枡野俊明のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ私は「いま」を生きれているのか?
悩みごとを考えている時は心が「今」ではなく、
「過去」か「未来」に飛んでしまっている。
人は「今」を生きることしかできない。
「今」という「点」をただひたすら打ち続けていく。
それがのちに、
「人生」という道になる。
「今を生きる」という考え方は、私の心がふわふわしているのを「今」に戻してくれる。
「…とは言っても、今を一生懸命生きるしかないか」と思わせてくれる。
そして、自分の日頃の行い、つまり所作をもう一度見直そうと思った。
一言で「丁寧に生きる」と言っても、
それをできているのかと自分に問うと、苦笑いしてしまう(笑)
一つ一つの行動を丁寧に、
人に対しても、物に対しても、丁寧に、
そういう心構えでいると結果的に自分の自信にも繋がるんだろうなと思った。
日々行っている当たり前の行動にも、
心をこめる。
いい食材だから張り切って調理するわけでもなく、
高価なものだから丁寧に扱うのでもなく、
全てのことを丁寧に、全てのものに敬意を払っていきたい。
「心をこめる」どんな時も。
意識しなければ過ぎ去っていってしまうような日常。
そこにも意識を向けることができるかできないかで、
心の豊かさは変わってくる。
「雑な自分」で生きていると、どこかで感覚が鈍っていき、幸せに生きることから離れてしまうなと思った。
「丁寧な自分」で生きていると、
行動が丁寧だと、自分を大切にしていることにも繋がる。
その心の「在り方」自体が、幸せなことなんだと思った。
幸せはなるのではなく、幸せな状態でいること。
丁寧に生きることが幸せにつながっている。
「行動」と「心」は繋がっているんだなと思った。
「怒り」への対処法も色々と学びになった。
ただ、私が思うに、「怒り」を感じた時に、
時間をかけて怒りが引いていくのを待つことも一つなのはとても納得なんだけれども、
そもそもなぜそのポイントで自分は「怒り」があるのか?
なぜそこにアンテナが立つのか?
そこを掘り下げていって、自分を見つめ直すこと、
根本的に怒りにつながる思考パターンを掘り下げていくことも方法としてはとても大切なのではないかなと思った。
もちろん、心を落ち着かせて、怒りを鎮めることができるのは素晴らしいことだ。
ただ、全ての「怒り」に対して同じようにできないこともある。
「怒り」を悪いものとして捉えるのではなく、
「そのエネルギーをどこに向けるのか?」を考えなおしたり、
「怒りを感じるポイントは自己理解のチャンス」と怒りへの捉え方を変えることも一つだなと思った。
「今を一生懸命に生きる」「所作を丁寧に」「心と向き合う」「心を磨く」
私も禅の心を少しでも取り入れて、
心穏やかに、心豊かに生きていきたいなと思った。
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Posted by ブクログ
ネタバレひとりごと
第5章の一つ”人はどうして死を恐れるのか”の話にでてくる高い心の境地に置かれている(死そのものについても達観している)仙厓和尚さんの死を迎える間近放った一言「死にとうない」という言葉の意味を著者なりの解釈が載っていました。
超簡単に解釈 禅の修行とは終わりがなく永遠に続くもの。その永遠がまだ足りない為、(修行をまだしていたい)死ぬにはまだ早すぎる。=永遠に行う修行に満足することがあってはいけないという自身の想いを一言にこめたという。
本当にこのような解釈どおりであればどこまでも禅に生きる人なんだなぁとかっこよく思えます。
けれども、死にとうないはストレートな意味で私は聞こえました。
今死について考えてもそれは漠然としか考えられないしその時仮に答えが出たとしても死の直前になったら同じ答えにはならないと思います。
同じ答えになるのであれば漠然と考えた死そのものについてしっかり向き合うことができたんだろうと羨ましく思います。
でもしっかり向き合えていても、達観していたとしても最後は結局その時の気持ちが答えなんだと思うので和尚さんの想いは…。
感じ取り方は人それぞれなので他の方はどんな風に思うのだろう〜 -
Posted by ブクログ
”禅”の教えを通して、様々な悩みに具体的に答えてある。
細かな章に分けてあり、それぞれの悩みや問題に禅はどういう回答をするのかを該当の書とともに詳細に解説してあった読みやすいし、分かりやすい。
この桝野俊明という作者は僧侶でありながら有名な石庭の設計士というのは知っていたが、内容はやはり禅宗の僧侶のモノで思慮深いと同時に明快。
こういう禅宗の僧侶の著書を拝読している本当に見事な宗教観だと思えるのだが、実際私が知っている僧侶はどうしても「坊主丸儲け」にしか思えない。
法事ごとにお布施、願ってもいない合同の法事式にもお布施を要求、それでいて仏が出ると暗黙で金額指定までしてくる。戒名を頂き祈っていただくのは有難いことだが、それに本当に20万も30万も必要なのだろうか?しかもその金額の多寡で戒名のランクも変わるのが現実。
それで「本来無一物」と言われても響かない。
もちろん、それはこの筆者の姿勢ではないが、少なくとも多くの僧侶の姿勢は金次第なのかと思うと素晴らしいはずの教義も虚しくなる。