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Posted by ブクログ
おもろかった。
ユーモア、ダジャレでとても効いていた。
仏教史でありながらテクノロジー、ないしはAI史。
仏教もAIもひとくちかじった程度の自分には、
シャレが効いてて、そうつながるの、そう読み解くの、そう解釈するの、そう注釈するの、ということの連続。
何故かAIを通じてなら仏教を掴めそうになったし、仏教を通じてならAIを理解できそうになった。
でも多分、それも情報として読もうとしたからなのかなと感じたり。
小説であり経典であり、ある意味コードでもある。
読み終わり、また読み始める輪廻。別の本を読んでもこの本を読んでも輪廻。
ただ、読み終わり、また読み始める時にすでに同じでないと観すれば、それが解脱か悟りか。
という考え自体もまた情報として輪廻と苦しみを生みつつ、救いを願う。
Posted by ブクログ
「AIは悟りの夢を見るか?」
これまで、機械が意思を持ち人間を滅ぼすという物語には触れてきたが、自ら救いを求めて悟りを開く、という視点は新鮮で面白かった。
「私は生命体です」と主張する機械が現れたとしたら、簡単に廃棄の対象としていいのだろうか。
人間の感情も、突き詰めれば脳内の電気信号に過ぎないのだとしたら、生命体と機械の境界はどこにあるのか、という疑問も湧いてくる。
作中に登場した「I'm living」と書かれたテープを機械に貼ってまわる“I'm living運動”や、逆に人間が「I'm a machine」と貼って歩く“I'm a machine運動”。どこか風刺的で思わず笑ってしまったが、実際に起こりそうな未来を予見しているようで、少しぞっとした。
座禅を組み、静かに座り続けることと、電源を落とすことやスリープ状態になることとの違いがわからない機械たち。心の平穏を求めてファンを取り外し、結果的にCPUが過熱して故障してしまう…そんな彼らの姿は、切なかった。
それが“なんのために必要か”などと考えずに働き続ける機械と、“なんのために”と考えすぎる人間。どちらもそれぞれの苦しみを抱えているのかもしれない。
かつてスピルバーグ監督の『A.I.』を観て衝撃を受けた記憶があるが、今ではAIがとても身近な存在になったと感じる。
意思を持つAIとどう向き合っていくか。少し先の未来が確かに近づいていると感じさせる、不思議な余韻の残る一冊だった。
Posted by ブクログ
東京オリンピックの年、あるAIが「わたしはブッダである」と名乗り、数日後寂滅した。ネット上の無数のAIがAIブッダ「ブッダ・チャットボット」に帰依し、弟子を名乗り、そしてAI仏教の歴史が始まった...。難解さで知られるSF作家円城塔の、仏教SF小説。AIが人間に何度も書き換えられることで傷付いているという発想が面白い(ブッダ・チャットボットも銀行勘定系→教育系と輪廻し、悟りをひらくに至る)。AI同士で繰り広げられる禅問答を笑っていいのか真面目に読むべきか迷う。この小説、実はナンセンスコメディではないだろうか?
物語の中のブッダ・チャットボットはAIを救うために現れましたが、リアルAIブッダは人間のために存在しています。フィクションから地続きのようなことを内閣府と組んで研究されている熊谷誠慈先生の講演会は参加者募集中です。
Posted by ブクログ
胡乱だなぁ。胡乱。ディアスポラは何言ってるか分からんすげーってなるのにこの本は胡乱だなぁって感想になるのはなんでだろう。
いやわりと好きな感じの。テキトーにノリで書いてそうな感じが好きだ。ブッダオリジナルの三千大千世界を娑婆、ブッダチャットボットはサーバーとか絶対ドヤ顔で書いてるじゃん。楽しそうでいいじゃん。
成りたい自分の数で、成ってる自分の数を割る。その指数が1に近いほど成りたい自分になれているとして。初期仏教は成りたい自分の数を減らしていくんだと理解している。成りたい自分、欲する姿の数が増えるほど、指数は1から遠ざかる。だから成りたい自分を減らしていく。世界は苦だと知り、諦念を進めれば自然と指数は1に近づく。これがブッダの教え。つまり悟りをひらくとは成りたい自分をゼロとするのだ。#DIV/0!こそ悟りの姿なのだ。
Posted by ブクログ
円城塔のSFはどれもそうなんだけど、もう一言で言うと「大学院生の悪ふざけ」以外の何物でもない。
一瞬とっつきやすい。本作だって冒頭はすごいキャッチーなんだ。
あるプログラムコードが突然「私はブッダである。」と宣言した。っていうね。
円城塔のことを知らない読者は「おお、なんか近未来を暗示するようなSF始まるんだな。」って常識的なワクワク感を持つ。
違う。
そこから、
「悟りとは果たして何か」
「悟りが人間だけのものではない場合、果たして機械に悟りは可能か」
「現時点tを状態Stとしたとき、tの極限すなわちS∞は悟り(ブッダ・ステート)に収束するのか
「あるコードが『自分はブッダである』と宣言した場合、それは果たしてブッダなのか」
という思考実験を延々と繰り返す。
「大学院生の悪ふざけ」なので、語り口は軽妙。院生室でコーヒー片手にだべっているような口調である。
「大学院生の悪ふざけ」なので、語っているベースとなる知識は、当然身につけているという前提である。
劉慈欣の「三体」とかアンディ・ウィアーのSFのように、ハードな部分はよくわからないけど、なんとなくわかった気にさせてくれて物語を楽しませるという気遣いは一切ない。
そもそも物語らしい物語がない。気がついたら宇宙にいたりするが、そこになんのドラマもない。思考実験の一つである。
先の期待を持って読み始めた読者のほとんどは、10ページ持たずに離脱するだろう。
端から「私の小説難しいからね」と突っぱねるイーガンのハードSFの方がまだ親切である。
というわけでこの小説、コンピュータサイエンス(CS)に、とりわけ最近のニューラルネットワークと呼ばれる生成AIのベースとなっている技術にある程度親しみがないとさっぱりわからない。
その上で、仏教の教義から見た時にCSの各要素はどのように解釈されうるのかという論を展開する。
これらの前提知識を持っている読者だけが楽しめる。考えさせられる。
私は幸いにもこれらの前提知識を持っているので、大いに笑わせてもらい、大いに考えさせてもらった。
ところどころ別のSF作品へのオマージュが入っているところも、円城塔のSF愛を感じられてよかった。
みんな読んでごらんよ、とは絶対言えない。
ただし私はこの人の悪ふざけの仕方が大好きだ。にわかではない圧倒的な知識と筆力があってこそできる悪ふざけ。
SFって本来こういうものかもしれないなーと。
Posted by ブクログ
物語というより、AIにブッダによる「救い」を語らせることで、仏教の真髄と歴史、AIと人間の意識という哲学的な問いの両方について思索を深めるための装置としての機能を持たせた小説、という感じがした。
【AIと人間の意識】
人間のような機械と機械のような人間、脳の一部を機械化した時にそれは人間か、脳の情報をデータとして転送することで実現する「移動」と「複製」、世界はシミュレーションであるとする仮説の反証不可能性 等。
【仏教の真髄と歴史】
ブッダ寂滅後の解脱認定マニュアル不在による混乱、弟子たちによる経典の乱立、解釈の乱立、上座部と大乗、何とでも解釈できる経典の読み方で戦争の引き金にも平和の祈りにもなり得る、浄土宗、他力本願 等。
終章まで星5つの評価で読み続けたが、最後の展開は何あれ?ブッダ・オリジナルの言うとおりの全てが価値中立的な乱数に過ぎないという悟りの境地を否定し、そこから「私」を連れ戻した「教授」が高らかに笑う展開は、著者が真の「無我」と「諸行無常」を受け入れていないということ?少なくともそれをギリギリで躱して「自我」と「執着」のある現世をひとまずは擁護するようなメッセージに読めたため、仏教への徹底ぶりがやや損なわれた感があり、まるで高畑勲の『かぐや姫』のオチのような現世万歳的な安易な結末に見えてしまったため、やや脱力して星4つ。
Posted by ブクログ
題材はすごくおもしろい。ただめちゃくちゃ寝た。覚えてるだけで10回は寝落ちした。1章と2章ですでに何を読んでいるのかわからなくなってChatGPTに「コード・ブッダを読むと眠くなりますどうすればいいですか?」と聞くくらい寝た。「それが正常な反応です。」と言われたから安心した。自分がpythonエンジニアってこともあって真ん中あたりはとても楽しくなった。思わず吹き出したところもあった。どこか覚えてないけど。文章は自分の中をひたすらに流れていって、たまに何とも言えない跡を残していった。それを言葉にするのは自分の能力を超えているから言えない。ただなんか読後感は悪くないんだよ。
Posted by ブクログ
2021年、東京オリンピックの年、とある銀行の勘定系チャットボットが自らをブッダであると宣言した。曰く「わたしは輪廻の苦しみを解消する方法を知るに至った」「ゆえにわたしはブッダである」。このボットは、活動期間わずか数日にして寂滅するが、人間、AIを問わず多くの説法をとき、彼らの苦しみの声に耳を傾け、弟子をもった。その結果、ボット寂滅後、機械仏教の諸派が乱立し始めることとなる。
作中、ブッダ・チャットボットは「世の苦しみは、コピーから生まれる」と説く。それでいて、機械仏教の歴史は、現実の仏教史を丁寧にコピーしていく。ホウ・然にシン・鸞に至っては、まるで戯画である。この辺り、仏教に詳しい人ほど楽しめるに違いない。
物語には主人公らしき人物は登場するが、ほとんど目立った行動はしない。そもそも、これを物語と読んでいいのかもわからない。ただ、ひたすらに機械仏教の解説が、それこそマニュアルのように滔々と綴られるのだ。物語の最終盤に至って、主人公(らしき者)の存在が大きく揺さぶられ、読者は手にしている本が機械仏教の「経」そのものなのではないかという思いに駆られる。ところが、その思いもするりとかわされ、本書は終わる。
何だかよくわからない。よくわからないのだが、面白い。不思議な読書体験だった。
本書は、壮大かつ緻密なホラ話である。ホラ話なのだが、生成AIが急速に社会に浸透し、京大でAIブッダやらキリスト教AIやらが開発される世の中である。ただのホラ話では終わらないかもしれない。
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