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経済格差の拡大と社会構造の急激な変化が、ポピュリズムの台頭と社会の分断をまねいている。これらは社会から疎外された人々による平等な「尊厳の要求」に起因する。「人種、民族、宗教」などを脱し「理念」のアイデンティティーへと説く民主主義再生への提言書。
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Posted by ブクログ
筆者は、アイデンティティの尊厳が求められているとする。これを解決するアイデンティティの政治が必要であるが、これが解決が困難な状態が現れ、安易にジェンダーやLBGTのようなより狭い問題に集中する様になった。これにより、アイデンティティの尊厳を求める最も大きな中間層の要求に、既存の中道左派が応えられない...続きを読む事が、現在の課題であるとする。 移民を含めたより多くの人を巻き込むアイデンティティへの取り込みにより、解決することが出来るとするが、その具体的な方法は明確でない。 移民への言語等の文化教育も行き過ぎると、移民のアイデンティティを奪うことにもなりかねない。
ここ数年の政治や社会の対立軸に対して、ぼんやりと思っていたことを言語化してくれたような著作であった。 ”アイデンティティ”言いかえると”承認欲求”ということか。 結局は社会全体が豊かになってきたということだろう。比較の問題はあっても。 この”アイデンティティの政治”の考え方は大きな視点だけでなく、身...続きを読む近なコミュニティや会社内のことでも応用できると思う。どうすれば所属メンバー全員が生き生きと前向きになれるか。人材育成という観点で、エンゲージメントというワードが注目されてきているが、根底にあることは本書に近い気がする。
本書では、現代の政治でアイデンティティが重要な役割を果たしている理由を理解しやすくるために、「アイデンティティ」を特定の意味で用いる。まずアイデンティティは、自分のなかの真の自己と、その内なる自己の価値や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる。人...続きを読む類史上ずっと、個人は自分が暮らす社会とのあいだに葛藤を抱えてきた。ただし、内面にあるほんものの自己にこそ本質的価値があり、外の社会はそれをいつも不当に評価しているという考えが根づいたのは近代になってからである。内なる自己が社会のルールに合わせなければならないのではなく、社会のほうが変わる必要があると考えられるようになったのだ。 内なる自己は、人間としての尊厳の基礎である。しかし、尊厳の性質は時とともに変わってきた。かつての文明の多くでは、戦いで命を危険にさらす戦士など、わずかな人にだけ尊厳が与えられていた。他方で、自分の意志で主体的に行動する力を持つ人間はみんな本質的に価値があると考え、その考えに基づいてすべての人間に尊厳を与える社会もある。さらには、記憶と経験を共有する大きな集団の一員であることによって尊厳が得られる社会も存在する。 最後に、自尊心は承認を求める。いくら自分の価値を自分で感じていても、他者が公にその価値を認めなかったり、ときには侮辱してきたり、こちらの存在を無視したりすれば、承認への欲求は満たされない。自尊心は、他者から尊敬されることで生まれるものだからである。人間は自ずと承認を求めるので、現代の意味でのアイデンティティはたちまち「アイデンティティの政治」に発展する。そこでは個人が自分の価値を公に承認されることを要求する。したがって「アイデンティティの政治」は、民主革命から新しい社会運動まで、ナショナリズムやイスラム主義から現在のアメリカの大学キャンパスでの学生運動まで、現代世界の政治闘争の大部分を包含している。実際、哲学者ヘーゲル[訳注:ドイツ、一七七〇~一八三一]は「承認をめぐる闘争」こそが人類史の究極の推進力であり、近代世界の出現を理解する鍵だと論じた。 ここ五十年あまりのグローバリゼーションから生じた経済格差が、現代政治を説明する主な要素ではあるが、経済的な苦しみは屈辱や軽蔑の感情と結びつくことではるかに強くなる。それどころか、経済的な動機と理解されているものの多くは、実際には富や資産への単純な欲求を反映しているわけではない。金銭が地位を築き尊敬を購うと考えられているのである。現在の経済理論は、人間はだれでも合理的であり、だれもが自分の「効用」――物質的な幸福―――を最大化しようとするという前提の上に成り立っており、政治も単にその効用最大化を目指す行動の延長線上にあると考えられている。しかし、現代世界に生きる人間の真の行動を正しく理解しようと思ったら、単純に経済的な動機で人間を理解しようとする現在支配的なモデルを超えて、人間の行動の動機について理解を広げなければいけない。だれもが合理的に行動する力を持ち、だれもが利己的でより多くの富と資産を求めることに異を唱える人はいない。しかし人間の心理は、単純な経済モデルが示唆するよりもはるかに複雑である。現在の「アイデンティティの政治」を理解するには、まずは一歩引いて人間の動機と行動についてより深く理解する必要がある。言いかえるなら、人間の心についてのより優れた理論を必要とするのである。 ルソーが主張し、その後の世界政治の土台となったのが、社会と呼ばれるものが人間個人の外部に存在するという考えである。数多くのルール、関係性、命令、慣習が人間の可能性実現をみ、人類の幸福を妨げているというわけだ。この考え方はわれわれにすっかり染みついているので、普段意識されることはない。それが目に見えるのは、罪を犯した若者が「社会が自分にこうさせた」と申し開きをするときや、女性が周囲の男女差別的な社会のせいで自分の可能性が狭められていると感じていたりするときである。さらに大きなレベルでもこれは見られる。アメリカ主導の国際秩序によってロシアが不当に軽視されているとウラジーミル・プーチンが不満を示し、それを覆そうとしているのがその一例だ。かつての思想家たちも、既存の社会ルールや慣習の一部を批判することはあった。しかし既存社会とそこでのルールをすべて廃止し、もっと望ましいものと取り替えるべきと説く者はまずいなかった。この考えによってルソーは、一七八九年フランス、一九一七年ロシア、一九四九年中国の革命政治と結びついているのである。 これらの社会と経済の大変化によって、個人は突如として以前よりも多くの人生の選択肢やチャンスを持つようになった。昔の社会では選択肢が限られており、その限られた選択肢によって、ある人の内面が何者であるか決定されていた。しかし、新たな地平が開けたのにともなって「自分はだれか」という問いが急に意味を持つようになり、人の内面とその外にある現実との大きな隔たりも意識されるようになった。つまり観念が物質的世界を形づくり、物質的世界が特定の観念の拡散する条件をつくり出したのである。 一方で現実世界の自由民主主義国は、その土台にある自由と平等の理念を完全に実現することはできない。権利はしばしば侵害される。法律は豊かで力を持つ者と貧しくて力のない者に平等に適用されはしない。国民は政治参加の機会を与えられているのに、それを行使しないことも多さらに言うならば、自由と平等というふたつの目的のあいだには、本質的に矛盾がある。自由が大きくなれば不平等が広がることが多く、結果の平等を確保しようとすると自由が狭められる。民主主義を成功させるには、このふたつの理想を最大化するのではなく、両者のあいだでバランスをとることが求められる。個人の自由と政治的平等とのあいだで、また合法的な権力を行使する有力な国家とそれに制約を課す法律や説明責任の諸制度とのあいだで、バランスをとることが必要なのである。民主主義国の多くは、これだけでなくさまざまな政策を通じて、はるかにたくさんのことに取り組む。経済成長の促進、環境保全、消費者の安全確保、科学や技術への支援などだ。しかし、民主主義国であるための最低条件は、政治的選択の能力を持つ平等な大人として、国民を効果的に承認することにある。 この点は、狭く定義された集団にもっぱら目を向けることで生じる第二の問題ともつながっている。古くからある大きな集団から注意が逸らされてしまうという問題である。これらの集団が抱える深刻な問題は、ずっと無視されてきた。一九七○年代と八○年代に、アメリカの白人労働者階級のかなりの部分が、アフリカ系アメリカ人に比肩する最下層に引きずり下ろされた。それにもかかわらず、アメリカの地方で蔓延するオピオイド中毒や、貧困状態のひとり親家庭で育つ子どもの行く末を懸念する声は、(少なくとも最近までは)左派の活動家からほとんど聞かれなかった。今日の進歩派には、オートメーションが進むにつれて大量失業が起こる可能性や、テクノロジーの発展によって白人・黒人・男女すべてのアメリカ人のあいだで所得格差が広がる可能性に対処する大きな戦略がない。ヨーロッパの左派政党も同じ問題を抱えている。近年、フランスの共産党と社会党は国民連合にかなりの票を奪われており、ドイツ社会民主党もアンゲラ・メルケルのシリア難民受け入れ政策を支持したことで、同様に二〇一七年の選挙で票を失った。 ナショナル・アイデンティティを理論化するのはむずかしい。いまある国々は、複雑で錯綜し、しばしば暴力的で強制的だった歴史的闘争の副産物だからだ。そうした結果として生まれた国々は、民主主義の諸制度の土台としてうまく機能しているが、論争はやまず、人口、経済、政治の変化によっても絶えず問題にさらされてきた。 ナショナル・アイデンティティは、主に四つの道を通じて創り出された。ひとつめが、国の政治的な境界線を越えて人を移動させる道であり、それは入植者を新たな領土に送り込んだり、ある土地に暮らす人々を強制的に追い出したり、あるいはただその人々を殺害したり、この三つすべてを組み合わせたりすることで実現された。人々を殺害するやり方は、一九九○年代はじめのバルカン戦争では民族浄化と呼ばれ、当然ながら国際社会から非難された。しかし民族浄化は過去にほかの多くの国でも用いられており、そこにはオーストラリア、ニュージーランド、チリ、アメリカなどの民主主義国も含まれる。入植者が先住民を暴力的に排除したり殺害したりしたのである。 ナショナル・アイデンティティ創出への第二の道が、境界線を移動させて、既存の言語・文化集団と一致させるというものである。歴史上これは国の統一か分離によって成し遂げられた。統一の例は、一八六〇年代と七○年代のイタリアとドイツに見られる。分離の例としては、一九一九年にアイルランド共和国が連合王国を離脱したことや、一九九一年にウクライナが旧ソヴィエト連邦から独立を宣言したことなどがあげられる。 三つめが、マイノリティを既存の民族・言語集団の文化に同化させる道である。フランスは二○○年前には多言語の国だったが、やがてパリのフランス語がプロヴァンス語、ブルトン語、フラマン語に取って代わった。同様に、アルゼンチンやアメリカへの移民、とりわけその子どもたちは、スペイン語や英語を習得して主流文化に溶け込み、社会での地位を高めていく。中国は一見したところ民族的に均質であるように思われ、人口の30パーセント以上が漢族だといわれるが、これは三○○○年もかけてマイノリティを文化的・生物学的に同化させてきた結果である。 四つめが、ナショナル・アイデンティティを当該社会の現在の性質に合わせてつくり直す道である。多くのナショナリストの考えとは異なり、「国民」は太古から存在する生物学的存在ではない。人々によって下からも、また権力によって上からも、社会的に構築されたものである。これを構築する者は、人々の性格や習慣に合わせて意図的にアイデンティティをつくる。この一例が、インドを建国したガンディーとネルーだ。彼らは、インド社会のきわめて多様な人々を組み入れる「インドという理念」という既存概念を用いて、その上にナショナル・アイデンティティを築いた。また、インドネシアやタンザニアの建国者は、実質上、新しい国語をつくり出して、きわめて多様性に富む社会を統一しようとした。 ハンチントンは、アングロサクソン系プロテスタントだけがアメリカ人の資格を持つという意味で、イングランドのプロテスタントがアメリカ人アイデンティティの土台だと論じたのではない。彼が言おうとしていたのは、イングランドのプロテスタント入植者が、のちにアメリカが民主主義国として発展し成功するのに欠かせない文化を持ち込んだということである。重要なのは文化であり、そこに参加する人たちの民族的・宗教的アイデンティティではない。わたしの考えでは、彼の見解は紛れもなく正しい。 ハンチントンが強調する文化の一要素が、「プロテスタントの」労働倫理である。データで見ると、アメリカ人は世界のほかの国の人たちよりもはるかによく働く。多くのアジア人には劣るが、それでもほとんどのヨーロッパ人よりは勤勉だ。歴史を見れば、たしかにこの労働倫理の起源は、初期にアメリカへ入植した者たちのピューリタニズムにあるのかもしれない。しかし、いまのアメリカで一生懸命働いているのはだれだろうか?おそらく韓国人の食料品店主、エチオピア人のタクシー運転手、メキシコ人の庭師といった人たちであり、自分のカントリークラブからの配当金で暮らすイングランド系プロテスタントの子孫では必ずしもない。文化の歴史的起源がどこにあるかを知っておくのはいいが、この文化は特定の民族や宗教から切り離されて全アメリカ人の共有財産になったことも認識しておく必要がある。 現代民主主義国の多くが、重要な選択を迫られている。各国は経済と社会の急速な変化に対応しなければならず、グローバリゼーションの結果、社会ははるかに多様になった。こうした状況のなか、以前は主流社会のなかで顧みられることのなかった集団が承認を求めるようになっている。しかし、これらの集団に取って代わられた集団は、自分たちの地位が低くなったと感じており、これが憤りの政治と反動につながった。どちらの側もきわめて狭いアイデンティティに引きこもり、そのせいで社会全体として話し合い集団行動を起こす可能性が脅かされている。この道の先には、最終的に国家の崩壊と破綻が待ち構えている。 しかし、このような現在のアイデンティティの性質は変えることができる。なかには、アイデンティティは生物学的な要素に根ざしているので手を加えることはできないと思い込んでいる人もいるかもしれないが、近代は複数のアイデンティティを持つことを人に強い、そのアイデンティティはさまざまなレベルでの社会交流を通じて形成される。人種、ジェンダー、職場、教育、姻戚関係、国籍などによってアイデンティティが定義されるのである。多くのティーンエイジャーにとってアイデンティティは、自分や友だちが聴く音楽のサブジャンルを中心に形成されることもある。 アイデンティティの問題は現在、新しいポピュリスト・ナショナリスト運動、イスラム主義の戦士、大学キャンパスで交わされる論争など、数多くの政治現象の根底に横たわっている。われわれは、自分たちと社会のことをアイデンティティによって考えることからは逃れられない。とはいえ、われわれの内面奥深くにあるアイデンティティは固定されているわけではなく、必ずしも生まれによって決まるわけでもない。これを心にとめておく必要がある。アイデンティティは分断を生むこともあるが、一体化のために使うこともできるのだ。結局のところそれが、現在のポピュリスト政治に対する改善策になるのだろう。
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