幸田文のレビュー一覧
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着心地重視の主人公に完全にシンクロしながら読みました。肌触りがいいとその日1日気持ちよく過ごせるのすごくわかる。
おばあさんの生活の知恵、特に着物の含蓄にうなずきまくりました。木綿、毛織、銘仙、絹、いつどの素材を着るか何故その着物なのか全部理に適ってる。縮緬のお布団ってそんなに寝心地いいのかな、寝てみたい。
少し昔の小説なので読んでてエーッてなるとこいっぱいあるし震災描写は悲しくなりましたけど、当時の文化や流行とか着物を生活品として作る人や着る人の考えることに触れられてよい読書時間になりました。自伝も入っててリアリティ色も強め。
終わりが唐突なのは連載が止まったためだそうで、続き読んでみたかったです。なんとなく想像はできますけどね…。 -
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姉とおとうと、おとうとと義母、姉と娘、父と娘、ひとつひとつの関係性がとてももどかしい。
この物語には器用な人間は登場しない。全ての人間が不器用で、意地悪で、悩んでいる。が、そこに僕はこの小説の愛嬌を感じる。
読み進めながら途中、読むのを辞めたくなる。あまりにも日本文学的な、べったりとした描写、物語。半分くらい読んだところでそれらを全部ペリペリと剥がしたくなってしまうのだ。
だがこの本を読み終えたとき、その煩わしかったもどかしい登場人物やうざったい物語を、抱きしめたくなる。
あまりにも鮮やかで、読者にありありとした風景を想起させる描写は、この小説のあり方をも示しているのかもしれない。
幸田文は、日本文學を語るうえで若干軽視されてる感が否めない。
しかしこの小説を読み終えたとき、僕らは彼女を、芥川や太宰、川端などと並ぶ文豪てあると評価せざるを得ないだろう。 -
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父・幸田露伴の晩年と看取りをつづった「父―その死―」、父との日常の思い出をつづった「こんなこと」を収録した本。
「父―その死―」では、父の看病で激しく揺れる筆者の思いがとても正直につづられている。時には憎しみを深く感じる一方で、別の時には心から憐れんで親身になる。その時々に移り変わる気分がつぶさに書かれて、嘘がないと感じた。頼られている、私がやらなければ誰がやるのかという気持ちと、肉体的な疲労や、もうやってられないという気持ち、さらに長年積み重なった父への愛憎がそこに加えられ掻き混ぜられた結果が、そうした感情のバリエーションとして表れるのだと思う。
人が勧めることを試したいという父、氷を食べたいという父、その望みをかなえるためにあちこち奔走し、頭を下げて回る筆者とその周りの人。『台所のおと』でいくつか読んだ暗く辛い看病の話は、こうした実体験からできたのかと納得した。
「こんなこと」では、子供のころからの父との思い出が書かれている。父・露伴は全く手厳しいし、弁が立つ。自分の怒りを人に向けるやつは下等だと普段は言っているくせに機嫌が悪いと怒られる、と愚痴っぽく書かれていたのには笑ってしまった。実際に父がこうだったらとんでもなく大変だが、読む分にはユーモラスで面白い。
露伴自ら筆者にに家事を仕込む「あとみよそわか」はことに印象的だった。以前読んだ、昭和初期の家事方法の本にここからの引用が使われていたのを覚えている。はたきがけ、廊下の雑巾がけなんて今ではもうしないけれど、やれと言われたら私では絶対に露伴の気に入るようにはできない。だから、十四歳の筆者が悪戦苦闘するのに寄り添い、一緒になって小言を頂戴している気分になる。
筆者にとって父との生活は気が抜けず辛いことも多かったが、どこか愛しい日々だったとも感じている、「こんなこと」全篇からそういう印象を受けた。その「絶対」だった父が死んでしまった後に思い出して書かれたからだろうか。
おばさんになってからもばあさんになってからも読み返したい一冊。
父 ―その死―
(菅野の記/葬送の記/あとがき)
こんなこと
あとみよそわか:掃除、障子の張り替え、薪割りや畑仕事など
このよがくもん:浅草教育
ずぼんぼ:父とする遊びの数々
著物:着物(平成6年発行の文庫だが、全部「着→著」になっていた)
正月記
啐啄:露伴・文子流性教育
おもいで二ツ:俳句 -
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主人公の子供時代から結婚するまでの人生の歩みを、着るもの、身につけるもののエピソードをふんだんにちりばめて書かれた小説です。
きかん気が強く、気に入らないことは絶対に受け付けない性質の主人公の子供時代から物語が始まります。姉たちにはからかわれ、親にも持て余されがちな主人公。そして、そんな主人公にじっと寄り添い、気を回す祖母が物語の中心です。
登場人物が魅力的で、癇気の強い主人公、人間の良くできた祖母、どこか対照的な二人の姉、女学校でのふたりの友人、そして父の愛人など、皆それぞれの強さと考え方を持って生きていました。どの女性の半生でも物語が書けると思えるほどです。
ただし、男性の登場人物は父を除いて詳しく描かれていません。兄は途中まで完全に存在を忘れていましたし、夫となる人も人となりを想像するには材料が少ない、といった感じでした。
主人公が初めて自分で着物の生地を選びだす場面や、姉の結婚式に駆けつける場面、「もう着られないお気に入りの服で箪笥をいっぱいにしたい」と話し合う場面などが心に残っています。
人に何かあげるとき、病みついた家族を看るときなど、物事を角を立てずに進めていく祖母の知恵には、読みながら主人公と同じようにハッとさせられました。
この話は幸田文の自伝的小説だそうです。元は雑誌連載されていたもので筆者の存命中には書籍化されず、続きの構想があったようだと解説に書かれていました。
結婚式を挙げた日の夜でこの物語は終わってしまいます。しかし、決して幸せな結婚生活を予感させる文章ではなく、時代から考えても金融恐慌を経て、開戦、東京大空襲、敗戦と、決して先行き明るくはありません。その中で主人公や周りの人、特に二人の姉がどう生き抜いていったのか、読んでみたかった。続編がないことが本当に悔しく思われます。 -
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一つ読んでは唸り、また一つ読んでは唸り…
唸りつくした1冊。見事としか言いようがない。
昨今の小説を読んでがっかりするくらいなら幸田文さんの作品を読んでいたい。間違いがないもの。
ちょっと自分にはついていけない…というような、細やかで独自の感じ方をされる方です。
その感性や鋭い観察力によって心がどんなふうに動いていったかを表現する文章がまたすごい。
名文のオンパレードで、心の中で「まいりました!」と平伏したくなることが何度あったか。
例えば、「道ばた」の出だし。
「茶の間は往来からたった六尺ほどひっこんでいるだけなので、外の物音や声は随分よく聞えてしまう。あまり何でもよく聞えるから、ときどき変な気もちにさせられる。からだが家のなかにいながら、眼だの耳だのが往来の物事のところへついて行ってしまう。そんなとき、茶の間が往来へ編入されているような気がするし、私が往来へ参加しているような錯覚も起きる。」
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特に好きだったのはこの「道ばた」、「廃園」「むしん」「包む」「菓子」「枇杷の花」など。
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読むうちにふっと堀江敏幸さんの随筆を思い出すことがあったのだけど、
堀江さんは幸田文さんが好きなのかしら。影響を受けているのかしら。 -
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美しい日本語が読みたくて買いました。
幸田文のことは「露伴の娘」で「随筆家」「着物の人」
くらいのイメージしかなくて・・・
でも、この本読んでひっくり返った!
なんて雄々しい小説を書く人だろう。
その雄々しさは明治女の雄々しさです。
キリキリと働く。いちぶの隙もないくらい完璧を目指す。
最高の仕事(家庭のこと)をして、
手柄はそっと一人あるいは女同士で噛みしめる。
そんな生き様の、なんて美しいことか。
「私」の一人称で大作家の「父」のことを書いたりするから、
私小説かと思うけど、どうやらフィクションらしい。
そのへんの曖昧さも、幸田文の力量ってことなんでしょう。
「姦声」と「段」はフィクションってわかっていても、
本当にゾッとします。恐ろしいほど巧みな筆致です。
巻末の出久根さんの解説も見事なので、
ぜひ併せて読んでください。 -
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ネタバレ幸田文の文章にはほんとうに何度も頷かされるが、今回は特に「夜長ばなし」になるほどなあと思わされた。
・「(映画と違い)物語は耳からはいって眼の底で立体化され、立体化された人物たちはまことに静かにじわっと心の奥へにじみこんでくるのです。話にはスローテムポの浸みこみかたがあっておもしろいものです。」
これはテレビと書物の違いでもあると思う。
・父・露伴の、ながい源平物語を語る句には「春の夜」より「秋の夜」とする方が良いという添削と、その違いを娘にわからせようとする著者への「無理におとなの承知している感覚なんかを、子供に押しつけるな。...子供が自然に秋の夜というものを理解するときを静かに見きわめていて、そのときこちらも一緒になって秋の夜を楽しむなり哀しむなりしてやればいゝんだ。」という忠告。
一つ目で、ああそうか俳句の良し悪しというのはこういう風にして論じるのか…と、頭ではつかみにくい芸術の批評というものの一端が論理的に理解できたような気がした。
そして二つ目で、だからといって頭でっかちで芸術を語るのではなく、まず自身の感覚ありき、それに基づいて知識や考察を積み重ねていくのが正しい有り方だという当たり前と言えば当たり前の事を納得させられた。 -
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72歳、52キロの著者が、日本中の「崩れ」を見に行く。建設省富士砂防工事事務所の所長に「崩れるとか崩壊とかいうのは、どういうことなんですか」と聞くと、地質的に弱いところという答えがかえってきた。それを聞いた幸田さんは、弱い、という一語がはっとするほど響いてきたという。
「読んだのではただ通り過ぎた 弱い が、語られてぴたりと定着し、しかも目の中にはあの大谷崩れの寂莫とした姿が浮かんでおり、巨大なエネルギーは弱さから発している、という感動と会得があってうれしかった。」
P71も印象的だったな。あの地震があってからすぐに読んだので特に。
「人は何の彼のと偉そうにしていても、足の下に動かない土というものがあってこそのこと。むかし子供のころ、動きなき大地とかいう言葉を教えられ、また若いころには、母なる大地とかいう言葉をきいて、感嘆したこともあったけれど、どうしてどうして、大地は動くのだし、母も人間本来のもつ醜さをさらすこともある。」
P89「富士山もそうだと思う。世界にきこえる美しい山とか、秀峯とかいわれる。本当に端麗な姿をしていると思う。だが一度大沢の崩れを見た上で、あらためて仰げば、端麗とは決して生やさしく、ぐうたらべえに成立つものではなく、このように恐ろしいきびしさの裏打があることを思い知らされ、はじめて端麗の尊さに気づく。富士といい、男体といい、どうしてこうも顕著に、美しさと凄さとを併せ見せているのかと思う。」
崩れを実際に歩いて、女性ならでは、というか、幸田文ならではの感性で受け止め表現した記録。何でも見てやろうという好奇心、自然という人間の力ではどうにもならない巨大な力に対峙していく姿勢、そして感性と、表現力…、素晴らしいです。S51年に「婦人之友」に連載されていたのだってね。 -
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幸田文さんと言えば、幸田露伴のお嬢さん。 ず~っと昔、幸田露伴の「五重塔」を読んだ直後に、そのお嬢さんである幸田文さんの「父・こんなこと」を読んでみようとしたことがあるのですが、当時の KiKi にはどことなく古臭く感じられる一切合財(特に露伴さんのあれこれ)が何となくうざったくて、なかなか前へと読み進めることができず挫折したというありがたくない思い出があります。 そして当時の KiKi は日本人の女流作家の描く日常的なアレコレを言語化したものに対する興味がすこぶる薄くて、そのことが「読み進められない挫折感」をさらに助長しました。 何て言うか、生活臭が強すぎてつまんない・・・・というような感じでしょうか?
(全文はブログにて) -
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国語のテスト問題で抜粋されていた。
「この文章、好きだ!」と思った。淡々としているけれど、日本語が美しい。
内容もおもしろかった。父であり作家であった幸田露伴との思い出を綴る。
「あとみよそわか」の章、父親から掃除の仕方を習っている場面だったと思う。
たかが掃除ではない。作者も「掃除の稽古」と書いている。
まず手始めに、掃除道具の改良から。そして、掃除の手順に加えて、見目の良いしぐさも要求される。
はたきの音がうるさいと注意され、父が言うことには「物事は何でもいつの間にこの仕事が出来たというように際立たないのがいい。」
そして、ぞうきんがけに至っては、難易度が高いということですぐには教えてもらえない。
現代では考えられないことばかり。
でも、私が今まで出会ったおばあちゃん世代の掃除や生活の所作には通じるところがある。
「丁寧に、手間を惜しまない」ということは、素晴らしい。
昔のほうが、生活も余裕がなく忙しかったと思う。
その中で、淡々と日々積み重ねていくこと。
昔は当たり前だったのかもしれないけれど、便利な世の中に慣れきった私はぐうたらしてるから。
幸田文の作品を読みながら、昔の人の感性に惚れ惚れしてため息をつきます。