円城塔のレビュー一覧
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『人生の目的は、愛すべき人を愛すること。自分の人生をコントロール出来ていないと感じていてもだ。』
『素晴らしき地球ーーどうにかすることできたはずだ。でも僕らはケチで怠け者だった。』
地球の部分を自分の生命と置き換えて考えてしまいました。
自分に対してケチで怠け者な態度はいけないですね。
どうにか出来る時間はまだあるはずです。
さてこのこの本はカート・ヴォネガットのスピーチの記録です。
大学の卒業式や講演会などですね。何の気なしに読んだんですが、
ラスト131ページの言葉読んで涙腺崩壊!!!
糸井重里さんのコピーに同感。
『ヴォネガットは目とこころにしみる。』
目にしみすぎちゃて、しみすぎちゃって、まいります。
ラスト1ページだけでも -
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書評的な宇宙で無批判に暮らすっていうこと
チャールズ・ユーなんて知らない。これが処女長編というから、知らなくても当然だが、円城塔が初の長編翻訳していて、この珍妙なタイトル。これは買い。
しかも時間SFである。私は時間ものが大好きであることを公言してはばからない者だが、サグラダ・ファミリアの真ん中でも公言するし、陸前高田市の奇跡の一本松の根元でも公言する。するだろう、するに違いない、したかも知れないが、しているところである。
主人公チャールズ・ユーはタイムマシン修理屋。タイムマシンものをかなり読んできたがこういう職業ははじめてだ。しかも流しの修理屋。狭い四畳半アパートみたいなタイムマシンに乗って時間と時間の狭間の時間では無いところでひきこもっていて、修理の要請があると出向いていく。とてもとても後ろ向きな主人公である。
そして本書は家族小説である。家族小説ってなんだかよくわからないが、本書の場合は主人公ユーが父のこと、母のことについての繰り言を延々と続ける作品である。両親はあまりいい関係ではなかった。互いに互いをわかってやれなかった。技術者の父は自宅ガレージでタイムマシンを作ろうとしており、「ぼく」もそれを手伝っていたが、タイムマシン発明者という名声を博す寸前で失敗し、父はタイムマシンのような何かを作って姿を消してしまった。「ぼく」はタイムマシンにひきこもりながら、父を見つけ出したいと思っている。
タイムマシンの駆動原理は相当に人を食ったもので、フィクショナル・サイエンスによって駆動し、サイエンス・フィクション的な宇宙を航行するのである。とはいえ、自分自身に出会うのはタイム・パラドックスを引き起こすので避けねばならない。しかし「ぼく」は未来の自分に出会ってあわを食って、自分を撃ってしまうのだ。タイムマシンにひきこもっていた「ぼく」は、タイム・パラドックスのループに囚われてしまう。そこで未来の自分からこの窮地を抜け出すために告げられたのが、本の中に解答があるということだ。その本とは『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』というユー自身が書いている本なのである。
かくて、本書はひきこもり小説である。うまくいけばひきこもり脱出小説になる。なるだろう、なるに違いない、なったかも知れないが、なっているところである。 -
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わかるとかわからないとか問題にするならば、まずはわかるということを明確に定義し、わかるということがよくわかるようにしなければならないということがわかるのである。
円城塔の書評ならば、まずはこんな感じで始めればいいんじゃないか。
お風呂掃除をしながら、猫はそう考える。
そして「おふろそうじ」は「さむらごうち」と似ている、と思う。
思えば、かの「おふろそうじ」氏も、「わからない」現代音楽を否定して、「わかる」語法で長大な交響曲というモニュメントを打ち立てたかったのではないか。そこにナルシシスティックな自己宣伝が混じっていたから人々の反発をかきたてているのだが、「わかる」ものを作り出したいという、純粋といっていい目論見も一方ではあったのではないか。他方、「わからない」現代音楽を書いていたゴーストライター氏の作品は例えばYouTubeで試聴できるが、パフォーマンス性が高く、脈絡なく訳わからないものだが、会場の笑いをとっているほど「おもしろい」。
わからないとおもしろくないという誤解が巷に蔓延している。おそらく「わかる」と「おもしろい」は排他的でもなければ、連動もしていない。「わかる」はずの「おふろそうじ」交響曲も多くの人がわかったのかといえばそうではなく、人々がわかったのは、悲劇の作曲家がすげー曲を作ったという「わかりやすい」お話だったのである。そしてそういう「わかりやすいお話」というのはトリヴィアル以外の何ものでもないではないか。
「ばななむき」は「さなだむし」に似ている。
夢の中でトイレ掃除をしながら、あなたはそう考える。そしてサナダ虫には最適の場所のことを考えてちょっとうんざりする。 -
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たとえば、『ダ・ヴィンチ・コード』は息もつかさぬ展開で、一気に読まされたにもかかわらず、読後、もの凄く不満が残った。その含蓄の浅さはさておいても、小説でなければならない必然性がないのだ。アクションの連鎖なら映画のほうが効果的ではないか。
本書『Self-Reference ENGINE』は小説であらねばならない手応えを感じさせてくれる。それでいて至って軽く不真面目な語り口。しかも語り得ぬことを、ヴィトゲンシュタインのように沈黙せずに、とにかく、何とか語ってしまったのだ。
もちろん映画にはできないだろう。20の短編にプロローグとエピローグのついた22の断章(文庫化に際し、2編増えた)。それぞれの短編はまあ、映画にできるかも知れない。死んだ祖母の家を取り壊したら、床下から22体のフロイトが出てきて、親族が困って会話を交わす。十分映像化はできる。シュールな短編映画。
しかし22の断章が醸し出すヴィジョンは映像化できまい。『虐殺器官』の帯に、宮部みゆきの「私には三回生まれ変わってもこんなのは書けない」という讃辞が載っていたが、可能性の問題としてならば、才能に恵まれ、修練を積めば『虐殺器官』の執筆は手の届く地平にあると思うのに、『Self-Reference ENGINE』は宇宙が三回生まれ変わっても書けそうにないという気がする。
何かが起こった。それをイベントと呼ぶ。そのイベントとは時空構造が壊れてしまったことらしい。時間が順序よく流れなくなってしまった。その原因は人工知能が進化して自然と一体化して巨大知性体となった、その知性体が関係しているらしい。巨大知性体たちは時空構造を元に戻そうとたがいに演算戦を繰り広げている。
何だか解らない? ジグソウの最後のひとつまでかっちりと嵌って「解った」とならないと気が済まない向きにはほとんどストレスフルな小説だろう。だいたい時間の前後関係が成り立たなくなった世界など記述可能ではないし、われわれの脳では理解できるはずもないのだ。自然と一体化した巨大知性体というのは、結局のところ世界がコンピュータ上のシュミレーションと化したといっているのではないだろうか。その巨大知性体同士の演算戦とは世界の書き直し合いということだろうか。
作者はそんな風に安易に説明してくれず、鯰の像が消えたとか、靴下が生きているとか、奇天烈な断章を語るのだ。でもどこかでジグソウのピースがかちっと嵌っているらしいというあたりが知的興奮をかき立てるのだ。 -
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名所旧跡というものがある。人の口に上るので、自分では特に行ってみたいと思っていなくても、一度くらいは行っておいたほうがよいのではと思ってしまう、そんなようなところだ。古典というのもそれに似たところがあるのかもしれない。学校の歴史の授業で名前だけは聞いていても、『雨月物語』はともかく、色恋や女郎買いを主題とした『好色一代男』や『春色梅児誉美』などは、文章の一部すら目にしたことがない。ましてや山東京伝の名前は知っていても廓通いのガイドブックである『通言総籬』などは作品名さえ教科書や参考書には出てこない。しかし、出てこないから、大事ではないということではない。
「色好み」というのは、日本の文化・伝統というものを考えたとき、まず最初に指を折るべきところ。何しろ『古事記』の国生みからして、その話から始まるのだし、世界に名立たる『源氏物語』は全篇「色好み」の主題で貫かれている。というわけで、十七世紀から十九世紀にかけての日本文学を代表する作品として選ばれているのは、浮世草子、読本、洒落本、人情本というまあ、今でいうエンターテインメントばっかし。面白くないはずがない。そうはいっても、怖いもの見たさで現代語訳を読んでみた『雨月物語』を別として、あとの三作は原文はおろか訳文すら目を通したことがない、という体たらく。
それもそうだ。『平家物語』の書き出しのように人口に膾炙しているわけでなし、『源氏物語』のように、何度も映画化されていて、原作を読まずともある程度のストーリーに通じているといったキャッチーなところが少ないのだから。まあ、世之介という主人公はけっこう有名で市川雷蔵主演の映画でそのキャラクターも知ってはいたが。『源氏物語』五十四帖をパロディにした、こんな愉快な物語だったとは、現代語訳を読むまではとんと知らなかった。
これは、江戸時代前期の日本各地を舞台にした一種のピカレスクロマンではないか。女だけではなく若衆、つまり男も相手にした好きものの男の一代記。日本が諸外国と比べ、性に対してあけすけなのは知っていたが、これほどまでとは知らなんだ。ところかまわず、相手かまわずことに及び、子どもが生まれたら捨て子にし、どれほど一生懸命に口説いた相手でも、時がたてば別の場所、別の女にいれあげる。この世之介という男、とんでもない男である。その一方で、女にまことを尽くし、どこまでも連れ添おうとする律儀なところもある。価値観というものがそんじょそこらの男とはちがっているのだ。
長い戦国時代が終わり、徳川の世になったことで天下泰平の時代の空気のようなものがそうさせるのか、「金もいらなきゃ名誉もいらぬ、わたしゃも少し背が欲しい」というギャグがあったが、世之介が欲するのはただただ色事に尽きる。歌枕を訪ねるように女を求め日本各地を漂泊する前半も読ませるが、親の遺産を蕩尽しようとして果たせぬ後半のアナーキーさがニヒリズムさえ漂わせ凄みをみせるのが、「好色丸」と名付けた船で女護ヶ島目指して旅に出る最後の場面だろう。バイトやヘルプという俗語も自然になじむ島田雅彦の現代語訳は読みやすい。各巻七章で八巻のみ五章の構成。短い章立てがテンポよく、飽きさせない。
中国白話小説を翻案し、日本を舞台にした怪談集の体裁をとる『雨月物語』は、円城塔訳。儒仏道の薀蓄を散りばめた上田秋成の原文を格調を失わない現代文によく移し変えている。「白峰」にはじまる怪異を描いて鬼気迫る迫力を見せるが、軟文学でないという点で他の三作に比べると異色。
いとうせいこう訳による『通言総籬』は訳者も言うように田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を髣髴させる当世カタログ風の出来。通人が当時流行っていた遊郭にあがって太夫を呼んで騒ぐ午後から夜明けまでの一部始終を、当時最先端の風俗をこれでもか、というように次々と繰り出してみせる、山東京伝の才気走った一篇。見開きページの右に本編、左に脚注を配した「なんクリ」ならぬ「ツーまが」。いちいち脚注に当たるのは面倒という向きは、本編だけでも読める程度に噛み砕いてくれているので安心。しかし、脚注で事細かに語られている当時の風俗、流行が何より興味深い。ちらちらと目をさまよわせて読むのも一興。
島本理生訳の為永春水は、かなり原作を改変しているようだ。といっても話の内容をではない。語りを、三人称ではなく主要な登場人物の一人称の語りにした点である。そうすることで、視点人物の感情が読者と共有され、まだるっこしいような男女間の情愛や、女同士の義理立て、意地の張り合いが、一気に分かりやすくなった。人情本本来の情調とは若干異なるのかもしれないが、時代小説のノリで読めるのはありがたい。多分、原文だったら最後まで読み通す気にならなかったと思う。
読まないでいてもいっこうに困らない、という点で名所旧跡にも似た四篇だが、まあ、一度読んでみても損はない。それどころか、日本文化が本来持っていた軟らかさ、なまめかしさ、艶っぽさ、仇、粋、といったあれこれが目の前に立ち現れてくるのがなんとも心地よい。極上の酒を、気の利いた肴をあてに口にしているようで、いやあ極楽、極楽。武張った今の世の中が、いかに日本を忘れてしまっているかを思い出させてくれる警世の書というべきか。 -
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祝文庫化!
久しぶりに美しくて、知的で、楽しい読書の時間を持てたと思った。
こちらに納められているものは中編が2つ。『道化師の蝶』と『松ノ枝の記』どちらも書くという行為の意味を問いかける内容だ。特に『松ノ枝の記』はある小説を翻訳してみるという行為から始まる物語の冒頭が秀逸である。
小説を読む為に語学を学んでいる私にはとても面白い展開であったし、物語が段々と入り組んでいく模様が読んでいてわくわくした。物語は物語をかたり、新たな物語を作り上げる。
まさに彼はこれからの日本文学を背負う人物になるであろうと私は思う。
蛇足ではあるが、どうも彼が芥川賞を受賞した時は同時受賞の田中氏の貰ってやる宣言ばかりが取りざたされて、作品そのものへ目が行っていなかったようで(苦笑)
昨今のこうして出版界のイベント化傾向は本を売るための戦略ではあるのだろうが、本を愛する読書家としてはとても不愉快なものだ。 -
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『すなわち、原理的には万能タイムマシンを構成するにはこれしか要らない。(i)記録媒体の中で、前方と後方、二方向に動かすことのできる紙切れ。(ii)そいつが、叙述と、過去形の直接的な適用という二つの基本操作を果たせばよい』
この小説は納め所の難しい小説だ。特に前半と後半の印象ががらりと変わる。ただ解説にあるようなSF か家族小説かというような二者択一を迫られているとは思わない。この小説はあくまでもSF であると思う。ただ、SFとしての印象の落とし処が見えにくいという気がしてならないのだ。
単純化を恐れず言えば、SFの楽しみは想像力の喚起、ということに尽きるのではないかと思う。しかもそれは一見途方もない嘘のようでいて言葉の一つひとつには科学的に証明された概念が用いられ、それらを組み合わせて行けばその途方もない嘘が実現しそうな気になるのが醍醐味ではないか。例えば最初の引用は知らない人にとっては、物語の中での意味を見出だしかねる文章かも知れないと思うけれど、これはロジャー・ペンローズが展開した万能チューリング・マシンのことを下敷きにしていると気付けば(奇しくもどちらも略号はUTM)、不可能性は可算的に証明できないということに繋がる話だなと頭の中で思考がぐるりと回転して物語の次元を拡張する。一つのエピソードの背景に別のエピソードがきちんと流れているように感じられる。それがSFの楽しみの王道ではないかと思う。前半にはそんないわゆるSF好きを刺激する言葉使いが多用されていると思う。
『失敗は容易に測定できる。失敗は出来事だ。無意味さは測定し難い。非出来事なのだ』
それが後半になると急に哲学的な言い回しが多くなる。それはそれで物語に深みを与えるとは思うけれど、思考が哲学的になる時、物事の因果関係は必ずしも明瞭になるとは限らない。つまり、物語の筋はもつれて(tangled)くる。一つの思考を俯瞰したメタ思考があるかと思えば、更にその思考を俯瞰したメタ思考があり、その連鎖は永遠に続くように思われる。その永遠に続く連鎖を俯瞰した思考、例えばε-δ理論のような思考も考え得るけれど、人は無限を取り扱う術を完全に心得ている訳ではなく、そこに容易に不完全性が忍び込む。
その混沌とした世界を叙述することがひょっとしたらこのSFの真の狙いなのかとは思いつつ、指輪物語が終わった後にホビットの冒険があったといわんばかりの短いエピローグが添えられているのを読むと、それならばもっときちんと閉じて完成した世界を描いて欲しいとも思うのである。究極的には量子力学的世界観を受け入れることが出来るか、それとも古典物理学的世界観に留まるのかが問われているのだろう。しかし、SFを読むときにそこまでの覚悟をして読むことは稀であるに違いない。まあ、円城塔の翻訳ならそこまでの覚悟が必要なのかも知れないけれどね。 -
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ネタバレ【オブ・ザ・ベースボール】
なんだかこの話は終盤物哀しい。
人が降ってくる町では、バットでそれを打ち返すという勤めを果たした人は未だいなかった。
それを成し遂げた初めての人である主人公に、なぜか役場も酒場の友人も温かみがない。
主人公は退職させられ、町を出ていく。落下した老人の所有していた手帳と写真を持って。
その写真は主人公に似ている。主人公が人生の先、老人となる途中のようなの顔。
そして手帳についてはこう述べられている。
「ノートに何が書かれているかなんてことは確認するまでもなく、書き上げてもいないのに勝手に描き上げられた俺のノートに決まっている。手間が省けたと喜ぶべきなのか今の俺には判断がつかない。落下して拾われて、また落下することを強要されているのだろうこのノートは、俺が書き写さない限りは、いつかぼろぼろになって消え果ててしまうだろう。 ( 91p)」
所有していたのは落下した老人出会ったにもかかわらず、主人公は「俺のノート」と言っている。しかも「書き上げてもいないのに勝手に描き上げられた」とも述べている。
ということは、写真は主人公がこれから中年期になったときの姿。手帳の勝手に描き上げられた部分は、主人公が町を出た後に書き上げる部分。つまり、この落下した老人は主人公の未来の姿であり、この主人公は自分で未来の自分を打ち返したのだ。
そして、落下した老人が主人公の将来の姿であることはこの記述にも暗示されている。
「 墜落が俺の身にふりかかるその瞬間を迎えても、(98p)」
「 努力次第によって俺は墜落の運命を避けられるかもしれないが、俺の直感はその見込みを否定している。 99p)」
いつか自分が年老いて、空から落下し、若かりし頃の自分に打ち返され、しかしそれはファウルとなり、臨終を迎える。それを予見しながら主人公は町を出る。
そして、いつか自分が年老いて、空から落下し、若かりし頃の自分に打ち返され、しかしそれはファウルとなり、臨終を迎えるまでの人生を、手帳に記しながら生きるのだ。
もしやこれは、物理学の研究室を去るときの円城塔氏本人の心情だろうか。
この話は終盤物哀しいので、一瞬その考えがよぎってしまった。
しかし、そうであっても、なくても、この物語に心惹かれることは言うまでもない。
「オールライト。カモン」
【つぎの著者につづく】
単純ではない。起承転結は様々な引用に埋め尽くされ、装飾され、どこが本筋なのか翻弄されてしまう。
それでも、R氏についての資料を求める主人公よろしく次々と現れる引用と引用の重なりあいをくぐり抜けていくうちに、円城氏の博識ぶりが作り出す世界の虜になる。
「わかりにくい」のなにが悪い。
これくらいゆすぶりをかけてくれる作品があってもいいじゃないか。
円城塔作品が分からなくて、分からないままのほうが楽しい人は、ここから先は読まないほうがいいかもしれません。
といっても、私の解釈はおもいっきり間違っているかもしれないので、ネタバレになったところでどうってこと無いかも知れませんが。
結論から行くと、私なりの解釈は以下のとおりです。
古書店の店主こそがR氏である。あるいは店主はR氏について知っている。
主人公は知らずしてR氏から「次の著者」として選ばれていて、故に、その文章は意図せずしてR氏と非常に似たものとなる。
そして主人公はそれを知らされるべく、R氏との類似性を指摘した雑誌の記事や、プラハの古書店に引き寄せられる。
主人公が全てを悟ったとき、役割を終えたR氏の魂はついに迷妄の淵へ転落する、つまり生涯を終える。もしくは、すでにR氏は死亡しているが、主人公がすべてを悟ったことでR氏への探求は終わる。
●R氏と古書店の店主が同一人物である、あるいは店主はR氏について知っていると考えられる理由
1)グスタフ・フォン・アッシェンバッハは小説「ヴェネツィアに死す」では文人(作家)であったが、映画化の際は作曲家とされている。しかし、職業の設定が違うだけで同じ人物が描かれている。「つぎの著者につづく」(以下本書とする)のなかで文人としてのグスタフ・フォン・アッシェンバッハと作曲としてのグスタフ・フォン・アッシェンバッハに言及することで、R氏と古書店の店主が同一人物であること、又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
2)「リチャード・ジェイムスの名は、と崩れかけた店主の輪郭をなす本の山は囁きかけて、これもまたもう一人のフォン・アッシェンバッハと同じく、作曲家の名前でもあるのだと、床に落ちてページを開いたもう一人のR氏の伝記の反響が告げる。」(175p)
ここでも、フォン・アッシェンバッハが原作では文人(作家)、映画では作曲家として書かれているのと同じように、リチャード・ジェイムス(R氏)は作家であり、古書店の店主であることを暗示している。又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
さらに、「崩れかけた店主の輪郭をなす本の山」と「床に落ちてページを開いたもう一人のR氏の伝記」の二つがリチャード・ジェイムス(R氏)について言及していることは、リチャード・ジェイムス(R氏)が作家であり、古書店の店主であること、又は店主はR氏について知っていることを暗示していないか。
3)「今や店主の輪郭はジュゼッペ・アルチンボルドの描く司書の姿に倣った、R氏の生涯を記した本の山へと置き換えられたように映っており(167p)」
店主がR氏の生涯を記した本の山に置き換えられるとは、店主=R氏を暗示しているかのように思える。
また、店主がR氏の司書であるかのように、R氏の生涯について書いた本を所有している、もしくは内容や所在を知っている。とも解釈できるかもしれない。
●主人公はR氏から「次の著者」として選ばれていると考えられる理由
1)古代エジプトで、言語の発生についての実験のために人から隔離された二人の嬰児が同じ言葉を発した事に関する言及は、R氏についての探求と古書店の店主の依頼が一人の主人公につながる、つまり主人公がR氏の後継者とされていたことを暗示していないか。
2)175p「偶然的に二つの口から発せられたまったく同じ一つの単語が次の言葉を指定して、並び置かれた二つの単語は合議の末に、次の単語を指定していく。」
この「二つの口」がR氏と古書店の店主であり、「まったく同じ一つの単語が次の言葉を指定して」とは、つまりそれぞれに主人公を指定していた、との意味ではないか。
ただ、「一つの単語が次を生み出し二つを定め、三つ四つと続く過程を眺め続けて、最初と最後を繋いだ一本道があらかじめそこに存在して私を待ち構えていたと考えるのは間違っている。 」とあるので、この部分を考えると、二つの考えが浮かぶ。1.主人公はR氏の選んだ後継者ではない 2.主人公はR氏の選んだ後継者ではあるが、直接に主人公につながるのではなく他の著者を経由しているのではないか。
さらに、「鞍を乗り継ぐ二つの本は右と左へ別れて落ちて、それぞれにまた選択を繰り返しては、果てへと向けて拡散していく。」とあるので、主人公はR氏の選んだ後継者ではあるが、さらに他の著者へ受け継がれるのではないか、とも考えられる。
3)「今や店主の輪郭はジュゼッペ・アルチンボルドの描く司書の姿に倣った、R氏の生涯を記した本の山へと置き換えられたように映っており、私もまたジュゼッペ老の手になった木偶のようにして立ち尽くし(167p)」
「ピノキオ」に主人公をなぞらえ、それを作ったジュゼッペ老にR氏をなぞらえている。
これは、主人公はR氏によって後継者とされたことを暗示していないか。
さらに画家のジュゼッペ・アルチンボルドの名を絡めることによって強調している。
●比喩として「箱の中の甲虫」
主人公が甲虫の入った箱に「つぎの著者につづく」とあるのを見つけ、その箱を開いて甲虫を出ていかせる。箱の中を出た甲虫は、答えを見つけ「ここから自同的に芽吹き繁茂していく文字列をまた、綴り始める。(179P)」主人公の比喩ではないか。
それは「遅々として進まぬ虫の歩みが、相互に指示を目配せしあう石の網目の織りなす鞍に甲虫を載せるのを見届けて、そして私はおもむろに、この独り語りをせめてもの文章として画定すべく(178p)」という表現も同様に思える。
●甲虫の模様
これには意味があるのだろうか?もし分かる人が入れば教えてほしい。
「私は変動に見舞われて身震いする頭蓋の中へ転げていく。(176p)」
「一匹の頭蓋骨めいた紋様を持つ甲虫が蠢いている。(176p)」
「ただ甲殻にプリントされた黒い二つの円型をこちらへむける虫がいるだけである。(177p)」
以降、つぎのレビュワーにつづく -
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文庫化されたので再読。デビュー作にして入門編。文章も内容も平易でとても読みやすい。
価値観の多様性、信じるものの有無、あらゆる前提がまんべんなく粉砕されているこのご時世。
すでに崩壊のカタルシスすら無効という世界において、円城塔さんの作品には純粋な「フィクションの愉しみ」がある。
でかい一発を知るがゆえ、人はさらに同等かそれ以上の一発を期待しすぎ、体力勝負で自分に負ける。歪んだ愛情を留保して、野次馬に身をやつし、レビューで★を減らす。知識による自家中毒でどこまでも人は堕ちて行き……、話が脱線してしまった。
空から人が降ってくる町、ファウルズ。主人公の仕事はバットとユニフォームを身につけて、降ってくる人をレスキューすること。
もちろん成功した前例などはなく、屁理屈のような物理学まで持ち出しては悶々としている主人公の姿が可笑しくてしょうがない。
しかし不思議と胸を打たれてしまうラスト。(バットだけに)
表題作は、自身の「書く」という行為への宣誓だと思うし、亡くなった伊藤計劃さんの遺稿を書き継ぐことになる男気にも重なる。
今、文学やフィクションを語るうえで、この作品を外すことは考えにくい。