信田さよ子のレビュー一覧
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アルコール中毒、DV家庭の世代間連鎖を防ぐために、よくない家族関係から逆算して望ましい対応を指南するという面白い本。
子どもにお願いしてはいけない、両親と子どもが2:1になるのはいいが、母親(もしくは父親)子どもと父親(もしくは母親)が2:1になるのはよくない、子の目の前で夫婦喧嘩してしまっても後でフォローすればセーフなど、他では読めないような経験則が豊富である。
しかし、どこまでが精神医学的な知見に基づくもので、どこからが信田さんの経験に基づく価値観なのかがわからない。かなり信田さんの個性が強い部分がありそう。
あと、ママ友の仮面を被った闘争や乳を与えようとする祖母などのソリッドな話題は耳目を引くが、全体の理屈の中の位置付けがやや不明で、恐怖が残る。 -
Posted by ブクログ
連載をまとめたものって読みづらいなぁといつも思います。
本書で取り上げられている世代の祖母にも母にも娘にも孫にも微妙にマッチしない世代ではありますが、やっぱ団塊世代って特殊な環境に生きた人たちだったよなと思う。
核家族化が進む中で、家庭に無関心な夫に絶望し、娘に依存するパターンは2024年の現在だからこそわかりみだけど、この本が書かれた15年前は確かに表面化されてなかった気がする。
今はコミックもエッセイも学術書もいっぱいあって、著者をはじめとする、団塊、団塊ジュニアの先立が私たちに残してくれたものに感謝するしかない。
あと、女にとって1番大事なのは男を見る目だってことはわかりました。 -
Posted by ブクログ
私も宗教2世、いや、正確には3世です。
皆さんの体験談は、自分と重なるところも多く、改めて、自分もいろんなことを我慢してきたんだろうな、本当の自分を出すことができずに大人になったんだろうなと感じました。
せっかくなので、私の記録も(長くなりますが)ここに残します。
私は、父方の祖母、母方の祖父母が創価学会に入会し、父と母は子どもの頃から学会員で、学会活動の中で出会って結婚し、私が生まれました。
父母は地元でちょっと有名な活動家だったので、その長女である私も期待されていると(勝手に)感じていました。
小学生になる頃、母から勤行唱題を教わり、土日には未来部として会合や合唱団の活動に参加しました。
かなり真面目でいい子で、勤行唱題も活動も休むことはほとんどありませんでした。
思い出もあるし、活動を率いるお姉さんたちも優しかったし、そこで教わった宗教的な考えに、今でも救われると思うこともあります。
でも、土日に予定があることが多かったこと、特に中学になると休みの日でも制服で学会活動に行くので、友だちに会うと気まずかったこと、修学旅行では他宗のお祈りはできないということで、クラスメイトが参拝中、外で待っていたことなどが、苦い思い出として残っています。
活動したいとか、したくないとかの前に、自分が本当にしたいことというのは、小さい頃からよく分からず、全ての行動はやるべきことだからやる、という感じで、学会活動以外は、勉強ばかりしていました。
なので、成績もよかったです。
学会は関係ないですが、高校の時は留学もしました。
それも、母が話を持ってきたからで、私は「ああ、留学すればいいのね」と思ったことを覚えています。
その後、地方の大学に行き、転勤のある職に就いたので、各地の学会員にお世話になりました。
知らない土地でも、学会活動を通じて仲良くなれるのはありがたいことでした。
基本的に、いい人が多いので、引っ越しても安心ではありました。
けれど、結婚し、子育てをするようになって、母に子育ての相談をしたりする中で、違和感を感じるようになっていきました。
もともと生きづらさがありましたが、自分はアダルトチルドレンなのかもと思うようになり、最近ようやく、宗教を強いられたことも原因なのかなと思うようになりました。
そうはっきり思ったから、というわけではありませんが、少しずつ活動から距離を置くようになりました。
母も母でいろいろな思いから活動から距離を置くようになったようですが、それは、私には意外で、この本の中でもどなたかの体験にあったように、母は活動から離れないでほしかった、とも思います。
だって、私が創価学会から離れようと思ったのに、だって、母が信じていた学会活動で私が傷ついたのに、、、うまく言えませんが、ずるいというか、裏切られたというか、そんな気持ちがあります。
結局、母も流されていたのかな、と思うこともあります。
一方、父は生涯を学会活動に捧げたと言ってもいいほど、熱心な活動家でした。
父の大切な居場所であり、生き甲斐だったのだと思います。
欠点もある人だったとは思いますが、私は父のことが大好きで、だから、父が亡くなって、学会活動から離れた母のことが許せないのかもしれません。
父のことは二言もなく好きだと言える一方、母には複雑な思いがあり、ただ、宗教活動という面で言えば、父が母に与える影響も大きかったと思うので、私の思いは複雑です。
まだまだ抑圧していることがたくさんあるんだろうと思います。
でも、このような本のおかげで、少しずつ、私の中に閉じ込めたものも解放されるかもしれません。
そんな影響力のある本だと思います。 -
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木嶋佳苗、角田美代子、上田美由紀、下村早苗、畠山鈴香
など毒婦をテーマに、
フェミニストな論客3名でだべりまくる。
女性は、男性を殺した女性犯罪者に自分を同一視するが、男性は女性を殺した犯罪者と自分はいかに違う存在かを力説するという。これは、女性が男性に力で圧せられていることへの反逆を、男性は弱い部分に付け込んでの卑劣な犯罪であることの嫌悪を感じているからなのかもしれない。
また、一般的にモテる容姿ではない木島佳苗が圧倒的なケア力でモテていたというのも、なるほどと思った。
3人のお話は、ある意味、暗黙知が共通的な立場の方々なので、話が通じあうことで、若干ヒートぎみに上っすべりになるところもあった。
(信田さんもあとがきで「ついつい話すぎてしまい失言かなと思う部分もあったが、ま、いいかと思ってそのまま掲載することにした。」と述べており、まさにこの通りの本かなと思います。)
ただ、3人とも、自分の意見をなんとなく流すところなく、議論する感じはさすがでした。
学者、研究者なので、どうしても分析的、分類的になるのでしょうが、
当然、「男は~」と男を敵視したような発言も多々あり。
世界を支配している権威(強いもの)に対するアンチと分かっていても、
この3名の論客は十分強く感じるので、なんかそこまで男を敵視しなくても
と感じてしまうところもあり。
考え方として、「男」という仮想敵があるところから考えがスタートしているように聞けてしまうのが、逆に視野を狭めてしまっているようにも見えて。
ジェンダー関係は性差が出発点になるのでそういう展開なんでしょうが。 -
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筆者はカウンセリングという仕事を大変知的に行なっていることがよくわかる。
「共感」みたいなものを示されるよりも説得力があるしより深い関心を持てる。
・虐待やDVにおいては、「被害者側に立つことこそが中立である」というのは繰り返し唱えていかないといけない。
・虐待とDVはつながっている(抑圧移譲)
・家族の問題解決のためには「構造改革」
→「この人がこうなったのはなんでなのか」という原因を探す「因果論」ではなく、「この問題は、こういう状況の元で発生する」という「システム論」的に考えることで、問題を実際に解決することができる
・加害者像の構築こそが被害経験に意味を付与する。そういう意味では加害者アプローチこそが被害者支援。もちろん、加害者を改善しないと同じ被害がまた生まれてしまうというのもあるが。
今でもフェミニズム的活動の被害者支援のプレーヤーは、加害者へのアプローチを拒否しがち。
また、筆者は「被害者権力」についても触れている。報道に携わるものとしてこの存在は感じるし、権力化には報道が加担しているとも思う。
ただ、これを否定するのは大変難しい。なぜならその人は被害者だから。
筆者も「被害者としての当事者性を獲得することと、被害者の権力化とをわかつものとは何か」と書いているけど、答えは明確には出ていないよう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ家族と国家のつながりは最後の方に明確に出てくる。それまではDVやカウンセリングの話が多い。
以下読書メモ
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・「堅くて変化に乏しい」から「めまぐるしく配置や距離を変える」関係性が主流となったのである。そこで求められる労働者は、適応できる即応性と柔軟性を備えていなければならない。資本主義社会の多くの場で、このように期待される人間像が大きく転換したことを、ポストフォーディズムという。
・ 注意深く見ると、これが日本で主流だった「男らしさ」の価値を下げたことがわかる。男は黙って、自分の信念を曲げずに、頑固なまでに固執する、といった態度がプラスの価値を持っていたのだが、それらは現在では「発達障害的」だとされる。綾屋紗月は発達障害の臨床像とジェンダーの問題を関連させているが、まさに昭和の男らしさは、そのまま発達障害の特徴と重なっている。相手の気持ちが汲めず、状況が読めず、自分の世界に閉じこもっている.というのは、家族における父親の姿そのものではないだろうか。
・ユング心理学の第一人者である河合集雄(一九二八-二〇〇七)は、西欧では結婚によって母親とは切断されるが、日本ではその契機を経ることなく結婚に至るので、男性の多くが母親と切れることなく家族を形成していくと述べた。このような、母息子関係をエディプスコンプレックスをもじって批判的に表現した言葉だと考えられる。母親を拒否できない男性に対する女性からの批判、母親を切断できないふがいなさに対する同性からの批判という、二つの側面がある。
・成人してから「親のことを悪く言うのは自立していない証拠」という規範が、想像以上に息子たちを縛っているのが一つの理由ではないか。その度合いは、娘よりはるかに強いのかもしれない。娘たちの多くもその規範ゆえに苦しむが、息子たちにはもっと深くそれが植え付けられているはずだ。
・もう一つの理由は、異性の親である母、女性である母を、男性である自分が批判し、苦しみを表出することへの抵抗感ではないだろうか。なぜなら、母からの抑圧を感知し、それを苦しいと感じることは、母親への敗北を意味するからだ。被抑圧感とは、抑圧されたという受動性を認めるから生じる。自らが母によって支配され、抑圧されたということは、母の加害性=自らの被害性を認めることになる。父に敗北するならまだしも、母に敗北することは、息子たちのジェンダー観を覆すものだろう。男が男に負けるのは屈辱ではない。しかし、女性に負けることは、彼らの根本にある男性優位的価値観に抵触する。
・殴る蹴るという身体的暴力、性行為を強要する性的暴力以外に、数々の言葉や経済的制裁、脅しや監視といった行為がDVの本体なのである。
・被害者と呼ばれるべき女性たちは、そんな「誤解」を信じなければ生きて来られなかったのだ。あしざまに夫から「バカ、ブス」とののしられても、殴られるわけではないから(しかも「手を上げるわけじゃないから」と婉曲に表現される)DVではない、生活費を定額しか渡されず、給与総額を教えてもらえなくても、殴らないので夫はDVを行ってはいないと、日々自分に言い聞かせて納得させる。性虐待に至っては、ほとんど記憶の片隅に押し込められており、意識されることすらない。
・家族内暴力の多くは習慣的に繰り返され、加害者・被害者の関係は相互的ではなく、非対称的である。これが「けんか」と呼ばない理由である。非対称性は権力と言い換えることができ、強いものから弱いものへと行使される。中でも、DVは加害者のほとんどが男性であることから、市民社会における性犯罪と酷似している。
・記憶がよみがえるには、それを、①名づけ、定義する言葉、②承認する他者、の二つが必要である。しかし、条件がすべて整ったときに想起が起きるわけではない。なんらかのきっかけで、突然それがよみがえる。二人の女性のように、日常生活を送りながら想起を受け止める人は、実は稀である。多くは混乱と混迷をきたし、自分を傷つける行為に走り、精神的症状を呈する場合も多い。
・自分の身体であることを痛みによって確認でき、いつでも容易に傷痕を確認できる場所であることも重要な要素だろう。切る行為だけでなく、傷痕が残存することで事後的に、視覚的に確認できることの意味も考えざるを得ない。
・ 望むと望まざるとにかかわらず、家族を形成したとたんに権力を手に入れてしまう男性(夫・父)には、暴力防止の責任が発生する。子どもを産んだとたんに法外な権力を手に入れる母親にも、同様の責任が発生する。もちろん、それらを個人の問題だけに帰すことはできない。大前提である男女不平等の是正を強調したい。
・ このように、家族の中の暴力から虐待だけが選ばれて強調されるのだ。なぜなら、被害者である子どもは無垢で無力な存在であり、おまけに親を選んで生まれてきたわけではないからだ。これほど圧倒的なイノセンス(免責性)があるだろうか。それに比べると、DV=妻への暴力は違う。被害者の妻は成人であり、逃げる自由をもっている。夫とは合意の上で結婚したのであり、選択した責任は妻にもある。それに夫婦は「対等」のはずだから、あそこまで殴られるには、妻にも悪いところがあるのだろう。常識からは、こう考えられるに違いない。虐待に比べると、DVは妻の責任をめぐる複雑な説明や理論化を経なければ、彼女たちを声高に被害者と断定することは難しい。暴力とは、加害・被害を生み出し、加害=悪=有責、被害=善=免責という図式につながっていく。
・彼女たちは、夫を怒らせたことが自分の責任であるという「加害者意識」を抱いており、それは一般常識の被害者有責論(されたほうにも悪いところがある)と呼応する。グループの基本であるDVとは何か、被害とは何か、加害者に100%責任があると毎回再確認し続ける必要がある。
・うろ覚えだが、「人の話は、結局、聞く側の身の丈以上の聞き方はできない」といった内容だったと思う。範型の豊かさとは、要するに身の丈がどの程度の高さであるかということだ。
・クライエントも、その家族も、とにかく生きることを最大公約数とする。これがカウンセリングの原点であるし、そのために精神科医への紹介も積極的に行うのだ。
・彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。世間のドミナントな家族言説から解放される場、それがカウンセリングの役割なのだ。私が最初からそう決めていたわけではない。クライエントたちの要求によって、次第にアジール化してきたといったほうがいいだろう。範型を豊かにすることは、クライエントの要求によって起きるのだ。なぜ、アジールが必要なのか。「私は親からまったく愛されませんでした。だから親のことは嫌いです」「母親の存在が不気味で恐怖すら抱いてしまいます」「いつそ早く死んでほしい」という、衷心から発する言葉が無批判に聞かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状況におかれてしまうからだ。自分が感じていることが「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判されて責められること、自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状況で人は生きていくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。
・ クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きていけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きていくことを支援するのだ。そのために、彼女が親の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ。ためらいもなく、そうするのである。
・カウンセリングでは、エレベーターを降りて入るエントランス、受付、料金支払い、部屋、カウンセラーといった構成要素の安定性によってクライエントは安心する。いつものように目の前にカウンセラーが存在することで、クライエントは自身の変化に意識を集約することができ、カウンセリングの効果を上げることにつながる。カウンセラーはプロとして最低限の義務である心身の健康を厳しく自己管理しなければならない。
・ 重要なことは、その出来事・体験の意味をどうとらえるかにかかっている。意味づけこそが、トラウマを発症させる契機となるのだ。
・暴力という言葉に込められたものは、対等な個人間で起きる一般的な暴力ではなく、不平等(非対称的)な力の構造を基盤とする「構造的暴力」を意味している。
・上野千鶴子は『生き延びるための思想』(岩波書店、二〇〇六年)において次のように述べている。
「プライバシー原則とは家長という私的権力の支配圏に対して公的権力が介入しないという密約の産物ではないのか」
つまり、もっとも私的でもっとも見えにくい家族で起きていることは、国家のレベルで起きていることと連動しているのだ。家族の暴力についてなかなか政治的対策が講じられないのも、ひょっとして国の意思がそこに働いているのではないか。家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく、もっとも明確に国家の意思の働く世界であり、もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない。
・ 衝撃に対しても、ジュディス・バトラーが唱えたようなエイジェンシー(言説行為を通して事後的に構築される主体。言語と主体をつなぐ行為媒体ともいう)が働くだろう
・政治学者の丸山眞男(一九一四-一九九六)は「抑圧委譲」という言葉を用いた。私はこれほど端的に日本の家族を言い当てた言葉はないと思ったが、丸山の言うように社会の隅々にまで貫徹したこの構造は、ヘイトスピーチを濫させるネトウヨの言説にも、さらには学校のいじめにも連なるものである。レジスタンスは、強者の権力に対する弱者の反撃・反抗・抵抗を意味したが、押圧委譲はそうではない。強者による権力行使に対して、それをそのまま自分より弱者に向かって同じように権力行使するのだ。まさにレジスタンスの対極ではないだろうか。夫の暴力を受けた妻が、自分の娘や息子へ「あなたのために」という大義名分を最大限に利用して人生を支配していくことも、抑圧委譲の応用であろう。会社でも、学校でも、丸山眞男が「日本的なるもの」として描いた抑圧委譲は、二一世紀になった今でも、表向きは非暴力化がすすむにつれて、さらに巧妙に、さらに狡猾になって行使され続けている。
・カウンセリングに従事しながら、従来の心理学的用語や精神分析的用語では、クライエント(来談者)の抱える問題を解決するのに不十分であると長年考えてきた。意外に思われるかもしれないが、私たちのカウンセリングセンターがターゲットとする主訴・問題は、単なる「こころの悩み」ではないからだ。「自己肯定感」のような、いまや世の中に流通しきった感のある言葉は、私がもっとも嫌悪し、もっとも忌避するものである。まさに、すべてを回収してその箱の中に投入すれば世の中がスッキリするという言葉ではないだろうか。自己肯定感は、もともと臨床心理学者高垣忠一郎によって、子どもの成長に対する肯定的評価を重要視する言葉として一九八五年に提唱されたものである。それが、いつのまにか「自分で自分を愛せないなんて」「自分を好きになろうよ」「自分で自分を愛せなければ人を愛することはできません」といった文脈で、自己肯定感を「もつ」とか「高める」といったコントロール可能な尺度へと変わっていったのである。評論家の加藤興戦によれば、村上春樹が登場したもっとも根底的な意味は「否定性の時代」から「肯定性の時代」への変化を先取りしたことにあるという(『村上春樹は、むずかしい」岩波新書、二〇一五年)。戦後知識人および作家たちは、自己否定をかいくぐることで成長するという否定性を価値あるものとした。私もその世代としてよくわかるが、暗いこと、否定することこそ、弁証法的にとらえれば肯定性に至るもっとも確実な道だった。明るいことは単にバカであることの証明であり、肯定することは表層的で思索しないことの表れだったからだ。村上春樹的世界に違和感を覚えるのは、やはり私が否定性に価値を持つ時代に育ったこ
と、その中で自己形成したことを表しているのかもしれない。今でもよく覚えているのが「ネクラ」「ネアカ」という言葉がバブル期(一九八〇年代末)に登場したことである。多くの若者がネクラであることをマイナスとして、一種のスティグマとしてとらえるようになったのである。自己肯定感という言葉の広がりを考えると、肯定性の時代の到来とそれは重なっている気がする。しかし、「自己肯定感」をカウンセリングでもちいることを私はしない。それは否定性への回帰を望んでいるからではなく、新自由主義的自己そのものを表していると思うからだ。あらゆる失敗、あらゆる挫船、友人関係の衝突の理由・背景を考える際の回路な、まるでブーメランのように最後は自分に跳ね返るように仕組まれているのが新自由主義の根幹だとすれば、その象徴としての言葉が、自己肯定感なのだ。すべての道はローマへ、というたとえのとおり、すべての失敗や苦痛はつまるところ「自分のせい」である。自己肯定できないこの私のせいだ、という「自己責任論」の根底をなす、どん詰まり的な気分がそこにはある。
・暴力(中でも家族の)は、そのように定義される前はしつけや愛情、もしくは当たり前の名づける必要のない行為として扱われてきた。呼吸をするように妻を殴る夫はいたが、手を上げるのは妻が生意気だと考えられていたのだ。
・家父長的権力という構造そのものに根差す暴力として、フェミニズムによって問題化されたのがDVであること。これを忘れると、すり替えられる危険性がある。それに被害者は無垢でもないし、非力でもない。DV被害者は自己主張的であり、傍観者を決め込み、あきらめに身を任せる女性に比べれば、はるかに意志の明確な女性たちである。
・ DVと名づけること、被害者であると自己認知することは、夫の暴力への服従を意味するのではなく、そのような状況に対する抵抗(レジスタンス)なのである
・常識や多数派に支持される家族・夫婦観と、DVが前提とする権力構造としての家父長的夫婦観とは大きく異なる。前者はマジョリティであり、「ふつうの親子は」「ふつうの夫婦は」と語られ、メディアをとおして日常生活を席巻している。それに比べれば、後者はどうしたってマイノリティでしかない。それゆえ、話した相手にわかってもらい、共感してもらうことはむずかしい。数からみても、マイノリティにそもそも勝ち目などない。
・DVや虐待の被害者たちにとって、「正義」の持つ意味は何だろう。家族をめぐる絆や愛情といったマジョリティの言説に抵抗するために、その言葉は存在する。無謀とも見える抵抗・レジスタンスの足場である砦を深部で支えるために、「正義」は必要なのだ。
・親孝行の価値は再評価されているほどだ。それはあたかも
・「普遍的」であるかのように教えられているが、果たしてそうだろうか。江戸の研究が進むにつれて、今の家族観がどれほど明治時代に形成されたかが明らかになっている。それもひとつのパラシフトだ。
・ときどき私のことを、カウンセラーなのに理屈っぽいなどと評する人もいる。だが、家族で今起きている、微細で具体的かつ個別的なできごとが歴史的で構造的な背景を持っていることに気づき、知ることなくして、私たちは他者とつながれないのではない。誰にも言えないような経験が、「被害」と定義されなければ、類似の経験を持つ他者が存在することすら気づけないだろう。知識はつながりを生むのだ。本書によって、そんなつながりが生まれることを期待している。
・普遍知や全体知など存在しないと言われるようになって久しいが、それでも私はそれを 求め続けることをやめられない。有限な生を送るしかなく、それが残りわずかだとしても、知らないままに支配されて安穏と生きることだけはしたくない。これを、コロナ禍の現在に置き換えれば、多くのひとに共感していただけるのではないか。情報が操作され、遮断されることで無知な状態に置かれ、結果的にただの風邪と捉えて安穏と生きることなど、誰も望まないだろう。きわめて個人的と見えるできごとの背後に、国家や政治の意図を読み解く必要があるということ。今ほど、それが実感を伴う時はないとさえ思う。 -
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ネタバレ「東電OLは私である」と発言する女性がたくさんいたという
女性差別企業の中で惨憺たる思いをした彼女は均等法施行前に社会人となった世代
均等法が施行されてからだってそう変わらない
会社に入ってみたらこんなはずじゃなかった
といったことは多々あったし今でも劇的にそうした状況が改善されているとも思えない
この事件は覚えている
マスコミが騒いだ内容については詳しく知らなかった
本書でそうしたことを読み解いているのかと
しかもこのお三方
楽しそうではないかと思い読み始めた
この事件というよりは「木嶋佳苗」に焦点をあてて語られる日本の「性」の扱われ方
援交世代についてはっとさせられたのは
そうだ彼女たちもいま生きて生活をしているのだということ
10代の頃にやっていたことをどう受け止めて暮らしているのだろう
女性のパロディとして存在する「壇蜜」
「これでしょあなたの欲しいものは」と餌を与えれば次々と男がひっかかってくる
同じ援交世代の木嶋佳苗と壇蜜との共通点など
この本をきっかけにさらに読みたい本がでてきた