船戸与一のレビュー一覧
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フィリピン・セブ島のガルソボンガ地区で育つ、少年トシオ・マナハンの成長譚である。父親は日本人だが、フィリピン人の母親を孕ませた後、姿を消してしまった。母親はトシオを育てる為、娼婦となり、エイズで死んでしまう。そんな逆境にも負けず、ジャピーノ(日本人との混血)と呼ばれても気にせず、逞しく生きていく。そんな少年の13歳(1998年)から15歳(2000年)の5月にスポットをあてた作品である。
虹の谷とはガルソボンガの奥地にある谷で、空を見上げると、まん丸の虹が出るという地。ホセ・マンガハスという元新人民軍のゲリラが住みついている。毎年5月に、この虹の谷へ行こうとすると、なぜか事件が起こってしまう。自分の失敗でホセを窮地に陥れてしまったりするのだが、それらの事件を通してトシオは少年から青年へと成長していく。最初は、「おいら」で始まる語り口調に若干の抵抗を覚えたが、慣れてくると気にならなくなった。そのうち、本書が成長譚であるなら、一人称も「おれ」に変わるのではないかと思っていたら、やはり、15歳のトシオは「おれ」に成長していた。また、ホセが少年への呼びかけを「ぼうず」から「トシオ」へ変えたのも印象深かった。
物語を読み進めていて気になったのが、父親の忘れ形見であるセイコーの時計。至るところでトシオが時間を確かめるのだが、それがまるで、自分自身の成長を刻んでいくかのように感じた。もう一つ象徴的なのが「人喰い花」 正式にはタイタンアルムというらしいが、35年間種子として地中に眠り、発芽して1ヶ月で強烈な臭いを発する花を咲かせ、2週間後に萎れて枯れる。ホセはこの花を「暗示的な植物だな」とゲリラに見たてている。「ゲリラも地下に潜って耐えているときはいい。しかし、表にひきずり出されて強い陽差しを浴びると、たいていがイヤな臭いを放ち始める」と。
ラストは爽やかである。悲しい死の一方で、明るい性を描き、「性」が「生」に通じていく。猿喰い鷲という鳥に名づけられた、アサム(希望)とダガン(誇り)。本書は、悲しくも誇り高き、希望に満ち溢れた作品である。
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みんなはおいらのことをジャピーノと呼ぶ。ほんとの名前はトシオ・マナハン。父親は日本人だけどどんな人間なのかは知らない。母はエイズで死んだ。今はセブ島のガルソボンガ地区でじいちゃんとふたり、闘鶏用の軍鶏を育てながら暮らしてる。いまだに山奥に潜んでいる反政府ゲリラたちの活動はやまないし、地区の大物たちは賄賂で動いてる。新しくやってきた牧師はどうも女より男に興味があるらしい。みんな楽な暮らしをしている訳じゃない。でもそれなりに、みんななんとかうまくやって来ていた。あの日までは…。
その日、地区のみんなから白い目で見られたまま、日本人の老画家の妻となって日本に渡ったシルビアがガルソボンガ地区に何年かぶりに戻ってきた。メルセデスとか言うぴかぴかの車に、大きな犬を乗せ、いろんな電化製品をいっしょに持って、おべんちゃらを言い回る取り巻きたちから"クイーン"と呼ばれながら。そしてそのクイーンは、おいらに虹の谷への案内を言いつける。おいらだけが行く道を知っている虹の谷、そこにはかつての反政府ゲリラたちの英雄だったホセがひっそりと隠れ住んでいる。だけどもクイーンはなんでそんなところに行きたがるって言うんだろう。ふだんならそんなこと言われたって、おいら言うことを聞いたりしない。でも大事に育てていた軍鶏が誰かの手で殺されてしまった今、おいらもじいちゃんも金が必要なんだ。仕方なしにクイーンを虹の谷に案内することにしたおいら。それがすべての始まりだった…。
血が出てこなければ宮崎作品にもなるようなストーリーでした。
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この小説に描かれている時間は、決して長くはない。中心となるのはおよそ10年ほどの出来事である。しかしその短い時間の中に、裏切りと懐疑、そして殺戮が絶え間なく繰り返され、関わる者は誰もが最終的に敗者となっていく。
第七の奏では、イスラム革命後のイランにおけるゾロアスター教徒の怨念が描かれ、宗教による排除の現実が提示される。
第八の奏では舞台がコーカサスへ移り、アゼリ人とアルメニア人の対立、そしてソヴィエトの統治の歪みが浮かび上がる。
第九の奏では、革命防衛隊内部の乱れが露呈し、体制そのものの不安定さが示される。
第十の奏では武器商人が裏切りによって命を落とし、暴力が流通として機能している現実が露骨に現れる。
第十一の奏ではクルド人ゲリラの決起前夜が描かれ、宗教的にも状況的にも許されない関係が、やがて決別へと至る。
第十二の奏では駒井が武器商人としてカスピ海沿岸を奔走し、もはや傍観者ではいられない地点へと踏み込む。
第十三の奏では、革命防衛隊・人民戦線・クルド勢力が交錯し、混沌が頂点に達する。
そして終の奏。時間は1991年へと進み、物語は再びシーリーンとの邂逅へと回帰する。
この作品は、歴史小説ではなく そこに関わる組織の断片を並べることで時代の全体像を浮かび上がらせてる。各「奏」は独立しながらも、確実に同じ時代の流れに接続している。そのため読者は、物語を追うというよりも、歴史の断面を次々と目撃していく感覚に近い。
なぜ本作がミステリーとして挙げられるのかは、やや掴みにくいと思う。謎解きや事件の収束はない。ただし、時間や視点が断片化された構成そのものが、一種の「読み解き」となるかと。
今回特に印象に残ったのは暦の扱いである。グレゴリオ暦、ジャラリ暦、ヒジュラ暦が混在し、時間の基準そのものが揺らいでいる。このズレは単なる表記以上に、統一されない世界のあり方を象徴しているように思う。
そして最後に残るのは、日本人である駒井と「ハジ」と呼ばれる存在である。彼らは第三者であろうとしながら、結局は歴史の内部に取り込まれていく。その姿は、外部から眺めているつもりでありながら無関係ではいられない、現在の日本の立ち位置をもどこか示唆しているように思えた。
タイムリーな一作を読めて良かったです。 -
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1992年第10回日本冒険小説協会大賞
1992年第5回山本周五郎賞
1992年第5回このミステリーがすごい!第一位
と、華々しい受賞歴の本作。
super8さんのお勧めの一作でもあります。
今年3月、(常にそうであるとも言えますが)この小説の舞台となるイラン周辺は、あらためて緊張の続く地域であることを意識させられました。
本作は物語の前に、「飾り棚のうえの暦に関する舌足らずな注釈」と題された、現在の世界の暦に関する短い考察から始まります。わずか5ページほどですが、暦の歴史の全体像を大きな流れとして捉えさせる、印象的な導入でした。
現在、世界標準として用いられているのはグレゴリオ暦であり、一方で中東イスラム圏では宗教暦としてヒジュラ暦が併用されています。そうした暦の重層性を踏まえつつ、本作は時間のあり方そのものにも視線を向けていきます。
日本では明治5年、それまでの太陽太陰暦からグレゴリオ暦へと制度的に移行しました。その際、暦に付随していた吉凶判断などは公的制度からは外されましたが、六曜は、民間習俗として残されました。これは特定の宗教教義と強く結びつかなかったため、制度改編の影響を受けにくかったと言われています。そして、宗教色を排除された堅実な移行だったと思います。
序の奏 ペルシア密売人・狂おしく粉雪が
1980年11月9日
まず、ひとり目のハジ。
第一の奏 夜の扉が開かれた
1989年2月10日
駒井という、日本人のハジ。
第二の奏 暁の移動命令・陽光の眩しさ
ジャラリ暦(イラン暦)1367年エスファンド月12日(1989年3月頃)
イラン革命防衛隊上層部の腐敗。
第三の奏 グルジアからの女誑し
1989年3月5日
駒井というハジがモスクワでグルジア人と交渉する。
第四の奏 月影、密かに揺れて
ヒジュラ暦1366年シャーバーン月四日
イランのクルド人ゲリラの活動。
第五の奏 聖地に雨が降る
ジャラリ暦1367年エスファンド月25日
マハバードに赴任したサミル。革命防衛隊の現状。
第六の奏 山間のゲリラ基地・ひとり草の宴で
ヒジュラ暦1368年シャーバーン月八日
山間部に生きるクルド人ゲリラの一団。
以上、6奏からなる上巻。
タイトルは詩的で、宗教的・中東的な言語感覚を思わせる響きを持つ。
中東の複雑な民族や宗教の対立を、大きな歴史の流れとして俯瞰するのではなく、各組織の末端に属する人間たちの行動、裏切り、愛憎として描いている。むしろ、巨大な歴史が、そうした個々の人間関係の中に具体的な形をとって現れてくる。
出来事は直線的には進まず、各組織、部族、宗教が折り重なるように配置されていく。
下巻へ
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本書の舞台は昭和5年(1930年)から翌々年まで。関東軍•帝国陸軍による満蒙領有の声が大きくなるなか、軍部の暴走する形で満州事変が発生、さらには関東軍は上海事変で国民政府と衝突する。この当時は「中国」ではなく、大陸の呼称は「支那」。清朝が倒れたあとの統一政府はなく、国民政府とは別にソ連の支援を受けた毛沢東が共産党政府を立ち上げたころ。
この時代の多くの支那人たちにとっては、民族意識はまだ育っていない。本作中の登場人物である新聞記者の香月信彦の言葉では「支那の未来は支那人の民族意識を国民党と共産党のどっちが吸収するかに懸かっている」のであり、約100年前に現在の中国情勢の緊張の原因があり、中国と台湾の対立には日本の大陸進出と満州建国が深く関与していることを改めて認識した。
物語の進行は敷島4兄弟の視点を通じて進行。太郎は領事館/外務省の関東軍/陸軍に対する発言権の低下に悩む。次郎は手下をすべて殺され鬱屈とした日々。三郎は関東軍の憲兵隊に配属されて鼻息荒くなる。四郎は義母との淫らな生活から脱するために上海に行くと阿片にはまりベトナム人のバーのママを殺害し、特務機関員の手先となる。
次の巻はいよいよ満州国建国。 -
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船戸与一の畢生の大作「満州国演義」シリーズを初めて手にしたのはたしか7、8年前。新潮文庫版の刊行が始まった頃だ。書店の平棚に積まれた「満州国演義一 風の払暁」の表紙と帯の文面に心を動かされ、ペラペラとページを繰ったのがきっかけ。文庫本刊行に合わせて第四巻「炎の回廊」の途中まで読み進めたものの、雑事に紛れそこで中断。その後の展開はどうなるのかな?時々脳裏によぎるものの時間だけが過ぎていった。
昨春、本の整理をし始めた時に再会した。本の整理は家人から言われ続けていることだが、自由時間が増えたことだし、のんびりやろうと覚悟を固めて、第一巻から再読し始めた次第。そして先日、「満州国演義八 南冥の雫」を読み終えた。再会できて本当に良かったと思う作品だ。本の整理は進んでいない。
本作「満州国演義八 南冥の雫」は、1942年(昭和17年)4月から1944年(昭和19年)6月に至る時代を描く。太平洋戦争開戦後の日本軍の快進撃が一転、破滅への道を突き進む悲劇の時代だ。巻を重ねるごとに広範囲になる口絵地図。本巻では、太平洋を俯瞰し、東はハワイ諸島、西はインドを見渡す広大な地図だ。
「小説」という方法を駆使して「歴史」の真実を抉り出そうとする「満州国演義」シリーズ。第二巻「事変の夜」著者後記に「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。これが本稿執筆の筆者の基本姿勢であり、小説のダイナミズムをもとめるために歴史的事実を無視したり歪めたりしたことは避けて来たつもりである」とある。今でも記憶に残る言葉だ。著者のこうした姿勢が本作「南冥の雫」にも貫かれている。
表題「南冥の雫」の響きはずしりと重い。辞書を検索すると「南冥」とは「南方の大海」とある。ミッドウェー海戦、ソロモン海海戦、アッツ島玉砕・・・各地で繰り広げられた戦争で「雫」のように消えていった多くの命を象徴しているようだ。
こうした時代に、敷島四兄弟はそれぞれ、激動の歴史現場に立ち合う。長兄太郎は満州国の首都新京で国内外の転変するる情勢に翻弄されつつ、自ら招いた悲劇に慄く。四郎はフィリピンで戦争の悲惨な状況を目撃、関東軍特殊情報課に所属することに。三郎は南方戦線や大陸打通作戦の現場を目撃、ソ満国境機動部隊の中隊長に。読み進めるうちに、まるで自分が80年前の歴史の現場に立ち合っているように感じてしまう。引き込まれる作品だ。
次郎は蘭印スマトラ、ジャワ島、ビルマ・・・南方方面を転々と。そして運命の糸に引き寄せられるように囚人部隊を率いインパールの地に。虫葬、蛍飯・・・終章に描かれるインパール作戦の情景はあまりにも悲惨だ。精神論に終始し兵站を軽視し過ぎた「成吉思汗作戦」。ほんの79年前、今頃の時季に行われた作戦だ。私たちは決して忘れてはならない。常に問い直すべき現実だ。本作を読み改めてそう感じた。
いよいよ最終巻へ。「満州国演義九 残夢の骸」に進むとしよう。どんな結末が待ち受けているのだろうか。