辻堂ゆめのレビュー一覧
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ネタバレ【収録作品】
「刑事(デカ)の食レポ」誉田 哲也
「あなたは知る由もありませんが」辻堂 ゆめ
「Black Beady Eyes 黒きつぶらな君の瞳」矢樹純
「沼の底、さらに底」川瀬七緒
「神通力」秋吉理香子
「いじめの子を殺しに」平山夢明
「刑事の食レポ」は、姫川玲子シリーズ。といっても、魚住久江が過去に関わった事件の話。
「あなたは知る由も……」は、だから何? と思ってしまった。
「黒きつぶらな君の瞳」は、この中では最もミステリらしい話だと思った。
「沼の底……」は、どっちもどっち。不愉快でしかない。
「神通力」は、イヤミスではなく温かい結末。
「いじめの子を……」は、テーマはともかく描写が汚すぎて生理的に受け付けない。
現代ならではの話は気がめいる。なるべく現実的でない、作り物の、よくできたミステリが読みたい。 -
Posted by ブクログ
う、うーん。。面白くなくはないけど私には合わないかも。
ある日起きたら誰も自分を自分だと認識してくれない、そして本来の自分は自殺しているっていう物語の大枠の設定はとてもいいんだけど…日本中の誰もに愛されるシンガーソングライターっていうのはちょっと夢を詰め込みすぎた感じがする。多分、大学内では大人気だった学生バンドのボーカル程度で全然進められる話だったところを無理矢理夢を詰め込んで日本一のシンガーソングライターだったり売れっ子タレントだったりカリスマバンドマンだったりの設定にしちゃったから、SFでただでさえ現実味が薄いのにさらにもっと現実離れしていく感じ。
最後とかも、いいシーンではあるんだけど、これから戸籍どうするの〜とかいっくんなんで学校どうするの〜どうやって生きていくの〜みたいな現実的な詳細を少しだけでいいから書いてくれたらもうちょっと受け入れられたかな。
犯人も途中から丸わかりだし、若干?かなり?無理矢理感あるし、ミステリー要素はほぼ皆無。ミステリー要素と現実味を全く求めずSFファンタジーとして楽しむのがオススメ。
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Posted by ブクログ
1964年と2020年。それぞれの時代で東京オリンピックを迎えようとしていた華やかさが時代の陽だとしたら、その陰で生きる人の生きづらさと、そこからの解放を描いたのがこの小説だと思います。
話は二つの時代を並行して描きます。2020年のパートは高校生の娘と認知症の母を持つサラリーマンの泰介が語り手となります。
この泰介がまあ、好きになれない(笑)。認知症の母親に対する態度も、お義母さんを介護している妻に対する態度も横暴だし、仕事も60手前にして慣れない部署に異動させられたのは同情するけど、そこでの勤務態度も褒められたものじゃない。
今時の困ったおじさん、そのものというか、こんな語り手で読み進められるのか、と序盤は思いました。
一方の過去パートは泰介の母・万津子視点で話が進みます。九州の大家族の家から集団就職で東京に出てきて、紡績工場で働いていた万津子。そんな彼女のもとに地元から条件のいいお見合いの話が舞い込み……
現代パートでは、認知症の母、ぎくしゃくした妻や娘との関係、上手くいかない仕事や職場といった、現代の生きづらさが、
そして過去パートでは、夫や家制度に縛られた特にこの時代の女性の生きづらさや苦難が焦点として当てられます。
万津子がつぶやいた「東洋の魔女」という言葉。そして、認知症を患いながらも決して息子に明かそうとしない過去。この謎が母と息子、それぞれの時代の生きづらさがほぐれていくとともに、明らかになっていきます。
現代パートの泰介の態度と、そして過去パートで万津子が夫や子育てに悩み、そして家族にすらも疎まれていく苦難が、なかなかしんどくて読み進めるペースが上がってこないところも多かったのですが、そこが鮮やかに転換していってからは、そこを耐えて読んだかいがあったな、と思いました。
泰介の態度や心理の意味も、後半の事実が明らかになってみると全然意味が違って見えてくるし、万津子パートの終盤で、子どもへの愛や希望を抱く描写も、キラキラと輝いているように思えてくる。
そして二つのパートが交差して迎えるエンディングも美しく、何より母の愛の大きさを強く感じました。 -
Posted by ブクログ
小説自体が規範的な主張をすることはないのだが、(少なくとも私には)そのまま受け入れることが困難な台詞や考え方が登場している。例えば、男女の在り方や結婚観について、スポーツと部活動の存在意義について。小説内におけるこれらの記載と私が求める理想との差異が明らかになることで、小説が描いているであろう現実と私との距離が明らかになる。私はどうしてもこの差異を縮めるべきだと思ってしまうから、この小説が何か規範的な主張をしているのでないかと読んでしまう。しかし、筆者の真意は明らかでない。筆者はただ、淡々とある女性とその息子の成長過程を記述的に追っていく。特に、過去から現在の日本に温存されている女性蔑視を、肯定も否定もせずそのまま描いている。泰介の内語が放つジェンダーへの固定観念などに対し、万津子の故郷に抱いたものと同じ違和感を抱いた。読者それぞれがこの違和感を抱くことを、筆者は狙ってやっていると思われる。しかし、社会的な圧力を被ることで生じる女性の苦しみを改善すべきとは主張しない。あくまで記述にとどめている。
一方で、ADHDに関しては、薬物療法や認知社会行動療法などの「治療」によって、当事者が自ら苦しみの根源を断ち切ろうと行動する。また、そのような行動が可能となっている。日本における「女性」の苦しみは社会的構造に根本的な原因があるため、当事者が何とか乗り越えるという仕方でしか解消できないのだが、ADHDは「治療」によって解消が可能となることがあるのである。その対比が描かれているように思われた。だが筆者は、ADHDに関しても治療すべきとはしていない。あくまで脳の癖である。当事者が身を置く環境を変えれば当事者の苦しみは軽減するかもしれず、そのため、ADHDが絶対に治療すべき対象であるとか、当事者に治療を施さなければならないなどとは言わない。
「べき」は「できる」を含意するというが、万津子という女性のあり方を修正することは万津子にはできないため、「べき」を含んだ物語にはならない。さらに、ADHDは治療「できる」ものの、「べき」まで拡張される性質のあるものでもない。しかし、女性のあり方やいわゆる発達障害を抱えた人に対して、本来はどうあるべきだったのだろうかと思いを巡らせてしまうことはある。本来のあるべき姿、もしくは理想が実現するのはいつなのか、誰によってなのかは分からない。泰介は、少なからず理想に近づいたのかもしれない。しかし、万津子の人生は置き去りにされた。だから、未来に想いを馳せる、つまり萌子という女性を想ったのだろう。
ADHDの中年男性の内面がこの小説のようなものなのか気になった。