、漁師アルシーシュこき使われていた少年シャスタは、もの言う馬のブリーと一緒に北へ逃亡する。途中で出会った貴族の少女アラヴィスも、もの言う馬フインと一緒に逃げてきたところだった。2人と二頭が目指すのはナルニア。果たして無事に辿り着けるのか——。
貧しいが勇気を持った少年は、実は高貴な生まれである。ありがちなパターンではあるが、旅の仲間たちの個性もあり面白い。愚かなカロールメンの王子に対するエドマンド王の態度が、『ライオンと魔女と衣装だんす』を読んでいると感慨深い。
この物語でもまたアスランは、キリスト的な登場をしている。様々な姿で苦難や寂しさに寄り添い、わたしたちを助けてくださる主である。 -
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ネタバレ少年と少女は世界の創造に立ち会う。
イギリスに行って、様々なルイスの足跡を見てきたのでようやく手に取ったナルニア。子どもの頃は何かよくわからなくて読んでこないまま来てしまった。美しい物語であり、キリスト教のにおいも感じる。しかしそれ以上に思うのは、素朴な人間の生き方への賛歌と、罪から離れられない弱さ。ディゴリーは、ポリーが止めたにもかかわらず、ベルを鳴らして魔女を起こしてしまうし、アンドリュー伯父は、危険を伴う冒険を人に押し付けて上前だけ掠め取ろうとする。けれどもディゴリーは誘惑に勝ってリンゴをアスランの元に持ち帰り、ナルニアは生まれたその日から悪を抱えてはいるけども打ち勝つ希望は確かにあるのだ。
キリスト教的な意味を読み取ることもできるが、もっと大きく「異国の文化が表れている物語」であると捉えてもよい。子どもの頃に読んでいたら、数々のディテールに憧れていただろう。このような物語を読むのは異国の文化との出会いでもある。
刊行順であった従来の翻訳とは順番が変わっている。ルイスもナルニアの年代順に読まれることを望んでいたらしい。次にあの有名な『ライオンと魔女』を読むのが楽しみである。 -
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運の話と、"私はあなたについての話をしているのだ"が印象深い。
シャスタとアラヴィスを助けてくれた仙人が言う。わしは運というものを見たことがない。今回のことはわしの理解を超えている。しかし、理解すべきことであれば、いずれ知れるときがくるだろう、と。
これには信じることのプラスの側面を見た気がする。いまや実力も運のうちと理解する私であるが、境遇を奢らずかつ目を背けないでいられる、強い姿勢があるのだと知らしめられる。
"私はあなたについての話をしているのだ"は、なかなか厳しい言葉だ。
自分の行いを反省したあと、自分の過ちによって災いを被った人を慮る。それ自体は間違ってはいないのだろう。しかし、それは誤った自己慰撫に転化しうる。償ったからもうよいであろう、それほどの害とはならなかったからよいであろう、と。しかし、問題はあくまで自分自身の中にあるということ。そのことから目を逸らすことを許してくれない。 -
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またもやナルニアの地に償還されたペヴェンシー兄妹、エドマンドとルーシー。今度は厄介な従兄弟ユースチスも一緒に来てしまったのでさあ大変。ナルニア王となったカスピアンと共に行方不明の家臣を探しに行く度に同行する。
ユースチスはナルニアに来たばかりのエドマンドのように天邪鬼だけど、本質的には兄弟の中で最も現実的なスーザンに近い。そして我々現代人に近い。だからユースチスの屁理屈にくすりと笑ってしまう。実際結構理にかなった事を言っている。
この物語ではペヴェンシー兄妹は既に完成された存在、ユースチスとカスピアン王こそが真の主役と言える。ユースチスは天邪鬼と、カスピアンは驕り昂りとの決別することで、それぞれ成長して行く。 -
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ネタバレ本書も、日経書評で見かけて気になっていたら、会社の先輩から回ってきた。ラッキィ♪
難民の実状は、なかなか伝わってこないので、当事者によるルポルタージュはそれだけで貴重だ。それほど、我々は難民のことも、また、難民が発生する国、地域の現状を知らない。
本書の中でもベルリンで著者のユスラと姉のサラで大笑いするシーンがある。
「ボランティアの女の子がいるんだけど、(中略)マジな話」。サラが続ける。「シリアで暮らしてたころはノートパソコンを使ってたって言ったら、びっくりしてんの。シリアにコンピューターがあるとは知らなかったわ、だって。シリア人はみんな砂漠に住んでるのかと思ってたみたい。わたしたちだって前はふつうの生活してたんですよ、って教えてやったわよ」
地続きのヨーロッパの人ですらだ。遠くFar Eastに居ては、なかなか中東の暮しを知る機会も少ない。そういう意味で、こうした著作や、映画に触れることに意義はあるかと。
ただ、この手のOut Putは、どこのだれが手掛けて世に出しているのかは気になるところ。本書も、冒頭に、この物語の山場である、トルコからギリシャ領の島まで海を越えて密航を企てるシーンが登場し、一気に読者を引き込む。20前後の競泳選手が書いたにしては、あまりに巧みだと思う。巻末謝辞に、英国人ライターの名が出ており、どうりでと納得。
この手の違和感というか、作品としての出来過ぎ感は、ナディア・ラムド著「THE LAST GIRL」でも感じたものだ。
誰かが、意図的に、彼女らのエピソードを使って何かを訴えている。世情を操作せんがため、というのは穿った見方すぎるかもしれないけど。
そして、彼ら、彼女らの言動が、メディアにいいように利用される点も似ている。ユスラの場合は、その冒頭のエーゲ海を越える密航シーンだ。
「想像の尾ひれを付けた「ボート・ストーリー」があふれかえった。(中略)いちばんありえないストーリーは、わたし一人が腰にロープを巻き付けて自由形で波を切り、150人も乗ったボートを安全な岸まで引っぱっていった、という内容。(中略)たぶん、ヒーロー像がほしかったのだろう。わたしが望むのは、ただ泳ぐことだけなのに。」
ナディアのケースは、ISISの支配を脱した検問所での受け答えがビデオに録られ政治的プロパガンダに利用されたりもした。
また、ユスラを、難民五輪代表団の一員としてリオ五輪に参加させようという動きも多分に政治的だ。ユスラも、はじめは、
「難民はわたしのチームじゃない。そうでしょ?難民って言葉はわたしの本質を表現する言葉じゃない。そうでしょ?わたしはシリア人で、わたしは水泳選手なのであって、難民チームの代表ではない。その、なんて言うか・・・それって、ちょっと侮辱されてるような感じがするんだけど」
と反対の立場をとる。とはいえ、こうした、素直な述懐を読めるのも当人によるルポルタージュの醍醐味ではあるのだけど。
こうして、我々が手にして目に触れることのできる記録は、恵まれた境遇を活かし紛争国を抜けだし、偶然の重なりから苦難を乗り越え西側にたどり着き、そして幸運にもメディアの目に止まった、ごく一部の難民の、非常に稀有なケースであるということは認識しておくべきことなのかな。
それほど、彼女らの逃避行は、波乱万丈であり多くの幸運な出会いやタイミングに溢れている。もちろん、若く快活で、姉妹で行動を共にできたという、彼女らの性格、パーソナリティによるところも大きい。
「海とハンガリーは、マジでひどかった。でも、ほかはなんか、おもしろかったかも」
こう話せる、前向きな性格が、きっと彼女を今の場所へと導いたのだろう。彼女の飾らない性格や、我々が日常、見聞きするティーンエイジャーに近い感覚や言動を知ることで、今や、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使にまでなったユスラではあるが、一貫して変わらないメッセージが、素直に聞ける。
― 難民はほかの人たちと同じ人間なのです、と。