信田さよ子のレビュー一覧
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彼女の本は何冊か読んでいるのだが、近年はその押しの強さと言うか、文章から流れる圧の強さと言うか、それに少し辟易していたところがある。それが、長い実践の中で彼女に刻まれた「女性を大切にしない社会への怒り」なのではないか、と思いながら読んでいた。
ただ、本書は最後の推し活とアディクションに関する考察、そして「グループの意味」という考察を読んで彼女の真骨頂のようなものを感じた。特に長年「アルコール依存症」を代表とするアディクションの問題と深く関わり取り組んできた彼女だからこそ書けるし、支援者として長年その問題と向き合ってきた彼女にしか書けないことでもある。
「アディクションからの解放や回復は、自分の心から矢印の方向を反転させることから生まれるのではないか」という一文が心に残った。 -
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26年間にわたり,依存症に携わってこられた臨床心理士の信田さん、、趣味は週刊誌問いかけ哲学という
月曜日は現代ポスト、水曜日はフォーカス
木曜日は週刊文春、週刊新潮 を読むのに忙しい
若い時から 自分達の本も、読まれてナンボ、と思っていて、週刊誌のように見出しはっきり、パッとわかり、切り込む書き方になったそう
彼女の本を初めて読んだのは20年以上前「アダルトチルドレン」
1970年代、学生運動 80年代心理臨床始まり、、90年半ば 依存に分析は効かない、フロイトを乗り越える 1995阪神淡路大震災後トラウマの波が来る
それまでは彼女の仕事は端っこ、の仕事、誰もがやりたがらない、ドブさらいのような
講演も閑古鳥
臨床心理士の仕事は教祖➕占い師➕チーママを足して3で割ったような仕事とある対談でおっしゃっていた
ただ、こぼれ落ちる人たちを援助しているプライドはあった…
現代は回復・治療・支援の対象が男性から女性に変化してきている、特に若い女性
依存addiction→DVが繋がった 信田さんが初めて指摘した「DVと虐待」原宿カウンセリングセンターをやっていてわかったと言う
若い子の市販薬オーバードーズの話も
2021咳止めメジコンが市販薬へ
ドラッグストアやコンビニにも
メジコンはサイケデトックス 意識変容起こす
守る家族がいない 即 死や犯罪
コロナ禍以降、若い子の自殺も増えた
東横に集まってくる子はまだいい
もっと溢れてもいい
困ったら手を差し伸べたい
80歳を超えてなお、臨床に携わる彼女の、4分の1世紀分の依存症に関するまとめを読むのはなかなかしんどかった、、でも読めてよかった
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武田砂鉄さんのラジオに著者の信田さよ子さんが出演していて、興味を惹かれて読んでみた。
信田さんがカウンセリングの仕事を長年続けているのは、週刊誌が大好きでスキャンダルや裏話がないと生きていけないほどの噂好きだからとのこと。そんな理由って言っていいんだ‥なんか信頼できるかもと思った。
信田さんの長年のカウンセリング経験が土台でありながら、芸能人スキャンダルなど誰もが興味のあるの俗っぽい内容を臆せず取り上げ、そこに深い考察がなされるというバランスが面白い。
特に、最近気になっていた「推し活」の章が興味深かった。
「推し」がないことにうっすらコンプレックスも感じていたし、何ならハマれない自分には何か欠陥があるのか?とすら思ってたけど、そんな単純な話しではなかった。
それが必要な人には理由があり、一旦ハマると底がない社会的なシステムも用意されている。むしろ自分が見ていたのは、表面的な事象だったんだなと感じた。
他にもたくさんあるが、まとめきれないので…
とにかく現時点での日本的アディクションについて興味がある方には、強くお勧めします。 -
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今の日本社会の民のなかに宿る不安な社会、生きづらい社会から依存症が顕著になった。アルコール依存症、薬依存症(オーバードーズ)、ギャンブル依存症、リストカッター、DV.家庭内暴力、日本の家庭にこのようなことは侵食され社会問題に陰に陽に内在している。半世紀以上もアディクション(依存症)を研究し書籍を著してきた信田さよ子氏の現在の心理学での社会状況の読み解きである。
先般の地滑り的高市の衆院選もちょっと考察している。
今の「推し」が社会に認知されアイドルに推しとして貢いでいるのも一つの依存症であるとしている。
DV防止法が施行される以前はDVは家庭内の問題だったが施行後は社会問題であり司法の領域に問題化されている。信田さよ子氏はDV禁止法とされていないことにDVが抑えられていないとしている。
依存症は悪いことではないと教えてくれている。多少の依存がなければよ重症化すると擁護している。度を越した依存が経済を圧迫したり、アルコール中毒になることが危険だとする。
アルコールアノニマスの経験から個人を対象とせず、同一の症状の人たちとのグループでのオープンダイアローグが同病者との会話が効果があるとしている。
スマホ、AIなど社会構造が急激に変化し、格差が顕在化している日本の状況を心理士の信田先生は教えてくれている。 -
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信田さん、80歳にして、この冴え!この切れ味の鋭さ!この視野の広さ!
「依存は自前のトラウマケア」という前提で、アディクションを捉える。
苦しみから逃れるために、生きるために必要だったアディクションが、苦しみを生むという逆説的構造。
DVにおける逆転意識。
わかりやすい。なるほど!と膝を打つ人も多いのでは。
「夫からしょっちゅう侮辱され、時には殴られている女性は多い。あまり知られていないが、彼女たちが全員「ああ、これはDVだ。夫から逃げたほうがいい」と考えるわけではない。いっぽう殴った夫も「ああ、これはDVだ。僕はDV加害者だ」と考えるわけではない。では2人はどのように考えているのだろう。
妻は「夫を怒らせたのは私だ」「あんな夫だが、選んだのは私だ」と考えている。夫は、「なぜ僕を怒らせるのか」「怒らせたのは妻だ」と考えている。つまり、DV被害を受けた妻のほうは、「私が悪い、私の責任だ」(加害者は自分だ)と思い、DV行為の主体(加害者)である夫は「自分のほうが被害者だ」「責任は妻にある」と思っている。このように、DVが起きている夫婦においては、行為と意識が逆転している。これを「DVにおける当事者性の不在」と呼んでいる。」
「私はDV被害者(女性)のグループカウンセリングを25年間実施しているが、彼女たちと性被害女性とは酷似している。よくよく考えてみれば、多くのDV被害者は性的DVの被害者でもある。夫に対して緊張と恐怖を抱いている妻は、性行為においてそれから解放されるはずもないだろう。夫の側も妻がどう受け止めているかなど考えたこともなく、一方的な性行為によって妻を満足させていると勘違いしている。妻は夫の反応が怖いので従順に満足しているふりをしなければならない。不同意であることが許されない構造そのものが性的DVだと思う。」
清々しいほどの聡明さと、弱い方の側の立場で物事を見なければ公平にならないという論理に感動。
以前講演会で信田さんの話を聞く機会があった。新聞や雑誌で書かれたものは読んだことがあるくらいで、信田さんの著作は読んだことはなかったので、さほど期待せずに聞いたのだが。
気持ちいいくらいの、歯に衣着せぬ物言い。(これは想定内)
そして、なんだかあったかい(これは驚き)
そして、威張ってない。(好感)
兎角、「気が強い」だの「キツイ」だの言われる日本だが、信田さんのそのさばけた口調は、小気味よく、スッキリしたのが思い出される。
何を臆しているのよ!と励まされるような。
言葉の言い換えの狡さに言及しているところも、さすが。日本で行われがちな意図的で巧妙な婉曲翻訳、ユーフェミゼイションを最近苅谷剛彦さんの話から知ったところだったので、ここでもか!と驚く。
「『性加害』という言葉は、同意のない性行為を広く指す表現として多用されているが、日本特有のグレーな表現だ。英文報道では sexualassault(性的暴行)や sexual abuse(性的虐待)と呼ばれる。assaultとは「暴行、暴力、乱暴」などの激しい意味を持ち、名詞・動詞の両方で使われる。
また、abuse は child abuse(児童虐待)でも知られる単語だ。欧米では、assaultやabuseはいずれも刑法上の犯罪に相当する。これを日本では「加害」と総称したのだ。おそらくそこには男性の性行為の犯罪性を薄めたいという社会の意志が働いているだろう。」
最後の章からがまたよい。
「推し活」の罠。
「自発的選択を半ば強制されるという逆説、その結果責任はすべて自分にあるという装置。
これらはすべて檻ではないだろうか。
やりたいことをやるという呪いに掛けられ、檻に閉じ込められたひとたちは、「推し」をつくることで、かろうじて「やりたいことをやっている私」を見つけることができる。
多くの人たちが、「これが私の推しです」と言ってケイタイの待ち受け画面を誇らしげに見せるのは、どんなに世情が不安定でも、どんなに物価が上がろうが、私はこうやってやりたいことを見つけて(自発的選択)いるんですよ」ということのデモンストレーションのように思える。私はいつもそんな姿を見るたびに、痛々しく思ってしまう。」
こういったアディクションの変化は、グローバル経済による金融資本主義が世界を覆い、今後は人々の認知機能そのものがアディクション化していくと信田さんは言う。
そして、最後に、「中動態」にまで話は及ぶ。
なるほど、意志の力、自己選択、自己責任とアディクションが繋がっているとすれば、そこからの解放は、自分の心から離れることだ。
80歳でもこの知性と瑞々しさと柔軟さ。
なんかうれしくなりました。
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ネタバレ団塊世代を中心に、祖母・母・娘へと受け継がれるいわゆる「母から娘への呪い」について、著者のカウンセリング経験を通じて分析した1冊。
ここ100年くらいで、女性の生き方が大きく様変わりし、社会全体としてはまだ集団心理が追いついていないのかな、という印象。
江戸時代くらいから、男性の生き方(基本的に仕事をする)はほぼ変わっていないが、女性は大きく変わった。
特に庶民にとっては、家のことも仕事もしていた戦前までを経て、専業主婦が大半の世代、そしてワーキングマザーの世界へ。
祖母の時代(団塊世代の母の世代)にはまだ家電の発達が進歩しておらず、同じ専業主婦でも家事にかける時間は5〜10倍くらい必要だったと思われる。
団塊の世代が結婚・出産する頃には、それが大幅に短縮され、余ったエネルギーを子供に向けるようになり(24時間戦っている夫たちにそのエネルギーを受け止めるキャパはなく)、今は共働きが当たり前の時代になって、娘(と言ってもすでに子持ち)世代は親よりも忙しい日々を過ごしている。
それぞれの描く「主婦」のイメージが違いすぎるので、そら話はかみ合わない。
男性の生き方は、現役世代とその親ではかなり変わったが、親と祖父の世代ではそんなに違いはない。
そして現役世代とその子でも、今の状況が更に進化しこそすれ、基本的には変わらないだろう。
これは、昭和という時代に女性の生き方が大きく変わった結果、「呪い」という形でしわ寄せが来ているのかなと感じた。 -
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自分自身も親から受けた影響を少なからず持っているので、とてもためになりました。
簡単に本の内容をまとめつつ、感想を入れます。
妻への母性の期待、育児の押し付け
↓
怒りは子供は向かう
子への虐待(精神的なものも含む)
↓
辻褄を合わせるために、子の怒りが子供自身へ向かう
これは簡単に他者へ向かうこともある
私自身も、夫に言えないことを子供に伝えたり愚痴ったりしていて、「子供をゴミ箱にしている」と言う言葉に、はっとした。
じゃあ誰に思いを伝えればいいか。この本では同じ思いをした人と話をするグループセラピーを勧めている。その時に伝え方として端的に短く言うことがポイントだそうだ。聞いた人は判断とかコメントをしない。
心を治していくのにはジャーニーという言葉を使っていた。すぐには治らない。焦らない。
。。。。
深掘りです。
こうなってしまった土壌として、母親に対する無理ゲーがあった。
明治時代からの家父長制
父親は無責任、母親に対する母性の押し付け
父親は妻に母を求める
母親は完璧を求められて、行き場のない怒りを子供に向ける
外国との違いについて
外国は夫が妻に嫉妬したりするが、、妻を女として見ていないので、これはない。
私自身が、男性とか、おじさんとかに、すごく怒りを感じるが、これもうまく説明してくれて納得しました。私が悪いんじなかった。
「チンヨシ文化」という言葉を何かで読んだが、まさに、男よしよし文化 がいろんな弊害を生み出していて、そろそろ気づいてほしいものである。
「家族の難しいことから、責任を逃れ、その癖、自分は犠牲者ぶった話をし、なおかつ既得権益は手放さない」これが昭和の一般的な男性だと思う。本当にずるい。わたしのおじさんたちへの怒りもゆっくりと癒えていくといいのだが…
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Posted by ブクログ
“深い底の部分では怒りが渦巻いているのに、四方八方からの張力によって、それは流れそうで流れない涙のようにギリギリのところでとどまっている。それはまさに言葉を失うとしか言いようのない現実への直面に思えた。そこから這い上がるように言葉を新しく獲得していく姿、その張り詰めた感じが、読む私の胸を打ったのである。”
---「まえがき」より
公認心理士・臨床心理士の信田さよ子さんと、社会学者・教育学者の上間陽子さんの、数回にわたる対談を書籍化したもの。
性被害に遭った女性へのアプローチについて語っているので、内容はとても重いのだけれど、文章から伝わってくるお二人のキャラクターが真逆のように感じられて、対話が軽快で、サクサクと読んだ。
第5章「言葉を禁じて残るもの」が、最も印象に残った。
既存の言葉、たとえば「意志が弱い」、「自己肯定感」、「愛着障害」などを、「なんとなくこんな意味合いだよね」というニュアンスで使用することを、信田さんのカウンセリングでは禁じているという。
なんとなくの意味合いに乗っかるのではなく、自分の状況をより的確に表す語句や言い回しを探し、それらを使うことを、信田さんは重要視する。
“どう表現していいのか、自分の体験にもっともそう言葉は何か、けっこう考えたりするようになりますよね。私はそれこそ言葉は政治だと思っているので、既成の家族概念に回収されるしかない言葉は使用しないようにします。
(中略)
だから、私たちのカウンセリングでは、別の教科書が必要だということでね、既成の家族の言葉では絶対に言い表せないことを別の言葉で言い表せるようにしなきゃいけないと思ってますね。”
---第5章「言葉を禁じて残るもの」より
読みながら、ある出来事を思い出した。
中学生の頃に読んでいた朝日中学生新聞で、おすぎとピーコのどちらかによる人生相談コーナーがあった。
ある日、相談者の文章の中に「価値観」という言葉が使われていたとき、回答で、「価値観という言葉を使うのはまだ早いでしょう」というようなことが書かれていた。
それを読んだとき、赤の他人の相談への回答であるにも関わらず、ドキッとした。
わたし自身、よく見かけるけれど正直意味を聞かれたらはっきり答えられる自信はない「大人っぽい」単語を、「なんとなくこんな意味合いだよね」とわかったような気になって、しれっと使っていなかったか。
紙面越しに見透かされた気がして、心の中が一瞬スッと冷える焦りを感じたのだ。
読書感想文や日記など、昔から書くことが好きだ。
でも自分の書いた文章を後から読み返して、これって本当にわたしが書いた文章なのか?としらけた気持ちになるときがある。
書いている最中に、なんか白々しいな、嘘っぽいな、と感じて中断することもある。
そういうとき、わたしはきっと「自分自身の言葉を探す」と骨の折れるプロセスを放棄して、脳の表層に浮かんでいるありふれた語彙と使い古された表現をお手軽に寄せ集めて、安直な文章を書いているんだろうなと思う。
そういう文章はだいたいつまらない。
だいぶ本の内容から離れてしまった。
でも、書きながら他に書きたいことがどんどん頭に浮かんでくるとき、書くことは楽しいなぁと感じる。
この本では学問の歴史や専門的な内容も多く語られているけれど、信田さんと上間さんが実際のカウンセリングや聞き取り調査で関わった人々の話もたくさん出てきて、心理学も教育学も社会学も門外漢のわたしが読んでも、とても読み応えがある一冊だった。
お二人のおすすめ図書も各章ごとに紹介されているので、興味を持ったものから読んでいきたい。 -
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柚木麻子さんの『BUTTER』からこちらに流れ着いた。木嶋佳苗の事件当時、私は20代前半だった。その頃は、へえ、なんか大変な事件が起こったんだな、くらいの関心しかなかった。もう20年近く前の事件に興味を惹かれるのは、ルッキズムやミソジニーの社会的状況が当時と変わっていないからだし、私自身がそこにちょっと敏感になっているからだろう。いくつかの事件をとおして、男とは、女とは、男女の関係とは、について、ここまで断定的に迷いなく語ることができる御三方に憧れのようなものを感じたし、御三方間の捉え方、見方も違っていて(特に上野先生と信田先生は社会学=マクロ、心理臨床=ミクロというモノの見方の違いがあるんだろうな)、ある一つの力強い考えに傾倒しがちな私にとっては、バランスよくこの本のテーマを考えることができたかなと思う。とは言え御三方のおっしゃっていることは私にとってはところどころ難しかったが…
特に売春、援交で女性たちは傷つくか、という命題に対して、売春をしている人たちが、男を蔑み、絶望しているからこそ、セックスを売ることができているのだとしたら、私は単純に、ある対象に絶望し続けること、その対象と長い時間を共にすることだけでも、傷つく(というか精神が喰われる)のではないかなぁと思った。 -
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ネタバレわたし自身が、母への憎しみをもつことへの罪悪感を抱えてきた。母へ尊敬の念をもつことができないのは、私が精神的に成長せず、いつまでも幼稚なせいだ。
同じ状況でも親に激しく怒鳴られることもあれば、何も起きないこともある…というような因果の見えない精神的な危険にさらされた子どもが、その状況をまるっと呑み込める呪文が「わたしが悪い」なのだという。「わたしが怖い思いをするのは、わたしが悪いから」と、自分の存在を悪だと定義すれば、どんな状況で困難が起きたとしても必ず適用することができる魔法の呪文だと。
安全安心に生きていくための規範を教えることが躾などだとすると、一定の規範がない状況でも生きざるを得ない子どもが自責という呪文でそれを乗り越えるのだと。
親との関わりで負った傷は、口にすることを許さないのが規範だが、口にすることでしか受け入れていくことができないのだという。
自分自身でそこに言葉を充てることで、自分自身の傷を初めて客観的に見つめることができるようになるのだろう。 -
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“母性愛なんてものはありません。
人間ってそういうものでしょうとか、母性愛がないのかなどと言っちゃいけないんですよ。それがどう時間をかけて、歴史的に私たちに埋め込まれてきたのか考えないといけない。”(p.131)
“娘もしくは息子から母への罪悪感の背後には、父がまったく機能しないということも、私は付け加えなければいけないんじゃないかと思う。
「娘には娘の人生がある。言いたいことがあれば、夫である僕が聞くよ」と正面から妻と向かい合っていれば、娘から母への、もしくは息子から母への罪悪感は、すこしは軽減されたはずです。”(p.134)
“子どもに腹を立てることもあるし、母と同じようにひどいことを言ってしまうこともある。そういう自分を認めなきゃいけない。
大事なのは、そのあとです。そのあとどうするかで、私は決まってくるような気がするんですね。”(p.175)
信田先生はいつも「とりかえしのつかないことなんてない」って言ってくれて元気が出る。「とりかえしがつかない、もうだめだ」と思って割り切ってしまうのは楽だが、それでも自分がやったことを謝って、フォローして、償っていけばいいと。大変だけど、そうしていけば絶望しなくても大丈夫だと。わたしは子育て間違えてばかりだけどすこし気持ちが軽くなった。
自分の親との関係についても「あれはこういうことだったのか」と伏線回収するのを手伝ってくれる。今だから思えることや、今になっても解消されないままものをどうしていくか、いろいろ気づかせてもらえた。
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ネタバレとても面白かった。著者の口調がどこかいい意味でふてぶてしく、パンクな感じにすごく好感を持った。大きなものに萎縮せず、堂々と啖呵を切るような感じで、こういう知識人があと100人くらいいたら、日本社会のナラティブが変わるのになと思う。
臨床心理士と精神科の領域の棲み分けやアプローチの違いなど、あまり知らなかったことがわかり面白かった。
また、アメリカではベトナム戦争後の復員兵のトラウマ、その家族のDV被害から、精神科で診断基準ができ治療が進み始めたこと、一方日本では、戦後同様に復員兵とその家族に大きなトラウマと暴力の問題があったのに、全て家族に対応を押し付け国として医療面からの対策は取らなかったこと、医学でトラウマを扱うようになったのは阪神大震災が契機であったことも興味深かった。
日本の戦争のトラウマは、戦闘より日本軍内部のリンチ、いじめによるものが多かった、というのは、やはりとは思いつつ、衝撃だった。
DV被害者への支援者は主にフェミニストが担い、加害者アプローチは無駄、とにかく逃げることを勧めるが、加害者へのアプローチも必要、家族解体や子どもへの影響を防ぐ有効な実践(p191)という部分は、確かにそうかもしれないと思った。
人は被った耐えられない被害や苦しみが無意味であることに耐えられない。意味を与える信念体系を再建せねばならず、それには多大なエネルギーが必要で、ケアという言葉から想起させるやさしさや慰撫とは程遠い作業、これが被害者支援の中心、(p172あたり要約)
国家と家族の共謀関係についてのp218くらいからのくだりはゾクっとした。
家長の暴力、性暴力を無かったことにする、目をつぶるのと、戦争で傷ついたトラウマを無かったことにする(日本兵は恐怖など感じず、死を厭わず勇敢に戦う)のとは、同じ機序ではないのか、という。
被害者権力という言葉が出てきた。
正義を振りかざすな、とマジョリティが自分の特権性もかえりみず、マイノリティの口を閉ざそうとするのがウンザリと思っていたので、あれれと思って読んだ。
重要な観点だなと思ったので抜粋。
p237
DVや虐待の被害者たちにとって、「正義」の持つ意味は何だろう。家族をめぐる絆や愛情といったマジョリティの言説に抵抗するために、その言葉は存在する。無謀とも見える抵抗・レジスタンスの足場である砦を深部で支えるために、「正義」は必要なのだ。
自分を被害者なんて言っていいのか、これをDVと呼んでいいのか、というためらいと迷いは、「わたしたち、間違ってないよね」という自問自答を呼び起こさずにはいられない。その問いかけに対して、「大丈夫だよ」「間違ってないよ」と安心を与える根拠として正義がある。被害者と自己定義したレジスタンスによって生まれるつながりがある。DV被害者同士が「自分だけじゃない」「同じ経験してるひとがこんなにいる」と確認しあえるために、正義という言葉があるのだ。
しかしこれが時に暴走することがある。これまでも私は、被害者権力に警鐘を鳴らし続けてきた。先に述べたように、DVが正義の問題であり、許せない不正義を礼すのが被害者支援だ、という図式化がしばしば生まれる。
DV加害者は悪、被害者は善といった正邪論によってDVがすり替えられることを、何より避けなければならない。
p238
革命後の政権が「正しさ」「正義」を後ろ盾にすると、どれほど権力化していくかもよく知られている。
DVにおいても同じである。被害者は正しい、被害者の言うことは正しいと考えるのではなく、あくまでレジスタンスを駆動するための根拠という限定がそこには必要となる。
抵抗の対象である加害者と別れる、もしくは加害者が自らの暴力を認め、謝罪や償いを行って変化した場合も、抵抗する必要がなくなる。DVを長いプロセスでとらえると、権力関係が解決されれば、抵抗も必要なくなるのだ。独裁政権が崩壊したり、亡命したりすることによってレジスタンスの必要がなくなるように。
とすれば、DV被害からの回復とは、被害者という自己定義を脱することを意味するのだ。始まりがあり、そこから脱するという長いプロセスの一時期、レジスタンスのために必要なのが正義なのである。正義によりかかることで味わう「正しさ」という力に、時として被害者は眩惑されることがある。この危険性を十分自覚するためにも、砦という比喩は役に立つ。城跡を訪れるテレビ番組を見ると、そこに残っているのは礎石だけである。
点在する石が示すように、砦はいつか必要なくなるのだ。