今まで持っていなかったものを努力して持った時、その瞬間は満たされる。
しかし勘違いしてはいけない。
そらは獲得の喜びであって、所有の喜びではない。
所有する喜びと、獲得する喜びを、混同してはいけない。
獲得は、ある意味で報酬になる。
しかし所有は報酬ではない。
所有はリスクだ。
失うことへの不安、管理の手間、執着心と、いくつものネガティブな要素を運んでくる。
喜びはモノを所有しなくても満たせる。
逆に、うまく手放していけば、本当に欲しいものへと手を伸ばすことができる。
金で満たされるものに時間と出費を投じるのは、無意味である
気配りを捨てろと言ったが、本当に捨てるべきは恐れだ
人間関係が気まずくなる恐れ
自分の立場が悪くなる恐れ
いじめられる恐れ
ほとんどの人の行動を制限しているのは、こんな恐怖だと思う
面と向かって本音をぶつけるのは勇気がいるかもしれないし、結果を考えて、怖くなるのは当然だろう
でもずーっとおそれているたまけで、あなたの苦しみや悩みは消えるのだろうか?
結果を恐れて何も行動せず、ただ苦しみが重なっていくだけの生活をこの先、何年も何十年も変わらずに過ごしていく、その覚悟はあるのだろうか?
恐れを捨てるには、本音で生きるしかないよだ
僕はこれまでたくさんの著名人と対談してきた。
なかには話題が合わなかった人もいる。意見が完全に対立した人もいる。だからといって、相手を嫌いになることはないし、リスペクトが下がったりもしなかった。
人間関係において、お互いの価値観が異なっていることがわかるよは、思考の質を高める上で、非常に大事なのだ
閉鎖された環境で仕事していると勘違いしやすくなってしまうが、価値観や意見が同じであることは異常なのだ。
価値観や意見がバラバラであることが普通。
それは社会全体の正しい姿でもある。
一緒にいて楽しくない人たちに好かれようと努力すると、自分を見失ってしまう。
人生において、自分を捨ててはいけない。絶対にいけない。
誰かがあなたについてどう思おうが、それはなんの問題でもない。相手側の問題だ。
他人が誰を嫌おうと、何を考えようと、あなたの人生には関わりがないのだ。
そこに気づいたら、好かれたくもない人のことなど捨てよう。
相手が自分をどう思っているか、どうしたら意見が合うのかと、悶々と考えることに人生を奪われるなんて、あまりにももったいない。
人とはぶつかり合う勇気をもつべきだ。
本音を述べるのは大事だが、客観的な視点は捨ててはいけない。自分の今の意見は客観的にみておかしくはないだろうか?ただ独善的でダメなところから逃げようとしているだけじゃないのか?冷静な検証が必要だ。
言いたいことばかりいって、中身が空っぽだと周囲に思われてしまったら。なかなか味方はできない。
僕からみて、特に多いと感じるのは、全てを他人のせいにするタイプだ。
身の回りの都合の悪いことを他人のせいにして、自分のポジションを高く見せたり、正当化を図ろうとする。
他人のせいにすること。それは自信のなさのあらわれだ。自覚できないのには、困ったものだ。
捨てることに寂しさはついてまわる。
寂しさを避けるために捨てる決断をやめて現状維持を選ぶ人もいるだろう。
それは絶対に間違っている。
ノスタルジーな情緒に流されてはダメだ。
捨てると決めたら捨てられる側の寂しさなんか無視してもいい。
冷たいのではなく、成長を遂げていく上では当然の話だ。
捨てることに踏ん切りをつけられず、現状にとらわれたまま、新しい世界へ飛び出していくことはできない。
まとわりつあたものを切り捨て、堂々と見送られる側の人生をいこう。
実体験から言うわけではないが、もし起業を望んでいるとしたら、別れたくない友達とは、一緒に会社はやらない方がいいんじゃないのと伝えておこう。仲良しこよしの家族チームでいたいと願っていても、メンバーが各々年齢を重ねて経験と知識をつけていくうち、最初の仲間でかな関係は必ず変化する。必ずだ。
そしてお金の関係が加わる。一万、2万ならいいけれども、100万、1000万の単位になってくると、人の本質的な価値観が現れる。投資会議では激しい口論になることもありえる。
ぶつかり合っても気にしない、ビジネスライクな関係ならともかく、親友とか幼なじみのような相手だったら、何倍も気まずくなるだろう。
やがて相手は会社からさる。すごく複雑な思い出を残して。ときには禍根となることもあるだろうを
もちろんそのリスクを背負ってでも起業する選択はある。ただ、どんなに仲良しの相手でも、ビジネスにおいてはいつか切り捨てる対象になりえるのだ。
僕は経営者時代、社員に対して会社に忠誠心や結束力を求めることはなかった。また同僚と友だちになる必要もないと思っていた。
大事なのは会社が働き手それぞれにとって、好きな仕事ができる場として機能しているかどうか。不満がないなら仕事を続けるし、そうでなくなったら辞める。シンプルでいいのだ。
僕はビジネスにおいて、共通の目的意識を持った同志のような存在はいなかった。やりたいことを進めていくのに、利害関係と気持ちの方向性が合致していれば、とりあえず一緒にビジネスする関係は築ける。
同志のような存在は、これからもいないだろう。つくろうとも思ってない。
手がけている事業や今後やりたいことについて、人に話すことはあっても、組織として共有しようという発想がないからだ。
ステージごとに人間関係はリセットする。
しがみついているのは、むしろあなたの方かもしれない。
僕はビジネスを始めて、見える世界のステージがハイスピードて変わっていった。変わるごとに、出会った友だちや仕事仲間とは話が合わなくなり、捨ててきた。
思い切りがいいのではない。
どこか自分に課していた部分もあっただろう。
次のステージでうまくいかなかった時に、以前のような交友関係に戻れるという保険をかかたくなかった。
仕事で成功していくにつれて、人間関係のリセットを繰り返し、新しい刺激的な友だちを作っていく。それが僕のスタイルだ。
人間関係をリセットすることは、痛みを伴うこともある。
オン座エッジの創業メンバーが去った時は、気持ちの上では完全に整理できていたけれど、心の奥では多少の痛みを感じたものだわ、
捨てる痛みはゼロにはできない。
しかし痛みを感じないくらい忙しく、やりたいことに熱中していればいい。
痛みがあるというのは、ヒマな証拠なのだ。
友だちをリセット。わたしにはできないと言う人もいるかもしれないが、そんなことはない。
むしろ、いま大事にしている友だちや仕事仲間に、何かが縛られていないか?見つめなおしてみるといいと思う。
もしくは捨てられたくないと、必死にしがみついているのは、あなたの方なのかもしれない。
愛着とか縁起とか、どうでもよかった。
欲しいものがはっきりしていれば、捨てるべきものもはっきりするのだ。
ビジネスはひとりではできない。
しかし、つながりを価値化しすぎて、捨てることを恐れていたらいけない。
いらなくなったり、気持ちが離れた相手は、切り捨てよう。
会えて捨てると告げる必要はないけれど、来るもの拒まず、去るもの追わずの精神で接するのが最良だ。
アウェイで必死に努力すれば必ず、新しい獲得がある。
ビジネスのアイデアも生まれる。
多くの人は、安定した、傷つかない場所に居続けようと願うものだが、そんな場所はどこにもない。
安全なところでも必ず、やがては時流や人の出入りが関わり、さまざまなリスクが生じるだろう。
これから生きてくのに大切なのは、アウェイに揉まれて得た経験値だ。
逆に言うと、アウェイのなかにこそ、長い安定を過ごせるヒントがある。
失敗を承知で大胆に飛び込むシロウト革命にこそ、自分の殻を破る機会が存在するのだ。殻を破らなければ、自信なんてつくわけない。
自己評価なんて捨てて、厚かましく、アウェイにとびこまう!
そして僕の経験した人生最大のアウェイといえば、結婚だったといえる。妻、家、子どもと、男にとって最も束縛の強いモノを持ってた時代があるのだ。
捨ててはいけないものがもしあるもすれば、それは自分自身だ。
僕が僕自身に嘘をつき、肌感覚で嫌だ!ということを許してしまったら、激しく後悔するとわかっていた。
自分自身とは、己の存在意義のようなもの。生きている意味を支えるわ心の根幹だ。
もうおしまいだ、なんていう状況は存在しない。
あるよは、もうおしまいと決めつける、自分の諦めだ。
どんな場面だろうと、対処する方法は残っている。
自ら学ぶのでも、誰かを使うのでもいい。
やれることをやって、いまより良い状況をつくり出すのは、自分の取り組み方次第だ。
そんな当たり前すぎることを、僕は長野刑務所のなかでも実践していた。
人は必ず嘘をつくから、それを前提に付き合う。100%の信用が担保された人間など存在しない。
肝心なのは改善と再発防止だ。
切り替えて最適解を考えるようにしよう。
大事なのははい次!の精神だ。
ずーっと怖がり続けて対策を練らず、事態を放置しているのは最悪だ。
前にも述べたように、僕には仲間とか身内とか言う考えがない。
極端に言うと数年来の付き合いの知り合いも、初対面の人も、ごくフラットに考えている。この人はもういいやという気持ちになったら、そこで関係は捨てるのだ。たとえ長年の信用があったとしても、いらなくなったら、もういらない。
信用という言葉の持つ温かさ、癒され感に、とらわれてはいけない。大事なのは、いまと、これからだ。
信用する友人はいてもいい。けれど、自分の成長が阻まれたり、一緒にいる面白みが減って行っても、付き合う理由はあるだろうか?
信用が関係をつなぎとめる絶対条件であってはならないと思う。それこそ不自由な縛りではないか。
信用を絶対化するのではなく、いまとこれからに思考を向け、いらなくなった関係は捨てていこう。
逆に捨てられる側になったとしても、それはそれで仕方ない。決して恨んだりしないことだ、
そもそも信頼関係とは何なのだろう?
相手を信じて頼ったとして、相手は結局人間だ。強いところもあれば弱いところもある。ときには保身で嘘をつくこともある。
信用していたはずの相手でも、裏切る時は裏切る。
それは善悪の問題ではなく、人間だから、当然なのだ。
ショックが大きい時は落ち込んでもいいけれどわいつかは立ち上がらねばならない。はい次!の気持ちでやり直しをしなくてはいけないのだ。
状況を受け入れて、できることを積み重ね、次へ繋げていくこと。罰ゲームの中でも、きっとできる。
罰ゲームは必ず終わる。それは揺るぎない事実だ。
終わる時を信じて、自分で楽しみを創作しよう。
幸せのしきい値の固定を捨てよう。
厳しい環境でも幸せを見出す。それが人の知恵の発揮のしどころではないな。落ち込み沈んでいるだけの選択は、知恵と想像力の放棄だ。
個人での所有をほとんど認められない刑務所暮らしをしてみて、不自由ではあったけれど、不便を感じたことはなかった。
ただその一方で、もしかしたら共有力の強さは人よりも強いのかもしれない。
楽しみを見つけたり作り出すのがうまいといってくれる人がいる。これはたしかに自分でも上手い方だと思う。
そして、こうした楽しみを独占するのはいやなのだ。
別に心と心がつながった、親友が欲しいわけではない。というか、そんな存在はいらない。信用は絶対ではないし、結局その相手への依存が生じてしまって、面倒な問題が起きやすくなる。
とりわけ、僕の場合は毎日の過ごし方が多動的で、全部について来れるタフな人なんているわけがない。少し仲良くなっても、以心伝心を築くところまで、たどり着けるわけがない。
気持ちの完全な合致は無理。だけどポイントごとに、つながることはできる。
このビジネスをやるにはこの人、ゴルフはこの人、カラオケはこの人、、、とうまく付き合いを分散して、楽しみの共有の幅を広げていく。少なくともぼくにはそれがあっている。
ひとりの人とか、ひとつの関係にこだわる必要なんてない。
時代は急速にシェアリングに傾いているのだ。
シェアリングエコノミーは、使われてないものを、みんなで順番に使い回し、経済活動を進めていこうという設計思想がもとになっている。
文明は独占ではなく共有へ移行しようとしているのだ。
体験の楽しみを最大化していくためには、昔はある程度のお金が必要だった。
けれど、その出費を誰かと分担し会えば、同じぐらいの楽しみを安価で、手軽に得られる時代になってきた。
お金はいらない。大事なのは体験を取りに行く行動力だ。
僕たちは所有よりも共有を選ぶ方がいいというより、選ばざるをえなくなっていくと思う。
何かを持っていても意味がない。
何をしていたか?が経済評価に置き換えられていく。
現代は所有よりもアクセスが大切な社会だ。
旧世代の大人たちが享受してきた自由の大部分は、物を持つ権利によって実現されてきた。どれだけ稼ぎ、何を作り上げたか、何を持っているかがアイデンティティの根幹だった。
だがミレニアム世代移行、デジタルネイティブな世代は違う。自己と所有の強いつながりは壊れつつある。
ものなんか捨てて、体験に飛び出そう。
シェアの広がった世界で楽しく生き残る、最適な方法だ。
マインドシェア
恋人は20%ぐらいのシェア。
先日、とある20代の女の子が、彼氏は20%くらいでいい、と言っていた。人生におけるシェアは、彼氏の分は2割でちょうどいいと考えているそうだ。
マインドシェアの発想は、僕も非常によくわかる。
結局のところ、ひとつのものにマインドシェアの多くを、奪われたくはないのだ。
できるだけ効率的に気持ち良く、楽しみを生み出すように、マインドシェアを分散したい。
そのためにシェアリングエコノミーは最適なツールとなり得るし、物を捨てることは、大いに役立つ。
マインドシェアがひとつのものに占められていると、必ず不自由をうむのだ。
お金、結婚、人間関係、過去の思い出、、、それらのものは、執着というブレーキになって、ポジティブな行動を妨げるだろう。
シェアリングの考え方は、昨今の人々に蔓延している。ゼロリスク症候群の軽減にも役立つと思う。
例えば原発再稼働や子宮頚がんワクチンの反対意見。ゼロリスクが絶対!と言う声は思いの外大きい。
人生においても、リスクがゼロにならないと挑戦できない。と言って、何にも行動しない人は、まだ多い。
はっきり言うが、この世界、リスクがゼロのものなんてあるわけがない。
それこそがゼロ。
ゼロリスクを証明しろというのは、理論上では完全に破綻していて悪魔の証明に他ならない。
ただ、リスクはゼロにはできないが、分散と共有によって軽減することは可能だ。
こだわりを捨てて、リスクを他人と分け合う図々しさを持っていいのだ。
必ず誰かがあなたを助けてくれる。
行動した人には、必ず手を差し伸べてくれるのだ。
裁判の後に、本当に多くのものを失ったが、そのかわり多くの新しい価値観に囲まれて、今楽しく暮らしている僕がいうのだから、間違いない。
捨てるべきものについて、主に語ってきた。ここからは逆に、捨ててはいけなああものをいくつか論じていこう。
まず、繰り返し述べた時間だ。
ぼんやりしているだけで過ぎ去り、死へのゴールが、着実に近づいていく。
無為に時間を過ごすことは、最も愚かしいポイ捨て作業だわ、
時間は取り戻せない。
誰かに特別に多く振り分けられてもいない。
公平で容赦なく全ての人に与えられた有限の資源だ。
時間とはすなわち命である。
どのように時間を使うか?という意識に、全神経を傾けて欲しい。迷ったら時間の早い方を選ぶ。これが鉄則だ。
もうひとつ、僕が決して捨てられないものは好奇心だ。少しでも前に進みたい、現状を変えたい、やりたいことを始めたい、と本気で思うこと。そうすれば必ず好奇心は立ち上がり、大胆な行動力へとつながっていくはずだ。好奇心がなくて困っているという人がいたら、何をやりたいのか、自分にとって本当に大切な目的が整えられていないのだ。
宇宙開発は未来に夢を持つ仕事だ。知恵や経験をシェアして、多くの人と力を合わせて成功へ導けば良いと思う。
僕は僕自身のコピーをたくさん欲しいと本気で思ってる。誰かが堀江貴文的なものを進化させて僕の想像をかなえ、さらに凌駕する未来を想像してくれれば、ちょっと嬉しい。
ものは結局個体の入れ物だ。
拡散も継承もできない。
そして、ものはいつかかならず尽きる。やりたいことをいつまでも残し、耐用度を上げて継承していくには、ミームがあればいい。
ものが捨てられないのは、欲しいモノが明確ではないからだ。
大して欲しくないものに囲まれていることで、欲しいものをわかっていない自分の不充足感から逃げている。モノをたくさん持ち、偽物の安心を得ている。
僕は、人間関係は、意外とかさばらないと思っている。
人間関係に質量があるわけではない。なんとなく維持するだけならばスペースは取られない。もちろん、時間泥棒のような真似をしてくる鬱陶しいつながりはさっさと切って仕舞えばいいと思うが、一昔前と違って格段にケアは楽になった。
本当に面倒ならブロックすればいいだけだし、いちいち切るのもめんどくさいなら、つながり程度はいくはでも持っていていい。
こいつは自分のものだ!という所有。
こいつがなければ自分は生きていけない!あるいは自分がいなければこいつは生きていけないという依存。
そしてこいつが自分のもとから離れるのが許せない!という執着。
99%の確率で勘違いしているだけの、こんな人間関係における3つの思い込みさえ捨てられれば、気楽にゆるーくつながっておいて、それがきっかけで、不意の縁が得られることもある、ら
ある意味、僕が宇宙開発で捨てたのは、技術者としての個人的なこだわりだ。
他にも事業を進めていくために、捨てたことはたくさんある。
でも最後に、絶対に捨ててはいけないモノが残った。
言葉にするのは難しいけど、打ち上げ実験を成功させた今、あのときのなすびさんチョッキを取り戻せたような気持ちになっている。
僕は決して、特別な能力の人間でもないし、モノにとらわれなかった賢者でもない。
ただ、やりたいことに没頭する年月を重ねるうち、たまたまナスビさんチョッキを取り戻す幸運を得られただけだと思っている。