あらすじ
樹木を愛でるは心の養い、何よりの財産。父露伴のそんな思いから著者は樹木を感じる大人へと成長した。その木の来し方、行く末に思いを馳せる著者の透徹した眼は、木々の存在の向こうに、人間の業や生死の淵源まで見通す。倒木に着床発芽するえぞ松の倒木更新、娘に買ってやらなかった鉢植えの藤、様相を一変させる縄紋杉の風格……。北は北海道、南は屋久島まで、生命の手触りを写す名随筆。(解説・佐伯一麦)
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Posted by ブクログ
文庫本の1冊としてはとても薄い、にもかかわらず、内容は濃かった
著者の好奇心と行動力がすごい
言及されているのは50年以上前の風景なので、今では全然違っていることも多そうだけど、それを差し引いても読み応えがあった
機会を見て、また何度か読み直したい
欲を言うなら、専門家の解説があったらもっと理解が深まったように思う
ただ、エッセイ集であることを考えるとそれがありなのかどうかよくわからないので(個人的にはありだが)、手元で検索しながら不明を補うことにする
新潮文庫の100冊2025
Posted by ブクログ
2-3年前から登山を好きになった自分にとっては、木や山をもっとちゃんと見たいと思わされる本だった。
が、良かったのはそこじゃない。
なにより、幸田文の書く文章である。根が土中にそれを張るように、思ったこと感じたこと、あとは彼女の轍がつらつらと放り込まれ、生き生きとしていると感じた。「イカれた」といったぶっきらぼうだが下品ではない表現を時たま見ると、愛らしさでたまらない。
草木山に対する、背伸びもしなければちぢこまるわけでもない彼女のあっけらかんとした境地に、なんだか救われる。
読書をはじめてから、「出会えて良かった」と初めて心から思える本でした。
Posted by ブクログ
薄い本からは想像出来ないほどの清々しさがあった。
幸田文の「木」をタイトルとした15のエッセイだ。
著者の「おとうと」を読み終わり、積読しているこの本を引っ張り出してきた。幸田文のワールドにどっぷり浸かって、なんていい文章を書くんだろうと心地よさでいっぱいだ。
木についてのエッセイは長年コツコツと積み重ねた様子がある。文量は少ないがどの作品もしっかりと主張があるし学びが多い。
解説は佐伯一麦、こちらもこの本と著者について語ってくださる。解説から読んで欲しい…そんな一冊でもある。
Posted by ブクログ
いやこの表紙じゃないんだけどね、わたしの持ってるのは。。
『PERFECT DAYS』で平山さんが求めてたのと同じやつ(わたしも彼と同じく古本屋で100円で購入)。その表紙のほうが全然かっこいい。
その昔、幸田文を見つけては買っていた時期があり、買ったものの読んでいなかった作品。上記映画に出てきてびっくりして読んでみた。
いや面白い。幸田文さんは率直だ。素直だ。そのような姿勢で、感じたことをそのままあぶり出すかのような文章が素晴らしく魅力的だと思う。
たとえば、「杉」のこんな文章。
「本当のことを打明ければ、私はおびえていた。おびえているから考えることもなみを外れるし、並外れを考えるから、またそれにおびえる。この杉は、なにか我々のいまだ知らぬものに、移行しつつあるのではなかろうか、などと平常を外れたことを思ったりして、だいぶイカレていたのだが、同行皆さんの厚い好意の手前、感じたままのあしざまはいえない遠慮があり、その遠慮で、イカレをかくした。」
その文章の魅力を、巻末の「解説」で佐伯一麦さんがサマセット・モームの文章を引用し、実に的確に語っておられる。
モームいわく、良い文章とは、育ちがよく、礼儀を尊重し、生真面目すぎもせず、つねに適度であり、『熱狂』を非難の眼で見なければならない、という。
そして幸田文さんの文章はまさにこれに当てはまると。
実に同感です。
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なお「木のきもの」を読み、樹皮に興味がわいてきた。
「木は着物をきている、と思いあててからもう何年になるだろう。北海道へえぞ松を見に行ったとき、針葉樹林を走りのぼるジープの上で当惑したことは、どれがえぞ松だか、みな一様にしかみえず、見分けができないことだった。仕方がないので、目的地へついてから、教えを乞うた。あなたは梢の葉っぱばかり見るから、わからなくなっちゃう。幹の色、木の肌の様子も見てごらんといわれた。つまり、高いところにある葉や花にだけ、うつつを抜かすな、目の高さにある最も見やすい元のほうを見逃すな、ということである。そのときに、これは木の装いであり、樹皮をきものとして見立てれば、おぼえの手掛かりになると知った。」
「木は着物をきている」という発想が面白くて、ジョギングの最中、樹皮ばかり見るようになった。もともと桜が樹皮だけでわかる唯一の木だったけど(子どものころ桜の木に登ってたから)、楠を覚えて、そしたら他の場所でも「あ、楠だ!」とわかるようになり、楽しい(字を覚えた子どものよう)。
先日はジュゴンの肌みたいだなぁと思って興味をもっていた木が、「ヤマモモ」だと知る。
わたしは葉っぱを見ずに樹皮ばかり見ているので、葉にも目を広げつつ、少しずつ木の種類をわかるようになっていきたい。
Posted by ブクログ
人生を共にしたい本
木の話なんだけど、確実に人間が生きる上で大切なことが書いてある
「人にも木のように年輪があって…」とかどっかで聞いたような生半可な教えではなかった。若いわたしにはまだまだ分からないような核心があった。時が経ったら読み返して、どんな気持ちになるのか知りたい。
文字量は多くないが、その分無駄が一切ない。
こんなに美しい文を久しぶりに読んだ。なんとも言葉では言い表しにくい感覚。
著者の人格、今まで積み重ねてきた人生を読んでいるような気持ちにさせられる。「尊敬」としか形容できない…
書末の解説を読んだら十数年かけられて出来上がった作品とのこと。丁寧にひとつひとつ書かれたものなんだなと、忍耐力にまた感服…
Posted by ブクログ
「幸田文 木」この字面だけでもう、手に取らずにはいられませんでした。
幸田文さんの名前は知っていても、著書を読んだことはありませんでした。ある時ふとこの本を見かけ、この潔いタイトルだけで引き込まれてしまったのです。
「幸田文 木」。なんとも気持ちがいいこの字面。シンプルで強くはあるけれど、どこかあっけらかんとした軽妙さもある。これが「高橋和巳 石」とかだったらもう、たとえ文庫本でも函入のハードカバー本のような重厚さがあるでしょう(何を言っているんだ?)
様々な木との触れ合いを書き、木のあるがままの尊さや、木のある暮らしへの感動を書いたエッセイです。著者の、木への人並みならない想いが伝わります。
綺麗な文章なのにえらぶったところがなく、読んでいて気持ちのいい文体です。着物の襟はピシとして乱れはないけれど、けして肩がこるほど締め付けてはないといったような、芯のある優しさが文章から感じられます。
なにしろ文章が丁寧なんです。いやに丁寧すぎて細いことをちまちま長たらしく書くのでなくて、そこに無理のない丁寧さ。些細なことを誇張して膨らませたような無理な力や、てらいがありません。
「屋久杉を見に行った」はまだエッセイの題材として見せ所が沢山ありそうですが、「古紙回収に古新聞を出した」というだけのことでここまで丁寧かつ豊かな文を書けるのは、著者の感受性の豊かさによるところでしょう。自らの心の動きを丹念にすくい取り、言葉を紡いで、文章を編んでいます。読後の満足度はとても高くて、「いい本を読んだな」と素直に思えます。
とりわけ好きなエピソードは、著者が幼い娘と植木市に行った時の話です。
著者の父・幸田露伴が財布を著者に託して、孫である著者の娘にこれで好きな木や花を買ってあげなさいと言うのですが、高級な藤の鉢植えをほしがる娘をごまかし、二番目に欲しがった安い山椒の木を著者は買い与える。それを知った露伴が著者を叱りつける場面が描かれているのだけど、もう全文を引用したいくらいに、味わい深いワンシーンなのです。
さすがは文豪・幸田露伴、言葉巧みに理屈ぽく娘を問いつめます。淡々とした口調が活字だと余計に短調に感じられて、露伴の恐ろしさが際立っています。要は、金銭的な卑しさによって子どもの感性の芽を摘んでしまった浅はかな行為を厳しく咎めているのですが、その厳しさの裏に、おさな子の感性を育てることをここまで重要視しているのかという、孫への思いが見えるのです。なぜか読んでいる自分が露伴の孫になったような気分になり、露伴じいちゃんに可愛がられて嬉しいような、くすぐったいような気持ちになりました。
老木となったポプラの木が、立木としてのキャリアを終えてマッチの軸木になっていく様を工場に見に行った話も印象的でした。工場に響く機械音のリズムと、コンベアの上を整列して流れていく軸木を見て、阿波踊りを連想し愉快な気持ちになる著者の可愛らしいこと。高い感受性は自分の人生を楽しくする技能だと教えられたような気持ちです。
Posted by ブクログ
もっとも好きな本の一つ。木の命が、存在が、迫ってくる。これほどつぶさに描ける感受性、表現力、追い求めて全国へ木を見に行く情熱。何年かけても表現する胆力。心から尊敬しあこがれる。
Posted by ブクログ
新潮文庫の紹介文を引用すれば
人それぞれに履歴書があるように、
木にもそれがある。
それを基調として、北海道から屋久島まで
木々を訪ね歩いた随筆集。
映画『PERFECT DAYS』
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』(2023年公開)では、主人公・平山(役所広司)が日常の中で穏やかに生きる姿が描かれますが、彼が手に取り、繰り返し読む文庫本が幸田文『木』でした 。
幸田文さんは、幸田露伴の次女。
幸田露伴からの木々の教育は受けていたとしても
文章を書き始めたのは、離婚して父を介護し
その父の死を契機として。
初出は、丸善の機関誌『學鐙』
どうして、それが今年の新潮文庫の100冊かと
普通なら考えるところ、今作は
kumaさんや本とコさんが映画がらみで
レビューをされていてすんなり受け入れた次第です。
小説でない作品を読むのは苦手なので
覚書に変えて
「えぞ松の更新」1971/1
北海道、倒木更新
「藤」1971/7 、8
藤をめぐる父親と娘との思い出
「ひのき」1971/ 9、10、11
意思を持つ木
「杉」1976/1、3
尾久島の縄文杉
「木のきもの」1976/4
木の樹皮を着物の柄や素材に見立てる
大井川寸又峡のひめしゃらー羽二重
「安倍峠にて」1976/6
静岡奥地の安倍峠の楓
「たての木よこの木」1976/9
木の死んだの、死んだ木
「木のあやしさ」1977/1
静岡県大谷嶺
各地の崩壊現場の様相
「杉」1977/2
テトラポットへの興味
「灰」1978/1、2
桜島の降灰
「材のいのち」1978/4
斑鳩 古塔再建
材として生き続ける木
「花とやなぎ」1978/5
桜と柳
「この春の花」1981/8
都内の桜 三春の滝さくら
「松楠杉」1982/10
老樹を見て歩く江戸川の松、四日市の楠
福島の杉
「ポプラ」1984/6
ポプラの日本での扱いの難しさ
もはや、レビューというより 読んだ証拠でしかない。m(_ _)m
父・幸田露伴の影響
幼いころから露伴に連れられて山や寺社を歩き、木や草に目を向ける習慣を身につけています。文が「木」に特別な親近感を寄せるのは、父との記憶が土台にあります。
「生きもの」としての木への想い
倒れてもなお芽を吹く、伐られても材となって生きる。文は木を「人の一生」と重ね、死と再生の象徴のように見ています。特に「材のいのち」「たての木よこの木」などは、その思想が色濃いです。
老いと死への思索
文が「木」を書き始めたのは60代後半以降。自分自身の老いを意識し始めた時期であり、老樹や倒木を見て「生の余韻」や「材としての生き延び」を考えています。これは作家自身の生き方とも響き合います。
日常生活と旅のまなざし
文の旅は取材や依頼ではなく、自分の関心に基づく小旅行。日常生活に根ざした感受性を持ちつつも、各地の樹木を訪ね歩きます。
女性としての感覚
「木のきもの」に見られるように、樹皮や木肌を布や装いに喩えるのは、文独特の視点です。自然と生活文化を架橋する感覚は、文のエッセイの魅力のひとつです。
Posted by ブクログ
作者が折に触れて書いてきた木に対しての15の随筆を死後にまとめたエッセイ集。
作者の深い洞察、素直な視点、少しのユーモアが混じっており、1編1編がとても読み応えのあるものとなっていた。
「木のきもの」という着物の知識が問われる章もあるにはあったが、基本的には知識がなくても読んでいて楽しめる内容となっており、ストレスなく読めた。
個人的には「ひのき」の章が好きだった。木の歴史というものに触れ人の性格と似た部分があることを匂わせながら、大工からするとどうしようもないアテという材木の頑固者への作者の思いやりのある視点やそれでもヒノキであることを否応なく思い知らされるハードボイルドさが、神妙な心持ちにさせる読後感を残していた。
Posted by ブクログ
「紅葉黄葉ほど美しい別れ、あるいは終り、ほかにあるまい。いのちの退き際に、華やかに装いを改め、さりげなく、ためらいもなく、居場所をはなれてしまう。はなれて散り敷けば、どこに舞いおりようと、姿よく納まって美しい」
今年はどうしたことだろう。GWも過ぎてしまった五月の今日も、五月晴れという言葉があるにもかかわらず、まるで似つかわしくない天候だった。気持ちよく晴れ渡る青空など、今年の五月に限っては、とんとお目にかかれない。いつになっても春先のことわりの如く、夕刻から夜半にかけては気温が下がり、肌寒く、明け方の空が薄々と白んでくる時刻ばかりが日増しに早くなるばかりの季節感。夜更かしというものでもなく、どうしようもなく就寝時刻がずれ込むばかりで、雀が目を覚ます頃になって、ようやく布団に潜り込むという生活習慣。日々繰り返される僕の日常の異常さ。
穏やかな夕暮れには、エレクトリックギターの歪んだノイズと不明瞭な英詞、ゆったりとしたリズムで気を紛らわす。しかし、それだけでは、どうしようもない気持ちが溶け残り、翌日の忙しなさへの不安を募らせるばかりで、刻々と寂しさを増すばかりだった。
窓から見える隣家の柿の木の、梢が高くなっていたことに気づいた。すでに空き家となっており、庭木など手入れが行き届いていない。隣家の玄関口の、百日紅の木などは、今年はいまだに葉を吹かない。枯れたのだろうか、と安易な予想も、もはや疑いの余地がなくなりかけていた。人が手をかけないと“木”は調子を崩すものだ。
斜向かいの古く大きな二階建ての家屋も空き家となり、すでに解体され現在は空き地になったために、その奥の、幼馴染宅の庭木が見えていた。彼の桜の木は数年ごとに剪定されているのは知っていた。適切な管理のもとで、彼の木は、いま葉桜の盛りを迎えていた。来月には、空き地の新たな所有者が新居を構えるための工事が始まるらしい。建物が完成してしまうとなれば、おそらくあの葉桜も、この春で見納めだろう。
『木』とだけ表紙に記されている。
その一文字から、視界が広がる気がした。
僕は僕なりに“木”について思い入れがあるからだ。自然という言葉から連想するのは真っ先に木々の存在であり、写真を撮りに雑木林を巡り歩くことを長年の愉しみにしていた。僕の町の、山沿いにある神社の、奥の山道を登ると“禊殿”跡地にたどり着く。神秘的な空間であり、いつだったか、カモシカに遭遇したこともある。見上げた先が霞むほど大柄な針葉樹の木立に囲まれ、幾重にも、木々は深々と重なり重なりし、空気が冴え、遠くの音しか聞こえなかった。その場に立つと次第に心細くなり、写欲も霧消し、足速く山道を下ることなど、幾度もあった。肌で感じる畏れのような、気圧されるほどの迫力を、僕は“木”から感じていた。
“木”の存在感。著者自身が感じていたであろう感覚を、僕は自身の経験から理解できた気がする。“木”は愛でるものであり、畏れるものであり、憧れでもあるという実感。いま、このときを逃してしまうと取り返しがつかないという切実さは、自然を知ろう、関わろうと願うほどに強く感じるものです。
「こんなにきれいな老いの終りが、ほかにあろうかと、紅葉をうっとりと見るのである」
いずれ、そんな季節を迎えることは、なにも寂しいことじゃない。見た目の“きれい”ばかりではない、胸の奥に秘めてこそ、と思いました。
Posted by ブクログ
初読みの幸田文さん、文章が始終綺麗でテンポが良く、良い文章とはこういうののことをいうのだな。
面白いかというと、私にとってはそうではなかった。あまり興味が湧かず、読むのに骨が折れた。
全体を読んで感じたのが、作者の共感性の強さ。人よりも圧倒的に木が登場するのだが、人にも木にも、たちまち深く共感して、お節介という言葉が適切かはわからないけれど、その境地まで達する。その温かく何事にも突っ込んでいく作者の様子に温かさを感じ、ほっとさせらた。
解説は、佐伯一麦さん。とても読み応えがあった。
解説の中で、サマセット・モームの『要約すると』が引用されていた。
「良い文章と言うものは、育ちの良い人の座談似ているべきだと言われている」
はー、確かに。同時に読んでいた谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」も、この本も、正しくその通り。高貴な人が目の前で長々と話しているかのような印象を受ける。そして品が良い。
変にこねくり回した表現は使わないけれど、
(私にとっては)あまり聞き慣れないぴったりと当てはまる言葉も時には使いながら、
それでも主張がわかりやすくさっぱりしている。
特に好きだったのが、父親と藤の花を見に行った所。情景や、お二方の心待ちまでもが、空気や匂いまでも伴って伝わってくるようで、愛しい箇所だった。
また、作者の、「何事も、1年めぐらないと確かではない。せめて四季4回は見ておかないと話にならない」という態度が印象的だった。
心に残る文の数々
◯夏の檜は見るからに、その生きる騒音を、幹の中に内蔵していることが明らかだった。しかも、体内の音ばかりでなく、もっと伸びる、もっと太る、といった意思のようなものまでを示していた。こんな姿を秋の檜からは、どう想像できよう。 36
◯細根は、木という仕組みの末端だが、仕組みの末端が負っているその努力、その強さ。人に踏まれ、赤むけになって、黙って濡れている投網型の根を見ていると、木は一生、住居をかえない、ということへ思いがつながる。生まれたところで、死ぬまで生き続けようと、一番強く観念しているのは根に違いない。62
◯やはり1つの道を貫いてきた人の目はさわやかであり、目が確かだから、杉がどれほど大きかろうと、見たものはきちんと心に納められ、心に納まりがあるから、言葉も自然にいい言葉が出てくることになる。71
◯親切が染み込んでくる時、こちらは一つ覚えにおぼえ、以後ずっとそれを力にする。一歩先に立って歩きながら、淡々とそう教えてくれた山の人の、首から肩へかけてのむっくりと、頑丈な姿を忘れないのである。76
◯老樹と、中年壮年期の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、すべての階層がこの林では揃って元気なのです。将来の希望を託せる、こういう林が私たちには1番、いい気持ちに眺められる林なんです。
最後、「ポプラは名残を惜しみにきた私へ、なんと愉快な踊りを贈ってくれたことか。」というところ、涙が出そうでした。
Posted by ブクログ
帯ではなくカバー自体に「アカデミー賞国際長編映画賞部門ノミネート『PERFECT DAYS』で話題の一冊!」と印刷されていた。実際、それだけでこの2年間に6刷もしているので効果あるのだろう。もちろん、わたしもそれで買った。映画の方は、このままいけば今年のマイNo. 1になる。本書は、未だ物語が動き出す前に映画の主人公が寝る前に少しづつ読んでいた本である。つまり、主人公平山さんの信条そのものを現していた本でもあったというべきだろう。
そういう風に読んでみると、幸田文の木々に対する思い出や、態度は、まさにPERFECT DAYSそのものだったような気がする。
いっとき、わたしは野の花に凝ったことがある。県北の瀑布への小径を毎夏通い、「あゝ今年も此処にこの花が咲いている」と確認することを繰り返した。花はひと夏で萎むけど、植物そのものは上手くいけば永遠に近い生命を生きるのだと実感した。「そう思う自分に酔っているのだ」と友だちに批評された通りに、暫く続け、尾瀬に行って雨で酷い目に遭って夢から醒めたようにその趣味は消えた。
映画の平山さんは、ほぼ毎日、ほぼ同じ公園の同じ木の「木漏れ日」の写真を撮り続けて、おそらく数年は経っていて飽きる様子がない。幸田文さんも、えぞ松の更新に生死輪廻を感じ、3代に渡る木花の生育に想いを馳せ、檜に履歴書を見、七千歳の縄文杉の過酷な一生を想う。ほぼ一生をかけて、木々の「秘密」を追っていた。平山さんも、幸田文さんも、木への愛情は、わたしのような一朝一夕のものではなく、本物である。だからこそ見えてくるものがある。
倒木の上にえぞ松は芽を出す。そうすると真一文字にえぞ松は「更新」する。時間にして250年か300年か。「森はゆっくり巡るのだろうか、人があまりにも短命なのだろうか。」
時々出逢うことのある何百年という大樹に向かい、わたしはいつか聴いておこうと思う。わたしはここまで生きて来て大丈夫だったんだろうか?と。
Posted by ブクログ
花や滝、もっと大きな単位の自然を見に行こうと思ったことはあっても、「木」を見に行こう!と思ったことはないかもしれない。身近な存在なのに。
この本を読むきっかけは映画ですが、読んだことで相乗効果がうまれた気がする。
作者が「木は生き物」という思いが強いというか当たり前のことと思っている。印象的だったのは、台風で薙ぎ倒された木たちを、「集団死傷」と表現していること。
もう殺人事件並み。
そして、「死んだ木」と「木の死んだの」の違いなんて考えたこともなかったけど、木の死んだのは「無垢無苦の天然死」という表現は感覚的にも分かりやすい。
まずは生きている木、屋久杉を見に行きたくなりました。
Posted by ブクログ
ひと月ほど前、映画『PERFECT DAYS』を観ました。とてもいい映画でした。役所広司さん演じる平山は、毎日フィルムカメラで木々がつくる"木洩れ陽"を撮り続けます。その一瞬は二度と同じではないと‥。そして平山が読んでいた本が本書でした。
この映画に触発され本書を手にしました。幸田文さん(幸田露伴次女、1990年没)の15篇の随筆集で、92年に単行本が刊行された遺著のようです。ただ、それぞれの初出は1971〜1984と、古いものは半世紀も前の文章ということになります。
草木に心を寄せるのは、心が潤み、感情が動き余韻が残るからと、幸田文さんは記しています。
漠然とではなく、五感を使って木を観て綴られた飾らない文章‥。古さや味気ない印象はまるでなく、むしろ瑞々しさ、自然の奥深さまで見えるように伝わります。樹齢の時間軸からすれば、50年前(の文章)は、"ついさっき"くらいなのでしょうか‥。
倒木更新を始め、引用したい部分が多々あるのは、名随筆たる所以かもしれません。木へ真摯に向き合い、人生を重ね寄り添い描かれた世界は、樹齢千年以上の杉だけの呼名「屋久杉」のように、決して廃れないでしょう。
そこに立っている木の周辺環境・状況にまで思いを巡らせ、木の物語を読み取る幸田文さん。その眼差しは、『PERFECT DAYS』の主人公・平山の、喜びと哀しみに重なるものがありました。繰り返し読みたいと思える一冊でした。
Posted by ブクログ
映画PERFECT DAYSの主人公平山さんが読んでた本を読んでみようと手に取った本。平山さんは木漏れ日が好きなんだけど、そんな人が読んでそうなエッセイだった。
いくつかの木にまつわるエッセイ集になっていて、難しいかなと思ってたら読みやすい文体。木の表情とか描写が細かくて、一瞬で目を離しそうな風景を1ページ余裕で書かれてる。
読んでるうちにぼーっと眠くなってしまったりして、何回も同じページを読んだりして全部ちゃんと読めてない気がするけど、半分くらいは読めたのかな。
木のことを犬猫とか人間とかと同じくらい好きで、感情持ってる人なんだなと思った。
今まで通りすがりにも気にしてなかった街路樹や遠くの山も、これから少し目に入った時に意識が変わりそう。
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幸田文(あや)の15篇からなる随筆集。父は露伴。
樹木に逢って感動したいとの思いから、1971年1月『えぞ松の更新』から、1984年6月『ポプラ』まで、13年半にわたり、北は北海道から南は屋久島まで、実際に見に行って木と触れ合った感想が書かれています。
木は動かないが故に、漠然とただそこに「ある」という感情を抱きがちですが、筆者はそれを「いる」という感情で接している。そのあたりが、木を見に行った先々で会う、木を木材として利用している人たちとの考え方の違いとなっていて、読んでいて興味深かったです(どちらが正しいとか間違っているということではないです)。
内容は、どの随筆も学びが多かったですが、特にハッとしたのが『松 楠 杉』の中で、著者の「野中の一本立の大木は素敵」の発言に対し、植物のことを教えてくれる先生の「すてきと思うのは勝手だが、なぜ一本なのか、そこを少し考えてみなくてはネ」とたしなめられたところ。気付きって大事だなと思いました。
あと、登場する職人さんたちは、木材として利用して生計をたてているので、木をどう有効に利用するかを考えています。真っ直ぐで木目にクセがない利用価値の高い木は切られ、曲がって節くれだらけの木は切られずに長生きする…視点の違いですが、なんだか老荘思想を思い出させますね。
老子「曲(きょく)なれば即(すなわ)ち全(まった)し、枉(ま)がれば則ち直(なお)し、窪(くぼ)めば即ち盈(み)つ」
荘子「直木(ちょくぼく)は先(ま)ず伐(き)られ、甘水(かんせい)は先ず竭(つ)く」
Posted by ブクログ
2冊目の幸田文作品。「父・こんなこと」よりも読みやすい。立木をじっくり観察するなんてことしばらくしてないな。でも小さい頃は木に登ったり、木に触れたりするのが好きだったよなと読みながらぼんやり考えた。
p49 すべての年齢層がそろっていて、一斉に元気であることが、即ち将来性のある繁栄なのだ、というのである。
→木の話なんだけどついつい職場を連想してしまった。人も木も同じかも?
p53 外へ外へと新生するから、傷も、傷に連鎖して生じた狂いも、年月とともに内へ内へとくるむのだろう。くるむ、とはやさしい情をふくむことである。中身を労り、庇い、外からの災いの防ぎ役もかねるのが、くるむということ。生きているものは人も鳥けものもみな、傷にはくるみを要する。木も当然そうする。くるんで、庇って、変形を補って、そして成るべくは無傷の木と同じく、丸い幹に仕上げていこうとする。
Posted by ブクログ
木にまつわる随筆15作。エッセイではなく随筆と言いたくなる硬さと重みを感じる。北から南へ、木を見るためにさまざまな土地を訪れる。自らの足で、人におぶわれて、なぜ、そうしてまで行くのか。それは、きっと、実物を目の前にした時にわかることだ。木を一つとっても、苗木、若木、老樹、材木とさまざまな形がある。自然に任せたものが美しいかといえば、そうも限らず。だからといって人の手が加わったものが美しいわけでもなく。おそらくその後ろにある物語や人の営みを考えると見方が変わる。そういうものなのだろう。
Posted by ブクログ
木を題材にこんなに文章が書けるなんて、というのが第一印象。
父の幸田露伴が、3人の子供にそれぞれ花や果実のなる木を自分のものとして与え、幼い頃から葉を見て当てさせる、という遊びをしていた、なんて件から、木を身近な存在として感じる環境にいたからこそなんだろうな。
Posted by ブクログ
映画パーフェクトデイズで主人公が読んでいた本。
多くの木々がわかめとして芽生え、少しづつ根を張り、その環境の中にある生物と共生しながら成長し、朽ちていく様は人間の生き方と何も変わらないと思った。
Posted by ブクログ
PERFECT DAYSの役所広司の気分で読んだ(^^)
樹木を擬人化しすぎて感傷的に捉えすぎるところが気になったが、著者の深い心の動きが丁寧に表現されていると思った。
藤の項で、父露伴が、子育てにあたって、植物を楽しむ心をこどもに持たせることができたら一生の財産だ、という信念を語る場面がある。ここが一番心に残った。
Posted by ブクログ
映画『PERFECT DAYS』で
主人公が読んでいた文庫本です。
就寝前に少しずつ。
たしかにそんな読み方が似合う。
人にそれぞれの履歴書があるように、
木にもそれがある。
(P43)
と考えて、林の木々を見に行ったり
木を木材にする現場を見せてもらったり。
木材にした後も「木は生きている」
木造の建物が落ち着くのは
それも関係しているかもしれませんね。