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自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
「いかに生きるべきか」「世の中のしくみをどうしたらよいか」という問題以前に、「どうなっているか」という存在の問題がある。 教育の世界には、「どうすればよいか」「どのように改善すればよいか」という問題で溢れている。そして、そのこと自体を忘れてしまっているので、もはや溺れているというところまで来ている。...続きを読む「どうすればよいか」を考えて得られた幾つかの回答や方法を、その時の気分によって取り替えているに過ぎない。もはや方法を選び、取り替えることしかできなくなった教師は、本当の問題を考えることができなくなっている。 私は私にとっての本当の問題を考えよう。子どもが分かったかどうかは分からないのに、教師が教えるというのはどういうことだろうか。私は何をしているのか、そのことについて考えたい。 「大人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである。」(p13) 「<哲学>とつながらない『哲学』は、もはや『哲学』でさえなく、思想(thought=すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。その陳列棚をながめて思想の優勝劣敗を論じる品評会を開いたり、気にいった一つを買い取って、以後それを携えて生きていくほど、反哲学的な行為はない。」(p70) 「彼(ウィトゲンシュタイン)は、ぼくが考えていた問題が、ほんとうのところは言葉で表現できないということ、表現できたときにはにせものの問題になるということ、の意味を考え抜いていた。」(p71) 「このような過程は永遠に続き、われわれはこの構造を超えることはできないだろう。言葉のやりとりによって通じ合うわれわれの世界を、ウィトゲンシュタインにならって『言語ゲーム』と呼ぶなら、『言語ゲーム』とはまさしくそのような構造を持った場所、つまりこのような読み替えが無限になされる場所のことなのである。そのことによって、世界の独在的本質が消えてなくなるわけではない。しかし、それは世界の中にはけっして現れず、それについて人と語り合うことはけっしてできないのだ。」(p98) 「だからぼくにとって、言語ゲームとは、つまりぼくが生きている世界とは、この読み換えの場なのだ。そして、ぼくの人生とは、結局この読み換えを生きるということだったのだ。もちろんこの発言自体が、ひとに通じるときには読み換えられて通じるのだけれど。」(p102) 「そこには、こう考えるのがよい、こう考えよう、と提唱する(他人に、そして自分に)といった未来志向的な要素はみじんもないのだ。」(p102) 「では、哲学は何の役に立つか。世の中のあらゆること(惰眠とか泥棒とか……)が何かの役に立つとして、哲学は本来何の役にも立たない。まさにその役に立たなさこそが、哲学の存在理由であり、使命なのだ。役に立つとは、何らかの価値の存在を前提にして、それの実現に貢献するということだが、哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての勝ちを問題にできる)唯一の営みだからだ。」(p116) 「まわりの人に迷惑をかけないし、むしろ好感を持たれながらも、自分もそれほど無理せずにすむ、というような点である。これがつまり冒頭で出した問題の答え、つまり『善い』の意味だ。でも、このつりあいをうまく保つというのが、けっこうむずかしいんだ。このつりあいは、ふつうの人にとってはごく自然に実現できている単なるつまらない事実なんだけど、それでも、それが実現できない場合を考えると、やはり実現っすべき規範であり、課題なのだ。すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、とぼくは思う。」(p163) 「このことに気づいたとき、ぼくはとても変な気がした。なぜなら、ぼくが気づいたことは、まちがいなく真実なのだが、それはまちがいなく言わないほうがいい真実、いやむしろ気づかないほうがいい真実だ、ということに気づいたからだ。」(p173) 「道徳外的な世界解釈の見地に立つことは、道徳的な世界解釈の内部で反道徳的な立場に立つことは、まったくちがうことであり、道徳的な世界解釈の見地に立つことは、道徳外的な世界解釈の内部で道徳的であることとは、まったくちがうことである。」(p186) 「それは、ひとことで言えば、どちらの問題(『なぜぼくは存在するのか』と『なぜ悪いことをしてはいけないのか』)も、究極的なところでは、他者と共有される『問題』でありつづけることができない、ということだ。どちらの問題も、まさにそのことこそが、それを『問題』たらしめているように感じられる。」(p192) 「価値とは、そうであるべきこと・そうであってほしいことであり、善いことをふくむ意味での好いことである。存在とは、事実そうであることだ。そして、価値を存在に返還することは、価値もまた存在の一形態にすぎないことを自覚することだ。」(p206) 「哲学はこちら側にある。自分自身の内奥から哲学をはじめるべきだ。」(p209) 「同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。」(p216)
自分で哲学するための入門書ということで,著者は「思想に共鳴せずに,思考に共感する」を望んでいる。タイトルからは感じ取りにくいけど,非常に熱い本だ。 この本で哲学される「なぜぼくは存在するか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」は,自分の問いではないので,それを「思考によって消滅させる」ということす...続きを読むらできないため,実際の本論には没入はできなかった。しかしながら,本編以外の3つのセクションによる著者の哲学論は面白くて,「ただ問う,ただ思考する」という姿勢は感じ取ることはできた。問う対象が何であれ,他人の意見・思想で納得するようでは哲学していることにはならないのだ。どうしようもなく問いが熱いから,それを思考によって冷まさない限り,普通になれないというのが哲学なのだろう。 著者は竹田青嗣さんの姿勢を「哲学」ではなく「思想」だと批判している。この意味で,今売れっ子?の小川仁志さんは「哲学カフェ」を主催するも哲学者ではなく思想家で,「哲学塾カント」の主催者中島義道さんは哲学者ということになるだろう。 ***** ほんとうのことを言ってしまえば,他人の哲学なんて,たいていの場合,つまらないのがあたりまえなのだ。おもしろいと思うひとは,有名な哲学者の中に,たまたま自分によく似たひとがいただけのことだ,と思ったほうがいい。いずれにしても,他人の哲学を研究し理解することは,哲学をするのとはぜんぜんちがう種類の仕事である。(p.12) 哲学というものは,最初の第一歩から,つまり哲学なんてぜんぜん知らないうちから,何のお手本もなしに,自分ひとりではじめるのでなければ,けっしてはじめることができないものだ。つまり,哲学の勉強をしてしまったら,もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である。(p.13) 子どもの哲学の大きな特徴は,純粋に知的であることである。それによって何が変わるわけでもないが,ただ単にほんとうのことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。青年も大人も老人も,全身全霊を傾けて発せられた単なる知的疑問というものがあることを忘れている。ぼくの考えでは,それは哲学を忘れているということと同じだ。(p.21) 青年の哲学[生き方の問題],大人の哲学[世の中の仕組み],老人の哲学[死・無]は,それぞれ,文学,思想,宗教で代用できるが,子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそが最も哲学らしい哲学である理由がそこにある。そこにこそ,何ものにもとらわれない純粋な疑問と純粋な思考の原型があるからだ。 生き方に悩む青年の哲学は充実した,よき人生を求め,世の中のしくみを憂える大人の哲学は矛盾のない,よき世の中を求め,人生を終える老人の哲学は納得のいく,よき死を求める。それに対して,子どもの哲学は,何もよきものを求めない。それはよりよきもの,より高きもの,より深きものを,めざしはしない。子どもの問いは,解かれたときに,何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら,ただふつうの大人になれるだけだ。(pp.25-26) たまたまこの世に生まれてきたからには,自分だけの問いをもつ,これはまたずいぶんとすばらしいことだとはいえないだろうか。(p.26) 思想を持てば,思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには,すでに考えられてしまったこと(思想)を,そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも,ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから,自分にかわってそれをやってくれるひとだけが,つまり有効な批判をしてくれる人だけが,哲学上の友人(=協力者)なのだ。だから,真の友人を求めるかぎり,批判者を批判しつづけなければならない。(pp.110-111) …哲学というものは本来,黙って墓場へ携えていき,持ち主の死とともに消滅してもよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味はないが,哲学はちがう。賛同者がふえることは,思想にとっては最も望ましいことであろうが,哲学にとっては本質的な意味はないだろう。(p.113) どんな入門書でも,口先ではみずから哲学することの重要性を説くけれど,そういいながら,実は哲学説の鑑賞の仕方を教えているにすぎないことが多い。哲学説(すでに哲学された他人の思想)をよく理解しよく味わって水面生活[水中に潜ろうとする努力がない限り浮かびがちな人=一般人]を豊かにすることと,自分で哲学する仕方を学ぶこととは,たぶん,なんの共通性もないのだ。思想を享受することと思考を持続することとは,むしろ真っ向から対立する。ひとが哲学を必要とするふたつの道筋は,驚くべきことだが,おそらくはまったく交差していないのだ。(p.196) 哲学をしている人なら,世のため人のために役立つ思想をつくりたいなんて思うはずがない。ときどき,世の中で話題になっている大問題に対して「哲学者」の意見が求められたりして,それに得々として「哲学的」に答えている「哲学者」がいるけれど。ソクラテスが「哲学」の出発点であれほど強く主張したいちばん大切なことを忘れてしまっているのだ。哲学者なんて,自分にはすごく大事なことが分かっていないということに,ふつうの人以上に気を取られているだけの人だったはずなのに。(p.204)
哲学のあり方について、永井先生の<子ども>としての「哲学」を読ませてくれることによって、<哲学>について語ってくれる本。 哲学は自分だけの問いのためになされるもの。しかもその問いは多くの人が当たり前で何も疑問を持たないようなもの。哲学は決して高尚で深淵なのではなく、哲学をする当の本人からすると、深...続きを読む刻だけど問題が解決してやっとほかの人と足並みがそろうもの。他人からすると、当たり前のことにつっかかってる中に勝手な深淵さを見るもの。ただ、その自分だけの問いのために、納得できるまでひたすら考えること。 この哲学のあり方に、自分は自分だけがつまずくことについて考えていいんだ、というある種の勇気のようなものをもらった。この哲学であれば、どんなに小さくても、無自覚的に青年の哲学や大人の哲学をやっていたとしても、哲学ができる。存在論的な、素朴な疑問を考えるためという意味で、この本は自分にとって素晴らしい哲学の入門書になった。 「哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めて行こうとする努力なのである。だから、哲学の問いがみんなに理解される公共的な問いになる可能性なんてありえない。なぜって、その問が問われないことによって世の中のふつうの生活が成り立っているのだから。そして、もし上げ底がきっちりと埋まってしまえば、自分にとっての哲学はそこで終わる。そのとき、問題は消滅し、はじめてふつうの人と同じスタートラインに立てることになるのだ。(p114)」 永井先生の二つの問いも、その過程を味わいながら、考え方や問いの持ち方について背中を見せてくれる。それは永井先生の哲学でしかないし、そのことはあとがきで言及される通りだけれど、特になぜ善いことをしないといけないのかという問いは、なぜかおもしろく読んでしまった。これくらいの社会の大前提について疑問を持ってもいいんだ。
永井先生の本はいくつか手にとつてきたが、どこかで池田某とは語り方は異なるものの、同じベクトルをもつてゐるやうには感じてゐた。それは哲学、存在についての真理を求めてやまない不思議な熱情と呼ばれるものだと思ふ。 無敵のソクラテスであつたか、なんであつたかは忘れてしまつたが、何かの巻末に池田某の薦める本の...続きを読むページがあつて、そこに永井先生の本書が書かれてゐた。 日々に流されていく中で、学生の友人や立場の異なる人間と接すると、ひととの隔たりを強く感じはする。しかし、ことばや考へるといふことを知らないでいた<子ども>と呼ばれるときほど真剣に感じ考えてゐるかと言はれれば、ずいぶんおとなしくなつたとつくづく思ふ。それはことばを知つてしまつたことによるのかはわからぬ。けれど、それが、どうやら哲学にも個別的な発達があることだとすると、なるほどさういふものかとも思ふ 原初の問い。なぜこれが<わたし>でなければならないのか。知りたいのはそのこと。加えて永井先生の疑問は善いことをすべきで、悪いことをすべきではないのはなぜか。池田某からすれば<生><死>とは一体なんであるのか。上げ底の部分といふのはこのことを疑問にもつてしまふ、そのことにある。 ほかの誰もが疑問にもたずにきたことが不思議でならない。学問とはさういふ上げ底の塊であると思ふ。学問はそれでもつてこの人生に臨むと池田某は語つてゐたが、この上げ底こそが外ならぬ学問のことだと知る。この上げ底をほかのひとと同じところまで埋めるために学問がある。自分がどういふわけかひととの中で隔たりを感じる。どうやらそれが自分といふものらしく、学問でもつて埋めるところに人生と呼ばれるものが横たはる。 けれど、なぜその疑問を持つのがこの自分でなければならず、その人生を生きてしまつたのかはもはやぽつかりとした宇宙が広がるばかりである。
子ども向けの哲学書ではなく、子どもの頃に抱いた疑問を持ち続けた〈子ども〉な大人が哲学をするための入門書です。2つの疑問についてはいまいち理解できない部分もありましたが、他人が考えた「哲学」を知ることでなく自分の持つ疑問をとことん考える〈哲学〉をしてほしいというメッセージは伝わってきました。
哲学とは、大人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである。 p46から読む
結局は自分の内側にあるという永井先生の理論。なっとく。私が求めていたのは、哲学をしてきた人の著作を読んで知見を得ることではなく、自ら哲学できる術、もしくはそれを肯定し、促進してくれるこういった部類の本だったのかもしれない。永井先生の本はなるべく読みたい。 それに加え、道徳観を含んでいる問題にたいし...続きを読むて、道徳観を批判することは不可能。と言い切ってもらえたことにも感謝したい。
筆者の子どものころに感じた二つの疑問を掘り起こしていくとともに、哲学のありかたを提唱する一冊。 子ども(年齢的でなく)に標準を合わせて、比較的分かりやすい言葉と比喩で考えを巡らせているので、とても読みやすかった。 哲学の入門書ともされているが、哲学ということについて語られているところを読んで、哲学と...続きを読むいう言葉に対するイメージが根本から覆された。この本の言葉を借りると、「青年」にとっての哲学に囚われていた。得るものでなく、するもの。 思想を押しつけるのでなく、自分で哲学することの大切さを説いたこの本は、読後もなお自分の心理の中で形を変えて生き続ける。
むずいわぁ。どこが中学生向けの本だよって思った。 でも、世間一般の善悪と言う名の道徳に俺の行動割と縛られてるわぁってことに気付かされたのは良かった。
この本の〈子ども〉はchildというよりも素朴な疑問を手放さない純粋な存在として書かれています。 ある疑問に対して納得を求めて思考する過程で自分の中に生まれるものが哲学であり、既知の他人の哲学を学ぶことが哲学ではないということが強調されています。 自分の存在、道徳的な善悪と道徳外的な好悪、哲学と思...続きを読む想などについて思考が展開されますが結論には至りません。哲学は役に立つのか。役に立つことが、何らかの価値の存在を前提にしてその実現に貢献するということであれば、哲学はどんな価値も前提としない営みのため、役に立てるところがありません。
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