幸田文のレビュー一覧
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すごい小説だと思いました。。
姉と弟、その関係性から来る、父と継母(実母は死去)の愛情の差、そして、弟の当時治らなかった不治の病、結核にかかった弟を看病する姉。
最初は暗いだけの小説かと思ってました。
でも違いました。なんというのだろう。。死と隣り合わせの現実の中で神様を見た感じ。とでも言ったら良いのだろうか。。
内容は暗いんです。でも、同時に優しくもあり美しくもあるんです。姉が弟に見せる家族愛、弟が姉に見せる家族愛、辛く苦しく悲しい話です。でも、読み終わった時に、とてつもなくすごい小説を読んでしまったと言う感じです。私の弟も一時期やさぐれていた時期があったので、姉の気持ちがよく分かりました。それもあったのかもしれません。。
読む前は、悲しい話で、読みにくいんだろうなと思ってたのですが、読み終わった後、一つの命の人生を追体験したかのような、神様に出会ったかのような安らかな気持ちになりました。
一言で言うなら、神様に出会った小説でした。 -
Posted by ブクログ
新潮文庫の紹介文を引用すれば
人それぞれに履歴書があるように、
木にもそれがある。
それを基調として、北海道から屋久島まで
木々を訪ね歩いた随筆集。
映画『PERFECT DAYS』
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』(2023年公開)では、主人公・平山(役所広司)が日常の中で穏やかに生きる姿が描かれますが、彼が手に取り、繰り返し読む文庫本が幸田文『木』でした 。
幸田文さんは、幸田露伴の次女。
幸田露伴からの木々の教育は受けていたとしても
文章を書き始めたのは、離婚して父を介護し
その父の死を契機として。
初出は、丸善の機関誌『學鐙』
どうして、それが今年の新潮文庫の100冊かと
普通なら考えるところ、今作は
kumaさんや本とコさんが映画がらみで
レビューをされていてすんなり受け入れた次第です。
小説でない作品を読むのは苦手なので
覚書に変えて
「えぞ松の更新」1971/1
北海道、倒木更新
「藤」1971/7 、8
藤をめぐる父親と娘との思い出
「ひのき」1971/ 9、10、11
意思を持つ木
「杉」1976/1、3
尾久島の縄文杉
「木のきもの」1976/4
木の樹皮を着物の柄や素材に見立てる
大井川寸又峡のひめしゃらー羽二重
「安倍峠にて」1976/6
静岡奥地の安倍峠の楓
「たての木よこの木」1976/9
木の死んだの、死んだ木
「木のあやしさ」1977/1
静岡県大谷嶺
各地の崩壊現場の様相
「杉」1977/2
テトラポットへの興味
「灰」1978/1、2
桜島の降灰
「材のいのち」1978/4
斑鳩 古塔再建
材として生き続ける木
「花とやなぎ」1978/5
桜と柳
「この春の花」1981/8
都内の桜 三春の滝さくら
「松楠杉」1982/10
老樹を見て歩く江戸川の松、四日市の楠
福島の杉
「ポプラ」1984/6
ポプラの日本での扱いの難しさ
もはや、レビューというより 読んだ証拠でしかない。m(_ _)m
父・幸田露伴の影響
幼いころから露伴に連れられて山や寺社を歩き、木や草に目を向ける習慣を身につけています。文が「木」に特別な親近感を寄せるのは、父との記憶が土台にあります。
「生きもの」としての木への想い
倒れてもなお芽を吹く、伐られても材となって生きる。文は木を「人の一生」と重ね、死と再生の象徴のように見ています。特に「材のいのち」「たての木よこの木」などは、その思想が色濃いです。
老いと死への思索
文が「木」を書き始めたのは60代後半以降。自分自身の老いを意識し始めた時期であり、老樹や倒木を見て「生の余韻」や「材としての生き延び」を考えています。これは作家自身の生き方とも響き合います。
日常生活と旅のまなざし
文の旅は取材や依頼ではなく、自分の関心に基づく小旅行。日常生活に根ざした感受性を持ちつつも、各地の樹木を訪ね歩きます。
女性としての感覚
「木のきもの」に見られるように、樹皮や木肌を布や装いに喩えるのは、文独特の視点です。自然と生活文化を架橋する感覚は、文のエッセイの魅力のひとつです。
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作者が折に触れて書いてきた木に対しての15の随筆を死後にまとめたエッセイ集。
作者の深い洞察、素直な視点、少しのユーモアが混じっており、1編1編がとても読み応えのあるものとなっていた。
「木のきもの」という着物の知識が問われる章もあるにはあったが、基本的には知識がなくても読んでいて楽しめる内容となっており、ストレスなく読めた。
個人的には「ひのき」の章が好きだった。木の歴史というものに触れ人の性格と似た部分があることを匂わせながら、大工からするとどうしようもないアテという材木の頑固者への作者の思いやりのある視点やそれでもヒノキであることを否応なく思い知らされるハードボイルドさが、神妙な心持ちにさせる読後感を残していた。 -
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ネタバレ「紅葉黄葉ほど美しい別れ、あるいは終り、ほかにあるまい。いのちの退き際に、華やかに装いを改め、さりげなく、ためらいもなく、居場所をはなれてしまう。はなれて散り敷けば、どこに舞いおりようと、姿よく納まって美しい」
今年はどうしたことだろう。GWも過ぎてしまった五月の今日も、五月晴れという言葉があるにもかかわらず、まるで似つかわしくない天候だった。気持ちよく晴れ渡る青空など、今年の五月に限っては、とんとお目にかかれない。いつになっても春先のことわりの如く、夕刻から夜半にかけては気温が下がり、肌寒く、明け方の空が薄々と白んでくる時刻ばかりが日増しに早くなるばかりの季節感。夜更かしというものでもなく、どうしようもなく就寝時刻がずれ込むばかりで、雀が目を覚ます頃になって、ようやく布団に潜り込むという生活習慣。日々繰り返される僕の日常の異常さ。
穏やかな夕暮れには、エレクトリックギターの歪んだノイズと不明瞭な英詞、ゆったりとしたリズムで気を紛らわす。しかし、それだけでは、どうしようもない気持ちが溶け残り、翌日の忙しなさへの不安を募らせるばかりで、刻々と寂しさを増すばかりだった。
窓から見える隣家の柿の木の、梢が高くなっていたことに気づいた。すでに空き家となっており、庭木など手入れが行き届いていない。隣家の玄関口の、百日紅の木などは、今年はいまだに葉を吹かない。枯れたのだろうか、と安易な予想も、もはや疑いの余地がなくなりかけていた。人が手をかけないと“木”は調子を崩すものだ。
斜向かいの古く大きな二階建ての家屋も空き家となり、すでに解体され現在は空き地になったために、その奥の、幼馴染宅の庭木が見えていた。彼の桜の木は数年ごとに剪定されているのは知っていた。適切な管理のもとで、彼の木は、いま葉桜の盛りを迎えていた。来月には、空き地の新たな所有者が新居を構えるための工事が始まるらしい。建物が完成してしまうとなれば、おそらくあの葉桜も、この春で見納めだろう。
『木』とだけ表紙に記されている。
その一文字から、視界が広がる気がした。
僕は僕なりに“木”について思い入れがあるからだ。自然という言葉から連想するのは真っ先に木々の存在であり、写真を撮りに雑木林を巡り歩くことを長年の愉しみにしていた。僕の町の、山沿いにある神社の、奥の山道を登ると“禊殿”跡地にたどり着く。神秘的な空間であり、いつだったか、カモシカに遭遇したこともある。見上げた先が霞むほど大柄な針葉樹の木立に囲まれ、幾重にも、木々は深々と重なり重なりし、空気が冴え、遠くの音しか聞こえなかった。その場に立つと次第に心細くなり、写欲も霧消し、足速く山道を下ることなど、幾度もあった。肌で感じる畏れのような、気圧されるほどの迫力を、僕は“木”から感じていた。
“木”の存在感。著者自身が感じていたであろう感覚を、僕は自身の経験から理解できた気がする。“木”は愛でるものであり、畏れるものであり、憧れでもあるという実感。いま、このときを逃してしまうと取り返しがつかないという切実さは、自然を知ろう、関わろうと願うほどに強く感じるものです。
「こんなにきれいな老いの終りが、ほかにあろうかと、紅葉をうっとりと見るのである」
いずれ、そんな季節を迎えることは、なにも寂しいことじゃない。見た目の“きれい”ばかりではない、胸の奥に秘めてこそ、と思いました。 -
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ネタバレ初読みの幸田文さん、文章が始終綺麗でテンポが良く、良い文章とはこういうののことをいうのだな。
面白いかというと、私にとってはそうではなかった。あまり興味が湧かず、読むのに骨が折れた。
全体を読んで感じたのが、作者の共感性の強さ。人よりも圧倒的に木が登場するのだが、人にも木にも、たちまち深く共感して、お節介という言葉が適切かはわからないけれど、その境地まで達する。その温かく何事にも突っ込んでいく作者の様子に温かさを感じ、ほっとさせらた。
解説は、佐伯一麦さん。とても読み応えがあった。
解説の中で、サマセット・モームの『要約すると』が引用されていた。
「良い文章と言うものは、育ちの良い人の座談似ているべきだと言われている」
はー、確かに。同時に読んでいた谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」も、この本も、正しくその通り。高貴な人が目の前で長々と話しているかのような印象を受ける。そして品が良い。
変にこねくり回した表現は使わないけれど、
(私にとっては)あまり聞き慣れないぴったりと当てはまる言葉も時には使いながら、
それでも主張がわかりやすくさっぱりしている。
特に好きだったのが、父親と藤の花を見に行った所。情景や、お二方の心待ちまでもが、空気や匂いまでも伴って伝わってくるようで、愛しい箇所だった。
また、作者の、「何事も、1年めぐらないと確かではない。せめて四季4回は見ておかないと話にならない」という態度が印象的だった。
心に残る文の数々
◯夏の檜は見るからに、その生きる騒音を、幹の中に内蔵していることが明らかだった。しかも、体内の音ばかりでなく、もっと伸びる、もっと太る、といった意思のようなものまでを示していた。こんな姿を秋の檜からは、どう想像できよう。 36
◯細根は、木という仕組みの末端だが、仕組みの末端が負っているその努力、その強さ。人に踏まれ、赤むけになって、黙って濡れている投網型の根を見ていると、木は一生、住居をかえない、ということへ思いがつながる。生まれたところで、死ぬまで生き続けようと、一番強く観念しているのは根に違いない。62
◯やはり1つの道を貫いてきた人の目はさわやかであり、目が確かだから、杉がどれほど大きかろうと、見たものはきちんと心に納められ、心に納まりがあるから、言葉も自然にいい言葉が出てくることになる。71
◯親切が染み込んでくる時、こちらは一つ覚えにおぼえ、以後ずっとそれを力にする。一歩先に立って歩きながら、淡々とそう教えてくれた山の人の、首から肩へかけてのむっくりと、頑丈な姿を忘れないのである。76
◯老樹と、中年壮年期の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、すべての階層がこの林では揃って元気なのです。将来の希望を託せる、こういう林が私たちには1番、いい気持ちに眺められる林なんです。
最後、「ポプラは名残を惜しみにきた私へ、なんと愉快な踊りを贈ってくれたことか。」というところ、涙が出そうでした。
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Posted by ブクログ
関東大震災(1923年9月1日)前後の東京を舞台に姉と弟の日常が描かれています。女流作家・幸田文はその時代の空気を丁寧にすくい上げています。
昭和のはじまりを知ることができる名著として、また産業革命と共に広まった結核の猛威を垣間見れる作品としてもオススメ。
初出は1956年1月から九ヶ月間に連載された「おとうと」。私が手にした文集は1959年の活字印刷。旧仮名使いが続出するのでGoogle検索を多用しました。それでも読みやすく、さすがの文学家系でした。
印象に残るのは、主人公の姉は結核を患う弟と喫茶店でアイスクリームを注文する場面です。その直後に写真館で肖像を残そうと姉に提案する罹患者の孤立は、2020年のコロナにも重なる日常でした。