北方謙三のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
前の巻で、若さ故に裏切り者が出た、と書いた。申し訳ない。私の浅はかさだった。志で結びついた若者たちは、そう簡単に全てを裏切らない。李英は梁山泊の一員として立派な最期を遂げる。
最終巻近くになって、やっぱり、まさか、という感じで英雄たちが死んで行く。新しい時代を理解出来なかった古いタイプの革命家の戴宗は成る程という形で死んでいった。いい死に方だったと思う。
楊令は言う。
「なんのために戦をするか。それはもう、梁山泊を守るため、ということではなくなっている。新しく、現れてくるものを守る。新しいものを、ただの夢で終わらせない。そのために戦をする。俺は、そう思っている。新しく現れてくるものが、どんな姿をしているのか、俺はまだ言葉で言うだけだ。実際に現れてきたら、それは俺たちを押し潰すようなものなのかもしれん。しかし、俺はそれを見たい。梁山湖の湖寨に拠って、宋とのいつ終るともしれぬ闘いを始め、死んでいった梁山泊の先人たちは、みんなそこに光を見ていたのではないか。おぼろだが、「替天行道」の導く光を。志の導く光を」
全員が楊令を見つめている。楊令は低く「替天行道」を暗誦した。途中から眼を閉じた。湖寨にあった聚義庁の、燃える炎が見えた。背後の岩山で、ひとりで待っていた宋江の、静かな眼が見えた。心の中の、黒々としたものに光を当てよ、と言った宋江の声が聞こえた。(282p)
楊令の国は共和制になっただけではなかった。梁山泊を越えて燎原の火の様に「自由市場」が広がる。膨大な物資を動かして、その利鞘だけで運営する国。それは現代でさえもまだ実現していない、究極の資本主義社会である。楊令初め、この時代の登場人物たちがその正体を見極め、コントロール出来るはずがなかった。金や宋はこれを畏れ、梁山泊は守ろうとする。そうやって、最後の闘いの機は熟していこうとしていた。
国とは何か。革命とは何か。
大きな問が立ち上がろうとしていた。ここまで来てまだ混沌としている。果たしてどの様に決着が着くのか。あと一巻しか無いのである。 -
Posted by ブクログ
北方謙三の少年モノである。どうして女が描く少年は小学5年から中学2年までの大人一歩手前になって、男の描く少年は大人になるまでを描くのだろうか。
眠れなかった。躰の芯の方に痛みがある。佐野とやり合った時より、ずっとひどいようだ。一発一発のパンチがずしりと肚にこたえた。
やるだけはやった。久我とやりあって、勝てるはずも無いことは、頭のどこかでわかっていた。だからやめる。そうしなくてよかった、と周一は思った。最初からやめていれば、闘う前に負け犬だ。やりあって負けはしたが、それは第一ラウンドの負けのようなものだ。
寝返りを打とうとしたが、背中あたりがひどく痛んだ。顔も腫れているので、横にはむけられない。仰向けでじっとしているのが、一番いいようだった。
くやしくはなかった。やるだけやって負けたのなら、くやしくもなんともないことが、はじめてわかった。久我というのは、強い男だ。それを認めるような気持ちはある。(148p)
1986年「小説現代」初出。古いタイプの男たちが出てくる。最後は高倉健の様な男が怒りを爆発させる。雪は降らない。藤純子の代わりに、周一がそれを見守り、大人の世界に入る宣言をする。負けても負けても強くなる。それは、やがて岳飛の姿にも繋がっていくだろう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ前作からずっと追い続けてきた人物の物語が終った。
『水滸伝』はまさに叛逆と破壊の物語であり、志のもとに集った並みいる英雄たちが、強大な権力に挑み、壮絶な戦いを繰り広げていた。克明に描かれる漢たちの強さ、弱さ、絆、愛、怒りと悲しみに幾度も胸を熱くさせ、また熾烈な策謀や戦闘のシーンでは、敵味方問わず夢中になった。
前作に対し、『楊令伝』はその緊迫感や爽快感をやや欠いた。
四散していた梁山泊の同志たちが、北の大地に消えた楊令を見つけ出し、新たな頭領を得るところから、宗教という要素を持ち出し、人間存在や戦とは何かを徹底的に追求した方臘戦、それを乗り越え究極の戦人となった童貫将軍との最終決戦まで、すなわち本作の前半部分は、いわば単純に『水滸伝』の「続き」であり、闘争の精神が息づき、全てが戦を中心にまわっていた。
しかしひとたび梁山泊が「国」となってからは、帝を持たぬ新たな国の姿として、民からの搾取ではなく交易による富で国を豊かにするための奮闘に、物語の力点が置かれる。梁山泊、金、斉、南宋と、複数の国家が並び立つも、いずれも体制が不安定であるがゆえに、戦も謀略も複雑な駆け引きを必要とし、緻密で緊張感はあるが地味で勢いが削がれた印象がある。破壊のあとの創造、国作りの物語を極めて現実的に描いているのだから、仕方の無いことではあるが。
登場人物の価値観もますます多様化し、前作で重視された「志」を真の意味で抱き続けた(つまりただ「志」を持つのではなく考え抜き深化させ実行に移した)のは、楊令ただひとりであった。これは意図的な演出で、楊令は最後までリーダーの孤独を一身に背負っていた。彼の苦悩をみるのは、彼を愛する多くの読者にとっても辛かったのではないか。また人物も増え、それぞれが個々の思惑で動くため、魅力が出るキャラもいる一方で、印象の薄いままあっけなく消えてしまう者もいて、不完全燃焼な部分もいくらかあった。
ただ、この作品で何より印象的だったのは、「誰しもがそれぞれの戦場を持っている」ということである。前線に立ち敵を倒すことだけが戦ではない。商人が物を仕入れ運び売ることも、馬飼が馬を育て鍛えることも、飛脚が情報網を巡らせ文を届けることも、役人が法を整え政を行うことも、それに本気で立ち向かう者にとっては全ての営みが戦なのだ。
私が『三国志』や『水滸伝』、あるいは60年代の学生運動の雰囲気などに惹かれるのは、理不尽な権力に対する反抗、新しい国家体制の夢想というテーマとともに、何よりも見果てぬ夢のため命がけで戦う、ということに強い憧れを持っているからである。戦争は人を傷つけ命を奪う行為であるという事実からは逃れられないが、私の心の奥にはそういう理性を超えて、ただ思うさま暴れてみたいという荒々しい欲求が眠っているのだ。決して満たされることはないだろうと思っていたが、この作品を読んで、何も剣を手に取る必要はないのだとわかった。私には私の武器があり、戦場がある。望む戦場に立つことが許されるかどうかも実力のうちであるし、出陣するなり討ち取られたりせぬよう、鍛錬を積まねばなるまい。
さて、物語は『岳飛伝』へと引き継がれる。正直なところ、岳飛は頑固でイジイジしたところがあって、迷う余裕も無かったがゆえに決断力に溢れていた(そうならざるを得なかった)楊令に比べると、少し苦手である。しかし岳飛は、超人的であった楊令よりもさらに民に近い存在として、人間の営みの混沌のなかで、国の姿を考え続けている。それゆえに、真の意味での「民主」の姿が描かれるのではないかと、期待している。