経済人は終わりだけど、産業人には未来があるということか。当時の経済人と産業人の違いを理解したうえで挑戦したい本だけど、あまり読みたいとも思わない本でもあります(^^;
読んでいてチャップリンのモダンタイムスの一幕を思い出しました。資本主義社会の中で会社では人間の尊厳が失われ機械の一部の歯車のように働くようになっていることを笑いで風刺していますが、最後は自由な生活を求め旅立っていきます。そんな映画が流行っていた時代、人々に魅力的な生き方、働き方を提示できるかいなか、つまり、個人がその社会の中で「位置と役割」を持てる社会かどうか、と述べています。
たぶん(と言うのは本書から明確には読み取れなかった)そのためには個人にも自由と責任が伴うということだろう(正確にはドラッカーの言う自由には責任が含まれているので、併記するのはよくないのかな)。
自由とは解放でもなければ、幸福でも安定でも平和や進歩のことでもなく、「責任を伴う選択である」と説いています。つまり単なる選択の自由は自由とは言わず、選択することにより責任が伴うことを自由と言うということです。
そのために戦後社会において、自由で機能する産業社会を構築しなければならないわけで、ひとりひとりの人間が明確極まりない社会的地位と重要な社会的役割を持つという現実を産業社会の形成に役立てなければならないということらしい。
だから何なんだ(笑)って叫びたくなります。
自分なりにいいように解釈するなら、経営者は社員に、その会社での本人にとっての意味ある位置と役割を与えることが重要だということだろう。そしてそれは自由で保障されていると。自由と言うのは選択の自由であり、選択するということは間違った選択もするということだろう。間違った選択をしてもよりよくする「責任」が伴うということなんだろう。その自由のもとで働く意味を見出していくことが産業人の未来と言うことなんだろうなあ。