名越康文のレビュー一覧

  • 「他人」の壁

    Posted by ブクログ

    意識について、動物と人との違い、考えることや違和感、仏教についてなど
    お二人の対談の中で興味深い話や考え方がたくさんありました。

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    2026年06月23日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

    Posted by ブクログ

    とんとん読めて、そして腑に落ちる・‥疲れたときのスイーツみたい
    な、本でした。こんなのもたまには読もう・‥

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    2026年06月08日
  • 「他人」の壁

    Posted by ブクログ

    養老孟司、精神科医になりたいと思ったことあるらしい。

    確かに言語化って言われすぎると、言語化されてない部分を読み取ろうとする努力を怠りそうな感じもするな。

    ゲロ自体が嫌いなんじゃないよ。自然の中のゲロは臭くないけど、都市化された都会の中で嗅ぐゲロは臭いから嫌い。ゴキブリも森の中で見たら別に気持ち悪くないから。都会はこういう風にゲロとかゴキブリみたいないじめの対象を作り出すから嫌いなんだよ。

    「名越  多いというか、いつもそうですよ。だって僕、理解なんていいとこ 2 ~ 3割で、最後はワンフレーズだけ相手に伝わればいいと思っていますから。逆に言えば、相手の話していることを理解できなくても、ワンフレーズが壁を越えて自分の心に残れば、それはもうある意味で成功だと。だってね、僕のマネージャーってもう 10年近く一緒にやっている人で、非常に優秀で、僕のことを大切におもんぱかってくれている人なんだけど、それでも仕事を一緒にしていると、けっこうな大きい齟齬が生じるわけですよ。こんな違いがあるんだと。でね、もうそうなったら、一般の会社員の方が、たまに仕事で会うくらいの人だったら、まあ、通じている部分なんて、奇跡的に多くて 3割、集中していて 2割弱、ぼおっと聞いていたら 5パーセントとかね。それでいいと思うんです。だから、ワンフレーズがもし本当に伝わるなら、それはすごいことなんですよ。それすら残らないことのほうが多いんだから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  学校教育でいえば、国語とか英語の読解もそうじゃないですか。典型的ですよ。その文章から何を読みとるか、人によって随分、違っちゃうんだから。それなのに「その理解は間違いです。正解はこれです」って、何が正解なんだって。名越  そうなんですよ。うちの子どもなんか見ていても、算数の問題の解き方も、なんでこんなややこしい解き方するんだろうって思うんだけど、それでいいと思うんです。本人が不自由に感じたら勝手に変えるから。文章もそうですよね。「その解釈は間違っている」って誰が言えるんだろうと。親としては、なんかそういう感覚を大事にしたいんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「僕はよく講演とかでも言うんだけど、「あれ、なんかおかしいな」「これってなんだろう」と感じたら、その問題をずっと抱えておくんですよ。納得せずに疑問を持ち続けることが大切なんです。そのときは解けないかもしれないけど、「おかしい」という気持ちだけ憶えておく。そうすると、 3年とか 5年とか、もしかしたら 10年、 20年くらいい経って、ふっと解けることがあるんです。でも、多くの人は忘れるんです。なんで忘れちゃうかというと、未解決のままの記憶が頭に残っていると不快なんですよ。その不愉快さを消すために「まあ、世の中そういうもんだ」として、仮の答えを出してそれで納めてしまう。そういう人のほうが多いですね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「ただ、承認欲求が悪いというんじゃなくて、大事は大事なんですよ。それ自体を否定しているのではなく。たとえば、行きつけの飲み屋に行って、店主から「いらっしゃい」と明るく言ってもらえたらうれしいけど、あいさつしても無視されたりしたら、「あれ?」と不安になったりね。承認してほしいんです。あるいは、人が仕事や趣味を通して自己実現を果たしていくうえでは、大きなエネルギーとなることもあります。だから、この感覚を完全に否定したり、無視したら人間社会は最悪なんで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  養老先生は先ほど、お若い頃はご自身でも「他人を理解しようと考えていた」とおっしゃいましたけど、そういうときはどうされたのですか。たとえば、大学の中での人間関係を、ご自分なりに模索されたりとかしたわけですか。養老  いや、僕は飲み屋へ行きました。大学はたしかに生活する時間が一番長い場所ではありましたけど、接触する人間の数でいえば多くありませんから。特定の人に限られますからね。そういう人とはかなり親しくはなりますけど、数はどうしたって限られます。名越  同じ人と同じようなテーマの話を繰り返しているだけだと。飲み屋さんにいる人間は不特定多数ですからね。養老  そう。理論が通じない人がいたりね。大学の人間とはいろんな意味で違う。前提として共有する価値観がないから。だから、人との接し方を覚えたという意味では、僕の場合は、飲み屋が一番大きかったんじゃないですかね。学部も関係なしに集まるし、全然知らない人とも会いますから。そういう人とコミュニケーションをとる。しかも、当時の僕もまた、明るい酒を楽しく飲むというよりは、いろいろ悩んで、もう飲むしかないっていうような、どっちかというと重たい気分で飲んでいましたから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  まさにそうなんです。そういう意味では、その時間が一番勉強になったという気がしますね。実はカウンセリングを見に行くためというより、いや、もちろん大きな目的の1つではあるのですが、その後の飲み会が楽しいから行っていたというのはありますね。それがすごく大事なことで。極論すると、終わった後に飲み会がない勉強会って、無駄じゃないかとさえ思うんですよね。もちろん、厳密に言えば意味はありますけど、ほぼ無駄なんじゃないかと。養老  賛成です。そのことに意外とみんな気づかない。名越  当然、勉強会で得られる情報や知識はありますけど、結局のところ、それは功利的な知識しか身につかないといいますか。自己啓発セミナーとかにハマる人もそうなんだけど、あれやると余計に自意識過剰になってしまうこともありますしね。無理してやっているもんだから、今度は効果を確かめたくなる。そうすると、余計に「相手はどう思ったんだろう」って、相手のことが気になる。結局、そこで得た情報の先にある現実、つまり未来に対して、実際にどう当意即妙に対処するかというのは、その人の知識の量ではなくて、人としての厚みのようなものに表れますから。逆に言えば、飲み屋の席なんかで、人間力みたいなものを日頃から鍛えていないと、未来に起こる未曽有の出来事に対応できないと思うんですよ。ただ、最近の飲み屋さんは、女性客のほうが多いなんていう話もあって、男は飲み屋に寄らずに家に帰って寝ちゃうというもんなぁ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  それ、駄目なんだよ。やっぱり、「わかる」とか「気づく」の処方箋は、感覚を磨けってことだからさ、答えを言ってしまうと。それにはできるだけ、多様な状況に身を置くことがいいんで、1つには飲み屋もそうだし、もっと感覚を鍛えられる場に、身を置いてみる機会が必要なんです。一番いいのは田舎へ行って、森とか川とか、自然に触れることなんだけど。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  それと、誤解がないと正解もないというか、本当の正解って誤解から届くのかもしれないですからね。こないだ、たまたま『日本海大海戦』(東宝)という、三船敏郎とか加山雄三が出ていた昔の映画を観たんですけど、バルチック艦隊がどういうコースをたどってウラジオストックへ向かうのか、日本海軍が模索するわけです。どんなに諜報網を駆使してもわからない。海軍は焦るんですけど、霧が濃くて航路を誤った日本の駆逐艦が、迷って、迷って、ようやく仲間に追いついたと思ったら、それがバルチック艦隊だった。何が言いたいかというと、ひょうたんから駒のような、誤解から生まれる正解ってあるわけです。養老  誤解があるからもっと深い正解に至るとかね。あるいは正解の幅が広がるとか。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  意味がないものはいらねえっていう世の中だから。不正解だから意味はないと。僕が虫の標本を見ていると「それ、なんか意味あるんですか」って聞いてくる。逆に聞きたいけどね、おまえに意味があるのかって。おまえが無意味に生きていることを俺はちゃんと許容しているじゃないかと。名越  それは言いたくなりますわな(笑)。養老  真面目に言えばさ、虫は論理的に意味がわからないことがたくさんあるから、だからしておもしろいんだ、ということなんだけど、それも答えるのがめんどうになる。楽しいからやっているんであって、別に意味なんて求めてやってない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  でも、わかります。それは仏教を勉強していても感じますよね。仏教って宗教の側面以上に、哲学とか心理学の側面のほうが大きいんですが、一番驚いたのが、「分別は妄想である」と。「無分別智が仏の智慧である」って書いてあるんですよ。無分別っていうのは、一般の言葉でいえば「バカ」ということですからね。ところが、総体的な主観とか客観とかの分別を離れた、いうならば真実の智慧が「無分別智」だと。そこへ到達しなければならないと。とても世俗化して言うと、「盗っ人にも三分の理」みたいに、悪とか善も、もっと広い見地で見て、その2つの力が世界をつくっているというふうに見なければ、本当の真実は出てこないんだよという。たとえばそういう極めて印象に残る深い言葉が出てくると、そんな凄い悟りに到達するには、思考を止めないとダメだと、無分別智の域には行けないぞとなる。この思考を止めるということがすごく肝心で。ところが、実際にはどういうことになるかというと、「そうか、無分別智を理解しなければいけないんだ」と、ますます思考しようとするんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  だからもう、そんなことまで心配をしはじめると、自分は医者なんかとてもじゃないけど無理だということになる。解剖だったら遺体はもう亡くなっているから、これ以上亡くなるということはない。やってみるとわかりますけど、あんなに気持ちの落ち着く作業はないですよ。今でもそう思います。だって、解剖するでしょう、そのいじった結果は全部、自分に戻ってくる。責任問われるのはこちら側だけなんです。解剖が進んでいくと、手が切れたり、足が取れたりするわけだけど、それを誰がしたかといえば自分ですからね。そういう意味では、自分がやった結果だけがきれいにそこに出る。遺体に責任は一切ありません。一方で、生きている人間との対人関係というのは、相手が勝手に動きますよね、当たり前だけど。それによって、こちらも対応する。責任の所在があいまいです。何か問題が生じたときに、誰のせいだかよくわからない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  そういえば、関係ないんだけど、僕が解剖した人って肺がみんな真っ黒だったんですよ、それこそ煙草を吸わないお婆さんも。肺が黒くなる理由って知っていますか。これ、他のところでも言っているんだけど、消化できないゴミが中に入って、それを細胞が食べて貯めていくからなんです。だから吸っても吸わなくても、肺がんになる確率は大差ない。何が言いたいかというと、そういうことも観察するとわかる。名越  先生は本当にスパスパ吸いますからね(笑)。でもそういえば、喫煙者の数は急速に減っているのに、肺がんの患者数が比例して減ったという話は聞きませんね。養老  いや、むしろ上がっていますよ。こんどデータを見てみてください。だから僕は、肺がんの原因は禁煙だと冗談で言っているんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越  ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越  ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。養老  手は非常に表情がありますから。だから、いじらなくても、なんか嫌でしょう。それは解剖をはじめて 10年ぐらいのときに思った。なんで俺、手が嫌なんだろうなと。ああ、そういえば、動いてねえな、動かない手って見たことねえなって。手は怖いですよ。日常生活だと動かない手はない。そういえば、イタリアのホラー映画で、手をうまく使ったすごく怖いのがあったんだけど、あれは手の意味をわかっているんだ。だから握手という行為はすごく象徴的でね。儀式としておもしろい。だから、飲み屋のカウンターで、隣のおじさんの手を握るんですよ、そうすると「わっ」と逃げるんだ。ああ、やっぱり手を握るって特別な意味があるんだってわかる。名越  表情が読めない不気味さという点では、生き物ではないですけど、能面ってあるじゃないですか。あれもそうですよね。僕の母方の本家が町医者やっていまして、子どもの頃はよく、そこへお風呂を借りに行ったんですけど、その応接間に能面が飾ってあったんですよ。そうすると、その部屋へお菓子を取りに行ったりすると、どうしても目に入ってきちゃうんですよ。見てしまう。ものすごく恐ろしかったですね。もう、走って出たことを覚えている。あれも表情が変わらないという面ではね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  臨床心理の河合隼雄さんが、カウンセリングの秘訣は何ですかと人から聞かれるたびに、「相槌の打ち方ですな」といつも言っていました。相手の話に対して、どこでどう相槌を打つか、極論すればそれだけなんだと。話を聞いていないと相手は怒りますから、さっき言ったように暖簾で受け流すように聞きながら、それを相手に理解させるために相槌をタイミングよく打つ。名越  うなずくことによって、相手を承認しているという面がありますよね。逆に言うと相手は承認されたい。日本人はよくうなずく民族かもしれないですね。昔、野口晴哉先生の講演録を読んでいたときに、「あれ、俺のやってきたことって何だったんだ」と強烈に感じたことがありましたよ。ある日、野口先生のところに年頃の娘さんがやって来て、自分が長い間交際してきた男の人を激しく罵ったんだそうです。「先生、聞いてください!  こんなひどい男なんです!」というような調子でね。で、先生はそれを 1時間ばかりずっと聞いていて、散々悪口を言い続けた女性が「はぁ」と息をついだ。その瞬間に野口先生が、「で、式はいつにするんですか」と言ったというんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  昔から言うじゃないですか、夫婦げんかは犬も食わないって(笑)。あれは本当のことです。他人の夫婦げんかに立ち入って、どっちの味方をしても絶対にダメなんですよ。カウンセラーでもない限り、触れないに越したことはない。そこまで文句言うということはもう、くっついちゃって離れられないんだからね。もちろん実際にはそんな単純じゃなくて、もっと複雑な事情もあるだろうけど、未練がなかったら文句も言いませんからね。特に女の人はそうで、はっきりしていますからね。本当に嫌ならさっさと縁切っていなくなりますよ。文句を言う前に目の前から消えちゃう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たしか、横浜市の統計だと、独身世帯が 4割に迫ってるんですよ。名越  僕もその記事、なにかで見たことあります。かなり前から結婚して縛られるのが嫌という流れはあると思います。とりあえず自由でいたいというか……。養老  たしかに結婚というのは制度ですから、いうならばある種の縛りですからね。形式的に縛られてしまう。いろんな形でね。もう 20年くらい前の話なんだけど、銀座のクラブへある人に連れていかれたときに、お店の女の子たちとママと、僕とで「結婚と同棲はどちらがいいか」という、まあちょっとアホみたいな議論をしたわけなんですが、僕とママが同意見で、絶対に結婚したほうがいい、しないとダメだという考え。一方で、若い子たちはほとんどが「同棲のほうがいい」と言うわけです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「少子化と都市化は一体の問題なんですよ。まあ、保育園が足りていないとか、教育費にお金がかかるとかいう事情もありますけど、根はもっと深いところにある。ただ、僕に言わせると、子どもを育てることと、田んぼで稲を育てることは、根本的には同じことだと思っているんです。自然をコントロールなんてできないけど、手入れして育てることはできる。自然に対して手を入れて維持していく。僕は『手入れという思想』(新潮文庫)という本を何年か前に書いたんだけど、子どもというのは自然なものであって、放置しておくと野生児になってしまうけど、かといって親が完全に管理して思うようになるかというと、そうじゃないんですよ。心を込めて毎日「手入れ」をしてあげて、そして見守ってあげる。それを全部思うようにしようとするから、いろんな問題が吹き出てきているわけでしょう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから、親は遠目から見守るしかないんです。それしかできないし、それでいい。見守る覚悟さえ持っていれば。勝手に走り回って、小一時間で勝手に生き生きするんですよ。ところが、現実はどうかというと、今の子どもというのは、夜遅くまで塾へ行っているでしょう。学校で 6時間も我慢したのに、終わってまた塾へ行く。夜の 10時頃に地下鉄に乗ったりすると、子どもが車内を走っているんだよ。あぁ、この子らは昼間、走らせてもらえていないんだなと思うわけ。夜の 10時にようやく自分の時間になっている。森とか林とか、さっき言った神社の境内とかを走れないから、しょうがないから地下鉄の中を走っている。これね、何かと言ったら、ただの虐待ですよ。日本中の子どもが塾しか行ってないということは、子ども全体が虐待されている。なんで夜中に子どもが、こんなところを走り回らなきゃいけないんだと思うよね。しみじみ感じる。だから、こんな社会で子どもが増えるはずがないんでさ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「つまりそれは管理なんですよ。子どもが完全に管理されている。でも、本当は一番管理しちゃいけないのが子どもなんです。なぜなら子どもは自然だからです。遠くから見守るだけでいい。手入れというのは、バランスをとっていくという、日本人が自然に対して昔からずっとやってきた典型的なことですよね。いわば日本文化の自然に対する典型的な態度なんです。それをコントロールしようとする。「手入れ」と「コントロール」は違うんです。「手入れ」は相手を認め、相手のルールをこちらが理解しようとすることからはじまるけど、「コントロール」は、相手をこちらの脳の中に取り込んでしまうことですから。対象を自分の脳で理解できる範囲内のものとしてとらえてしまい、脳のルールで相手を動かせると考えてしまう。ところが、自然を相手にするときというのは、そんなことができるはずがないんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「山へ行くでしょう。そうしたら、虫というものを僕の脳を超えたものとしてまず認めるんです。そのうえで虫のルールを知ろうと試みること。これが自然と向き合うときの基本的なやり方です。それで何を申し上げたいかというと、今回のテーマは「知る」とか「気づき」とかいうことなんですが、そのためには、最終的には感性を磨いていくしかないわけです。そこには根本的なこととして、自分の人生に対する考え方というものに、必ずつながってくると思うんですよ。自分の人生にしっかりと向き合う必要がある。つまり、その人の人生というのを1つの「作品」ととらえる考え方が、古くからあった。それがすごく大事なことだと僕は思っているんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「言っちゃ悪いけど、あんまりできがよくない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。そういうときに僕は言うんだけど、君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。たとえキャンバスがボロボロの安物で、絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、それで完成した絵は君だけの絵であって、それが人生という作品なんだと。そういう発想が昔は今よりあったと思うんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「比叡山の千日回峰行というのは、修行という1つの象徴的な例としてあげられたと思うのですが、もちろんそこまで例外的にハードなものでなくても、聖徳太子も解説を書いたとされ、日本仏教にかなり影響を与えたとされる「維摩経」が、修行というものの意味を考えるうえで、1つの参考になるかもしれませんね。日本仏教の原点は大乗仏教ですが、その教えは、理論である「法」と、心を落ち着かせその機能を引き出すための「行」と、日常生活の中で行う「方便」に大別されるんですが、出家して修行ができる人というのは昔も限られていて、多くの庶民は社会の中で生活していかなければなりませんから、そうした中で浮上してきたテーマが「方便」。つまり、「法」や「行」だけでなく、一般社会に溶け込んで人に親切にしたり、世の中に貢献したりする「方便」を合わせて実践することで、より完成度の高い悟りを開くという考え方です。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「真言密教では「方便こそ究竟なり」と言っているんですね。苦しんでいる人の助けになりなさいということで、もっと言ったら、自分よりも幼き者とか、弱い者の助けになりなさいということ、それが一番の修行になると書いてあるんですよね。いいことをしなさいと。それが最大の修行だと書いてある。実際、密教では、「法」も「行」も、最終的には「方便」の実践を経て鍛えられ、そこで完成されると考えられています。つまり、「方便」というのは非常に大事で、今でいえば会社や学校、地域のコミュニティなどにおけるあらゆる関わりが「方便」には含まれています。積極的に世の中に関わり、行動し、周りの人を幸せにしていくことが、悟りへの道につながるという教えです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そういう形で人生をつくっていくという気持ちが、今は非常に希薄になっているという気がします。だから、他人をわかろうとか、わかりたいとかいう話をする前に、ここらで考え方を一度大きく変えてみて、いうならば「人生作品」とでもいう考え方に、向き合ってみる必要があると思っています。まずは自分が今、この時代に生きていて、その自分の人生を作品として完成するにはどうしたらいいか、どんな絵を描き上げればいいのか、それを模索できるようになれば、生きていく意味が大きく変わりますし、何より何倍も人生がおもしろくなる。下手な絵でもいいんで、下手なら下手なりの完成度というものがあるわけですから。とにかく描きはじめてみる。宗教が教えるべきことって、そういうことじゃないかと思うんですよね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「仏教というのは、 2500年以上もの間、受け継がれてきた生き方の指針ですから、非常に現実的であり、ときに合理的でもあります。さっきも「方便」の話をしましたけど、大乗仏教では、行や方便は多くの人がイメージしているような浮世離れしたものでもなく、極度にストイックなものでもなく、一般社会の人々の生活と密接に関わっているものです。もちろん、それは現代社会にあってもです。たとえば、先ほどの「維摩経」でも、あるいは密教のお経ではもっと端的に、「欲から自由になることは、欲を持たないということではない」ということが強調されています。つまり、重要なのは「お金や物を持たない」ということではなく、「お金や物をどんなに持っても、それに縛られてはいけない」と教えているわけです。無理して名誉を遠ざけるのではなく、名誉を得てもいいから、決してそこにとらわれてはいけないということですね。「欲しい」という気持ちを無理に抑える必要はないし、抑えても意味はないということなんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人生が1つの修行ということであればそう言えるかもしれませんね。仏教の修行にも階梯がありますから、それを放棄しているわけですからね。あと、江戸時代でも、士農工商の中から一番身分の低かったはずの商人がどんどん経済力をつけていって、おそらく周囲からは「なんだこいつら」みたいな、いうならば今でいうベンチャーみたいなもんだし、やってることはいわゆる生産活動ではないものだから、「こいつら楽して稼ぎやがって」みたいな、やっかみも一部にはあったと思うんです。そういうときに、石田梅岩(江戸中期の思想家)あたりが「商道」というのをつくって、商売は一生かかって自分の人格を完成させる修行の場だという考えを確立したでしょう。あの人なんか、滋賀の小さい商いの番頭さんだったのに、その商道の考えが全国へ広がるんですよね。なぜかというと、そういった一生を通じた自己錬磨という考え方が必要とされたということです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「若いうちは簡単なことになかなか気がつかないんですよ。僕の年になったらよくわかるんだけど、いつも言うのは、俺が死んでも俺は困らねえもんって(笑)。そうでしょう。今日、名越さんと 2時に会うって約束してさ、行く途中で坂の上で車にひかれてりゃ、困るのは出版社と名越さんでしょう。わたしは全然困らないんですよ。自分の死に一番関係ないのが自分だからね。そう考えたら、自分の生死って、自分のものじゃないんですよ。釈迦の側から見れば単なる迷惑でね。それと、死のもう1つ手前にあるのが病でしょう。自分が病気になったらどうしようって、違うんだよね。僕だったら女房に病気になられると一番困るんだ。女房は苦しいとか言っていれば済むけど、こっちは自分でメシ作ったり、いろんなことしなきゃならなくなるからさ。もちろん半分は冗談の世界だけどね(笑)。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「自分の死なんて関係ないというと、「かっこつけやがって」とか言うわけです。強がっているとかね。僕だって死にたいと思っているわけじゃない。不安がないわけではないです。でも、どうせ死にたくないと思っても、そんなの無駄でしょう。わかりやすく言うと、僕たちは毎日、必ず寝ますよね。そのまま死んでしまったらどうなるか。どうもならないでしょう。慌てるのは残された家族であって、死んだ本人にとっては、何も気づかない。だから関係ないと言っているんです。中には、死というものから遠ざかりたくて、家族のつながりも面倒くさくなり、子どもは産まないという人もいるかもしれない。そういう面はあるかもしれない。だから、もっと簡単に考えて、遠くから見守っていればいいんだって、子どもなんていて当たり前なんだって言うんだけどさ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「話が「少子化」から「子ども」や「自然」との乖離にいって、最終的には「人生作品」とか「修行」という話に移ってきているわけですが、話を少子化に戻しますと、結局は 1人でいたほうが楽だということなんです。「俺はこのままでいいよ」と。たしかに、結婚して奥さんと大げんかしたりね、子どもの学校のことでちょっと悩んだりするのは、一見すると面倒なことでストレスなのかもしれないけど、さっきの「方便」じゃないけど、やっぱりそういうことの日々の繰り返しで、自分が変わってくるわけですよ。その変わるチャンスを、しっかりと自分に与えてやらないといけない。僕はそう思います。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そのとおりですね。だから、世の中が「意識化」すると、人の相手を見る目が喪失するんですよ。目が濁る。感覚で感じられなくなるから。学校でも、先生が生徒一人ひとりの特徴を、感性で識別することができなくなっている。極端にいうと、みんな同じに見えてしまうんですね。そうするとどうなるかというと、生徒は「僕には個性がないんだ」と感じるようになる。だから、「脳化」や「意識化」は、社会から個性をも喪失する危険性をはらんでいるんですよ。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、国会で「妾論争」なんかやっていた時代のほうが、ある意味ではよっぽど健全だし、健康的だったし、正常だったんじゃないかと、僕なんかは思いますよね。法的な話とは別に。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「 「意識化」とか「脳化」の弊害って何かというと、頭でわかろうとすることでしょうね。何でも脳の中で言葉に置き換えて、説明がつくと考えている。それでわかった気になっている。「よし、俺は気づいたぞ」なんて思っている。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「動機をわかってしまった瞬間に、まるで乗り移られたようになったりしてね。いや、本当にそうならないとも限りませんよ。ですから、やはり繰り返しになりますけど、「わかる」ということが、言葉にできない感覚的なものなんだということが、社会の考え方の中からすっぽりと落ちてしまっているんでしょう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「学校教育の影響というのも非常に大きいんですよ。学校で教わることって、言ってみれば建前ですから。意識化して建前だけを教えているわけですから。僕は勉強とは山に登ることだと比喩的に言っているんですけど、つまり高いところに登って視野を広げることなんです。見える範囲が広がるということは、人間として成長することですから。僕は子どもの頃から虫が好きで、親からは「くだらないことばかりしているな」と叱られましたけど、一方で虫のことを調べるわけだから知識が必要になります。標本を作るときに、どの薬使ったらいいとかね。英語で書いてあるのもあったり。そうすると、自分の好きなことを徹底的にやり続けるためには、「あ、この教科が役立つな」とか「これをもう少し勉強しよう」とかがわかってくる。「学校の勉強って役立つじゃん」と気づくんです。そういうときがやってくるんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「高いところに登って視野を広げると言われましたけど、たしかにそうで、僕は世の中の仕事の 8割くらいは、全体像が見えてくるとおもしろくなると思っていて、学校の勉強も同じことが言えるかもしれません。先生の場合は、山で虫を追っかけまわしているうちに、それこそ意識化ができない様々なことを、自然と学んでいった。でもね、そういうことを、子どもを持つ親御さんに言うと、今度は「山や森に行くとどんないいことがありますか」とか聞かれませんか。「具体的な効果は」とか。僕はよく聞かれますよ。そこへ触れることが大切なんであって、その結果として何が起こりますかなんていうことは、本当は聞いちゃいけないのに聞くんだよね、今の人は。森に行ったらこれだけ偏差値が上がるなんてことはないんでね。健康面でいえば、森へ行くとこれだけ内臓にいいという数値が出ましたとか、血圧がこれだけ下がりましたとか。そういう方向にもっていきたがる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たぶん今の養老先生の言葉が答えみたいなもので、「ただやる」ということが大切なんですよね。「行」というのは、どんな意味や効果があるかを考えないで、「ただやる」。ダイエット本とか、お金が貯まる本とか、いわゆるハウツー本の延長のような感覚なんでしょうね。「この本を読んだら 10キロ痩せられる。だから読もう」というような。プラスアルファの実利を求めてやってくる。でも、ハウツー本と「行」はまったく違う。「行をしたら、こういう具体的なプラス効果がありますよ」という実利は、仏教では明示はされていません。単純な効果は明らかにされないまま、「ただやりなさい」と要求される。滝行をやるなら、先入観を持たずに「ただ打たれなさい」と。坐禅をするなら「ただやりなさい」と。ところが、そう言うと「それじゃやる気にならない」とか、「具体的な効果や可能性が見えないとやれない」という答えが返ってくる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そうなんでしょうね。実際、テレビの解説なんかでもあるんですよ。禅を組むとこういう神経に働きかけてとか、滝に打たれると身体にこういう効果が、とかね。それ自体は噓ではないのですが、でも、理論的な説明ばかりを先に頭に入れてしまうと、「行」の意味がなくなってしまうわけです。せっかくトライするのに、まあ少なくとも大いに薄れてしまう。「行」というのは自分自身が変化する体験なんですが、どう変化するかは当人にはわかりません。わからないはずの「変化した後の自分」を勝手にイメージして、ありもしないゴールへ向かって「よし、あの悟りの世界へ行くぞ」なんて歩いていっても、それはただ、事前に自分でイメージした「悟り」の感覚を、脳内で再生産しているだけです。つまり妄想が成立してしまう。僕は毎晩、瞑想をしていますけど、それを人に言うと「自分もやってみます」となるんだけど、「リラックスをしよう」なんていう気持ちでやると、だいたい失敗します。あと、「行」の話と同じで、「瞑想はどんな効果がありますか」とか「瞑想をするとどんな感覚が起こりますか」とか。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「瞑想すると仏さまが現れて、まばゆいばかりの光に満たされて……と。たとえそうなったとしても、何千ルクスの光が見えたとしたって、何日か続いたら人間は飽きますよ。ただまぶしいだけで。そんなの悟りじゃないんでね。散歩とかもそうじゃないですか。「気分転換のためにいつもと違う道を歩いてみよう」というのは、別に悪いことじゃないんだけど、でもあんまり「気分転換だ、気分転換だ」って目的として考え続けていると、せっかくのノイズみたいなものが、入ってこなくなるんですね。ノイズは意味がない邪魔なもんだと思っているから。虫と一緒でしょう。いなくてもいいノイズだから。どうせ風が自分の頰をなでて爽やかな気持ちになるとか、木々の匂いがして、それが脳に効果的なのかとか、そういう方向の気分転換を、あらかじめ脳の中で、意味として想定してしまっているから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「言葉にとらわれていることに気づかない。だから、先ほどから言っている意識化でいうと、「行」というのは、わからないままに「ただやる」ことで、言葉で説明ができる限界を超えることができるんです。言葉は便利な道具なんだけど、往々にして人の心にブレーキをかけます。その限界を破る1つのきっかけを「行」は与えてくれているわけですから。しかも、「行」といっても、何時間も坐禅して瞑想するとか、滝に打たれるとかじゃなくて、気持ちを切り替えられるならなんでもいいんです。これは他でも書いたんですけど、僕なんかは「眼鏡を丁寧に拭く」という行為を、いわば頓服薬的な「行」として日常生活に取り入れているんです。眼鏡をゆっくりと丁寧に拭くだけで、頭の中でごちゃごちゃしてたことが、すーっと整理されていくんですよね。眼鏡がきれいになることが目的ではなくて、丁寧に拭くというプロセスが大事だということ。だから、部屋の掃除とか、アイロンがけなんかでもいいと思いますよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「それがわかってもらえない。僕は精神科医ですけど、医師の経験からいっても、プラスアルファの実利だけを示しても、人の行動は変わりません。カウンセリングしていても、一番大事なことだけを「これを覚えておいてな」ってしつこく言うんだけど、実行する人は 1割くらいかな。こちらは理解してもらおうと、しつこく言うんだけど、相手は相手なりに理解をするわけでしょう。生活習慣病の人に「こうしたほうが体にいいですよ」「こうしないとだめですよ」とデータを示し、医師の立場で説明したとしますよね。これはまさに「実利」なんですが、だいたいの人は行動を変えることができない。できても一時的ですよ。プラスアルファの実利なんて、人を動かす力なんかない。本気で変える気があるなら、人生のどこかで、頭の中のステージを全部ガランと音を立てて変えてしまわないとダメですね。人生の方向性そのものを大きく転換させるという。そういう人もまれにいます。多くはないですが。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「森林セラピーってそういうことなんですよ。会社の上司のこととか、恋人とのトラブルとかね、のっぴきならない悩みで落ち込んだり、怒りが止まらなかったり、食欲がなくなったりね。そうやって精神が追い詰められているような人は、森へ行ったほうがいいんですよ。今すぐにね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「あと、森や山へ行けというと、みんな「仕事が一段落したら」とか「時間の余裕ができたら」って言うでしょう。でも、対人関係がギスギスして、人にも言えないような問題を山ほど抱えている人ほど、抱えたままでいいから今すぐ行ってこいと言うんです。医学的にもそちらのほうが、効果がはっきりわかるんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「僕は森も好きだけど、最初にはっきりと感じたのはお寺に通いはじめてからですかね。結界が張られている真言密教のお寺の中に入ったら、頭の中の大半を占めていた世俗的な悩みが、瞬間的にふっと小さなものに見えましてね。手を合わせたら心がすーっと落ち着いていく。「なんか癒やされているなぁ」くらいの感じだったんですけど、 2年、 3年と通ううちに、「これはちょっとすごい力だな」と。言ってみれば、社会という枠組みの外側に出たような感覚なんでしょうね。それによって自分の気持ちが相対化するという。ああ、そうか、自分は相対的なものに悩んでいたんだと。人の悩みというのはすべからく相対的なものです。だから、さっきも言ったように、死は悩みにならないでしょ。死は絶対的なものだからさ。死んだ後は、自分はこの世にいないんだから、悩む必要がない。それを「死と生」というふうに観念的に相対化するから悩むんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たしかに、効率面でも合理性がありますしね。都会と田舎の2つの世界が、どちらかに偏らずにバランスがとれる。だから、そういうところも含めて、1つには森林セラピーということ。漠然ともやもやしている人よりも、進行形で心が極度に追い詰められているような人こそ、できたら森林セラピストと 2、 3時間歩いてね。ここで呼吸をしましょう、目を閉じてみましょうとかやってみる。そうするとね、舞台がガラっと全部変わるときがある。自然に入ると、今まで自分がもがいていたのが、1つの社会の中のさらに小さな事象にすぎなくて、社会の外側には世界や自然があるっていうことを、頭じゃなくて体が感じる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「まさに、人がお寺に行って気持ちがすっと軽くなったとか、明るくなったとかいうのは、その人が無意識のうちに、境内や仏像や、それらを含むお寺の「場」と同調したということでしょうね。自然も宗教施設も、場の力というものがあります。場と同調すると、自分の立ち位置や役割ががらりと大きく変わりますから。それまでは、誰々の伴侶の私とか、誰々の恋人の私とか、会社の課長の私とか。でも、自然の中に入ったら関係ない。お寺へ行ったら関係ないんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「なんというか、歩いたら足からわかるというか。風を感じれば毛穴からわかるというか。それも限界がありますけどね、表現としては。だから結局、ここでわかっていると思っていても、本当はその状況の中に自分が巻き込まれたときに初めてまるっとわかるみたいなことでしょうね。そういうことを、それこそ丸っきりわかってくれないっていうか。知り合いの山へ行って、杉林の間伐でもやったら、それは気持ちがいいに決まっているんです。でもその理屈はいちいち言わない。「これこれ、こんな風に気持ちがいい」「だから心身にいい」なんてことはね。たとえば今ね、天気がよくて、これが会議室じゃなくて林の中でさ、葉っぱが風にそよいでいるのを見ていたら、気持ちがいいもん。黙っていてもいいんですよ。雲が見えて、青空が見えて、木が見えて。別にそれでいいんですよ。説明しようがない。どうしても知りたいなら、自分で行って感じるしかない。僕とはまた違う感じ方になるでしょう。あるいは、「ただ寒いだけだった」「疲れた」と後悔するかもしれない。それはそれで仕方ない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから、医師の立場でいえば、「会議室から出て自然に触れる」ということに対する、心理療法的な効果だってあるんです。二日酔いが治ったりするんだからね。起きて森でも歩いていれば。だから森林セラピーというのがあるんで、そういう対処療法も立派な1つの医療なんです。僕だって年に何回かは頭痛がして、薬飲むことがありますからね。そういう意味では、どんな目的や動機であっても、「森に行ってくる」って発想して行ってみることはいいことですけどね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「あの、これ僕よく若い人にも言うんだけど、日本には本当にたくさんの宗教資産がありますからね、恩恵にあずからないと、もったいないんですよ。一説には、寺は全国に 7万 7000、神社は 8万 8000あるというんです。京都や鎌倉ほどの有名な観光地じゃなくても、どんな街だって 10分とか 15分も歩けば、なにかのお寺や神社に行きあたりますからね。そういうところは拝観料なんてとりませんし。つまり、昔の人たちがせっかく残してくれた莫大な宗教資産を、我々は今、ほとんどタダで利用できるんです。そういう国に住んでいる。これは本当にもったいないことなんですよ。仏教というのはもともと、日常生活に取り入れられる哲学であり、教えなんですけど、それが全然活用できていない。仕事で出張に行ったとか、打ち合わせであまり来ない駅で降りたりしたときなんか、ちょっと歩いてお寺でも見かけたら、ふらっと入って、何も考えずに手を合わせてね。そういう時間が日常にあるだけでも、気持ちの持ち方というのは大きく変わってくると思いますよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「ほとんどそうでしょうね。「あ、もういいや」って怒るのを止める心理の裏には何があるのかというと、よくわからない。そもそも内的な世界の悩みって、表に見えてこないから、なかなかわかってあげることができない。頭に棘が刺さっていたら「痛いだろうな」とわかるけど、頭痛だと表面的にはわからない。ましてや悩みはもっと複雑で、つまり隔離されている苦悩ですよね。でもそれって、往々にして状況が変わった瞬間に「あれ」って夢から覚めるようなことがあるんです。もちろん、必ずじゃないですよ。そういうことがすごく多いんです。それというのは、さっきから言っている「わかる」とか「気づく」ということもそうで、何がきっかけで「あ、そうか」となるかわからないんですけどね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「同じですよね。篠栗町で弟子を連れて合宿するという話をしましたけど、本当に反応がわかりやすいですよ。終わると「先生、良かったです、素晴らしかったです!」って目をキラキラさせて言うんですよ。まるで僕がすごいカウンセリングをしたり、すごいことを教えたかのような顔して。だから、僕はすごく得をしているんですよ。でもそうじゃない、森のおかげなんです。森の中を適当に歩いてね、お寺を3つくらい巡ったらさ、誰だって生き生きしてくるんですよ。それで以前、福岡のテレビ番組で、その篠栗の森へ行ってみましょうというような企画があったのですが、その良さみたいなものを、テレビを通じて視聴者へ言葉で説明するのって、ものすごく難しいんですよ。はっきり言って無理なんです。そうでしょう。「とにかく行ってみろ」としか言えない。「先生、どういう効果がありますか」とか聞かれても、「いやぁ、そこへ放り込んでみるしかないですねえ」と僕は思っている。ただ、さすがにテレビなんでそうもいかない。なので、意識化した言葉を並べて説明するわけなんですが。まあ、伝わっていないですよね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著


     「現代人は生きそびれていますよ」と僕はよく言っているんだけどね。ネット見ると山ほど情報があるんだけど、ああいうものは全部、死んでいますから。死んでいるという意味は、固定しているでしょう。明日になっても変わらない。いつまで経っても同じなのが情報なんですよ。でも人間は情報じゃないし、自然も情報じゃない。諸行無常ですから。それを取り違えるからおかしなことになる。ネットの中のものは全部そうですからね。新しいものは次々出てくるけど、そのまま全部が固定しちゃう。そういう情報はたしかに便利かもしれないけど、生きてはいない。死んでいる情報とだけ対峙して、それではあなたは、生きていることとは違うんだよというところに、人生のどこかで気がついてほしいんです。

    「会社員だって無機質な会議室にいるより、外へ出て空気を吸って考えたほうがいいんだから(笑)。デカルトも言っているじゃないですか。「世間という大きな書物を読むために、自分は書斎を出た」と、『方法序説』に書いていますよ。まぁ、あれは物理的に外へ出るということもあるけど、枠から飛び出ていろんな仕事をして、いろんな経験をしなさいという意味もありますけど。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから外へ出ろというんです。「逍遙学派」というのが昔からありますからね。「逍遙」というのは散歩の意味で、アリストテレスは散歩をしながら講義をしていたらしいし。ただまあ、思うんだけど、やっぱり男の生き方って、西行から芭蕉まで、けっこう旅をしたり、うろちょろ動いていますよ。剣豪も塚原卜伝が山中に 1人で暮らしたりね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    虫採りなんて典型的にそうです。虫が好きな人に「おい、行こう」と言ったら、みんな絶対行きますから(笑)。会社や家族の妨害がなければ、全員が絶対行くって言う。そういう連中を、僕も含めて無機質な会議室に閉じ込めておくと、きっと頭がおかしくなりますから。人ってそういうもんでしょう。生きているんだからさ。やっぱり、そういう子どものような気持ちを、70歳になっても80歳になってもなくさないんですよ。虫採りに行ったらバカに戻ってね。実は6月にも、4、5人で台湾へ行ってカミキリムシを採ってくるんですよ。案内してくれるのが周君という台湾の人で、北京でインセクトファームをやっている人なんだけど、台湾は地元だから当然詳しい。「案内してよ」と言ったら、「その頃は北京で仕事をしているから、夫婦の往復の旅費を出してくれたらガイドしてもいい」と言うから「いいよ、出すよ」と。北京から台湾への飛行機代なんて安いからさ。それで案内してもらってね。カミキリムシって、高いところを飛んでくるんですよ。知っていますか。それを長い竿で採るわけ。バカですよ、こんなもん(笑)。でも楽しいんだ。

    「だから、トランプじゃなくても、変な人が出てくる理由があったんです。英国の EUからの離脱も根っこは似ていて。どの国も政党を見ると、ナショナリズムを標榜している政党が票を伸ばしていますよ。ドイツだろうが、フランスだろうが、オーストリアだろうがね。だから、トランプが台頭するのも当然といえば当然なんで。しかし多くのメディアはそう考えなかったですね。そう言わなかった。トランプは負けると。日本もアメリカも、マスメディアは軒並み、そういった方向の逆側の考え方に取り込まれた。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点でとらえられないのかというのは、本当に強く感じます。そこへ踏み込んでいる評論家って少ないですよね。結果ととらえれば、もっと本質的なプロセス、つまり、なぜこういう結果になったかという、自分たちの根源にある欺瞞とか、過ちに気づくはずなんですよ。つまり、本質的なことにね。なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したらいいんだ」という方向に行きがちですよね。良くも悪くも、今までの自分たちのやり方がこれを招いたという考え方に至らない。だから本質に気づくことができない。これまでの日常がトランプを生んだんだという、そこの部分へ行けないんです。「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。唐や漢や、周が倒れるときも、末路みたいなことはあったんだっていう。

    名越康文

    「新聞だって「大衆迎合のポピュリズム路線はダメだ」と社説で書くんだけど、大衆が多数決で決めているんだからさ。じゃあ民主主義って何なんだという話。そうじゃ

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    2026年03月27日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

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    孤独が良くないという固定観念を崩してくれる。もともと一人で旅行するのが好きなので、孤独にさいなむことはほとんどなかったが、リモートワークについていけず休職までしている身からすれば、リモートワークの孤独さから解放される内容もあり気が安らいだ。当たり前じゃないからこそ気づけることもある。そうなのかなあ。まだよく分かっていない。

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    2026年02月07日
  • どうせ死ぬのになぜ生きるのか 晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義

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    ★★★★★ フルプライスで購入したい

    心の浮き沈みと向き合うための仏教のアイデアを紹介してくれる本。基礎的でありながらも素人には新鮮な考えも多かった。
    以下参考になったもの

    ・自分も世界も常に移ろっていくもの
    ・『自分』と『自分の気持ち』は切り離して考える
     自分は安定 気持ちは不安定
    ・怒り(瞋)は自分も傷つける
    ・不安・蔑みも怒りから
    ・心の中で「私は怒っています」

    ・『行』で安定状態を明るくしていく
     『行』…ひたすら無心で何かに集中すること
    ・簡単で続けられる行を毎日(掃除を毎日10分とか)

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    2026年02月03日
  • 仕事で折れない心のつくり方

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    仕事でメンタルがやられないようにするためにはどうすればいいかの知恵が詰め込まれた本。

    学び
    ●家での居心地を良くするためには役割を持つとよい
    ●やりたいことを探すにはまず「やりたくないこと」をはっきりさせることが大事。やりたくないことが分かればやりたいことの輪郭が見えてくる

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    2025年11月21日
  • 「他人」の壁

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    ・他人とは分かり合えない。深く関わるほどに誤解が増える。そして別に困らない
    ・それでも、わかる瞬間がある。その訓練に飲み会が最適。
    ・自己も他者も関係性も常に変化し続けている。
    ・世界は意味を持たない。人間にとって意味の無いものが大半。しかし、人間社会は意味を求め、意味のあるもので満たす(情報化社会、あるいは脳化社会)
    ・全ての情報は変化しない過去のもの、死んでいる
    ・子供はコントロールできない自然に近い存在。
    ・「あるんだからしょうがない」という寛容さが大事

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    2025年11月17日
  • 毎日トクしている人の秘密

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    10年以上も前に発行された本ですが、今読んでも内容が褪せてなくて、非常に参考になりました。
    根源的な視点で書かれていて、生きる指針となる名著だと思いました。

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    2025年09月03日
  • どうせ死ぬのになぜ生きるのか 晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義

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    タイトルにある問いの答えは載っていません。が、その理由を含めて、丁寧に、なぜ人間は生きるのかについて考察?している本だと思います。
    タイトルの問いの答えを得るための方法が書かれた実践書、という感じです。(言うが易しですが)
    日々の数分で実践できるセルフケアについても書かれていて、タイトルに惹かれて購入したがいい意味で期待を裏切ってくれた本。

    落ち着いて、自分を俯瞰する時間の大切さを学ぶことができました。

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    2025年07月25日
  • 〈新版〉自分を支える心の技法(小学館新書)

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    ときどき読み直したい本。
    周りの人に対してモヤモヤしたり、怒りの感情が湧く時の気持ちの整理の仕方を書いてくれている。

    具体的な方法
    瞑想のことも書いてあったのだけど、私は瞑想が苦手なので、次のことを書いておく。

    物事を俯瞰してみる。
    俯瞰するモードと運動するモードがあるので、俯瞰をたまに入れる。

    何かのグループに所属する時、グループのカラーに合わせつつも、グループから頭1つ出しておく。視野の狭さを防ぐ。

    相談や提案をするときは、あっさり淡々と話す。重たく話すと、どんどん感情的な方向に行ってしまうから。

    他人に対して、「なぜ〇〇なんだ?」という感情が起こったら、他人も自分と同じ感受性だと思い込んでしまっている!それを防ぐには、相手がどんな人間かを分類することが助けになる。

    先生が提唱しているのは
    類人猿分類
    4種類の猿の分析
    体癖論
    この3つです。

    自分に対しても、人に対しても優しくなれますように。

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    2025年05月27日
  • 虫坊主と心坊主が説く 生きる仕組み

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    養老さんと、シューイチでおなじみの名越さんと対談とのことで興味深く読む。養老さんはいつものとおりご顕在。自由に生きていらっしゃる。ご苦労もあると思うけれど、養老さんの考え方が羨ましい。名越さんはテレビで思っていたのと多少イメージが違って、「やりたい仕事がなかったから精神科医になった」「最初のころテレビに出るのはしんどかった」みたいな言葉は以外で新鮮に思えた。お二人の対談は他にもあるようなので、また、名越さんの著書は読んだことがないので、読んでみたい。

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    2025年03月24日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

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    読んで心が軽くなった。押し付けがましくないのに、斜め上から視点を変えてくれる、視野を変えてくれる。本の中で大切にしたい言葉をノートに書き込んだから、しんどくなった時に読み直そう

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    2024年09月08日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

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    ネタバレ

    凄くわかる!が盛りだくさん。笑
    私が気にするほど周りは気にしてないなとしみじみ感じる本!笑
    なんでそんな気にしてる?と思える本です!
    漫画形式で読みやすい!!
    読書苦手でもすぐ読めました✨✨
    本読み出しはこれからでもいいかもです!
    そして気にしすぎって勿体無いともしみじみ思いました笑

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    2024年08月17日
  • 価値観再生道場 原発と祈り

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    知識人同士の対談って、本当に面白い。
    尊敬する、内田樹さん、名越康文さん。
    ここに加わる橋口いくよさんが、とても良い。

    震災直後の日本人の変化が
    キーワードなんだけど、
    10年以上たっても
    示唆する部分の本質は
    変容しておらず、
    確信をつく会話だなあ、と
    あらためて感じる。

    3人の自然な阿吽の呼吸で
    展開していくトークは
    仮面ライダー、ショッカー、ゴジラの話から、死生観まで幅広く、
    楽しく一緒に会話しているような錯覚に陥る。

    怒りの感情からは
    何も生まれない、って言葉が印象に残っている。

    昔は綺麗だったとか
    大恋愛したとか
    そんなことは
    ただの持ちネタ、つまんない、
    ってのも、小気味いい。

    肝に銘じておこう。

    0
    2024年08月12日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

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    前作とのつながりでこの本を手に取ったのですが、やはり名作です。読めば心が軽くなります。今作の教訓は「自分の心に目を向けて自分を確立し、それをもって相手に思いを伝えていけば、自分の居場所ができて孤独が軽くなる」ではないのかなと思いました。人は誰かに優しくしすぎることで、誰かを想うがために本音を押し込めることで、素の自分を認めてくれる人がいなくなり、孤独を感じるのではないのでしょうか。自他の気持ちを尊重することで初めて愛が生まれ、その優しさが相手との関係を温かくしてくれる、孤独を解消していくと解釈しました。

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    2024年04月20日
  • 〈新版〉自分を支える心の技法(小学館新書)

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    名越康文
    1960年、奈良県生まれ。近畿大学医学部卒業。精神科医。専優は思春期精神医学、精神療法。相愛大学、高野山大学で客員教授も務める。臨床に携わる一方で、日本テレビ系「シューイチ」などテレビ、ラジオ番組のコメンテーター、映画評論、漫画分析などで幅広く分野で活躍

    陰謀論者は世界を網の目的な世界感で捉えられず、原因-結果の単線でしか捉えられないリアリストらしい。そういう人にとって現実は偶然と陰謀のどちらからしい。リアリストは心の中に怒りが増し、友人関係が狭くなり、人間不信になるらしい。確かに私が見た陰謀論者も過度に人を恐れてるような人間不信感を感じた。

    〈新版〉自分を支える心の技法(小学館新書)
    by 名越康文
    ところが、この話にはひとつだけ例外があります。つまり、「心は一瞬で変わる」という視点で書かれた心理学が、2000年以上前に存在したのです。それが、僕が「東洋の心理学」ととらえる仏教です。「心の速度は光の 17 倍ある」と述べる教典があると聞いたとき、僕は「これこれ!」と興奮したものです。

    「心は一瞬にして変わる」というテーマについて、仏教はなんらかの答えを持っているのではないか。そう考えた僕は足掛け5年ほどのあいだ、ずっと仏教の研究をしてきました。その結果、僕が想像していた以上に、仏教の体系は本当の意味で科学的であり、人の「心」の本質に触れるものだということがわかってきたのです。

    この仮説に基づくなら、僕たちのコミュニケーションの基礎にあるものが、じつはかなり反社会的なものだということがわかります。なぜなら「怒ることによって他人を自分の意のままに動かす」などというのは、まっとうな社会人なら許されない行為ですよね。でも、僕らは例外なく、子ども時代から、そうやってきました。だからこそ僕はこれを、 人間のコミュニケーションが持つ根本的誤謬 と考えています。僕たちは人生の最初から、コミュニケーションのやり方を間違えているのです。

    つまり僕らは、生まれてから2、3年のあいだに、「 自分にとって最も大切な相手に対して、最も激しい怒りをぶつけ、それによって不快を除去してもらう」というコミュニケーションパターンを繰り返し刷り込むことによって、心を形成してきたのです。そう考えると、僕ら人間は、なんと不幸な生い立ちを持っているのかと思いませんか。僕たちは、最も自分のことを気遣ってくれる人に、最も感情的な怒りをぶつけてしまうことを宿命づけられた存在なのです。  僕ら人間は、最も愛している人、最も大切にしなければならない人、あるいは最も自分のことを大切に思ってくれる人に、最も破壊的感情を向けてしまう。幼いときから、繰り返しそういうパターンを刷り込まれているのです。

    冷静になって考えてみると、「相手が大切な存在であればあるほど、破壊的な感情を向ける」ことはまったく合理的ではないし、そういう習慣が刷り込まれているというのは、生き物としての必然性に欠けるように思えます。  妙なたとえかもしれませんが、もしも、僕ら人間のように長い養育期間を持たない宇宙人が、地球人の家族関係を見たら、驚嘆するだろうと思うのです。生まれてすぐ自立するその宇宙人は、地球人のように「怒りによって人を動かす」習慣は持っていません。ですから彼らはきっと、僕らにこう聞くでしょう。「あなたたち地球人は、なぜ最も大切な人に対して、最も破壊的な感情を向けるのか」と。

      僕たち哺乳類は、子育てに異様なほどエネルギーを注ぐ特殊な存在であり、それだけ愛情欲求(ひいては怒り) にとらわれやすい のだと考えるだけでも、社会生活はずいぶん楽になります。 20 年以上に及ぶ異様に長い子育て期間のなかで、僕らは徹底的に甘やかされて、「愛情がないと生きていけない」と刷り込まれています。しかし、他人に愛情を求めたり、他人に認めてもらいたいと感じたりすること自体、地球上の生物全体から見たら「病的」なのだということを頭の片隅にでも置いておくと、過剰な愛情欲求や承認欲求に苦しめられなくて済みます。

     僕たちはお互いに、怒っている人に甘すぎます。実際、国会を見ていても、怒号ばかりです。それがかっこいいという価値観すらあるようですが、怒りが大きいことは、その人の本気の度合いや真剣さとはまったく関係がありません。怒りはほとんどの場合、ナルシシズムをともないます。ですから、公的な場で怒りをあらわにすること自体、本来、恥ずべきことであるはずなのです。しかし、そういう価値観はどんどん失われていて、むしろ公式な場であっても、怒りがその場を支配する武器として使われているきらいがあります。

    リアリストの思考様式の最大の問題点は、時間的にも空間的にも、思考や想像力の幅が狭くなる、ということです。はるか未来や過去の出来事と、現在を生きる僕たちのあいだには、数えきれないぐらい無数のファクターが関与しています。また、空間的に遠くなればなるほど、少なくとも僕らには、両者をつなぐファクターを感知することが難しくなっていきます。だから、「目に見えるものだけを信じる」リアリストは、はるか過去や未来のことは、「どうせ考えてもわからない」から考えなくなり、空間的に遠いことは、「自分には関係ない」から、やはり考えなくなってしまいます。  つまり、リアリスト的思考が行きすぎると、「壁の向こう側」の出来事は、「壁のこちら側」に生きている私には関係ない、と考える傾向がどんどん強くなってしまうのです。もしかすると、こう説明しても「それの何が悪いのか?」と思われる方もおられるかもしれません。しかし、僕が臨床的に見るかぎり、こうした〝リアリスト〟的傾向が強くなればなるほど、中長期的には引きこもり傾向が強くなります。心のなかに怒りが増し、友人関係が狭くなり、人間不信になっていくのです。

    なぜリアリストは引きこもるのか。それは、リアリストが原因─結果の単線的なモデルで世界をとらえようとするからだと僕は思います。「AによってBが起こる」、あるいはせいぜい「本来AによってBが起きるはずだったのに、Cによって阻害されている」という程度の、単線的な認識を積み重ねることで、リアリストは世界をとらえようとします。その結果、何が起こるかというと、リアリストはだんだんと、世界を「偶然」か「陰謀」でしか認識できなくなっていくのです。  まず、「こうなったのは○○のせいだ」という単線的な世界認識が、容易に陰謀論につながってしまうのはわかりやすいと思います。「俺が就職できないのは学歴のせいだ」「経済的に恵まれないのは誰かが資産を独占しているからだ」。あるいは、「旦那が冷たくて私の結婚生活は真っ暗だ」「私が不幸なのは親から愛されていなかったからだ」……。陰謀は「陰で 謀る」と書きますが、自分の不幸には必ず、それを謀った「誰か(何か)」がいる、というのが陰謀論的な世界認識です。

    冷静に考えれば誰にでもわかることですが、あるひとつの出来事が起きるときには、本当は何十、何百というたくさんの要素が絡み合っています。僕らの認識力では、そのすべてをとらえることができないというだけなのです。そして、「 何十、何百という多要素が、それこそ網の目のように絡み合って〝いま〟がつくられている んだな」と認識したとき、僕らははじめて世界に対して「必然性」を感じることができるようになります。

    「ありとあらゆる要素が絡み合ってこの世界が立ち上がっている」と実感してはじめて、僕らは「必然性」を信じられるようになります。そして、必然性を信じられた分だけ、怒りが減っていくのです。極端にいえば、目の前に起こっている現実を本当に必然だと信じられたら、怒りはまったくのゼロになるはずです。なぜなら、どんなひどいことが起きたとしても、それが自分の目には見えない、世界の複雑な網の目のなかで決まっていたことだと思えれば、文句を言っても仕方がないのですから。

    2500年前からお釈迦さまは、怒りを制御していくことの大切さを認識し、そのための知見を残してくれていたわけです。たとえば「スッタニパータ」という経典には、終始「怒ってはいけない」と書かれています。怒りは、人をものすごく不幸にする原因である。怒りはものすごく僕たちを苦しめる、あるいは疲れさせる。そういうことをお釈迦さまは徹底して説いていました。これを知ったときは、僕自身、すごく納得させられましたし、それまで自分が考えてきた方向性がそれほど誤ってはいなかったと勇気づけられました。

    僕が精神科医として学んできた西洋医学、あるいは心理学は科学的思考に基づいたもので、それはそれで非常に役立つものではあるのですが、一方で、それがどこまで普遍的な知見であるかは、僕ら一人ひとりが、ときどき自分なりに検証しておく必要があると思います。天動説が地動説になったのは昔の話のようですが、人類の歴史全体を見れば、つい最近のこと。西洋医学にしても、この 10 年、 20 年といった短いスパンのなかで、それまでの定説がひっくり返った分野はいくらでもあります。  これに対して、仏教という巨大な体系がもたらした知のなかには、2500年のあいだ、誰からも決定的な 反駁 を受けていない知見がたくさんあります。温故知新や、古典に学ぶということがよくいわれますが、歴史の検証に耐えてきた普遍的な知恵から、僕らの知見を定期的に検証しておく作業は、忘れがちですが非常に大切なことだと思うのです。

    さらに、これも見落としがちなのですが、 相手を見下したり、軽蔑したりするのも怒り です。これだけで「ああそうか」とピンとくる方もおられれば、「見下すのが怒りってどういうこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。  たとえば、上司が何かしゃべっているとします。その話の途中で、「ああ、部長が言いたいのは要するにこういうことでしょ」と勝手に相手の考えをまとめて、あとは上の空、という経験はないでしょうか。ここには相手を見下す感情があります。これも怒りであり、じつはその人自身の心を疲れさせています。

    なぜ、僕らは相手を見下すのでしょうか。それは「自分がいちばん正しい」という傲慢な気持ちがどこかにあるからです。そして、「明るく傲慢な人」をイメージしにくいことからもわかるように、傲慢さというのは、かなり怒りに近い感情なのです。「私はそんなことありません」という謙虚な読者もおられるかもしれませんが、それは表現の仕方が違うだけで、心のなかには、「自分だけが正しくて、私の言うとおりにしない他人は間違っているのだ」と考える傲慢な自分が、少なからずいるのが普通です。

    しかし、こちらの考えがどうであれ、現実には、他人はけっして思ったとおりには動いてくれません。当然ですね。僕の考えでは、「他人に対して100% 従順な人」というのは、病んだ人です。元気な人ほど、他人の指示には簡単に従わないものなのです。

    ちなみに、やたらと自分のことを卑下するような態度も傲慢さの変種なので注意しておきましょう。「どうせ私はバカですよ」という言い方を好む人は、一方で「なんで、こんなバカな私の言っていることがわからないの?」という、やや迂回したかたちの「見下し」にとらわれています。つまり、 自己卑下というのも「見下し」であり、傲慢さであり、怒り なのです。

     注意していただきたいのは、相手を見下したり、自己卑下したりすることが「道徳的にいけない」と言っているわけではない、ということです(もちろん、道徳的にも良くないですが)。ここでは、「そういう思いにとらわれることが自分自身の心を疲れさせ、結果として対人関係に悪影響を及ぼす。そういう意味で、どちらも『怒り』の変種にすぎない」ということを理解していただきたいと思います。

    怒りを消して心の基準点にリセットする方法はいろいろありますが、僕が最近お勧めしている方法は、「木に抱きつく」というものです。近所の公園にでも行って、どれかお気に入りの木を見つけて、毎朝抱きついてみるという、非常に単純な方法です。なるべく大きな木に抱きつき、深呼吸する。自分の心のなかの澱んだ部分を、大木の力で流してもらうことをイメージするとよいでしょう。

    アルボムッレ・スマナサーラ長老  スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年、現在のスリランカに生まれ、 13 歳で出家する。スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、 80 年に来日。現在は、日本テーラワーダ仏教協会などで初期仏教の伝道、指導に従事。誠実温厚な人柄、的確で流暢な日本語による説法で定評がある。『怒らないこと』(サンガ新書)など著書多数。

    すると、そのうちに「運気」が変わるような感覚も生じてきます。出会いの質が変わったり、日々の流れが変わったりするでしょう。非科学的と思われるかもしれませんが、怒りが消えると視野が広がり、より「網の目的世界」を感じられるようになることで、悪い流れを断ち切りやすくなるのです。

    「心には毎日が効く」と覚えてください。つまり、「よし、一日中ニコニコ笑ってやるぞ」と一生懸命、頑張って過ごしたものの、次の日は疲れて一日中怒っていました……ではダメなのです。

    しかし、「怒らせる人」や「イライラさせる人」がどういう人たちなのか考えてみると、じつはその人たちもまた「怒っている」 ことがわかります。  すぐ嫌味を言ってくる否定的な人や、こちらを攻撃してくる人、無視する人、無礼な態度を取る人。いろいろなタイプがいるとは思いますが、その人たちを丁寧に見ていくと、必ずその人自身が怒っています。たとえば「嫌味を言う」人は、先に述べた「見下し」の怒りに取りつかれているのでしょう。  バカにする人、嫌味を言う人、悪口を言う人、 噂話が好きな人……これらはみな「怒らせる人」ですが、同時に「怒っている人」でもあります。つまり、「怒らせる人」はほとんどの場合、その人自身が怒りにまみれた、不幸の渦中にいるのです。

    そういう考えを手離し、「怒りは自分の心のなかで生じている」のだと、心の底から受け入れることができれば、自分を怒らせる人を目の前にしたときでも、少なくとも論理的には、こちらが腹を立てることはなくなるはずです。他人を怒らせる人は、すごく孤独で、人を信じられなくて、本当に情けない気持ちで生きているのです。「この人はじつは苦しんでいるんだな」というところまで洞察が及べば、やたらにカリカリすることもなくなるでしょう。

    「嫌いな人のために祈る」のが難しければ、最初は自分や家族、親友たちの幸せを祈る。次に、付き合いは浅いが取り立てて悪感情も抱いていない人のことを祈ってみる。そして最後に、「もののついで」でもよいので、その人のことも祈ってみる。  そんなふうに、だましだましでもかまわないので、「嫌いな人の幸せを真剣に祈る」ことができるようになると、だんだんとイメージのなかのその人が笑顔になってきます。そうすると、その人の前に立ったときに、 苛立ったり、緊張したり、妙な心理状態になったりすることがなくなっていくのです。

    これに対して、長時間を費やしてディテールに至るまで 細々 と話し、相談相手も真剣に解決策を考えるような「悩み相談」モードで話した場合、結局は本質的な解決に至らないことが案外多いのです。会話に「軽快さ」がないと、人に話すことの効果は薄くなってしまいます。なぜかというと、 僕らは「真剣に話そう」とすればするほど、自分に 噓 をつくようになる からです。

    その典型例がいわゆる「苦労話」です。「若いころ、こういうことがあってね」という語りは、表向きはすごくいい話に聞こえても、じつは、その人の本音や心の暗部を隠すよう巧妙につくられた、非常に完成度の高い物語にすぎない場合があります。相手に味方でいてほしいという依存心や、相手に救ってほしいという思いからつくった物語です。こうした物語は必ず、本心を巧妙に隠したものになりがちです。だから話を聞いているほうとしては、「結局あなたの本心はなんなの?」と核心をつかめない不全感を覚えるし、話しているほうも、自分の感情にそぐわない話を繰り返す自分にイライラしてしまうことになるのです。

    もちろん、人間の語りなど、すべて作り話といえば作り話だし、まったく 噓 のない「ホントの話」などというものは存在しません。問題は、熱を込めて語れば語るほど、物語はあなたの本心から離れたものになってしまう、ということです。

    物語が精緻で破綻のないものになればなるほど、本当に伝えたかったことから離れてしまう。裏を返せば、物語は破綻しているほうが効果的だ、ということでもあります。相手を説得するような物語ではなく、淡々と、手短かに事実を語る。前後のつじつまが合っていなかったり、論理としては破綻していたりするかもしれないけれど、案外、そのほうがこちらの本意が伝わることが多いものです。また、そういう話であれば、聞き手のほうも別に気の利いた意見を言う必要もないので、楽な気分で聞くことができます。

    じつは、多くの人の共感を呼んできた文学や映画、あるいはアニメの物語などは、精緻なようでいて、どこか破綻していることが多いのです。むしろ僕らは、物語が破綻する瞬間に、臨場感や、いきいきとしたものを感じる。それがないと人の心には訴えかけてこないのだと思います。

    人に話をするときは、淡々と、あっさり話すのがいいのでしょう。ただし、これは考え方としては簡単ですが、実践するのはそうやさしくはありません。誰でも自分のことを語るときは、 噓 をついてでも自分の話に説得力を持たせたくなります。しかし、そうやって熱心に語れば語るほど、 噓 は大きくなってしまいます。それだけに、他人に何かを語るときには、「できるだけあっさり過不足なく話そう」と心がけておくことが、ひとつの技法として役に立つのです。

    ものごとの外側を観察することは、誰でも当たり前にやっています。子どものころには昆虫観察やアサガオ観察、さらには親の顔色を観察して、欲しいものをねだるタイミングを計ったりもしていました。顔色をうかがう、空気を読む、というのも外側の観察です。とりわけ日本人は、外側の観察には 長けていて、それが精緻なモノづくりや、世界トップレベルの技術力にもつながっているわけです。

    ところが、自分の内側の観察となると、どうしたらいいのか、皆目わからなくなってしまうという人がほとんどです。日本人には向いていないのかというと、そんなことはありません。じつは、日本人は昔から、「こもる」というやり方で自分自身の内側を見つめてきたのです。

    瞑想といっても、ただ黙々と行う辛気臭いものだと思う必要はありません。もし近所に大声を出しても迷惑にならないような場所があれば、「ウォー」と 遠吠えをするのもいいでしょう。きれいな声を出そうなどと思わずに、身体に振動が起こるような野太い声で叫んでみてください。

    「光を見る」というのは、比較的、初心者にもお勧めできる方法です。目をつぶると、まぶたの裏にうっすらと光が見えると思います。瞑想のときは薄暗がりにするわけですが、それでもうっすらと光を感じることができるでしょう。この光を「見よう」と集中します。光の感覚が生まれてきたら、それをだんだんと自分の周囲を包むように「広げよう」と集中します。

    僕が学生のころ、チョギャム・トゥルンパというチベット仏教者が書いた『タントラへの道─精神の物質主義を断ち切って』(チョギャム・トゥルンパ著、めるくまーる、1981年) という本が話題になりました。そこで、なるほどと感銘を受けたのは、「自分のほうが精神世界の修行が進んでいる」といったかたちで優劣を競うのは、〝精神の物質主義〟に陥っていることにほかならない、という批判でした。考えてみればそうですよね。「瞑想などの仏教修行を行う人のほうが、世俗を生きる人よりも偉い」という比較を行っている時点で、その人は世俗の競争社会の枠組からまったく自由になっていないということですから。「私は瞑想をやっているから、あの人より偉い」と思っている人の心のなかは、間違いなく怒りで曇っています。

    でも、こういう本をチベット仏教者が書かなくてはいけないくらい、この「瞑想の落とし穴」は危険なものだということです。僕ら凡人は、肝に銘じておいたほうがいいでしょう。瞑想を始めてから妙に 厭世的になったり、人を見下した選民思想にかぶれだしたら、危険信号です。

     たしかに、仏教的な悟りの世界に魅力を感じるようになると、現世に生きることがなんだか俗っぽくて、本質に迫っていない、無駄なことに感じてしまう気持ちもわからないではありません。でも、大乗仏教の考え方に 拠るなら、現世に生きることと、仏教的に生きることは、本当は矛盾しないはずなのです。

    〈ゴリラタイプ〉  比較的冷静で、状況に対して受動的。変化を嫌う安定志向。マニュアルどおりに物事を進めたいタイプです。対人関係は控えめで、あまり自己主張はしません。新しいことを始めるときには非常に慎重になるため、職場でもはじめは目立たず、場合によっては能力も低く見られがち。ただし、仕事を覚えたあとは着実で失敗が少なく、みんなの期待に応える頼りがいのある人物に成長していきます。  リーダーとしては、「和を以て貴しとなす」タイプ。不満を抱いている人はいないか、困っている人はいないか、チームの仕事が滞りなくできているかに心を砕く調整型。頼りになるが、一方で決断力がないという側面もあります。  階段を一段一段のぼっていく仕事のやり方は、とくに目的最優先の「チンパンジータイプ」をイラつかせるので、この組み合わせで仕事をするときは、最初のうちゴリラが苦労します。機が熟せば能力を発揮するので、周囲は長い目で見守ってあげるのがベストです。

    〈ボノボタイプ〉 「愛されたい」「嫌われたくない」が行動の基軸。「ゴリラタイプ」が静かにまわりの人を見ているのとは好対照に、「ねえ、聞いて」「今日の服、どう?」と頻繁にアピールしてくる〝かまってちゃん〟タイプです。感情が豊かで、相手に対する思いやりもこまやか。その一方で、自分が相手にどう思われているかも気になって仕方がない。人と話をするのが好きで、ひとりで過ごすのが嫌いです。  コミュニケーション能力が高いので、ムードメーカーになり、営業職や、グループでの仕事に力を発揮しますが、人前でのプレゼンテーションや、論理的な説明は苦手。出世欲はそれほどなく、みんなと仲良く過ごすことが最大の関心事です。 「チンパンジータイプ」の攻撃性や、「オランウータンタイプ」「ゴリラタイプ」の冷静さに、自分は嫌われているのではないかと不安になることもしばしば。このタイプには、まとめて大きなご褒美をあげるより、日々、こまめに声をかけてあげることが大事です。

    〈オランウータンタイプ〉  個人主義の職人タイプ。何事に対してもまず自分の頭で考え、自分の思想を押し通します。集団行動は苦手で、プレゼン能力はあるのにコミュニケーションが下手。話し合いで決めるのではなく、独断でものごとを決めてしまいがちです。  直観力が鋭く、高い 造性を発揮するので、周囲から称賛を浴びることも少なくありませんが、他人の評価より、自分の納得性を重視。自分自身が納得できないと、仕事のモチベーションも一気に下がってしまいます。  感情をあまり表に出さないので何を考えているのかわかりにくく、感情豊かな「ボノボタイプ」や「チンパンジータイプ」からは、付き合いづらい人、変…

    〈チンパンジータイプ〉  進取の気質に富み、感情が豊かで、明るく社交的。目にも力、声にも力があり、覇気を前面に押し出して、リーダーシップをとりたがるいわゆるボスタイプが多く見られます。人を励ますことが得意な半面、時として相手を責めたり、押しつけがましくなったりすることも。  グループのなかでどんな評価を受けているかということには非常に敏感なので、独断にまでは至らないものの、自分の意思を遂げたいという気持ちは強く持っています。一番乗りをしたい、いちばん目立ちたいなどと、競争心は旺盛。ファイト満々でありながら、心が折れやすく、 寂しがり屋の一面も持っています。  このタイプに…

    〈1種 頭脳(陽) タイプ〉  頭脳(陽) タイプ=1種は、いわゆる「男性は理屈っぽい」とされる部分、つまり言語・論理中心で世界をとらえることを好む人たちです。キーワードは「 地味」。  そのイメージを動物にたとえると、キリンやゾウ。大きく、ゆったりと歩く感じです。  顔は長くて、大きめ。首はしっかりしています。誰の話にも 鷹揚 に耳を傾け、感情的にならず、それなりに存在感があるけれど地味な人。平等で、いつも落ち着いていて、理性的、かつ品が良い。  ただし、悪いほうに出ると、これしか正しいものはないという、教条主義に陥ってしまいがちです。理念的になりすぎて妥協ができず、融通が利きません。また、普段からあまり行動的ではないのですが、危機的な状況になると、さらに動けなくなってしまいます。論理的思考の人なので、直観力に欠け、緊急時の即決即断ができないからです。したがって急場のときにはあまり頼りになりません。現実から少し距離をとったところからものごとにアプローチすると、最も実力を発揮します。  どちらかというと、官僚には向くが、政治家には向かないタイプといえます。

    〈2種 頭脳(陰) タイプ〉  頭脳(陰) タイプ=2種は、受け身で、自分の考えというよりは、他人の言葉に左右されやすい側面を持っています。キーワードは、頭脳タイプ共通の「 地味」。  動物にたとえると、シカ。首が細く伸びた草食系。落ち着いていて、1種よりは神経が細やかなイメージです。  身体は細く上半身が貧弱で、首に力が感じられないのが特徴です。人が良く、あまり突飛なことは言わずに、よく仕事をする、サラリーマンぽい地味な人。視点は鋭いが、けっして個性的ではなく、大声を出されるとひるむものの、陰では皮肉っぽいことも言い、大胆な発言はしないけれど、相手の弱点をけっこう知っています。  1種が人より論理的、観念的に考えるのに対し、2種はよりイメージを膨らませて思考します。また、いっさいの趣味趣向や偏見を差し挟まず、いろいろな人の話を平等に聞くことにおいて、2種の右に出るものはいません。人の話を本当に伝聞できるのは、2種だけだと思われるほどで、文献学者、リポートを書く人、書記、あるいは伝統文化の継承は、2種の力なくしては難しいとも考えられます。  さらに組織のなかで人と人とをつなぐ役割も果たしており、目立たない存在で、感情でぐいぐい押されると弱いくせに、5年、 10 年と組織を運営するうちに、いちばん権力を握っていることもありうるのが、このタイプです。細くて、弱々しく、地味で、声もよく通らないのに、どこか怖いところがある、普段は陰気で静かだけれど、じつはすごく力を持っている事務局長タイプ。  なお、2種も1種と同様に急場の役には立ちません。人の話を偏見なく聞くということは、そこに優劣をつけられない側面があり、したがって、緊急時の優先順位がつけられず、すべて同列のまま、何も手を付けられなくなってしまうからです。2種も最前線には…

    〈3種 感情(陽) タイプ〉  感情(陽) タイプ=3種は、明るく、かわいく、人に対して共感的な、周囲の人にとってアイドルのような存在です。キーワードは「 ころころ変わる感情」。3種の人の感情は、とくに原因もないのに移り変わってゆくのです。  動物にたとえると、リスやウサギ。かわいらしくて、ちょこちょこ動いているイメージです。  丸顔ぽっちゃりの方が多く、そうでなくてもいわゆる童顔です。他人に対する共感性があり、頭の回転もよく〝利発〟という言葉がぴったりあてはまりますが、感覚が鋭い分、物事をじっくり考えるタイプではありません。その場をパッと明るくしてくれる存在ですが、移り気なところが無責任な印象を与えることもあります。それでもみんなから愛される、「ドラえもん」でいえば、しずかちゃんのようなキャラクターです。  悪い面は、依存的でわがまま、感情的。自分の好きにやりたいくせに、責任は取りたくないタイプ。また、周囲はころころ変わる感情に、振り回されがちになります。3種以外の人は、原因があって感情が変わりますが、このタイプは原因なしに感情がどんどん変わっていくのです。うれしい話を聞いてしばらくは喜んでいても、だんだん腹を立てだしたり、悲しみだしたりします。まわりは、きっと何か原因があるのだろうと思い、あれが原因か、これが悪かったのかと勘繰りますが、それはすべて無駄なことなのです。 「本人はすごく理性的に判断しているつもりなのだけど、じつはお腹 が減っているときは機嫌が悪く、満腹だと機嫌がいい人」というと、イメージがしやすいと思います。

    〈4種 感情(陰) タイプ〉  感情(陰) タイプ=4種は、自分がどんな気分なのかが自分でもよくわからない、感情がはっきりと定まらないタイプです。自己主張が少なく、はかなげな印象の人たちで、「 自分の感情はわからないが、他人の感情が先に入ってくる」がキーフレーズ。  動物のイメージにたとえるとクリオネですが、妖怪の「 一反 木綿」になぞらえたほうがわかりやすいかもしれません。やせていて細く、つかみどころのないイメージです。また、大和撫子 的な女性のイメージと重なるところもあります。  人の話に共感的で、やさしく 清楚。しかし、自分では何も決められず、あわただしい日常のなかでは、ふらふらふらふらと人のあとについていくしかありません。一方で、自然にまわりの環境に適応していき、なかなか決められない気質が幸いして、気づけば家族中を自分のペースでコントロールしていることもあります。また、いったんへそを曲げたら、何年でも押し黙っているような、陰気なイメージもあります。  自分の感情をとらえることが難しい人たちですが、目の前にいる他人の感情は素早く感じ取ります。自分の気持ちより、他人の気持ちのほうが先に入ってきてしまうので、何か気持ちがざわざわしてきたと思ったら、気づかぬうちに涙が出ていたということも起こります。自分ではなく、目の前の相手がすごく悲しんでいたからです。  相手に対する共感力、ホスピタリティが非常に高いので、看護師やコンシェルジュに適性がありますが、あまり相手に共感しすぎると疲れてしまうこともあるでしょう。

    〈5種 行動(陽) タイプ〉  行動(陽) タイプ=5種は、「成果」「最短」「空間」といったことを感受性の中心に置きます。頭脳タイプのようにじっくり考えたり、感情タイプのように気持ちに流されたりせず、目的に向かっててきぱきと行動し、実際に結果を出していく人たちです。キーワードは「 合理性」。  動物にたとえると、サメやタカ。ひたすら前に進むイメージです。  体型はスラッとした筋肉質で、 目力 が強い。理性的で、判断力もあり、リーダーシップも備えています。その人が意識しているいないにかかわらず、目標に向かって最短距離で、サクサク進んでいく。情に流されず、てきぱき仕分けができるタイプです。  なんでもサクサク結論を出し、サクサクことを進めていくので、ビジネスパートナーとしては最高の相手に思えるのですが、そうとはかぎりません。相手の身になってもう少し我慢してほしいときにも、さっさと見切りをつけてしまうなど、あまりにも目先の損得勘定に走りすぎてしまうところがあるのです。短期間で利益を上げるような仕事は大得意ですが、我慢して我慢してだんだん信用を獲得していくような商売には向きません。  頼りがいはあるけれど、自分もスパッと切られそうだなと、相手に冷たい印象を与えてしまう可能性もあります。  非常に活動的で、スポーツが得意な人が多いのも特徴。5種の人には、空間を制覇することが大きなモチベーションになります。一方、座ってじっくり本を読むとか、2時間半もある長編映画を黙って見続けるというのは苦手です。  同じ「合理」でも、頭脳タイプの人が記録などを丁寧につけるのに対し、行動タイプの人は、記録、報告といった行動を軽視することも多く、いってみれば「報告書の類は3行以上書かない」というタイプでもあります。

    〈6種 行動(陰) タイプ〉  行動(陰) タイプ=6種は、「理想」「幻想」などを感受性の中心に置きます。つまり、ロマンあふれる物語の中心にいつもいたい人です。センスは抜群なのですが、どこか夢見がちな目のすわり方をしていて、現実から 乖離 しており、周囲の人を振り回してしまうところがあります。発想力にはすばらしいものがありますが、それが実現するかどうかにはあまり責任を持たない。ひとつ間違えれば、行動がともなわない夢想家にもなるタイプです。キーワードは「 二面性」と「 自己陶酔」。  動物にたとえると、クジャク。センスが良く美意識が高い芸術家のイメージです。  体型はやせ型で猫背。あごが少ししゃくれています。男性はお尻が薄い優男。女性はセクシーで、とろんとした誘惑的な目をしています。  男も女も雰囲気のあるカリスマ性を備え、映画には絶対に欠かせない存在で、ジェームズ・ディーンもこのタイプです。  カリスマ性とは裏腹に、個人の生活では意外に対人関係は狭く、小さな世界のなかにとどまってしまうところがありますが、いったんひのき舞台に立つと、何百人、何千人を魅了してしまう。そういう二面性を持っています。また、異性を魅了する力が強いので、男女関係が必然的なテーマになり、大事な秘密を異性に打ち明けたりすることもあります。  低血圧で、朝弱い人が多いのも特徴です。つい約束の時間に遅れたり、ルールを破ったりすることも多く、それによって 鬱散 しているところもあります。

    〈7種 闘争(陽) タイプ〉  闘争(陽) タイプ=7種は、どちらかというと攻めに強く、「一番になりたい」という思いが前に出るタイプです。キーワードは「 張り合う」。  動物にたとえると、ライオンですが、これはいいイメージの場合です。良いほうに出れば、俺についてこいという頼りがいのある親分肌の人になりますが、悪いほうに出てしまうと、ケンカっ早くて唯我独尊のめんどくさいボスになってしまいます。  身体はがっちりしていて、首が太く、鼻はあぐらをかいています。力強い目と、太く大きな声。それほど大きな声を張り上げなくていい場所でも「我ここにあり」といった大声で話し、いつもどこかケンカ腰の風情を漂わせている印象があります。  女性はお尻をぷいぷいぷいと横に振って歩き、男性は肩で風を切って歩きます。服装も、肩パットが入ったような自分を大きく見せる服。プレゼントするのも大きなもの。乗る車も大型車、といった傾向が見られます。  性格的な特徴は張り合うこと。一番が大好きで、勝たないと意味がないと思っている人が多く、また、誇大な表現を好みます。 30 センチの魚を釣れば、あくる日には 50 センチになっているし、また次の日には1メートルにと、話がどんどん大きくなっていきます。べつに 騙そうという気持ちはなく、自然にそうなってしまうのです。  義理人情に厚い親分肌で、人をはげまし、守ります。リーダーシップも頼りがいもあるのですが、時に押しつけがましく、情熱が空回りしてしまうのも、このタイプにありがちなことです。覇気がない人を見ると、つい「なぜおまえはもっと頑張らないのだ」とお尻を 叩いてしまい、励ましすぎて嫌がられたり、相手を疲れさせてしまったりするのです。

    〈8種 闘争(陰) タイプ〉  闘争(陰) タイプ=8種は、守りに強く、地道にコツコツ努力を重ねるタイプです。キーワードは「 守りたい」と「 負けるまい」。  動物にたとえるとゴリラ。キングコングなどは凶暴に見えますが、ゴリラというのはじつは、みんなが幸せでいるかどうかいつもまわりを気にして、仲間を守ろうとしているのです。そんな、攻めより守りのイメージです。  体型は7種と同じようにがっちりしていますが、7種に比べると少し丸みを帯びて地味な感じがします。  喧嘩が強いのも7種と同様ですが、8種はどちらかというと攻めるより守りに強いタイプです。  怪獣でいうとゴジラが7種で、ガメラが8種。どちらも怪獣界の大ヒーローですが、ゴジラは切れやすく、怒ると敵味方なく攻撃し、いつでも戦闘モードにいるイメージ。8種のガメラは、弱いものを守ろうとして戦います。ガメラのモチーフになっているカメ自体が守りに強いイメージで、形も丸みを帯びています。  また、7種の人が一番になりたがるのに対して、8種の人は一番になるのは荷が重いと感じます。一番よりも、二番がいい。リーダーとして一番になることを求められても、ついひるんでしまうようなところがあります。 「勝ちたい」よりも「負けるまい」という気持ちが強いのも、8種の特徴です。試合によく勝つスポーツ選手でも、本人にしたら、勝ちたいばかりではなく、負けたくないという意識の人も多くいます。一般的にはゴルフのうまい人に8種が多く、野球でも下半身がしっかりしていないといけない投手や捕手に8種が多いようです。

    〈9種 集注(陽) タイプ〉  集注(陽) タイプ=9種は、「直感」「執着」を感受性の中心に置くタイプです。つまり、ひとつのことに集注し、物事にこだわりぬく人たちです。キーワードは「 こだわり」と「 集注力」。  動物にたとえると、野生の猫、またはクロヒョウ。森の木の上から獲物を狙って体をキューッと縮め、ピュッと飛びかかるイメージです。  身体を縮めて力を出すのが特徴で、顔も真ん中にギュッと寄っている感じの人が多く、身体にいつも緊張感があります。体格は、小柄ででっちりの人が多いのですが、なかには大柄な人もいます。怒っているわけではないのに、座っているだけで異様な空気がふっと出てくるような怖い印象を放ち、服は黒やグレーを好みます。  他のタイプの人でも何かを好きになれば集注するわけですが、このタイプの人は、その集注が過剰になってしまいます。ひとつの店に行き始めると、週に何回も、しかも何年も続けて通い詰めてしまうほどです。また、何かを教えるときに、結論だけ教えるということができず、「そもそも」から話したがるのもこのタイプ。料理の作り方を教えてくださいと頼んだのに、「それなら、まず素材から」と、家庭菜園のやり方を教え始めてしまうような、ある種の極端さや過剰さが特徴です。職人的に能力を高めていくことができる一方で、公平に、バランスよく、ということは苦手です。  ひとつのことにこだわり、名人、達人になった人も多くいて、たとえばチャップリンもそのひとりです。変人、奇人も大勢います。何より、異常なほどの「集注力」と過剰なこだわりは、社会生活に支障をもたらすこともあります。  まず、サラリーマンには向きません。サラリーマンをやっているとすれば、その仕事は全面的にその人にしかできない類のものなのでしょう。他の人と組…

    〈10 種 集注(陰) タイプ〉  集注(陰) タイプ= 10 種は、まわりに自然と人が集まってくる人たちで、包容力があり、矛盾したような表現になってしまうのですが、「集注力」を360度に拡散して使うタイプです。キーワードは「 慈悲」と「 博愛」。  動物にたとえると、カルガモ。ただし体型ではなく、いつも子どもをたくさん引き連れているイメージです。   10 種は骨盤が開いた体型です。 30 歳を超えたら太ってくる人も多く、大きいけれど平べったいお尻をしています。自分を頼りにしてくれる人を我が子のようにかわいがり、世話を焼きたがるグレートマザーのような気質がこのタイプの特徴で、それは男性も同様です。  顔は、花が開いたような役者顔。主役しかできないような美男美女も多くいます。大顔で、仏さまのようないかにもやさしそうな顔をしていますが、パワーとエネルギーは絶大で、自分の仕事に凝ったときには、9種同様、ものすごい「集注力」を見せます。9種と違うのは、それが個人技ではなく、たくさんの関係者すべてに対して行われることです。  黙っていてもなんとなく人が集まってきて、集合写真を撮ると自然に真ん中にいるタイプ。放っておいても注目され、また注目されている状態が自分でもいちばん自然だと感じています。  9種に比べると感情の表現も豊かですが、話は意外におもしろくありません。  器が非常に大きく、なんでも受け入れて、気もよくまわるタイプですが、八方美人すぎてしまう一面も持っています。そうなると、身内も外もなく、みんなに平等に接しますが、それが行きすぎて、家庭のある女性なら旦那さんのお皿とペットのお皿を同じにしてしまうようなことも起こります。世話好きですが、やや雑なところがあるのです。  あえて分類すれば、「ドラえもん」はこのタイプでしょう。

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    2023年12月25日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

    Posted by ブクログ

    わかりやすく、スラスラ読める!
    何度も読み返したい。手元に置いておきたい。
    四コマ漫画も癒されます。

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    2023年11月26日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    ちょうど心が辛い時に読んだせいか、言葉が染み渡ってきた。感情を消したいって思っていたけれど、本当に消えた時が一番恐ろしい。この気持ちがあるままでいいと思わせてくれた。

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    2023年08月17日
  • ニホンという病

    Posted by ブクログ

    本書が二冊目という養老先生と名越康文さんの共著、というか、対話本。養老先生の著書では語られることの本質がずばり突かれているためか、時間軸に囚われた議論というものを感じないけれど、ごく最近の話題をしばしば取り上げている本書では、二人の会話は時間軸上の特定の点に固定されようとする印象が強い。それは、どちらかといえば名越先生の語りに「今」に執着する心を感じることに起因することなのかも知れず、そして、本書の中で饒舌なのもまた名越先生の方だからなのかも知れない。養老先生の著書愛好家としては、そこが少しだけずらされたような印象に繋がる。

    それでも、確かに自分もこんな風な時事ネタの話題に関して養老孟司という人が何を言うのか聞いてみたいといつも思っていた。だからそれを議論に載せてくれる人が居て、それに対して養老先生が思考を巡らすのを聞いているのは面白いことは面白い。大体、先生の著書で展開されている話は、先生の頭の中でずっと考え続けられてきたことで、それが言語化される様式も概ね決まっており、聞いていて、はっ、とすることこそあれども、あれっ、と思うことはほとんどない。それが先生のあとがきにもあるように、人と議論をじっくりしている過程で見えてくるものを捕まえて形にしている、という雰囲気の言説が彼方此方に垣間見え、時々あれっとなる。それが本書の面白さの特徴と言っていいのかも知れない。

    日本という国の思考様式、あるいは常識が、これまでもがらりと変わったことはある、と養老先生は本書の中でも指摘する。鎌倉時代の後は集団死というものが見られなくなる、とどこかの著書で養老先生が語っていたけれど、例えば、歴史上現在に近く、未だにその変化の余韻が残っているところで言えば、明治維新と終戦だとの指摘には唸らされる。正に一夜にして価値観が急に変わるという、信仰を集団統治の中心に据える西洋政治文化では考えられないことを、日本人は二度もさらりとやってのけたのだ、と。それはどうして可能であったか、そして、どうしてその余韻が未だに現在の日本社会を呪縛し続けるのか、という問い掛けは鋭い。

    その問い掛けに少しだけ自分でも答えてみたくなる。すると思いつくのは、そもそもこれほど水資源に恵まれ、放置された場所が瞬く間に自然に帰っていく環境の中で長いこと生きてきた人間というものは、人間の作ったものに対する信頼を、端から持ち合わせていないのじゃなかろうか、という考え。それは、中国の茫々の砂漠や欧州の森のない人工的な環境の中で暮らすのとは大違い(中国人も西欧人も木を切り尽くして使ってしまったのだ)。あちらは都市化の大先輩だ。

    そんなことを考えていると、例えば、争いごとが水に流されるというのも、要は人と人との取り決めに価値を見出したところでしょうがない、という考えの裏返しのようにも思えてくる。選挙の投票率の低さを交通違反を摘発するのと同じ調子でメディアは指摘するけれども、そもそもそんな仕組みに対する圧倒的な信頼の無さがことの本質であって、それは恐らく、平安の都で天皇を中心とした政治が行われていた時も、鎌倉幕府が力にものを言わせて政治を牛耳っていた時も、戦国時代も江戸時代もずっとずっと、上で国を動かしていると思い込んでいる人たちの間でだけで成立する約束事に過ぎなくて、田畑を耕したり、木を切り出したり、魚を釣ったりしていた人の生活の約束事とはあまり関係がなかったということであり、それは今日のいわゆる政治不信の状況と大差ないのじゃないのかな、とも思う。そもそも江戸にこれほど人が集中するまでは、本当の意味での都市化というのを日本は経験していなかったのだ。

    ただし、終戦後、地に足を付けた生活をしている人の比率が極端に下がってしまった(昔の社会科では昭和の年号と会社員の人口比率は同じような数字と習ったものだ)中で迎える今後の大きな変化(それを養老先生は南海トラフ地震の前後における変化だろうと指摘する)をどう日本人が身体的に乗り越えるのか、不安なことは大きいというのは指摘の通りだと思う。何しろ、今やほとんどの国民が会社員で定住の地を持たず、かつネットやメディアによって意見を表明したり賛成したり反対するという(非生産的な行為)が生きて行くことの何割かの位置を占める状況なのだから。取り敢えず水と食べ物だろう、という知恵が回らない社会になっているのだから。都会と田舎の参勤交代、というアイデアはけだし名案なのかも知れない。

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    2023年07月25日
  • 続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編

    Posted by ブクログ

    なんだかホッとします
    自分のやりたいことを、誰にも迷惑かけないのであればやったほうがいいなとやんわり思いました

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    2023年07月20日