土屋京子のレビュー一覧
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小さい頃に、本棚に入っていた本の一つ。
ケイト・モートンの『忘れられた花園』がキッカケで、先輩から貸していただいた。
最初から呆気にとられた。
両親も、使用人も、バタバタとコレラに命を奪われてゆく中、残ったのは「忘れられた、つむじ曲がりのお嬢様」メアリ一人だった。
そして叔父に引き取られた後、彼女を中心に話は進むかと思いきや、動物と心通わせる天使のような少年ディコンと、足を悪くした癇癪お坊ちゃんコリンという、非常にチャーミングな二人が加わり、あとはもうエンディングまで一気に突き進む。
展開としてはハイジ的だけど、この話には悪意を持った人が出てこない所も素敵かもしれない。
そして、私の好きなデルフィニウムも花園の一部になって、大満足です。
さてさて。
そんな三人組に、まったく関わることのなかったメアリの叔父であり、コリンの父であるクレイヴン氏。
メアリにもコリンにも素っ気なくて、というか二人を置いて旅に出ちゃうしで、もっとなんかあるだろ!とツッコみたくなるものの、そっと癒されて、最後の大団円に参加するから、ちょっと笑える。
てか、途中からマーサどこ行ったよ、マーサ。
良いスピード感で、感動しました。 -
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井辻朱美の解説はネタバレ
リリアン王から二百年も経つとナルニアの空気も濁ってきて、(20世紀の執筆当時と同じく)“救世主の再来”と思われた獅子があとで「なんであんなに従順に恐ろしいことをしたのだろう」Tyrantだったりする。王と一角獣が殺人をしたのは良くなかったが劫初から植わっていた〈国の守りの木〉を伐ることは、国家反逆罪に当たる。引き返しで名乗り出たのは最悪だった。“保護者”たるべきルーンウィットはあっさり殺され、地球からの二人が事情がわからないのは同じ。
偽アスランは早くに正体がバレるが、
熱望するアスランは姿を見せない。
魔神は実在した。位相転換した世界で〈ナルニアの友〉はMentorとなり -
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ネタバレ以前からナルニア国物語シリーズに興味があり、時系列順で読み始める事にしました。映画は公開当時に鑑賞済み。
魔術師のおいは最初のお話ということで、本当に冒険に片足を踏み入れたばかりという感じの内容(あっさりと言えばあっさりだし、ナルニアへはなかなか行かず行っても短いですが、序章と考えれば)でしたが、(この先を知っているからこそかもしれないが)これからを思ってわくわくする感覚で読めました。ライオンと魔女に繋がるナルニアの経緯が分かるのも、余計にこの先を楽しみにさせてくれました。
時系列順で読むと流れはすんなりですが、ライオンと魔女を通ってから読む方がやはり楽しい気がします。
訳の言い回しが今風になっており自然で分かりやすく、注釈もすぐのページに書いてあり、とても読みやすい○
挿絵が個人的にはあまり...でしたので-1☆。思い入れがあって描いてくれたようですが、文章から感じ取れるものより想像力の欠けた挿絵に思えて、どうにも冷めてしまいました。やはり原作に添えられているものの方よく感じます。 -
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児童向けのダイジェスト版では何度か読んでいたが、今回、光文社古典新訳文庫で読んでみた。21章や27章などはとても子供向けとは思えない内容で、作者バーネットのメッセージを強く感じた。晩年の作品であり、色々な思いを込めたかったのだろう。
解説では、”コリンが、庭師ウェザースタッフや労働者階級の男の子ディコン、植民地生まれの女の子メアリを相手に「科学的発見」に関する「講義」をするというかたちでの<成長>をみせるさまは、この庭を大英帝国という文明化した国家の比喩としてみたて、その繁栄を言祝ぐ場と解釈することをも可能にする。” とあったが、そうした意図までもあったのだろうか…
私的には、ニグレクトされた子供たちのたくましい自然治癒の力、「親はなくとも子は育つ」ことを描いた物語として読みたい気持ちだ。
梨木香歩さんの『秘密の花園ノート』を読み返して、もう一度、『秘密の花園』の世界を楽しみたい。
解説に書かれたバーネットの生涯は、自分で勝手に想像していたものとはだいぶ違っていた。バーネットもサンテグジュペリもモンゴメリーやアリソン・アトリーも、みな作品の世界からは想像できないような苦悩多き人生を送っているのだなあ。 -
Posted by ブクログ
出版順ではなく年代順に出していくのは作者自身も望んでいるスタイルと、あとがきにあり、へえ、と。でも、『ライオンと魔女』を先に読んでいるからこそ、ああ、あの外灯ってそうなんだ! という感動が生まれるわけで。たんすもね。やっぱりオリジナルの順序のほうがおもしろいような。
訳は読みやすかった。少し淡泊な感じもして、語りの力はやっぱり瀬田訳かなと思うけど、そこらへんはもう好みでしかない。
しばらくぶりに(前は瀬田訳で)読んでみて、ナルニア国の創世のあたり、ほんとうに聖書とのパラレルがすごいなと感じた。一歩間違えば説教くさくなりそうだけど、詩的で美しく、聖書に似せながらも独自の世界になっているところが、あたりまえだけどすごい。そして、単純な感想だけど「ナルニア」「アスラン」っていう名前のひびき、いいよねえ。この名前を思いついただけでも勝利ですわ。 -
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読み始めたきっかけは特別覚えていないけど、読みながらディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」を思い出した。デイヴィッドの方は一人称の語りだったような気がするんだけど、もしかしたら違うかもしれない。こっちはハックの一人語りだけども。今と比べるといつの時代の昔も純粋だったし素直だったように見えるんだけど、やっぱりそれはそれでねじれてるしこんがらがっている。そんな時代に必死に明るく生きようとした少年の物語っていう、そういうのが僕は好きなのかもしれない。
時代は1830年ほどらしい。南北戦争前のアメリカ。直接的に間接的に、黒人奴隷の存在が物語の通奏低音になっている。しかしそれを良し悪しいう直接的な言説はない。ハックは白人でその時の見方で黒人を見下げてるし、黒人は黒人である意味での奴隷根性が染みついている。でもそれに染まりきっていない黒人もいて、それがハックの家のジムで、そのジムの逃亡を不可避的に助けながら冒険をするように話が進む。
大体こういう時代の話お決まりの、思い込みが激しいキャラの連発で、そんなキャラクターたちががやがやとやりながら話が進んでいく。結構悲惨な出来事も少なくないんだけど(親しくしていた人が死ぬなど)、そこに重力を与えない。
宗教的な道徳的な正しさを明るく信じているハックだが、不可避的に投げかけられる人間の生に対する問いかけに何度も立ち止まり、考え、時に答えを与えられ、時に悩むままでおわる。黒人奴隷のジムが自由州に到着しそうだと喜ぶ姿に良心がジクジクする。奴隷の逃亡は違法であるし、それを偶然にでも手伝ったのは紛れもなく自分であるし。それはただのコンプライアンスの問題ではなく、命に根差したハックの良心の問題として描かれている。
トウェインは物語以上の政治的、人格的なメッセージは一切ないし、それを読み取ろうとすることも望まない、と巻頭にわざわざ述べているが、それを読み取らずにおれようか、という感じである。下巻に続く
17.5.19 -
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「トム・ソーヤ―の冒険」。マーク・トウェイン。光文社古典新訳文庫。
読んだつもりで読んでなかった一冊。
序盤、お話が暢気すぎて?やや乗りきれませんでしたが、トムとハックが殺人を目撃する辺りから面白くなりました。
ただ、トムって何歳なんだろう?
7歳~9歳くらいか? いや、9歳~10歳くらい?
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アメリカ合衆国の、ミズーリ州という田舎を舞台に、少年が大活躍をする物語。
大活躍と言っても、幻摩と大戦したりリングに賭けたり新型モビルスーツに乗りこんだりする訳ではなくて。
塀にペンキを塗ったり、女子とおしゃべりしたり、プチ家出して川で泳いだりするレベルです。
本が出版されたのは1878年。本の中で、ちょっと昔の、今の大人が子どもだった頃、と言及しています。
なので、トムが活躍しているのは恐らく1840~50年代くらいか。南北戦争の前。
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南北戦争というのは1861-1865、4年くらいアメリカが2つに分かれて戦いました。
大まかは
北部工業重視派=黒人は奴隷としてよりも、労働者及び消費者として必要
vs.
南部農業重視派=特に綿栽培。とにかく大勢の労働者が必要なので、安価な黒人奴隷が奴隷として居てくれないと困る
という対立、戦争でした。北部が勝ちます。奴隷解放。リンカーン。
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トムが活躍するミズーリ州セントピーターズという場所は、恐らく南北戦争で、「ちょうど中間」に居たゾーンですね。
どっちつかずだったはずです。
なので、トム・ソーヤ―の世界観は、そのつもりでみると「大プランテーション農業地域」でも無さそう。
でも、都会とはとても言えない、小さな村というか街。
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トムは弟のシッドとふたりで、「ポリーおばさん」の家で暮らす小学生。
(どうやら、実の両親は早世したようだ。ポリーさんは父母どちらかの姉妹だったということなのでしょう)
トムはいたずら好きで落着きが無くて、遊ぶのが大好きで勉強と教会が大嫌い。機転がきいて大胆不敵、そして根は優しい男の子。
戦争ごっこ、呪術ごっこ、けんかや生き物いじりに毎日夢中だ。
他愛も無い日常を描くやと思いきや。
やはり、ハックリベリー・フィンがこの物語に奥行きを出します。
トムの親友のハックルベリー・フィン。どうやらそうとうどうしようもない父親がいるようで、そして母親はいないようだ。
ハックは「少年ホームレス」とでも言う存在で、小さな街のあちこちで寝て起きて、学校も行かず、自由気ままに暮らしている。
一種、トムたち少年世界ではヒーローな存在だ。
このハックとトムが、「なんとかの呪いを実験する」みたいな他愛も無い用件で、深夜の墓地に忍び込む。
そこで、殺人を目撃してしまう。
殺されたのは町の医師。殺したのはインジャン・ジョーという町のならず者。
※これつまり、混血か純潔が判りませんが、インディアン=ネイティブアメリカン(アメリカ原住民)の人なんですね。
ところが悪賢いジョーは、その罪を、泥酔していた別の男のせいにしてしまう。
泥酔者は、自分が殺してしまった。と思いこむ。
そのすべてを、トムとハックは目撃してしまった。
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そう、この物語は、
アルフレッド・ヒッチコックの「裏窓」(1954)
ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック~目撃者~」(1985)
ウーピー・ゴールドバーグ主演の「天使にラブソングを」(1992)
スーザン・サランドン主演の「依頼人」(1994)
クリント・イーストウッド主演の「目撃」(1997)
などなど枚挙に暇がない、
「殺人事件を目撃しちゃった人が、さあそれからどうなるどうなる物語」。
その原初と言うべきか。
※僕は特に、「ジョン・ブック」大好きです。
「殺人の目撃」、「アーミッシュ(キリスト教中心主義の集団)」、「シングルマザーの恋」。と、いう三題噺に挑んだような映画なんですが、極上の出来栄え。
ハリソン・フォードとケリー・マクギリスがガレージで踊る場面とか。
映画至上最高のサム・クックではないかと思います。
ハリソン・フォードさんは間違いなくベスト映画でしょう。(まあ「SWシリーズ」は別格として...)
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トムとハックは、「どうしよう」と恐怖におびえて暮らします。
だけど、とうとう無実の泥酔者が裁判で死刑になりそうになる。
トムはとうとう、裁判で目撃を証言してしまう。
衆目の中で、脱走するインジャン・ジョー。
さあ、それからは「ジョーが復讐に来るかも」とおびえる日々…。
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そんなことがありながら、少年トムの中では
「ジョーの復讐の恐怖」と同じくらい大きく、
「ロビン・フッドごっこ」や「バッタをつかまえる」とか「角砂糖を盗む」などの問題も常駐しています。
そして実は最大の課題は「転校してきたベッキーちゃんが可愛いから婚約したいぜ問題」です。
ちなみに「婚約」というのは、一緒に歩いたり、たまにチューしたりすることらしい、という認識です。
ところが「ベッキー問題」は、トムがついうっかり、元カノの名前を出したことからこじれて、難航します。
でも最後には、ベッキーが教師の大事な本を破ってしまい、その罪をかぶることによって、なんとか交際の間柄になります。
(これはつまり、「弱みに付け込んだ」という構造だと思うのですけれど。
19世紀から既に「恋愛物語の転機の作り方」というのは難しかったのですね。21世紀の今でも、同じような苦労をしたドラマが毎週いっぱい放送されていますね)
そして、些細なことからトムはハックともう一人の友達と「家出して海賊になる計画」を実行。
ところが、初日の夜からもう、ホームシックにかかる有り様がなんともラブリー。
数日で帰宅します。
そしてハックと盛り上がったのが「宝を掘り当てよう作戦」。
とりあえず適当にそこらで穴を掘ったら宝が出てくるんぢゃないだろうかという物凄く杜撰な作戦ですが。
そしてその遊びの最中に、変装したインジャン・ジョーを更に目撃してしまいます。
(ここ、見つかるんぢゃないかというスリラーが秀逸です)
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そして最後は、ベッキーと訪れた洞穴探検で迷子になって死にかける。
その途中で洞窟内でジョーを目撃する。
同時並行で、ハックはジョーの犯罪を未然に防ぐ大活躍。
そして、ジョーは偶然から洞窟内で餓死してしまいます。
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終盤。なんといってもいちばん面白いのが大団円部分。
ハックは大活躍の結果、優しい未亡人さんの家に養子として迎えられます。
つまり、ホームレスから奇跡の市民階級復帰なんですが、
きちんとした服を着て、靴をはいて、学校に行って、黒人とも遊べず、こぼさずにご飯を食べる…という暮らしが、ハックは苦痛で苦痛でたまらず、脱走...。
(物語上はトムの説得で戻るような雰囲気でなんとなく終わります)
やはり、ハックの存在感そのものが強烈なタブーへの一撃であり、物語世界をロックンロールなワクワク感に持ち上げていることが良く判りました。
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そして、続いて「ハックルベリー・フィンの冒険」を手に取ろう、という目論み。
かなり、読書の快楽です。 -
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うーん。くらもちふさこ。
ラブコメ...うん、ラブコメですね。悪くない。
なんですが、僕はくらもちふさこさんのマンガは、結構好きです。
そんなに読んでいませんが。「いつもポケットにショパン」「東京のカサノバ」「いろはにこんぺいとう」「A-Girl」「海の天辺」「千花ちゃんちはふつう」「百年の恋も覚めてしまう」…まあその辺りくらいです。
あとは「Kiss+πr2」はまあ、別格に佳作だと思いますし、「天然コケッコー」はもう、脱帽するしかない傑作ですね。「駅から5分」あたりも、もうその語り口のめくるめく有り様だけでも、豊饒な酒に目が眩むような味わい。だと思います。
...まあ、そんなにくらもちふさこさんを読んでいる訳ではないので、強くは言えませんが。
「あしながおじさん」。1912年にアメリカで発表された小説です。ジーン・ウェブスターさんという女性作家さん。
僕は光文社の古典新訳文庫で読みました。(古典新訳文庫であったから、読んだんですけれど)
解説がなかなか面白く、そこで言及されていましたが、1912年当時のアメリカというと、第一次世界大戦前夜なんですが、そこそこに資本主義経済、消費生活が充実してきていました。
小説を女性も購読して楽しむということも定着していました。
恐らく、生活の近代化、都市化から、都市で暮らす主婦層(の中の、それなりの富裕層)を中心に、女性参政権の運動なども出てきていたんですね。
そこで、くらもちふさこじゃないですけれど、女性向けの娯楽としての小説、というものが勃興。
「あしながおじさん」だけではなく、「孤児の女の子がかわいそうだけどガンバル物語」というのが、既に「売れ線」だったそうです。
ちなみに、日本で言うと夏目漱石さんが「彼岸過迄」とか「行人」を朝日新聞に連載していたころですね。
(日本も、1904年日露戦争、1910年韓国併合。アジアで唯一帝国主義の勝ち組に入って、無理していたなりに都会の市民生活は消費膨張していたころですね)。
孤児院出身のジュディは、顔も名前もしらない「あしながおじさん」からのお金で、大学に進んで陽の当たる人生を迎える。
そして、ジャービスという、富裕層の知的で進歩的な青年と恋に落ちる。
まあ、というお話なんです。皆まで書くのは野暮なんで以下省略。
これが、全編、「あしながおじさんに向けてジュディが書く手紙」という形式になっています。
一人称小説っていう形式ですね。
シンデレラストーリー、と言ってしまえばそれまでよ、なんですが。
ジュディが決して文部省特選なタイプの良い子ではない、というのがまあ、魅力ですね。(「文部省特選」という文句が既に昭和な香りですね)
それも、ちょいとワルだったり、ということではなくて。
孤児院出身という背景の中で、「哀れまれる不愉快さ」「慈善という行為が必然的に含む偽善」「孤児院という施設の特徴自体の不愉快さ」などなどを、炙り出しているところが面白い。
(たまたま最近、松本大洋さんの孤児院モノ漫画、「SUNNY」を読んだので、なおの事。)
そこの温度というか角度っていうのは、実は極めて、時代を超えて説得力のあるものでした。
そして、まあ、「何を語っているか」ということよりも、「どう語っているか」というトコロの魅力が大きいですね。
このお話を普通に三人称で描かれても、恐らくドッチラケ。
一人称という、語り手の心理に寄り添う形。言ってみれば主人公の顔のアップで押していく話法。
結局、恋愛物語っていうのはそういう手法が相性が良いのかも知れませんね。
ただまあ、十代の男性のブンガク青年とかが読んでも、鼻でふんって感じでしょうね(笑)。
でもねえ、映画で言えば、北野武もヨーロッパの名作も良いですが、「男はつらいよ」だって傑作なんですよねえ。
そういうことで言って、けっこうわくわくして楽しい読書。薄いのも魅力ですね。
しかし、くらもちふさこさんの、物語を描く人としての語り口の超絶的な上手さ。
絵の好き嫌いは人によりますが、とにかくマンガという形式の中で、素敵に自由で奔放で。そして、直截ではなく、間接的なぶんだけ味わい深い。そういう語り口。そういう意味で言うと、とってもお洒落。
これは本当に、すごいなあ、と思います。多くのその後のマンガに影響を与えている気がします。
くらもちふさこさん研究会については、また別途。 -
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3つのタイプの集中力、自己への集中、他者への集中、外界への集中。テクノロジーが人間注意を奪って、人関関係を断ち切ってしまう。目の前のせ起っている事に関心が向かない。
脳のトップダウンシステム能動的、ボトムアップシステム受動的。情動をトップダウンで制御することは可能。マインドワンダリングの効用。じっくり自由に考えをめぐらす時間の確保が何より重要。
脳のおしゃべり止めるための瞑想。注意が疲労した時は休息とること。自然ぼ中に身を置くこと。
自己認識は極めて重要な集中であり、人生の指針となる内なるこえにみみを傾けること。
マインドフルネスとリーダーシップ。 -
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●読むキッカケ
・ポモドーロとかをやっていて、まさしく集中力は成果を出すことに対して、
大きなファクターであると考えたため。
・ダニエル・ゴールマンが著者だったので、気になったため。
●サマリー
●ネクストアクション
●メモ
・集中の対象として、①自己②他者③全体性(システムや仕組み)の3つがある。
良きリーダーには、3つが高い次元で備わっている必要がある。
・面白い仕事をするには、フロー状態に入れば良い。
フロー状態に入るためにも、集中力は必要である。
・脳にはトップダウン的(新皮質)な回路と、ボトムアップ的(皮質下)な回路の、大きく2種類がある。
前者は理性的であるがスピードが遅く、疲弊をもたらす。
後者は、自動で瞬時、低コストで動く。
また、最初トップダウン的に行ってきた要素は、慣れてくるに従ってボトムアップ的要素に移っていく。
・うわの空(マインドマンダリング)には、未解決の課題や個人的な関心事などに向けられ、
創造性をもたらす行為である。
→熟成のイメージ。
・このうわの空が最大化されるのは、
明確な目標が存在し、そこに至るプロセスが自由であって、充分な時間が与えられている状況
・心の疲労を回復するには、トップダウンからボトムアップまかせの状態になることである。
その手段として、自然の中に身を置くことや、とはいえトップダウン的な行為に支配されないように、
適度な集中がもたらされる行為に没頭すると良い。
(集中しつつも受動的。そんなに思考しない作業とかが良いのだと見た)
・何かを成すには、価値観に基づいた強烈な意思決定が必要である。
その価値観に合致しているかどうかを判断する感覚は、
最初内蔵レベルで把握されて、その後大脳新皮質の領域に保存されるらしい。
いずれにしても、要は感覚を察知する自己認識能力が、極めて重要だということ。
・自制を発揮して誘惑に打ち勝つには、
①欲望の対象から目をそらし
②別の対象にフォーカスし、
③未来に目を向ける
という3つの筋力の掛け合わせによって成り立つ。
・同上は共感の上に成り立つ。
共感は、相手への集中的観察により成り立つ。
・データと意思決定について。
結局どれだけデータを集めようとも、最終的に良い意思決定が出来なければ意味が無い。
本質的を見出し、残りの不要な物を削ぎ落とす。
結晶性知能ともいうし、叡智ともいう。
・否定的な事象に集中すると、苦痛その物に目が向いてしまう。
そうではなく、自体を肯定的に見るようにすると良い。
・向上を目指す場合は、意識的な練習が必要。
その際は、トップダウンの集中が必要になる。
そして、最終的にはボトムアップに移行する。
・人はポジティブになると、注意の範囲が広がり、私から私達というマインドに移行しやすい。
・一方で、ポジティブとネガティブのバランスも重要で、
3:1がベターらしい。
・直感を生み出す重要な情報はボトムアップ回路に蓄積されていて、
トップダウン的な思考でそこにアクセスすることは出来ない。
・注意とEQは近しい。
それは、脳的に情動と注意の区分は曖昧だそうだ。
・集団が知性を発揮するには、マインドフルプレゼンスと安心感が必要。
前者は、現状を認識し、それを掘り下げようと言う、知的好奇心的なもの。
そして、否定的な感情も突き詰めれば最後には成果をもたらすと信じ、
否定的な感情を明らかにする思考をするようにすると良い。