京極夏彦のレビュー一覧
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皿屋敷にて
ちょうど北斎浮世絵展で、皿屋敷の絵を見てきた所だった。
少しユニークな顔の幽霊が印象的だ。
さてそんな誰もが知っている江戸怪談の一つ、「番町皿屋敷」。
お菊という腰元が青山家家宝である揃いの皿を割った咎でお手打ちとなる。
その後、それを恨みに思って遺体を投げ込まれ態度から化けてでて、「一枚、二枚、.....」と皿を数えてはすすり泣いている。
この怪談をもとに、京極夏彦が解釈し、著者なりの真相に迫った物語。
殿様である青山播磨は何かが欠けていると感じている。
そして菊も播磨と通じる何かを持っていた。
菊はあたしは愚図で鈍間で莫迦ですから、と自らを卑下するがそれは清すぎる心を持ったが故。
しかしそれが惨劇につながるのだから、清らかすぎると言うことは帰って汚れを招くのかもしれない。
私自身はこの菊に終始イライラさせられた。
なぜものを言わぬ、なぜ自らを貶める、なぜ!!!
しかしそれは現代的な考えなのかもしれない。
そして自分ができることが他人にできないこともある、あるいは自分ができないから苛立っていたのかもしれない。
その意味では嫉妬の気持ちが自尊心と絡まり合って悲劇へと向かった、吉羅に私自身はよく似ている。
それを強欲といってしまえばそれまでだが、充たされていることに気づけなかったという点ではかわいそうな女性である。
物語は数え、数えずを繰り返しながら進んでいく。
登場人物たちの心のうちが一章一章で丁寧に書かれている。
そのため、半ばで少し疲れてしまうこともあったが、物語りの後半、いよいよ惨劇に向かっていくという時は井戸から湧き出る暗さに飲み込まれていく。
すべてが終わったあとの静寂。
本当は誰もが恨んでなどいなかった。
足りぬものを探し続けただけ。
しかし、そうではない。
満ちてもいないし、欠けてもいない。
物語りの最後で語られる言葉こそ真実だった。
足りぬ足りぬと叫んでいる現代人。
私たちこそ皿屋敷の住人なのかもしれない。 -
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・京極夏彦・柳田国男「遠野物語remix」(角川文庫)は 紛れもなく京極の作物である。だてにremixと付したわけではない。それなりの理由と京極の意志がここにはあつたのである。冒頭に「remix序」といふ序文がある。これは所謂旧漢字、歴史的仮名遣ひの文語文である。「遠野物語」のごく簡単な説明と、それを現代語訳するについての決意を述べたものと言へよう。そこにかうある、「柳田先生は文学者にはあらざれども名文家として識られる碩学の人なり。自分もまたその端正なる美文に因り喚起せらるる感動を損なはぬやう、一字一句をも加減せず、時に補い時に意訳し、順序を違へて、拙き筆なれど感じたるままを伝へらるるやう努め書きたり。」(13頁、原文の正字体 は新字体に直した。)この引用の口語文くさいところは気にせずとも、しかしやはり気になるところがある。それは「遠野物語」序文の次の一節を直ちに想起させるからである。「鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。」(青空文庫本、ただしルビ 削除。)基本は同じ、京極が少し足しただけである。柳田は佐々木鏡石の話し言葉を書き言葉とし、京極はその文語文を現代語(口語)訳した。つまりは同じやうなことをしたわけである。この一文が使はれるのは当然と言へる。しかも、京極の序はかう終はる、「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」(13 頁)この有名な柳田の一文を己が序の末文とする。この序の最後には京極夏彦とある。これは京極なのである。この序の先の引用以降が、つまりは大半が、実は柳田の書き換へであつたとしても、やはりこれは京極の作物なのである。たぶん京極のここでのremixとはかういふことである。
・remixとはある楽曲に手を加へて別の楽曲に仕上げることであらう。京極には柳田を極端に改変する気は全くないが、しかし、ただ訳せば良いとはしなかつた。それが、例へばこの序であつた。これ以下の本文の構成には大幅に手が入つてゐる。柳田は内容は気にせずにバラバラに置いた。京極はそれをほぼ分類別にした。分かり易い。同種の話が並ぶのだから比較もし易くなる。柳田の注は本文に組み込んだりした。簡潔さを欠くことになりかねぬものを、そこは京極、さすが手練れである。うまくさばいて、うまく本文に組み込んである。その時も、当然のことながら、いつもの改行の多い文体を使ふ。個人的にはこれは好きではないが、整理された文章にするといふ点では案外役だつてゐるのかもしれない。柳田の序文も、「これから語る話は、すべて遠野の人である佐々木 鏡石君より聞いたものである。(原文改行)去年ーー。(原文改行)明治四十二年の二月頃から、折々に聞いた。」といふやうに、見事に京極の文体である。しかも、ここには先の「一字一句をも加減せず」あたりもきちんと現代語訳されてある。当然のことではあるが、こんな二度手間も厭はないのである。使へる材料 は何回も使ふなどといふのはむしろ合理的な判断であらうが、普通の現代語訳ではたぶん行はれない。正確に訳したことにならないからである。そこが remixのremixたる所以、京極はそれをためらはない。のみならず、柳田の序文は分断された。さうして最後に、といふより鹿踊りの詞章の前に、「序 (二)」が置かれる。これが先の「願わくはこれを語りて。(原文改行)平地人を戦慄せしめよ。」(238頁)で終はる。ここは分かち書きである。いかにも京極らしい処理と言ふべきであらう。そんなわけで、私はこの序の処理だけでremixを堪能したのであつた。 -
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お友達に勧められた本です。1999年発表の、京極夏彦さんの時代小説。
勧めてくれた言葉通り、割と理屈抜きで愉しめる、勧善懲悪の江戸時代モノ。
味わいとしては、鬼平犯科帳が横溝正史さんになったような感じ、という印象。肩の凝らない、胃にもたれない、大人の娯楽小説、愉しめました。
江戸時代を舞台に、レギュラーの「必殺仕事人」的な、善玉小悪党たち?とでも言うべき、個性的な面々が、法を逃れた非道な殺人者を、懲罰していきます。
あるいは自殺に追い込み、あるいは、直接描写されないまでも殺します。
(中には、悪党というよりも、「可哀そうな殺人愛好者的な変態さん」というのも含まれますが)
で、この小説の仕掛けは、全てが「魑魅魍魎、妖怪、怪談」と言った類の仕業に見せかけて終える、というところです。例外はありますが。
読み始めて判ったのは、前に読んだ「姑獲鳥の夏」もそうだったんですが。
まあ、強引と言えば強引なんです。
「それってものすごい偶然というか…あり得なくない?」
という部分も、たいていあります。
だけど、そこは小説としての面白さとは別次元なんですね。
横溝正史さんの金田一耕助だって、ホームズだって、そういうところはありますから。
謎があって、それが解けて、勧善懲悪になる。そこに、ヒトの業とでも言うべきやるせなさとか、無常観みたいなものが残る。人間ドラマになっている。
そういうことですね。
言ってみれば、ホームズから始まって、殺人と解決のミステリー物語の王道、と言えます。
それが、舞台が江戸時代で、仕掛けが怪談妖怪話。
そこのところで、嘘が跳ねて、小説が粗筋から飛翔する娯楽があるなあ、と思いました。
「気味が悪い」を「鬼魅が悪い」と書くような、歴史的な整合性は知りませんが、京極さん独特の(かどうかも判りませんが)、深い(狭いのかもですが)博識を基にした、確信犯な演出が冴えていると思いました。
連作短編な訳ですが、俯瞰的に説明するところから、証人の一人称をぶん回す下りまで、実に読み易く自在な筆運び。パチパチ。
「姑獲鳥の夏」「巷説百物語」と読んでみて、成程、京極さんの持ち味と旨さ、なんとなく分かった気になりました。
この人の本は、なんていうか…「所詮、そういうことでしかない」という限定を自覚した上で、小説、コトバ、日本語、という武器をしたたかに使って、独自の水木しげる/横溝正史的世界観に、ぐいっと連れて行ってくれる強力さがありますね。
今後も、慌てず愉しみたいと思いました。
連作短編、ヒトによって好みがあると思います。
僕は、「殺人愛好者の変態さん」の巻よりは、「頭が下がるほどの悪党」が出てくる回の方が面白かったです。
「塩の長司」「白蔵主」あたり、好きでした。
####以下、思いっきりネタバレの個人的な備忘録です####
●小豆洗い
無念を持ち死んだ小僧がいた家で、小豆を数える?音が聞こえる、という怪談?をもとにして。
かつて殺人を犯した男を、百物語で脅して自殺させる。
●白蔵主
悪党の一味がいて、その手下の男がいる。
手下はかつて、キツネ狩りの猟師だった。
殺生を止めるように説いた僧を殺したのを、悪党の親玉に見られて、手下に。
狐の怨霊、みたいな怪談で騙して、親玉と手下を会わせ、親玉を殺させる。
親玉は長年、寺の僧に化けていた。
●舞首
女を誘拐してレイプして、というホントに悪い男がいる。
それに妹を浚われて、言いなりになっている巨漢がいる。
その街を仕切っている悪党のやくざがいる。
この三人をそれぞれに騙しておびき寄せ、殺し合いをさせる。
最後に、三人の首のない死体を遺棄。
クビが殺しあった、という怪談にのっとって。
●芝右衛門狸
徳川の御落胤という若者がいる。
表に出れずに失意の日々を送り、殺人愛好者になる。
この人を葬るために、淡路の国の狸の怪談というか言い伝えを利用。
狸が化けたもの、として、葬る。
淡路の国の人形浄瑠璃の話が印象的。
●塩の長司
加賀の国。
馬を売買する金持ちの商人がいる。
そこに、兄弟の悪党が、狙いを定める。
知能犯で馬に詳しい弟が入り込み、気に入られ、婿になる。子も出来る。もう、悪党であることを止める。
収まらない兄が、手下と、その商人の道中を襲う。
そして、ほぼみな殺し。弟と顔が似ているので、入れ替わる。
そのからくりを見破って、もともと兄がもう病身であったので、狂わせ自害させる。
馬の霊みたいなものが取りつく、という怪談を利用。
●柳女
品川宿。
大きな宿屋があり、中庭に大きな柳がある。
色々言い伝えがある。
そこの当代の主人が、良い人なんだけど、「赤ちゃんを殺す」という癖がある。
その人が、妻も含めて殺してはのち添えを貰っている。
そのからくりを暴いて、殺す?。
柳の仕業、みたいなことにする。
●帷子辻
京都、広隆寺近く、帷子ノ辻(今は撮影所がある)。
かつて皇族の誰かが、無常を知らせるため、自分の死骸を放置させた、という言い伝え。
京都の役人が妻を病気で失う。
この人が、死体愛好者?という癖がある。
妻も含めて連続して、殺しては死体を保持し、腐っては帷子の辻に捨てる。
狂ってくる。
このからくりを暴いて、自死させる。
全体を、無関係なヒトの犯行に見せて、役人の名誉を守る。 -
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祠の中にいた真っ黒いモノ、15日間毎日化け物がやってきた屋敷、家族の悩みを狐に相談する幽霊、確かに死んだはずで死体もあるのに、何故か生きている人、まるきり猫になってしまった人、引き揚げられた河童らしきモノ、夜に頭を叩きにくる大きな亀……不思議でちょっと怖い話を聞き集めした江戸時代の書物『耳嚢』を、京極夏彦氏がちょっと今風にアレンジ! その話、まことか?
積読してたつばさ文庫を崩していこうフェア。思えば京極夏彦を読むのも随分久しぶりでした。一応つばさ文庫なので子供向けに平易な文章で書かれているのですがところどころ京極氏らしい書き口で、それがなんかすごく懐かしくてあ~自分の文章の基本ここにあるなーとかちょっと思ってしまったw
『耳嚢』は書名だけは知ってるけどどういう話が入っているかは知らなかったのでまったくの初心者、ほんとに江戸のホラーを今風にしたものを読むぞーという気持ちで読みました。昔あった「学校の怪談」シリーズみたいにNさんとかSさんとかアルファベットで匿名にしてある辺りとかすごく“らしい”って思いましたね~ それだからかすごく身近に感じました。それでどれもホントに初めての話だったのでこんなに面白かったんだ!って何度も思ったり。これ原文で読んでたらちょっとわかんなかったかもだけど、京極氏がリライトしてくれたおかげで本当にぞ~っとするところとかもあったので、読めて良かったと思います。
落語の原話になったようなものもあるなあ、なんても思ってた。へっついから手がのぞくやつとか、死体があるのに生きてる人とか。私は「真っ黒」と「どすん」と「見てました」「可愛がるから」が怖かったなあ。このタイトルの付け方も現代の怪談ぽいですよね。 -
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ネタバレ人は結局、自分勝手に生きている。
そのズルさをわきまえながら、
図々しさにちょっと照れながら、
人間クサく生きている治平さんが好きです。
主人公の性格(モノの考え方・・・哲学?)がすごく魅力的だったのと比べ、物語自体はフツウだったので、☆4つ。
☆☆☆内容(ネタバレ)☆☆☆
主人公、小幡小平次(こはだ=こへいじ)は、
押入れの中に引きこもり、
ふすまのわずかな隙間から、女房をじっと見ている。
話しかけても答えないし、
語りかけても応じない。
奥さんが叩こうが蹴ろうがわめこうが怒ろうが、
何もしない。
ただただ、ずっと、押入れの奥から
覘いている。
「何とか云ったらどうなんだい!!」
女房は、益々荒れた。
--***--
小平次は役者だった。
何も演ずることができない、駄目な役者だった。
劇団の座長が死んだときも前妻が亡くなった時も、
腹の底から悲しくなった筈なのに、涙が出てこなかった。
泣くべきときに、何故か涙が出てこない。
もしかして本当は悲しくないのか。
悲しみとは何か。感情とは何か。
ひょっとして自分は何も感じないのか。
そう考えあぐねているうちに
・・・とうとう「自分がなんだか分からなくなっちゃった」人だ。
--***--
遺体に取りすがり、涙に暮れる遺族が居る。
「さぞ無念だったろう、さぞ悲しかろう、悔しかろう」
思いやる。
だが実際は、人の心が分かることなどない。
他人の気持ちが分かろう筈もない。
「自分の身近な人が殺されたらショックだろうな。。。」
「自分が殺されたら嫌だなぁ」
というイメージを自分勝手に膨らませ、
遺族に“なったつもり”の自分、
“『家族を殺された人の役』を演じる”自分、
悲しい気持ちになった自分を、
憐れみ、なぐさめる。
遺族を思いやっているのではない。
自分の演技に、酔うている。
小平次は自分が嫌いだ。
苦しむ人を見るにつけ、悲しむ人を目の当たりにするにつけ、
ふつふつと感情を湧き上がらせる自分が厭だ。
不幸な他人を“演じる”ことでハッキリしてくる、
ずうずうしい己が厭だ。
いつでも薄く冷ややかで、静かな状態で居たがった。
そうして、
小平次はしゃべることができなくなった。
自分のことを語ろうが、他人の事を話そうが、
しゃべるという行為は結局『自己主張』になってしまう。
自分のことをしゃべるのは、厭だった。
--***--
小平次は、他人を演じられない。
だから貶せない。褒められない。
呪えない。祝えない。
蔑めない。
怒れない。笑えない。悲しめない。
泣けない。
喜べない。
他人の心の内を、
覘くことしかできない。
そういう、悲しい男の物語。