山田文のレビュー一覧
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他人から見たその人物像と自分自身が見て欲しい人物像は違う。本人が関心があるエピソードは、他人が覗き見したいものではない。
どうしても性格が破綻している人のほうが、面白い話題で満載になってしまうのは致し方ないのだろう。スティーブ・ジョブズや本田宗一郎のような破天荒さはまったくない。
ビル・ゲイツ氏は経済的にも恵まれ、良き両親のサポートを受けていたことがよくわかった。特に弁護士の父親がゲイツ氏のマイクロソフト設立当初の法務面でのあれこれを支えていたから、その後の急成長を迎えることができたのだと感じる。
続編もあるようなので、一応読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
知らない人はいない億万長者、天才の人、ビルゲイツ
彼の子供時代から起業までが描かれている
現在の姿から想像がつかないが、彼は子供時代は問題児だった
頭は切れるが強調性にかけ、好き嫌いがハッキリしている
そんな我が子を冷静で温厚な父親と、パワフルで社交的な母親はそれぞれのやり方で見守る
ビルゲイツの成功にはこの両親の後ろ盾があったからだろう
彼はコンピュータおたくだった
プログラミングに魅力され、夢中になった
それが根本的な彼のエネルギーだ
彼の唯一無二な特長は、集中力なのだろう
大規模なプログラムを作り切る力、自分の会社の成長を成し遂げる力、やはり突出している
スティーブジョブズとの接点も少し書かれており興味深かった
ビルゲイツ、今までより少し親しみやすくなった -
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そもそも「忙しい」とは何だろうか。日々の無駄な会議やタスクに追われ、忙殺されることを本著では「偽仕事」と呼んでいる。偽作業という言葉でも個人であれば当てはまるのかも知れない。
コロナ禍(2020-)からオンラインでテレワークの効果で業務の改善や効率化が功を奏して業績が改善したという実例もあり、それはテレワークが縮小した現在(2026)においてもその改善された業務の影響は残っている。勤務形態はどうだろうか、日本においてはUNIQLOやみずほ銀行、リコー等などが週四勤務制度を導入したという話もあった。実際に業務改善された結果だろう。実態や内情はわからない。圧縮されたストレスがあるかも知れないし、そうでもないかもしれない。ただ、導入されワーク・ライフ・バランスが世間が求めて企業という会社組織が応えた事実はそこにある。
さて、個人レベルであれば、無駄な作業や仕事は山ほどあるだろう。本著が指す忙しいのに退化する人にとって、スマホから距離を取り、本来私やあなた自身がやりたいことに時間という質を集中して向き合う時間と作業が必要だと示唆して説く。組織レベルであれば、役職または信頼信用関係が成り立つ中で、無駄な会議や議事録、単純作業は削減し、本来の仕事に向き合う時間というのは、これらなどを削ぎ落とした先に得られるのだろう。
現代(2026)において、AIという便利なツールが出てきた。それを扱う企業や組織も増えてきている。個人でも扱う人は現時点で日本の人口の2割弱という状態だが、自然と普及していくのだろう。働き方も変わり、副業や起業、投資方法等までもやり方次第でハードルは低くなっている。しかし、倫理観やビジネス、法的妥当性含めて、扱う人のリテラシー(ある分野に関する知識やそれを活用する能力)が必須であり、人間側も常に学習し対話しながら発信していく必要がある。
本書が伝えたいことは、私が思うに仕事であれば本来何の為に仕事をしているのかを整理し、無駄を削ぎ落とし、シンプルな仕組みへと適応していくことではないだろうかと思う。組織でも会社の数だけ個人と同様に最適化された仕組み作りが必須であり、今後の生存戦略として重要な意識であり視点である。何の為に今の行動や働き方が何に繋がるのか、時間という戻らない価値の資産をどう大事に向き合えるかが、今後の個人も会社組織も社会も向き合うべき意識と視点と思索を与えてくれる書であるといえよう。 -
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プア・ホワイト(白人労働者階級)が置かれている過酷な状況を鮮やかに描写している。著者が自身の人生を、驚くほど赤裸々に綴っている点には特に圧倒された。また、印象的だったのは、著者が自身の不遇なルーツを肯定的に受け入れている点だ。しかし、現代社会においてはその「変わらない気質」が時に障壁となる矛盾も描かれており、「それは本当に守るべきものなのか?」と考えさせられる場面もあった。なぜ彼らはトランプを熱狂的に支持し、大統領の座にまで押し上げたのか。その背景にある心理を知ることは、日本における右傾化の現在地を考える上でも、多くの共通点があると感じた。
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◾️全体を通して
全体的に言いたい事(偽仕事を避けろ)は一貫していた。この意識を持てただけで収穫ではある。
ただ、本のボリュームにしてはエピソードトークが多く、引用文献が少なかったのがすこし残念・・・涙
終盤の仕事に関する考察タイムみたいな中身の濃さが中盤もあれば、もっとダレなかったかも。
◾️面白かった箇所、シーン
偽仕事(pseudowork)に注意。
会議を無駄にやらないことを意識したい
(特に管理職になると、無駄なことをやろうとしがち。新しさや横文字などに捉われず、外連味のない仕事、をポリシーにしたいと改めて感じた。)
あと、仕事というものの解釈について解いた終盤の部分は納得。仕事は、お金を稼ぐ手段であるだけでなく、自己実現/アイデンティティとの密接な関係があること、外部な世界と自分の交流であること(この要素がpseudoworkには少ない)、などさまざまな意味がある、という仕事論は、過去に読んだ「暇と退屈の倫理学」や、「プロ倫」でも言及されていた内容に近い。「疎外」という見覚えのあるワードも出てきた。
見せかけの忙しさに忙殺されず、暇を作る勇気を持ち、自分にしかできない活動(実質的な仕事・副業やボランティアなど、外の環境との交流を持つこと) に従事すること、など「暇と退屈」との共通点がいくつか見受けられた。
あと細かい点として、日常業務においてポモドーロテクニックを使う事、諸刃の剣のパーキンソンの法則を意識する事はいずれも注意しようと思った。
◾️解釈
医師が医局をやめづらい理由は、就くまでに勉強してきた・かけてきた労力が大きいことや、急性期病院の社会的立場が比較的高いことなどが理由にあると考えた。
「暇と退屈」といい、この作品といい、自分にとって真に意味のある活動(仕事でも仕事じゃなくても)を大切にする気持ちは今後も持ち続けなければいけないと感じた。
自分の仕事場でも、会議を減らしたいと強く感じた。また、自宅に帰ってからも、本質的でない活動(たとえばpodcastの音声調整など笑)に時間を取られすぎているので、実質的な活動時間を増やす事、仕事効率化を意識しようと思う。
◾️浮かんだ疑問や質問
会議を減らすために自分ができることはなんだろう…立ち話的な感じでまずはカジュアルに、管理職側のスタッフと減らせる時間がないか、すこし話してみてもよいかもしれない。
また、仕事の効率化・自動化・AI利用などに注力していきたいので、そのためにできる事を考えたり本で調べていきたい。 -
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トランプ大統領が誕生したアメリカの土壌を知りたく、ずっと探していた本が書店に並んでいたので手に取った。
第二次トランプ政権の副大統領J .D.ヴァンス著。「ヒルビリー」とは田舎者、「エレジー」とは哀歌とか悲哀の意味。(アメリカの繁栄から取り残された白人たち)の副題にある通り、かつて鉄鋼業などで栄えたラストベルト地帯の荒廃、白人労働者の悲惨な日常生活を描く。ヴァンス自身が「本書の第一目的は、問題を抱えて生まれてきた人たちが自分たちの問題をどう感じているのかについて、真実の物語を伝えることにある。」と書いてあるとおり、自身が生まれ育った白人労働者階級としての半生を描き綴っている。
一歩引いて俯瞰してみると、日本も世界の繁栄から取り残されており、いわゆる中間層のサラリーマンの近未来が白人労働者と重なってみえた。
トランプ現象が世界に広がり日本にも影響を与えていることも必然に感じる。明らかなフェイクニュースや陰謀論、現状の不満は他者へ向かう。悪いのは人のせい。そう思わざるを得ない日常生活が白人労働者階級の人々の目の前に広がっていた。
海兵隊に入隊して心の奥底にヴァンス自身がもつ厭世的なものの見方が問題の根深さを著していた。
一 能力は関係ないといいたいわけではない。もちろんあるにこしたことはない。ただ、自分を過小評価していたと気づくことと、努力不足と能力不足とを取り違えていたと気づくこと。それにはとても大きな意味がある。
だから、白人労働者層のどこを1番変えたいかと問われるたびに、私はこう答えてきた。「自分の選択なんて意味がないという思い込みを変えたいです」海兵隊は、外科医が腫瘍を切除するように、その思い込みを私から取り除いてくれた。 -
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ヴァンスの自叙伝。率直な言葉で、貧困家庭から階段を上ってきた過程を振り返り、何に驚き、自分の人生をどう軌道修正しようとしてきたのかを語っている。
経済的に恵まれず、ドラッグに手を出した母親と何度も変わる“父親候補”、という環境の下で幼少期から少年期を過ごした彼が、粗雑な性格ではあっても愛情を注いでくれた祖母に支えられて必死で生き抜いてきた姿は、そういう場所が、世界があると知識では知っていても、やはり想像を絶している。「こうすべきだ」と正論を述べるのは簡単だが、客観的に正しいと思われる行動を起こす、その行動を継続することがいかに難しいか、ましてや、意欲を削ぐような環境に置かれても、その正論を考え続けることができるのは、やはり相当な意思の強さがなければ不可能だろうと、読みながら考えた。
トランプの熱狂的な支持者が、何を考えトランプに何を託しているのか、今のアメリカには”荒療治”が必要と考えている人の背景が多少理解できたかもしれない。トランプの横に座るヴァンスは今、心の中で何を振り返り、どんなことを考えているのだろうか。 -
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本書では、現代の政治でアイデンティティが重要な役割を果たしている理由を理解しやすくるために、「アイデンティティ」を特定の意味で用いる。まずアイデンティティは、自分のなかの真の自己と、その内なる自己の価値や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる。人類史上ずっと、個人は自分が暮らす社会とのあいだに葛藤を抱えてきた。ただし、内面にあるほんものの自己にこそ本質的価値があり、外の社会はそれをいつも不当に評価しているという考えが根づいたのは近代になってからである。内なる自己が社会のルールに合わせなければならないのではなく、社会のほうが変わる必要があると考えられるようになったのだ。
内なる自己は、人間としての尊厳の基礎である。しかし、尊厳の性質は時とともに変わってきた。かつての文明の多くでは、戦いで命を危険にさらす戦士など、わずかな人にだけ尊厳が与えられていた。他方で、自分の意志で主体的に行動する力を持つ人間はみんな本質的に価値があると考え、その考えに基づいてすべての人間に尊厳を与える社会もある。さらには、記憶と経験を共有する大きな集団の一員であることによって尊厳が得られる社会も存在する。
最後に、自尊心は承認を求める。いくら自分の価値を自分で感じていても、他者が公にその価値を認めなかったり、ときには侮辱してきたり、こちらの存在を無視したりすれば、承認への欲求は満たされない。自尊心は、他者から尊敬されることで生まれるものだからである。人間は自ずと承認を求めるので、現代の意味でのアイデンティティはたちまち「アイデンティティの政治」に発展する。そこでは個人が自分の価値を公に承認されることを要求する。したがって「アイデンティティの政治」は、民主革命から新しい社会運動まで、ナショナリズムやイスラム主義から現在のアメリカの大学キャンパスでの学生運動まで、現代世界の政治闘争の大部分を包含している。実際、哲学者ヘーゲル[訳注:ドイツ、一七七〇~一八三一]は「承認をめぐる闘争」こそが人類史の究極の推進力であり、近代世界の出現を理解する鍵だと論じた。
ここ五十年あまりのグローバリゼーションから生じた経済格差が、現代政治を説明する主な要素ではあるが、経済的な苦しみは屈辱や軽蔑の感情と結びつくことではるかに強くなる。それどころか、経済的な動機と理解されているものの多くは、実際には富や資産への単純な欲求を反映しているわけではない。金銭が地位を築き尊敬を購うと考えられているのである。現在の経済理論は、人間はだれでも合理的であり、だれもが自分の「効用」――物質的な幸福―――を最大化しようとするという前提の上に成り立っており、政治も単にその効用最大化を目指す行動の延長線上にあると考えられている。しかし、現代世界に生きる人間の真の行動を正しく理解しようと思ったら、単純に経済的な動機で人間を理解しようとする現在支配的なモデルを超えて、人間の行動の動機について理解を広げなければいけない。だれもが合理的に行動する力を持ち、だれもが利己的でより多くの富と資産を求めることに異を唱える人はいない。しかし人間の心理は、単純な経済モデルが示唆するよりもはるかに複雑である。現在の「アイデンティティの政治」を理解するには、まずは一歩引いて人間の動機と行動についてより深く理解する必要がある。言いかえるなら、人間の心についてのより優れた理論を必要とするのである。
ルソーが主張し、その後の世界政治の土台となったのが、社会と呼ばれるものが人間個人の外部に存在するという考えである。数多くのルール、関係性、命令、慣習が人間の可能性実現をみ、人類の幸福を妨げているというわけだ。この考え方はわれわれにすっかり染みついているので、普段意識されることはない。それが目に見えるのは、罪を犯した若者が「社会が自分にこうさせた」と申し開きをするときや、女性が周囲の男女差別的な社会のせいで自分の可能性が狭められていると感じていたりするときである。さらに大きなレベルでもこれは見られる。アメリカ主導の国際秩序によってロシアが不当に軽視されているとウラジーミル・プーチンが不満を示し、それを覆そうとしているのがその一例だ。かつての思想家たちも、既存の社会ルールや慣習の一部を批判することはあった。しかし既存社会とそこでのルールをすべて廃止し、もっと望ましいものと取り替えるべきと説く者はまずいなかった。この考えによってルソーは、一七八九年フランス、一九一七年ロシア、一九四九年中国の革命政治と結びついているのである。
これらの社会と経済の大変化によって、個人は突如として以前よりも多くの人生の選択肢やチャンスを持つようになった。昔の社会では選択肢が限られており、その限られた選択肢によって、ある人の内面が何者であるか決定されていた。しかし、新たな地平が開けたのにともなって「自分はだれか」という問いが急に意味を持つようになり、人の内面とその外にある現実との大きな隔たりも意識されるようになった。つまり観念が物質的世界を形づくり、物質的世界が特定の観念の拡散する条件をつくり出したのである。
一方で現実世界の自由民主主義国は、その土台にある自由と平等の理念を完全に実現することはできない。権利はしばしば侵害される。法律は豊かで力を持つ者と貧しくて力のない者に平等に適用されはしない。国民は政治参加の機会を与えられているのに、それを行使しないことも多さらに言うならば、自由と平等というふたつの目的のあいだには、本質的に矛盾がある。自由が大きくなれば不平等が広がることが多く、結果の平等を確保しようとすると自由が狭められる。民主主義を成功させるには、このふたつの理想を最大化するのではなく、両者のあいだでバランスをとることが求められる。個人の自由と政治的平等とのあいだで、また合法的な権力を行使する有力な国家とそれに制約を課す法律や説明責任の諸制度とのあいだで、バランスをとることが必要なのである。民主主義国の多くは、これだけでなくさまざまな政策を通じて、はるかにたくさんのことに取り組む。経済成長の促進、環境保全、消費者の安全確保、科学や技術への支援などだ。しかし、民主主義国であるための最低条件は、政治的選択の能力を持つ平等な大人として、国民を効果的に承認することにある。
この点は、狭く定義された集団にもっぱら目を向けることで生じる第二の問題ともつながっている。古くからある大きな集団から注意が逸らされてしまうという問題である。これらの集団が抱える深刻な問題は、ずっと無視されてきた。一九七○年代と八○年代に、アメリカの白人労働者階級のかなりの部分が、アフリカ系アメリカ人に比肩する最下層に引きずり下ろされた。それにもかかわらず、アメリカの地方で蔓延するオピオイド中毒や、貧困状態のひとり親家庭で育つ子どもの行く末を懸念する声は、(少なくとも最近までは)左派の活動家からほとんど聞かれなかった。今日の進歩派には、オートメーションが進むにつれて大量失業が起こる可能性や、テクノロジーの発展によって白人・黒人・男女すべてのアメリカ人のあいだで所得格差が広がる可能性に対処する大きな戦略がない。ヨーロッパの左派政党も同じ問題を抱えている。近年、フランスの共産党と社会党は国民連合にかなりの票を奪われており、ドイツ社会民主党もアンゲラ・メルケルのシリア難民受け入れ政策を支持したことで、同様に二〇一七年の選挙で票を失った。
ナショナル・アイデンティティを理論化するのはむずかしい。いまある国々は、複雑で錯綜し、しばしば暴力的で強制的だった歴史的闘争の副産物だからだ。そうした結果として生まれた国々は、民主主義の諸制度の土台としてうまく機能しているが、論争はやまず、人口、経済、政治の変化によっても絶えず問題にさらされてきた。
ナショナル・アイデンティティは、主に四つの道を通じて創り出された。ひとつめが、国の政治的な境界線を越えて人を移動させる道であり、それは入植者を新たな領土に送り込んだり、ある土地に暮らす人々を強制的に追い出したり、あるいはただその人々を殺害したり、この三つすべてを組み合わせたりすることで実現された。人々を殺害するやり方は、一九九○年代はじめのバルカン戦争では民族浄化と呼ばれ、当然ながら国際社会から非難された。しかし民族浄化は過去にほかの多くの国でも用いられており、そこにはオーストラリア、ニュージーランド、チリ、アメリカなどの民主主義国も含まれる。入植者が先住民を暴力的に排除したり殺害したりしたのである。
ナショナル・アイデンティティ創出への第二の道が、境界線を移動させて、既存の言語・文化集団と一致させるというものである。歴史上これは国の統一か分離によって成し遂げられた。統一の例は、一八六〇年代と七○年代のイタリアとドイツに見られる。分離の例としては、一九一九年にアイルランド共和国が連合王国を離脱したことや、一九九一年にウクライナが旧ソヴィエト連邦から独立を宣言したことなどがあげられる。
三つめが、マイノリティを既存の民族・言語集団の文化に同化させる道である。フランスは二○○年前には多言語の国だったが、やがてパリのフランス語がプロヴァンス語、ブルトン語、フラマン語に取って代わった。同様に、アルゼンチンやアメリカへの移民、とりわけその子どもたちは、スペイン語や英語を習得して主流文化に溶け込み、社会での地位を高めていく。中国は一見したところ民族的に均質であるように思われ、人口の30パーセント以上が漢族だといわれるが、これは三○○○年もかけてマイノリティを文化的・生物学的に同化させてきた結果である。
四つめが、ナショナル・アイデンティティを当該社会の現在の性質に合わせてつくり直す道である。多くのナショナリストの考えとは異なり、「国民」は太古から存在する生物学的存在ではない。人々によって下からも、また権力によって上からも、社会的に構築されたものである。これを構築する者は、人々の性格や習慣に合わせて意図的にアイデンティティをつくる。この一例が、インドを建国したガンディーとネルーだ。彼らは、インド社会のきわめて多様な人々を組み入れる「インドという理念」という既存概念を用いて、その上にナショナル・アイデンティティを築いた。また、インドネシアやタンザニアの建国者は、実質上、新しい国語をつくり出して、きわめて多様性に富む社会を統一しようとした。
ハンチントンは、アングロサクソン系プロテスタントだけがアメリカ人の資格を持つという意味で、イングランドのプロテスタントがアメリカ人アイデンティティの土台だと論じたのではない。彼が言おうとしていたのは、イングランドのプロテスタント入植者が、のちにアメリカが民主主義国として発展し成功するのに欠かせない文化を持ち込んだということである。重要なのは文化であり、そこに参加する人たちの民族的・宗教的アイデンティティではない。わたしの考えでは、彼の見解は紛れもなく正しい。
ハンチントンが強調する文化の一要素が、「プロテスタントの」労働倫理である。データで見ると、アメリカ人は世界のほかの国の人たちよりもはるかによく働く。多くのアジア人には劣るが、それでもほとんどのヨーロッパ人よりは勤勉だ。歴史を見れば、たしかにこの労働倫理の起源は、初期にアメリカへ入植した者たちのピューリタニズムにあるのかもしれない。しかし、いまのアメリカで一生懸命働いているのはだれだろうか?おそらく韓国人の食料品店主、エチオピア人のタクシー運転手、メキシコ人の庭師といった人たちであり、自分のカントリークラブからの配当金で暮らすイングランド系プロテスタントの子孫では必ずしもない。文化の歴史的起源がどこにあるかを知っておくのはいいが、この文化は特定の民族や宗教から切り離されて全アメリカ人の共有財産になったことも認識しておく必要がある。
現代民主主義国の多くが、重要な選択を迫られている。各国は経済と社会の急速な変化に対応しなければならず、グローバリゼーションの結果、社会ははるかに多様になった。こうした状況のなか、以前は主流社会のなかで顧みられることのなかった集団が承認を求めるようになっている。しかし、これらの集団に取って代わられた集団は、自分たちの地位が低くなったと感じており、これが憤りの政治と反動につながった。どちらの側もきわめて狭いアイデンティティに引きこもり、そのせいで社会全体として話し合い集団行動を起こす可能性が脅かされている。この道の先には、最終的に国家の崩壊と破綻が待ち構えている。
しかし、このような現在のアイデンティティの性質は変えることができる。なかには、アイデンティティは生物学的な要素に根ざしているので手を加えることはできないと思い込んでいる人もいるかもしれないが、近代は複数のアイデンティティを持つことを人に強い、そのアイデンティティはさまざまなレベルでの社会交流を通じて形成される。人種、ジェンダー、職場、教育、姻戚関係、国籍などによってアイデンティティが定義されるのである。多くのティーンエイジャーにとってアイデンティティは、自分や友だちが聴く音楽のサブジャンルを中心に形成されることもある。
アイデンティティの問題は現在、新しいポピュリスト・ナショナリスト運動、イスラム主義の戦士、大学キャンパスで交わされる論争など、数多くの政治現象の根底に横たわっている。われわれは、自分たちと社会のことをアイデンティティによって考えることからは逃れられない。とはいえ、われわれの内面奥深くにあるアイデンティティは固定されているわけではなく、必ずしも生まれによって決まるわけでもない。これを心にとめておく必要がある。アイデンティティは分断を生むこともあるが、一体化のために使うこともできるのだ。結局のところそれが、現在のポピュリスト政治に対する改善策になるのだろう。