藤井光のレビュー一覧
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「親が悪党だからって、子も悪党になるわけじゃない。そうだろ?」
ハーレムにある中古家具店で働くアフリカ系アメリカ人のレイ・カーニー。近頃、彼の店にはガラの悪い男たちが出入りしていた。
数々の罪を犯した父親とはちがい、カーニーはまっとうな人生を築くために誠実に働いた。愛する妻と娘もいる。だが、食べていくのは容易じゃない。時には、従弟のフレディがもちこむ盗品も売るしかなかった。
ある日、フレディたちの起こした強盗事件にカーニーは巻き込まれる。そうしてギャングと悪徳警官が、カーニーに目を留めたのだった。
妻子と自分を守るため、カーニーはならず者との裏取引を重ねていく。
結局、自分も悪党なのだろうか?
そのときフレディの危機を知らされ、カーニーが選んだのは――。
人種、貧富、性差の問題が渦巻く街を舞台に、『地下鉄道』著者が放つエンタメ小説!
物語はやや類型的なのかもしれないが、丁寧な取材によると思われる緻密な風俗や情景描写に引き込まれる。 -
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第二次世界大戦下。フランス・パリの博物館で働く父と暮らす盲目の少女。一方は、ドイツの炭鉱町にある孤児院に妹と暮らすラジオに興味を抱く少年。
国も境遇も違う、戦争が無ければ決して巡り合わなかった二人の人生が、時間軸を前後しながら短い断章として交互に語られていきます。次第に戦争に巻き込まれて行く盲目の少女と少年の心情。そして、二人を中心とした他の人との交流が丁寧に描かれていて、美しい文章表現と相まって話しに引き込まれていきます。
ただ、読み終えた直後は、期待した結末ではなかったので、しばし呆然という感じでした。しかし、少し時間をおいてみると、この結末だからこそ、二人の邂逅がより輝いて感じられることに気付かされました。
それをより強調するためか、ドイツの下士官が追いかけているダイヤモンドが、気が遠くなるほど太古の昔からの時間軸の長さを表し、少年の親友が好きだった鳥が、目に見える空間の広がりと自由を表し、少女が好きな貝殻が、深淵な海の広さと深さを象徴していたかのようです。
それらの目に見える物資世界の広大さと経過した時間の長さに比較して、二人を引き寄せるきっかけであるラジオの音は、すぐ消えてしまい形が無く目に見えない儚いものです。そんなことを思い返してみると、タイトルと相まって感慨深い気持ちがしてきます。とはいえ、戦争の話しなので理不尽で悲しい気持ちも残りますが、それらの感情も含めて、とても良い読書体験ができたと思っています。
なお、盲目の少女が夢中になっていた、ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』の内容が少なからず引用されています。『海底二万里』を未読でも大丈夫ですが、既読の人はより楽しめると思います。 -
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『闇に包まれた穴の底には、龍が横たわっているような気がした。(中略)年寄りたちの言うには、そうした穴は龍が冬眠をする穴ぐらだそうで、龍は夏になると穴からはいずり出てきて天空に飛び立ち、冬になると再び穴に舞い戻ってくるという。穴の付近の雪が解ける理由は、龍の吐く息が穴から噴き出してくるせいらしい。ぼくはその言い伝えを知っていたので、穴の底でひとりぼっちにさせられたとき、龍に食われてしまうんじゃないかと怖くてたまらなかった』―『ラシャムジャ/穴の中には雪蓮花が咲いている』
「絶縁」というテーマのアンソロジー。村田沙耶香が作品を寄せているというので読んでみたのだけれど、その他のアジア圏の作家の短篇にも魅せられる。中でもチベット語で創作活動をしているという中国青海省海南チベット族自治州生まれのラシャムジャという作家の作品は、地方出身の主人公による地元の幼馴染の思い出と都会で失望感を味わう自身の境遇の対比の問わず語りなのだが、その対比の中にある地方と都会あるいは自然の中に生きることの多面性と都市化された環境の中の画一的な生活の効率性の対比という構図が多重露出的に描かれ、知らない筈の土地に対する郷愁を呼び起こす。まるで台湾の呉明益の小説かと思わせるような作品で、特に惹かれた。
日本、シンガポール(マレー語)、中国、タイ(南部)、香港(広東語)、中国(チベット語)、ベトナム(南部)、台湾(広東語)、韓国の作家が並ぶのだが、国籍は必ずしも作家の特徴を典型的に表象する訳ではないのだと(アンドレイ・クルコフの「優しい死の天使」の中で国民性と国語の関係について言われていたことを思いだすが)判ったようなことを言いたくなる。それが編んだ人の意図であるのかは定かではないが、母語がその国の標準的な言語である作家と方言を含め母語が標準的言語ではない(もちろん、書き言葉では口語ほどの違いは出ないだろうけれど)作家の立ち位置の違いが、「絶縁」という言葉から連想されるものの違いになって表れているようにも見える。例えば、村田沙耶香の「無」(日本語)や郝景芳の「ポジティブレンガ」(北京語)では絶縁は「個人」の感情から主に湧き上がる「違和感」に由来する。その違和感を感じさせるものの正体は「社会」という捉えどころの無い、あるいは実態の無い相手であり、その実態の無さを二人の作家は空想科学小説風のディストピアとして描く。基本はミヒャエル・エンデの「モモ」あるいはジョージ・オーウェルの「1984」に似た物語。一方で、その国において少数民族と呼ばれる人が用いる言語で書かれたラシャムジャの「穴の中には雪蓮花が咲いている」(チベット語)やアルフィアン・サアットの「妻」(マレー語)が描く絶縁は違和感ではなく「孤立」に由来するものであり、少数派としての視点を通しての社会への隔絶感はあるとは言え、対象は個人の顔をしている。もちろん個人はその社会における多数派という立場を代表していると読めるのだが、社会の制度そのものというよりは立場を利した強者への拒絶感が孤立を生む(生ませる)という構図が共通してあるようにも思う。
そのように要約してみると、ベトナムやタイにおける南北対立の構図や、香港、チベット、台湾における「中央」との対立の(それらは往々にして官民の対立でもある)構図といった社会的課題が「違和感」を「拒絶」へと高める一因となっているのだろうかと考えたりもする。だからと言って日本の村田沙耶香や中国の郝景芳や韓国のチョン・セランが何も社会的課題を描いていない訳ではないが、敢えて言えばこの三人の作家の描く主人公には個人が能動的に「絶縁」をすることの可能性がある一方で、他の作家の描く主人公には「絶縁」を受動的に許容する他選択肢が無いようにも見えるという違いがあると言えばよいだろうか。
もちろん、違和感であろうが、孤立であろうが、向き合っている社会に対する個人の信条との対立という構図に変わりはない訳で、それは突き詰めれば個人の持つ正義感とでも呼べばよいような硬質の言葉に帰結するように思うが、それを声高に叫ぶことを必ずしも善しとしない態度が、不思議なことにどの物語の主人公にも共通して認められる。日本では最近若年層の対人関係におけるとみに「温和」な態度が話題となったりもするが、格差間の弱い側に属しがちな若い世代はどの社会でも同じような傾向にあるということを示しているのだろうか。だとすれば、ポピュリズムに支配されつつある世界の中で「対立」の構図を越えた新しい関係性を産み出す萌芽をそこにみることも出来るのかと思ったりもする。
『私くらいの世代のことを、私は、心の中で「リッチナチュラル世代」と呼んでいる。世代それぞれの生き方や性格の流行を、心の中でこっそり名付けるのが好きだ。私より上の「過剰浪費快楽世代」には理解できない、ぱっとみて楽しそうな浪費や快楽ではないものにお金をかけている世代なので、「ずいぶん地味ねー! 人生楽しまなきゃ!」と九条さんに言われたりしてしまう。一方、「安定志向シンプル世代」からみると、無駄遣いに思えるような高いインテリア家電に手を出したりして、戸川さんに、「え、あれ買ったんですか、すごいですね」と少し引かれてしまったりする』―『村田沙耶香/無』
そしてそんな硬質の思考を紡ぎがちな作品が多い中、やはり村田沙耶香のデフォルメし架空の社会に投影された現代の写し絵は、その一見するとぶっとんだような語り口とは裏腹にいつも通りの世界観を強烈に放っていて、秀逸なのだった。 -
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ネタバレ真面目に怖すぎた。
現実と非現実の境って曖昧な作品って世の中にはたくさんあるけど、これは意図的に作為的に作られた場所にぐわっと連れていかれる。
怖くて読めないエペペみたい。
これは読んでしまったけど、それは漫画だったからだと思う。
どこに連れていかれるか分からへんなんて読んでても怖い。
しかもみんな、他の人になりきったりしてそれが普通になってて気味悪すぎた。
ロージーはどこへ行くのかも、最後めちゃめちゃ気になりました。
誰のことも本当かわからない訳じゃないですか。
おかしくなっても、当然すぎて寒気します。
異界みたいですよ、これ。
ヤバい。
ヤバいの読んでしまいました!!
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日本の作家と共作しませんかと問われた韓国の作家チョン・セラン氏が「アジアの若手世代の作家が同じテーマのもと短編を書くアンソロジーはどうか?」と編集部に逆提案。それで編まれたのが本書だとか。
今回のテーマは“絶縁”。人によって、国や地域によって、こんなにもいろんな“絶縁”があり、それぞれが自分だけの「生」に翻弄されながらそれでも生きていくしかないのだな…。誰かに代わってもらうわけにはいかないものね。
作品ごとに作者紹介に加えて訳者解説やあとがきがあるのがうれしい。世界が広がるような一冊でした。テーマを変えたり執筆者の顔ぶれを入れ替えたバージョンも読んでみたい! -
Posted by ブクログ
憧れ、不安、不満、高揚、恐怖、恥、誇り、熱狂、狂乱……、南北戦争下の一兵士を通して描かれる、戦争下での兵士の心理の軌跡。
戦争と兵士たちを冷徹にそして距離を取って、まるで戦火の映像も、そして目には見えない兵士の心象すらも、ドキュメンタリーカメラで写すかのように、詳細に描き切っているように感じます。
戦場での英雄的活躍に憧れ、軍に入隊したヘンリー。母親から感動的な言葉をかけられるかと思いきや、戦闘になったら自分のことだけを考えるんだよ、と当ての外れた言葉をかけられ、イライラしてしまいます。
そんな彼ですが、家からの去り際に母が身体を震わせ涙を浮かべている姿を見て、自分の求めているものが恥ずかしくなり……
感傷的な文章というわけでもないのですが、詳細に主人公のヘンリーが、戦場に憧れる理由や衝動を描き、一方で母との対話の場面では、具体的な情景描写を効果的に挟み、場面を想像させる。
冒頭近くのこの描写で『勇気の赤い勲章』という文学としての凄みというものが、伝わってきたように思います。
入隊後、戦地へ派遣されるも、なかなか戦闘の機会は訪れず退屈する兵士たち。そしてついに始まった戦闘。しかしそこでヘンリーは本物の戦闘を知り、恐慌に襲われ……
兵士同士の会話や関係性、恐怖、逃げたことへの恥、怪我一つ負っていない自分への羞恥と、怪我をした兵士に抱く羨望と嫉妬。
刻々と移り変わっていく戦場の様子と、ヘンリーの心理。それをありのままに描き切るかのような筆力は、ただただ素晴らしいの一言に尽きます。
一方で戦闘が長引くと共に、ヘンリーたち兵士の中で徐々に上官や上層部への不満が燻ります。現場で戦っているのは一兵士という自負がありながらも、作戦の詳しい内容は知らされず、捨て鉢として自分たちは使われているかもしれない。
南北戦争の話でありながらも、巨大なシステムや社会、思惑にわけの分からないまま踊らされる個人たちの悲哀も、この作品からは感じます。そう読むとこの『勇気の赤い勲章』は単なる戦争文学ではなく、現代の世界に通じるものも感じてしまいます。
そして一方で不満を持ちながらも、上官たちから名指しで賞賛を受けると嬉しくなってしまうヘンリーの姿に、人間の哀しさを感じてしまう自分もいました。
戦場で戦い生き抜いたことを誇るヘンリー。しかし一方で、燻り続ける一度逃げたという罪の意識と、恥の意識。でもそうやって罪や恥の意識を持てるってことは、実は素晴らしいことなんだな、とふと思います。
お笑い芸人で『ずん』というコンビの飯尾さんが、すべった芸人さんに対し「今ドキドキしてるか?」と声をかけ「それはね、生きてる証」と声をかけ笑いに変えたシーンがあったのですが、それを思い出します。罪も恥も生きてる証拠なのよね。
後、冒頭のお母さんの印象も強かったので、ヘンリーが生きて戦場から帰れるかどうか、特に終盤の戦場のシーンはハラハラしながら読みました。先に書いたように、文章は登場人物から距離を取って、冷静に書かれているので「これヘンリー死んで終わる可能性もありそう」と、気が気でなかったです(笑)
そして戦闘も終わりが近づき、ヘンリーの運命は……
読み方が色々脱線した気もしますが、登場人物の距離の取り方が好ましく、情景描写や心理描写も詳細で、色彩豊かで丁寧。単に情緒に寄らず、一兵士の戦争の始まりから終わりまでを見事に描き切った作品でした。 -
Posted by ブクログ
表題作「海の乙女の惜しみなさ」を筆頭に「アイダホのスターライト」、「首絞めボブ」、「墓に対する勝利」、「ドッペルゲンガー、ポルターガイスト」の五篇からなる短篇集。「私、俺、僕」と作品によって異なる人称に訳されてはいるが、英語ならすべて<I>。一人称視点による語りで全篇統一されている。もっとも、内一篇はアイダホにあるアルコール依存症更正センターに入所中の「俺」が外部にいる家族、知人にあてた手紙という形だ。
「私」の語りで語られる「海の乙女の惜しみなさ」は、掌編と言っていい短いスケッチのような章も含め、十の断章で構成されている。現代アメリカで広告代理店に勤める六十代の男が、自分の見てきたいろいろな人生の瞬間を思い出すままに語り出す。若い友人二人が結婚するきっかけになった夜のこと、自尊心が高価な絵を灰にしてしまう話、夫を亡くしたばかりの妻と出会った知人二人の話、美術館で知り合った絵描きとの交流と彼の自殺に纏わる話、等々。
それらが、互いに共通する要素を接点として、まるでしりとりのようにたいした脈絡もなく語り継がれてゆく。どうやら「君」に語り聞かせているようで、八十年代のゴールデンタイムのテレビ番組を見ていたなら、という問いかけがなされていることから考えると、自分より若いが、さほど歳の離れていない人間を想定しているようだが。
CMが受賞するのだから、それなりに成功を収めている。住んでいる地区もバスローブに房飾りのついたローファー履きで夜出歩けるというから高級住宅地だろう。若い頃に二度の離婚を経験し、今の妻とは二十五年続いている。すでに自立した、美しくも賢くもない娘が二人いる。人生に特に不満はないが、記憶が薄れつつある過去に未練もない。ときおり、静まりかえった近所を歩きに出る。民話に出てくる魔法の糸や剣、馬を求めて。あの『煙の樹』のデニス・ジョンソンも、枯れた境地にたどり着いたものだ、と思わされる。
「アイダホのスターライト」は、破格の一家に育ったキャスという男が、リハビリ施設で行われるカウンセリングの様子や、家族の集いに出てくれた婆ちゃんの武勇伝、それに抗アル中薬の副作用のせいで襲われる幻覚を手紙形式で訴える話。はたから見たらとんでもなく悲惨な境遇なはずだが、ジョンソン独特の乾いたユーモアのせいで、面白く読ませる。が、それでいてやはり、地獄の底を覗いたような暗澹たる気分にさせられる。
「俺」が十八歳のとき、盗んだ車で電柱にぶつかって逮捕され、四十一日間、郡刑務所に入れられた。そのときの同房者が「首絞めボブ」だ。周りにいた囚人とのトランプや喧嘩沙汰が語られる。そこで出会った囚人仲間の何人かは、刑務所を出た後も何度も「俺」の人生に気まぐれな天使のように立ち現れては「俺」をヘロイン中毒にし、使い回した注射針で病気に感染させた。血を売って飲み歩く路上生活者になってしまった「俺」の凄惨な思い出話。どん底の人生に落ち込みながら、悔悛のかけらもないのがすごい。
「墓に対する勝利」もまた「君」に語り聞かせる物語。「僕」は作家。LSDによる幻覚作用の中で受けた右膝の診察をまるで他人事のように語るところからはじまり、一人の作家の死を看取る話に横滑りしてゆく。今回の短篇集には友人の死が多く登場するが、なかでも本作が最も凄絶。ひとつ家に死者と同居する幻覚というのが妙にリアルだ。しかもそれでいて、不思議な安らぎに満ちてもいる。ある年を越えると、過去を振り返ることが多くなり、先のことを考えるとすれば、それは「死」のことになる。近頃、私もそうなりつつある。誰もが病気になり、世を去る。「大したことではない。世界は回り続ける」。そうなのだろう。早くそんな境地に達したいものだ。
掉尾を飾る「ドッペルゲンガー、ポルターガイスト」は、それまでのプロットに頼らない気ままな語り口とは大いに異なる、小説らしい小説。よく知られていることだが、あのエルヴィス・プレスリーには双子の兄弟がいた。死産とされているが実は生きていて、悪名高いパーカー大佐によって陸軍入隊時にすり替えられたのではないか、という大胆過ぎる仮説が話の骨子になっている。もみあげを剃り、GIカットにしたエルヴィスは双子の兄弟の方で、本物は殺されていた、というのだ。
コロンビア大学で詩のワークショップを教えていた「私」は、学生のマーカスの詩の才能を高く評価していた。授業でエルヴィスのことをしゃべったのがきっかけになり、「私」は、マーカスにエルヴィスの墓を荒らして捕まった話を聞かされる。マーカスはエルヴィスが双子の兄弟にすり替えられたという仮説に執着していた。マーカスはその後、アメリカを代表する詩人に登りつめるが、あるとき以来本を出さなくなる。長年にわたる二人の友情と、エルヴィスの謎の解明が、双子(ツィンズ)という主題によって、アメリカを揺るがしたあの事件と重ねられる。墓荒らしに執着し、ドッペルゲンガーに振り回される、マーカス・エイハーンという呪われた詩人がエドガー・アラン・ポーを彷彿させ、鬼気迫る。
『ジーザス・サン』に次ぐ第二短編集。再読、三読するたびに、一つ一つの文章が忘れ難い味わいを持って心に響いてくる。「これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるかもしれない」というところを読んで、巻頭から話者に「君」と呼びかけられていたのが、自分であることに思い至った。長年、本を読んできたが、こんなにも心に沁みた話者の言葉は初めてだ。