京極夏彦のレビュー一覧
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ぴょん。
「豆腐小僧にございまするぅ」
前作「ふりだし」の後を受け、意味もなければ説明でも解釈でもない概念(=おばけ…ですらないような気が)、愛すべきキャラクター妖怪の豆腐小僧が今作では甲州で活躍……は、しないなあんまり(´・ω・`)
まあ活躍するようなキャラじゃないのだよね。しかも主役のくせに物語の半ばで長いこと留守になるし。
しかも今回はなんと河童(豆腐小僧的にはこれ大事件だと思うんだが、本人あまり気にしてなさそう。豆腐はアイデンティティの根幹だけど、笠とかはオプションなのでいいらしい)になっちゃうし!かっぱっぱああ!
そしてまた、人間の方の物語もちゃんと進んで行くわけだけど、これもまたお化けどうしのああだこうだに負けず劣らずのドタバタっぷり。
語り口が軽妙で、何でもアリアリの名調子。飯綱権現なんかどんどん語り口がフランクになってきてて親しみが(笑)。あと個人的にはやはり八咫烏がいいですな。
しかし、このシリーズには巧妙な「仕掛け」があって、登場人物ならぬ登場妖怪のトークから、そして語り手から「果たして妖怪とは何ぞや」が論じられているわけで、おまけに今作のラスト近くでは一種の「時間移動トリック」的な離れ業が。メタ物語がメタ・メタ物語になっております。いや、物語がメタメタというわけではなくて。
こないだ文庫版の「ふりだし」が発見されて読みふけってたら、こっちも読みたくなって、でも豆腐型のオリジナル版が見当たらなかったのでこっちも買っちゃった次第。
改めて読んだらやっぱり面白いねえ。
でも、せっかくだから前作くらいの仕切りをして欲しかったわぁというのが親心(なのか?誰が誰の親?)。 -
Posted by ブクログ
・京極夏彦「冥談」(角川文庫)巻 頭の一編、「庭のある家」のかなりは話し手とその友人小山内君との会話でできてゐる。「庭のある」小山内君の家での庭を見ながらの会話である。「何だね、 君が庭を観るなんて珍しいじゃないか」「そうかな。まあ、別に庭を愛でていた訳じゃあない云々」(8頁)と始まるこの会話、何といふこともない会話なのだ が、しかし読み進むに従つて違和感と言ふか、既視感、いや既読感と言ふか、そんなものを感じることになる。こんな会話を私は知つてゐる……どこかで聞いた ことがある……ではどこで? さう、どこでなのだらうと思ふ。結局、思ひついたのは、これは一昔前の小説によくある態の会話ではないかといふことである。 いや、一昔ではない。下つても戦前昭和期、たぶん本当はもつと古く、大正か、もしかしたら明治の作品の会話ではないか、そのやうに気づくのである。さうして読んでいくと、「祖父というのは(中略)御一新の際に幕軍に加わって最後まで抵抗し、官軍に捕縛されて斬首されたらしい。」(12頁)などといふ小山内君の言葉が出てくる。祖父が幕末の人で、その頃父が幼かつたらしいのならば、小山内君は明治の人であるに違ひない。だから、確かに先の頃の会話になる。これはそんな雰囲気を濃密に湛へた作品である。そんなのをさりげなく(ではなく、必死にかもしれないが)真似てしまふのはやはり京極である。私は何よりもまづ、そんなことに感心しまつた。おぬし、出来るなといふわけである。物語、いや2人の会話は更に庭から隣室の妹に移つていく。小山内君が頼みがあると言ふ。妹が死んだので医者を呼びに行かねばならぬから留守番をしてほしいと言ふのである。結局、留守番を引き受けて待つてゐると、なぜか妹が出てきて……2 人は無沙汰の挨拶をし、妹は夫の話を始める……かういふのは一種の幽霊話であらうか。ならば今風にはホラーのはずである。ところがそんな雰囲気はない。話し手はいぶかしく思ふものの、決して恐怖を感じることはない。「僕は余り驚かなかった。(原文改行)別にゆうれいには見えなかった。」(26頁)だから、 2人の会話は淡々と進む。この雰囲気で読ませる作品なのだと思つてゐると、最後に「一斉に。(原文改行)庭の椿が落ちた。(中略)小山内君も死んでしまったのだなあと、僕は思った。」(37頁)で物語は終はる。「僕は、帰れるのだろうか。(原文改行)この庭のある家から。」(同前)の最後がいかにも思はせぶりでそれらしい雰囲気である。好きとは言はぬまでも、決して私の嫌いな作品ではない。ただ、こんなのは京極ではないと思つてみたりする。「姑獲鳥の夏」 如き大作だけが京極ではないと言はれさうだが、やはり京極は大作なのである。ただ、その狭間にかくの如き短編が散在するのである。
・「冥談」所収作もまた、スタイルを異にするが、饒舌である。「凮の橋」は現代の物語であらう。語り手の女性が記憶の底に沈殿した橋を求める物語である。個人的にはこの方がおもしろい。しかし、ともに冥いと思ふ。くらい、暗いのである。これが主調音としてある。心象の暗さ、心象風景の暗さでもある。敢えて言へば幽冥である。それがその置かれた時代や町と共鳴してある。幽明界を異にするのではなく、幽明界を一にして幽冥たり得てゐるのが本書であらう。大作ではこんな芸当はできない。むしろこの方が京極の資質に近いのかもしれない。さう考へれば、あのまねごとの会話もまた正に京極なのであつた。 「もう戻れない、凮の橋。」(112頁)に倣つて、もう戻れない、冥談と京極が考へたかどうか。「幽談」もまた読まねばである。 -
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幽談と併せて買って、こちらを後に読みました。
タイトルだけを見た時は幽談の方が魅力があるように感じたのだけれど、
蓋を開ければこちらの方が文章が胸に迫る。
幽談は怪異と登場人物の間に距離が感じられます。
『こわいもの』はあくまでもベッドの下にいる存在であったり、後ろから追いかけてくる
正体不明のものであって、それと自分との間の温度は決して温かみがあるわけでは
ありません。
なんとなく怖い、気持ちの悪いものたち。
一人称の語り口調で展開する文章が、不快さも混じえて気味悪く印象に残ります。
一方こちらの冥談は、こわいだけじゃない。
読んだ後に物悲しさがのこります。
大事なものが消えていってしまった後の、その消えた背中の居た場所を茫と
眺めているような。暗くて静かな、寂しい感じがします。
生の側にある者と、死の側に行ってしまった者との儚いあわいの時間。
幽談の話の多くは『もう会いたくない』感覚。
冥談の多くは『もう会えないんだなあ』という感覚。
気持ちがふわふわしている時に読むのがオススメです。 -
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・京極夏彦「豆腐小僧双六道中おやすみ」(角川文庫)と その先行の「豆腐小僧双六道中ふりだし」を読んだ。例の調子と言へるかどうか。たぶん言へないと思ふが、しかしおもしろいことは確かである。さう、これは 豆腐小僧を中心として、妖怪の来歴を記したもの、更に言つてしまへば、妖怪の履歴を散りばめた物語、履歴書小説ではないか。多くの妖怪が出てくる。それら のよつて来たるところをきちんと確認したうへで、その妖怪をそのやうに動かしてゐる。語りは、多分に戯作を意識してゐると思はれる饒舌体である。そんな作品だから、かういふ語りが案外あつてゐるのかもしれない。ただし、理屈つぽい作品である。それは概念といふ漢字におばけの読みが付されてゐることに象徴さ れてゐる。おばけは概念だといふのである。これが京極の妖怪観なのであらう。
・適当に引用する。「化け物なんてものは実際にはおらんし、おらんから見えんわ。思い描く形なんざ人それぞれだ。」(53頁)「愚僧ら妖怪は 生き物ではないのだ。物理的に存在しない概念であるところの我ら云々」(73頁)「我らは全て後付けなんだ。非存在は存在する事象に一切の影響を及ぼすことが出来ないのだ。」(「後付け」に傍点、74頁)猫股の「三毛殿はあの道場で飼われておったその猫が喚起する概念であった云々」(「概念」に「おばけ」 のルビ、271頁)「我らは概念であるから、主体とはなり得ない。主体である訳がない。」(275頁)おばけは「いるけどいないというのが基本だ。」 (「いる」「いない」に傍点、同前)他にも同様の理屈は多い。極端なことを言へば、人間の物語の部分以外、つまり、妖怪、お化けの物語では必ずこれが出てくる。この理屈なくしてこの豆腐小僧の物語はない……つまりはかういふことである。敢へてこの状態を評すれば、これは一種の信仰宣言ではないか。京極の妖怪信仰である。それは、妖怪は存在するのではなく、つまり妖怪は物理的には存在せず、その妖怪の概念があるだけだといふ信仰である。それを豆腐小僧が主人 公の物語としたのがこの「双六道中」ではないのか。だから様々な妖怪が出てくる。そしてその履歴が説明される。その出自は「出た時にそれを見た人間が、勝手に解釈を加えるとーその段階でいろいろな妖怪になる」(「ふりだし」177頁)といふところにあり、例へば小豆洗ひは、「これ、姿形は見えません。(中略)何しろ音だけでございますから(中略)音をさせる正体として、各地域で様々なモノが用意されます。(原文改行)鼬だ狢だ、山の神だ、蝦蟇だ幽霊だと、 それはもうヴァラエティー豊かな」(333頁)ものであつたといふ。これが後付けの概念といふことである。かういふ説明を様々な妖怪が出る度に作中で何度も繰り返すことで、作者は妖怪は存在しないと宣言し、確認してゐるのではないか。またかと思ふ。しかし、そこは京極である。それで物語のおもしろみを削ぐことはない。人間世界と妖怪世界がともに物語の頂点に向かつて進む。この物語は幕末の尊皇倒幕に関係してゐる。そこに阿波の狸も絡むから物語はドタバタの 様相を呈する。それを豆腐小僧といふ概念=おばけが支へる。さう、この豆腐小僧、幕末の草双紙に登場する。結構人気者である。紅葉豆腐を持つて町中を歩き回る。人に悪さをしない、人に相手にされない、そんな特異な概念=お化けである。それが物語を支へる。かういふ雰囲気が他の京極作品にあつたらうか。たぶんない。ちなみに、本書には参考文献が記されてゐない。これがあれば今少し京極の妖怪信仰を知ることができたらうにと思ふ。お化けは概念なり……蓋し正論である。