【感想・ネタバレ】〈子ども〉のための哲学のレビュー

あらすじ

自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。(講談社現代新書)

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ネタバレ

20年ぶりの再読。
学生時代に買った本ですが、大事に取ってあったので余程思い入れがったのだろう。

・・・
<僕>の独自性の問題、そしてそれに続く道徳の問題、どちらも刺激的で面白かった。でも、それを賞賛してもなお余りあるのは最後の章の『哲学とは』ではなかろうか。

ここに、<哲学>と「哲学」の違い、あるいは<哲学>と「哲学史」ないし「思想」との違いが書かれている。

つまり、<哲学>とは実に極私的問題であり、他人が理解する必要などないもの。また学校で教えるものでもなく、個人の疑念・疑問として知らずのうちに考えてしまうもの、とも言える。

他方でそうした変人奇人たちの一連の極私的文章を「哲学」という枠で括って、教え、場合によって利用するような輩すらいる。そして哲学とは大体そのようなものだし、そうやって<哲学>もその命脈を保ってきたという。

・・・
高校生の頃、進学先を決めねばならなかった。そして、未熟でもあった(今もだけど)。

環境関連の仕事に興味があり化学の専攻を希望していた。が、色弱であったため、学校の先生には「進学はできても就職は難しい」と言われた。それを確認もせずにそのまま渋々従った。既に愚の骨頂であった。そして文系に進むことになった。

周囲の友人たちを眺めてみる。なぜ法学部なのか、なぜ商学部なのか。返ってくるのは「親から言われた」「給料が高そうだから」。お前ら自分の頭で考えているのか?確固たる「自分」はないのか?
かくいう私も、何がやりたいかなんて全く考えていなかった。

そこで、一番役に立たなそうな学問、ということで哲学科を選んだ。

・・・
しかし道は苦しかった。

当初、何か大変なすごい秘密が隠されているのでは、と思った。秘密の発見以前に、とにかく理解できない。日本語は言わずもがな。ドイツ語の原典は、それこそ読むというより辞書を引く時間の方が長かったくらい。

縁あって、他の大学院でも学ばせてもらったが、修士一年の夏休みには、この道はなかろう、と就職へと舵を切った。理解できない絶望感は強かった。

・・・
今、永井氏の作品を読んで、改めて思った。

ああ、私はある意味で普通の人間たりえたのだ。人様が当然だと思えるようなことに、立てつくように疑問を感じて、止むにやまれぬ思いを感じてしまう質の人間ではなかったのだ、と。

そして、そうした<哲学>をする人たちの私的問題は、分からなくて当然。否、分かる必要もない。ただ、類似の問題を抱えてしまった人が、「ああ、自分と同じ疑問を持ったひとにも他にいるのだ」と感じるのみ。

思えば、自分にはそのような止むにやまれぬような疑問はなかった。あるとすれば、「人は死んだらどうなるのか」とか「人は(自分は)好きな人以外にでもどうして好意をもてるのか」とかその程度であった。

前者は小学生ごろからもっていた。筆者に言わせるとそれは、<老人>の哲学に該当するらしい。宗教がそのあたりの守備範囲とのこと。いいじゃない。勉強しようじゃないの。

そして後者は学生時代に今の嫁と付き合い始め出してからむくむくともたげてきた。K.ローレンツ(動物学者)やR.ドーキンス(進化生物学者)を読み、我が物顔で彼女に「動物として、大きな胸に目が行くのは仕方ないんだって」「種として、種に踊らされているから、他人に惹かれるのは仕方ない」といっても、当然理解は得られなかった。自分から喧嘩のタネをまいていたといっても過言ではない。それでも今まだ夫婦で(だいぶ)仲良く暮らせているのは、僥倖という他ない。

・・・
話は逸れてしまったが、永井氏の作品。

彼のいう<哲学>とは、ひょっとしたら<人生>と言い換えてもいいのではないか。他人に自分の人生をとやかく言われて、自分の人生が傷つくだろうか。自分が満足した人生を送っているところに、他人の価値尺度は必要だろうか。きっと不要なのだ。

もちろん、金銭、地位、名誉など多くの外的な切り口で自分の評価は上下しよう。これらのラベルを目指す人々は、その上下に一喜一憂しよう。しかし、もし本当にやりたい何かを持つのであれば、他人の評価や既成の価値があなたに影響を与えるものは僅かであろう。

本作は哲学的には、毛色の異なる独我論、そして道徳の限界、について述べられているもの。でもこれらを越えて、自分の頭で考える、自分の疑問を考える姿勢を強く説くものである。

響く人には、強く響く作品。

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2023年12月03日

Posted by ブクログ

「いかに生きるべきか」「世の中のしくみをどうしたらよいか」という問題以前に、「どうなっているか」という存在の問題がある。
教育の世界には、「どうすればよいか」「どのように改善すればよいか」という問題で溢れている。そして、そのこと自体を忘れてしまっているので、もはや溺れているというところまで来ている。「どうすればよいか」を考えて得られた幾つかの回答や方法を、その時の気分によって取り替えているに過ぎない。もはや方法を選び、取り替えることしかできなくなった教師は、本当の問題を考えることができなくなっている。
私は私にとっての本当の問題を考えよう。子どもが分かったかどうかは分からないのに、教師が教えるというのはどういうことだろうか。私は何をしているのか、そのことについて考えたい。

「大人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである。」(p13)
「<哲学>とつながらない『哲学』は、もはや『哲学』でさえなく、思想(thought=すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。その陳列棚をながめて思想の優勝劣敗を論じる品評会を開いたり、気にいった一つを買い取って、以後それを携えて生きていくほど、反哲学的な行為はない。」(p70)
「彼(ウィトゲンシュタイン)は、ぼくが考えていた問題が、ほんとうのところは言葉で表現できないということ、表現できたときにはにせものの問題になるということ、の意味を考え抜いていた。」(p71)
「このような過程は永遠に続き、われわれはこの構造を超えることはできないだろう。言葉のやりとりによって通じ合うわれわれの世界を、ウィトゲンシュタインにならって『言語ゲーム』と呼ぶなら、『言語ゲーム』とはまさしくそのような構造を持った場所、つまりこのような読み替えが無限になされる場所のことなのである。そのことによって、世界の独在的本質が消えてなくなるわけではない。しかし、それは世界の中にはけっして現れず、それについて人と語り合うことはけっしてできないのだ。」(p98)
「だからぼくにとって、言語ゲームとは、つまりぼくが生きている世界とは、この読み換えの場なのだ。そして、ぼくの人生とは、結局この読み換えを生きるということだったのだ。もちろんこの発言自体が、ひとに通じるときには読み換えられて通じるのだけれど。」(p102)
「そこには、こう考えるのがよい、こう考えよう、と提唱する(他人に、そして自分に)といった未来志向的な要素はみじんもないのだ。」(p102)
「では、哲学は何の役に立つか。世の中のあらゆること(惰眠とか泥棒とか……)が何かの役に立つとして、哲学は本来何の役にも立たない。まさにその役に立たなさこそが、哲学の存在理由であり、使命なのだ。役に立つとは、何らかの価値の存在を前提にして、それの実現に貢献するということだが、哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての勝ちを問題にできる)唯一の営みだからだ。」(p116)
「まわりの人に迷惑をかけないし、むしろ好感を持たれながらも、自分もそれほど無理せずにすむ、というような点である。これがつまり冒頭で出した問題の答え、つまり『善い』の意味だ。でも、このつりあいをうまく保つというのが、けっこうむずかしいんだ。このつりあいは、ふつうの人にとってはごく自然に実現できている単なるつまらない事実なんだけど、それでも、それが実現できない場合を考えると、やはり実現っすべき規範であり、課題なのだ。すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、とぼくは思う。」(p163)
「このことに気づいたとき、ぼくはとても変な気がした。なぜなら、ぼくが気づいたことは、まちがいなく真実なのだが、それはまちがいなく言わないほうがいい真実、いやむしろ気づかないほうがいい真実だ、ということに気づいたからだ。」(p173)
「道徳外的な世界解釈の見地に立つことは、道徳的な世界解釈の内部で反道徳的な立場に立つことは、まったくちがうことであり、道徳的な世界解釈の見地に立つことは、道徳外的な世界解釈の内部で道徳的であることとは、まったくちがうことである。」(p186)
「それは、ひとことで言えば、どちらの問題(『なぜぼくは存在するのか』と『なぜ悪いことをしてはいけないのか』)も、究極的なところでは、他者と共有される『問題』でありつづけることができない、ということだ。どちらの問題も、まさにそのことこそが、それを『問題』たらしめているように感じられる。」(p192)
「価値とは、そうであるべきこと・そうであってほしいことであり、善いことをふくむ意味での好いことである。存在とは、事実そうであることだ。そして、価値を存在に返還することは、価値もまた存在の一形態にすぎないことを自覚することだ。」(p206)
「哲学はこちら側にある。自分自身の内奥から哲学をはじめるべきだ。」(p209)
「同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。」(p216)

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2023年01月13日

Posted by ブクログ

自分で哲学するための入門書ということで,著者は「思想に共鳴せずに,思考に共感する」を望んでいる。タイトルからは感じ取りにくいけど,非常に熱い本だ。

この本で哲学される「なぜぼくは存在するか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」は,自分の問いではないので,それを「思考によって消滅させる」ということすらできないため,実際の本論には没入はできなかった。しかしながら,本編以外の3つのセクションによる著者の哲学論は面白くて,「ただ問う,ただ思考する」という姿勢は感じ取ることはできた。問う対象が何であれ,他人の意見・思想で納得するようでは哲学していることにはならないのだ。どうしようもなく問いが熱いから,それを思考によって冷まさない限り,普通になれないというのが哲学なのだろう。

著者は竹田青嗣さんの姿勢を「哲学」ではなく「思想」だと批判している。この意味で,今売れっ子?の小川仁志さんは「哲学カフェ」を主催するも哲学者ではなく思想家で,「哲学塾カント」の主催者中島義道さんは哲学者ということになるだろう。

*****
ほんとうのことを言ってしまえば,他人の哲学なんて,たいていの場合,つまらないのがあたりまえなのだ。おもしろいと思うひとは,有名な哲学者の中に,たまたま自分によく似たひとがいただけのことだ,と思ったほうがいい。いずれにしても,他人の哲学を研究し理解することは,哲学をするのとはぜんぜんちがう種類の仕事である。(p.12)

 哲学というものは,最初の第一歩から,つまり哲学なんてぜんぜん知らないうちから,何のお手本もなしに,自分ひとりではじめるのでなければ,けっしてはじめることができないものだ。つまり,哲学の勉強をしてしまったら,もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である。(p.13)

 子どもの哲学の大きな特徴は,純粋に知的であることである。それによって何が変わるわけでもないが,ただ単にほんとうのことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。青年も大人も老人も,全身全霊を傾けて発せられた単なる知的疑問というものがあることを忘れている。ぼくの考えでは,それは哲学を忘れているということと同じだ。(p.21)

 青年の哲学[生き方の問題],大人の哲学[世の中の仕組み],老人の哲学[死・無]は,それぞれ,文学,思想,宗教で代用できるが,子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそが最も哲学らしい哲学である理由がそこにある。そこにこそ,何ものにもとらわれない純粋な疑問と純粋な思考の原型があるからだ。
 生き方に悩む青年の哲学は充実した,よき人生を求め,世の中のしくみを憂える大人の哲学は矛盾のない,よき世の中を求め,人生を終える老人の哲学は納得のいく,よき死を求める。それに対して,子どもの哲学は,何もよきものを求めない。それはよりよきもの,より高きもの,より深きものを,めざしはしない。子どもの問いは,解かれたときに,何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら,ただふつうの大人になれるだけだ。(pp.25-26)

たまたまこの世に生まれてきたからには,自分だけの問いをもつ,これはまたずいぶんとすばらしいことだとはいえないだろうか。(p.26)

 思想を持てば,思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには,すでに考えられてしまったこと(思想)を,そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも,ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから,自分にかわってそれをやってくれるひとだけが,つまり有効な批判をしてくれる人だけが,哲学上の友人(=協力者)なのだ。だから,真の友人を求めるかぎり,批判者を批判しつづけなければならない。(pp.110-111)

…哲学というものは本来,黙って墓場へ携えていき,持ち主の死とともに消滅してもよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味はないが,哲学はちがう。賛同者がふえることは,思想にとっては最も望ましいことであろうが,哲学にとっては本質的な意味はないだろう。(p.113)

 どんな入門書でも,口先ではみずから哲学することの重要性を説くけれど,そういいながら,実は哲学説の鑑賞の仕方を教えているにすぎないことが多い。哲学説(すでに哲学された他人の思想)をよく理解しよく味わって水面生活[水中に潜ろうとする努力がない限り浮かびがちな人=一般人]を豊かにすることと,自分で哲学する仕方を学ぶこととは,たぶん,なんの共通性もないのだ。思想を享受することと思考を持続することとは,むしろ真っ向から対立する。ひとが哲学を必要とするふたつの道筋は,驚くべきことだが,おそらくはまったく交差していないのだ。(p.196)

 哲学をしている人なら,世のため人のために役立つ思想をつくりたいなんて思うはずがない。ときどき,世の中で話題になっている大問題に対して「哲学者」の意見が求められたりして,それに得々として「哲学的」に答えている「哲学者」がいるけれど。ソクラテスが「哲学」の出発点であれほど強く主張したいちばん大切なことを忘れてしまっているのだ。哲学者なんて,自分にはすごく大事なことが分かっていないということに,ふつうの人以上に気を取られているだけの人だったはずなのに。(p.204)

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2022年11月17日

Posted by ブクログ

哲学のあり方について、永井先生の<子ども>としての「哲学」を読ませてくれることによって、<哲学>について語ってくれる本。

哲学は自分だけの問いのためになされるもの。しかもその問いは多くの人が当たり前で何も疑問を持たないようなもの。哲学は決して高尚で深淵なのではなく、哲学をする当の本人からすると、深刻だけど問題が解決してやっとほかの人と足並みがそろうもの。他人からすると、当たり前のことにつっかかってる中に勝手な深淵さを見るもの。ただ、その自分だけの問いのために、納得できるまでひたすら考えること。

この哲学のあり方に、自分は自分だけがつまずくことについて考えていいんだ、というある種の勇気のようなものをもらった。この哲学であれば、どんなに小さくても、無自覚的に青年の哲学や大人の哲学をやっていたとしても、哲学ができる。存在論的な、素朴な疑問を考えるためという意味で、この本は自分にとって素晴らしい哲学の入門書になった。

「哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めて行こうとする努力なのである。だから、哲学の問いがみんなに理解される公共的な問いになる可能性なんてありえない。なぜって、その問が問われないことによって世の中のふつうの生活が成り立っているのだから。そして、もし上げ底がきっちりと埋まってしまえば、自分にとっての哲学はそこで終わる。そのとき、問題は消滅し、はじめてふつうの人と同じスタートラインに立てることになるのだ。(p114)」

永井先生の二つの問いも、その過程を味わいながら、考え方や問いの持ち方について背中を見せてくれる。それは永井先生の哲学でしかないし、そのことはあとがきで言及される通りだけれど、特になぜ善いことをしないといけないのかという問いは、なぜかおもしろく読んでしまった。これくらいの社会の大前提について疑問を持ってもいいんだ。

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2022年06月13日

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ネタバレ

哲学の入門書が、この本でよかった。

〈子ども〉とは、子どものころ思い浮かべた「純粋な疑問」のこと。年齢に関係なく〈子ども〉の感性をもつ人、誰もが当たり前とすることに疑問をもち、もがきながら生きている人にこの本はぴったりだと思う。

著者のいう「水面に浮きがちな人」と「水中に沈みがちな人」の二種類でいえば、私は後者であることが、この本に共鳴した大きな理由の一つ。

「哲学をする」とは、自分が感じた疑問を納得するまで思考する過程の中にしかない。それは他者の理解も批判も賛同も無意味。逆にいえば、有名な哲学者を含めて他者の論じる哲学を学んだところで、自分が哲学をしたということにはならない。
哲学ってそういうものだよ。役に立つ(人生のプラスになる)どころか、マイナスを埋めてふつうに近づく作業で、自分が納得するまで考えぬく、その過程を楽しむものだから。〈子ども〉の疑問をずっと大切にしてほしい。というようなメッセージが、「あなたはそれでいいんだよ」に聞こえて、心が軽くなった。

また、本のまとめは前書きに帰結する。じゃあ最初と最後だけ読めば深い知見が得られ、生活が豊かになるんだ、と思う人はきっと「水面に浮きがちな人」。その間のページにある、著者の思考の過程(哲学の仕方)を知り、何かを感じとることができる人には、救いのような一冊。

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2020年09月30日

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永井先生の本はいくつか手にとつてきたが、どこかで池田某とは語り方は異なるものの、同じベクトルをもつてゐるやうには感じてゐた。それは哲学、存在についての真理を求めてやまない不思議な熱情と呼ばれるものだと思ふ。
無敵のソクラテスであつたか、なんであつたかは忘れてしまつたが、何かの巻末に池田某の薦める本のページがあつて、そこに永井先生の本書が書かれてゐた。
日々に流されていく中で、学生の友人や立場の異なる人間と接すると、ひととの隔たりを強く感じはする。しかし、ことばや考へるといふことを知らないでいた<子ども>と呼ばれるときほど真剣に感じ考えてゐるかと言はれれば、ずいぶんおとなしくなつたとつくづく思ふ。それはことばを知つてしまつたことによるのかはわからぬ。けれど、それが、どうやら哲学にも個別的な発達があることだとすると、なるほどさういふものかとも思ふ
原初の問い。なぜこれが<わたし>でなければならないのか。知りたいのはそのこと。加えて永井先生の疑問は善いことをすべきで、悪いことをすべきではないのはなぜか。池田某からすれば<生><死>とは一体なんであるのか。上げ底の部分といふのはこのことを疑問にもつてしまふ、そのことにある。
ほかの誰もが疑問にもたずにきたことが不思議でならない。学問とはさういふ上げ底の塊であると思ふ。学問はそれでもつてこの人生に臨むと池田某は語つてゐたが、この上げ底こそが外ならぬ学問のことだと知る。この上げ底をほかのひとと同じところまで埋めるために学問がある。自分がどういふわけかひととの中で隔たりを感じる。どうやらそれが自分といふものらしく、学問でもつて埋めるところに人生と呼ばれるものが横たはる。
けれど、なぜその疑問を持つのがこの自分でなければならず、その人生を生きてしまつたのかはもはやぽつかりとした宇宙が広がるばかりである。

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2020年02月08日

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子ども向けの哲学書ではなく、子どもの頃に抱いた疑問を持ち続けた〈子ども〉な大人が哲学をするための入門書です。2つの疑問についてはいまいち理解できない部分もありましたが、他人が考えた「哲学」を知ることでなく自分の持つ疑問をとことん考える〈哲学〉をしてほしいというメッセージは伝わってきました。

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2017年05月28日

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哲学とは、大人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである。

p46から読む

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2015年02月15日

Posted by ブクログ

結局は自分の内側にあるという永井先生の理論。なっとく。私が求めていたのは、哲学をしてきた人の著作を読んで知見を得ることではなく、自ら哲学できる術、もしくはそれを肯定し、促進してくれるこういった部類の本だったのかもしれない。永井先生の本はなるべく読みたい。

それに加え、道徳観を含んでいる問題にたいして、道徳観を批判することは不可能。と言い切ってもらえたことにも感謝したい。

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2013年11月17日

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ネタバレ

>人間は結局、自分のやりたいことしかやらない。いや、自分のやりたいことしかやれない、と言ってもいい。いやいやながらそうする、という場合だって、与えられたその状況で出来ることの中では、一番やりたいことをやっているはずだ。

 永井均さんは『子供のための哲学対話』で、人間はなんのために生きているのか?という問いに「遊ぶためさ」と言いきっている。また「根が明るい人は、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人で、根が暗い人は、何か意味のあることをしたり、ほかの誰かに認めてもらわなくては、満たされない人」とも書いている。

 人間は何のために生きているのか?と言う問いは、気が付いたらこの世に送り出されていた、私たち一人一人の人間にとって、極めて難しい問いだと思うが、私は、これらの言葉を時々思い出しながら生きて行きたい。

 哲学する人と哲学しない人の違いとは、哲学する人は、自分自身の中で疑問を追い続ける人(根が明るい人、目標のために努力していること自体を楽しめる人)で、哲学しない人は、人に認められることを追求する人(根が暗い人で、何か意味のあることをしようとする人)の違いなのではないでしょうか?もちろん、誰もがその間にいて、どの辺にいるのかが問題なのだと思いますが…

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2020年05月05日

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この本は子どもで理解できる哲学の入門書ではなく、子どものように物事の根本に疑問を持ち、それを考えることがどのようなことかを書かれた本。
正直何を言ってるか分からなかったが、世の中には色んな視点かな物事を捉える人がいるんだなと思った。

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2025年11月10日

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本書で取り上げられる問題は、「なぜぼくは存在するのか」と「なぜ悪いことはしてはいけないか」の2つです。

「なぜぼくは存在するのか」は、同じ著者の『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』でも取り上げられていた問題です。
ある人Bさんがいるとして、そのBさんが使う「ぼく」には、2通りの使い方があり得る。
1つは、普通にBという人間を指す場合の「ぼく」。
もう1つは「ぼくは今度生まれてくるときは、ライオンに生まれたい」などという場合の「ぼく」。
でも、この2つに尽きないプラス・アルファとしての「ぼく」があるのではないか。(pp.73-76)

『転校生とブラック・ジャック』は私には難しくてよく分からなかったのですが、それに比べて本書は、かなりスッキリした議論になっていると思います。
しかし、「最初の疑問と、納得を求めて右往左往するはだかの思考過程の中にしか、哲学はない」とする著者の立場からすると、『転校生とブラック・ジャック』の方が、より哲学していると言えるのでしょう。
でも、「言語ゲームの中で、ぼくがこれまで伝えようとしてきた<奇跡>は、ほんとうはけっして伝えられないのだ」(p.100)という結論は、納得するような、肩透かしのような、何とも言えない感じでした。

これは、中学生<子ども>の頃に読んだのであれば、のめり込んでしまったかもしれない問題です。
ただ、私はもういい歳なので、「哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすを知ることによって水面生活を豊かにすることにある」という、著者とは逆の立場に立たずにはいられません。
「なぜ悪いことはしてはいけないか」も、その問題の深刻さよりは、「よい/わるい」を道徳的善悪と道徳外的好悪とに分解することや、「利己的」の意味を道徳性と対立する利己性と道徳性を包み込んだ利己性とに区別することの鮮やかさに惹かれてしまいます。
私も、義務論・功利主義・徳性以外に善悪の基準はないのかといった<子ども>の問いはずっと持っているのですが、それを哲学し続けようとまでは思えないといいますか。
(大人にとって様々な事柄を限られた時間内に判断することは好いことだから、<子ども>の問題については休日に少し考えて、書き留めるくらいしかできない。)

悪い読者にしかなれず、著者に対しては少し申し訳ない気持ちです。
(単なる感想を書くに当たってさえ、著者に共感することが善だという、上げ底的な道徳的判断に拠ってしまいます…)

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2025年09月08日

Posted by ブクログ

まずはじめに、これは子ども向けの簡単な哲学書ではありません。子どもの感じる純粋な疑問を深く考えることを通して、自分で哲学するということを伝える本です。

私は哲学についての本をはじめて読みました。本書の中では、2つの問いについての考えが述べられます。でも、わかったようなわからないような…と思いながら最終章の「問の後に」に辿り着き、そこでこれまでのモヤモヤが晴れた感じがしました。

最終章での「水面から水中を覗くこと=他人の哲学を鑑賞すること」と「水中から水面を目指すこと=自分に必要な哲学をすること」の違いや、それによる「他人には理解できない」という事象のことなど、すごくしっくり来ました。

自分が生きるために、哲学が必要なのだと学びました。

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2025年08月03日

Posted by ブクログ

むずいわぁ。どこが中学生向けの本だよって思った。
でも、世間一般の善悪と言う名の道徳に俺の行動割と縛られてるわぁってことに気付かされたのは良かった。

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2022年10月25日

Posted by ブクログ

この本の〈子ども〉はchildというよりも素朴な疑問を手放さない純粋な存在として書かれています。
ある疑問に対して納得を求めて思考する過程で自分の中に生まれるものが哲学であり、既知の他人の哲学を学ぶことが哲学ではないということが強調されています。

自分の存在、道徳的な善悪と道徳外的な好悪、哲学と思想などについて思考が展開されますが結論には至りません。哲学は役に立つのか。役に立つことが、何らかの価値の存在を前提にしてその実現に貢献するということであれば、哲学はどんな価値も前提としない営みのため、役に立てるところがありません。

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2022年09月07日

Posted by ブクログ

哲学に漠然と興味を持ち、哲学入門書を手にとって挫折すること数回。
漸く「何となく分かるかも」と思えたのがこの本でした。
〈子ども〉のための、とありますが大人にとって簡単すぎるということはなく、
むしろ付いていくのに思考整理が必要な場面が多々あり、読みごたえがありました。


以下個人的雑感。

この本で取り上げられている二つの問題のうち、
「なぜぼくは存在するのか」は自分自身でも感じたことのある問題でした。
そして著者と同じように、「奇跡」としか捕らえようがないという結論に至っていたのですが、
よもや自分がすでに〈哲学〉チックなことをやっていたとは思いませんでした。
一度考えたことを著者の言葉で再解釈し、更に深掘りすることができたので、
スムーズに読めて興味深かったです。
得られた結論が新たな問いに繋がることや、今まで全く理解できなかった思想が少し身近になったことなど、
大きな収穫があって楽しめました。

二つ目の問題は、著者の様な切り口で捕らえたことがなく少々難解でした。
自分がかなり「上げ底」の上に居座ることに慣れているのだと認識させられました。
道徳的に善であることが理想だと考えていましたが、理由を考えたことはなかったので。

本書を通して最も痛切に感じたのは、
過去の哲学者の思想を断片的に理解した気になって、自分の思考として転用することは全く哲学的でないということです。
誰にも強制されない、自分の内から涌き出た純粋な疑問について思考する営みが〈哲学〉なのかと解釈すると共に、
自分の興味は過去の思想を知識として得る「哲学」のほうにあるのかもと気づかされました。

〈哲学〉のやり方に関して、本書では思考のプロセスが綴られていると紹介文にあったので、
思考のスキーム等が書かれているのかと思っていましたがそんなものはないようです。
単に著者が自身の問題について自身で得た結論に至るまで何を考えたかが記されているだけなので、
一般的にあらゆる〈哲学〉に通じるようなものではなさそう。
また本書で述べられていなかったとは思いますが〈哲学〉も「哲学」も、両方やってこそだと感じます。
一人でやるには限界があるだろうし、やったことがないのに思想を理解することもできないと思うのです。
実際本書ですら、哲学用語に不馴れな私には難しいところがありました。

もう少し子供向けの哲学書を読んで、〈哲学〉の土台を作らねばと思います。


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2021年12月30日

Posted by ブクログ

タイトルの『<子ども>のための哲学』は、「子ども向けの哲学」ではなく「子どもが考えるような問いについての哲学」ということです。

子どもは日々たくさんの疑問を感じながら生きています。親や周りの大人たちに「なぜ?」「どうして?」と問い続け、自分自身でもあれこれと考え続けます。多くの人は自分もかつてそうした子どもの一人であったことを忘れ、社会という枠組みの中で疑問を疑問と思わなくなり、そうして大人になっていきます。(著者の表現では「大人になるとは、ある種の問いが問でなくなることなのである」)

本書が言う「子どもが考えるような」とは、まさにそうした子ども時代に「なぜ?」「どうして?」と考えるような問いを、そのまま考え続けることを指しており、そして哲学とは本来そうした「自分なりの問いを考え続けること」だけが必要要件なのであり、むしろそのことでしか哲学はしえない、と言います。

哲学書を読んで他人の問いを考えた課程や結果を知ったとしても、それは自分が哲学をすることにはならないし、思考の流れや型としての思想は哲学とは相容れないものである、と。

つまりいかなる哲学書を読んでも自分が哲学ことはできないので、哲学書というのは本質的に矛盾を抱えた本ということになるのですが、本書の価値はどこにあるかというと、本書で語られている「問い」が、多くの人が子ども時代に自分なりに考えた経験のあるような問いであるということではないかと思います。だからこそ、著者の哲学思考を単に眺めるだけでなく、自分なりの考えとの対比やズレなどを楽しんだり、自分の思考を進めたりということにつなげることができるのです。

本書で扱われる問いは大きく2つ。

①「なぜぼくは存在するのか」
②「なぜ悪いことをしてはいけないのか」

どちらも疑問に感じたことのある人はいるのではないだろうか。

個人的に本書を読んで面白かったのは①の自我に関する問い。同じような疑問は自分自身も感じてきたが、思考過程や結果がことなるというよりも問いの立て方や疑問の向かい方自体が著者とは異なるということを知って面白かった。著者は「自分」という存在の唯一性や特殊性に関しての疑問を突き詰めているのに対して、私の場合は他者性や他者と自己との共通性と境界のような部分に関心があり、その関心は哲学というより文学世界を知ることで自分なりの答えや納得をつくっていったように感じる。

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2020年04月08日

Posted by ブクログ

一部の語り方がなんかアレだったけれど、哲学に対しての基本的姿勢は本当に同意する。
「哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての価値を問題にできる)唯一の営みだからだ」という一節を読んで、なんだか心の重石が少しだけどかされた気がした。

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2019年02月17日

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哲学に憧れと魅力を感じつつもうっすらと勘づいていたが、やはりと言うべきか、哲学は私にとって縁のないもののようです。これは中島義道『哲学の教科書』を読んだ時も思ったことだが、本書ではっきりと自覚した。自分は「子どもの問い」なるものを強く抱いたことはないし、そういうものに特別興味があるわけでもないのだと。私が求めていたのはどうやら哲学ではなく思想だった。自分を支えてくれる思想。本書の中で著者が竹田青嗣氏のことを「彼の姿勢は哲学ではなく思想だ」(意訳)と批判しているが、私が竹田氏の『自分を知るための哲学入門』に好感を持ったのもまさに同じ理由だったのだろう。本書に登場した印象的な言葉を使えば、私の関心の方向は子ども的・存在論的なのではなく、青年的・認識論的だったのである。お前の哲学に対する興味は偽物なのだと喝破されて苦い思いがしたけれど、おかげで哲学に対する幻想をようやく断ち切ることができそうだ。それは悪いことではないし、哲学することの本来の形を示すという難題にこの本が真摯に取り組んでいるからこそ起きた反応と言えるのではないかと思う。哲学に目覚めるどころか、はっきりしたのは自分に哲学は無縁であることだったが、非常に読む価値のある本だった。

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2016年12月21日

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幼い頃の素朴な疑問を深く考えることで哲学になっていく。こんなに深く考えたことはなかったのでただ面白かった。

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2016年05月09日

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空前の私的哲学ブームに乗って。ネットで勧められていた入門書2冊目。
本書は決して子ども向けの哲学書ではない。これから哲学をする人のために、著者自身の子どもの頃の問題である、「ぼくはなぜ存在するのか」「悪いことをしてはなぜいけないのか」を《例題》として、哲学をする《方法》について《手本》を見せている。著者の言う「哲学」とは、「結論よりも議論の過程を重視するタイプの思考法」のこと。哲学者の思想を学ぶことではなく、自分自身が疑問に思うことをとことん考えることなのだ。「彼ら(歴代の哲学者)の問題は、ぼく(著者)の問題ではない」。よって、著者の問題にわたしがついていけるはずがない。それでよいのだ。著者の問題は、わたしの問題ではないのだから。多少冷たくも感じてしまうが、良い意味でこの表現が気に入った。
世の中で通用している常識に、他の人には見えない《上げ底》を見てしまった人が哲学をする。自分なりに考えて解釈して納得して、その哲学が終わるとようやく普通の人と同じスタートラインに立てる。そういう哲学をしなければならない人のことを「水面に沈みがちな人たち」と呼んでいたが、わたしはきっとその逆の「水面に浮かんでいられる人たち」、言い換えれば、常識はこういうものだとあまり疑問を感じずに受け入れられる人たちの中にいる。こうして哲学には興味があるのに、自分には哲学的な問題がないという残念な事実に、わたしは気付いてしまった。正直つまらない。そういっては、上げ底を埋めようとする人たちに怒られてしまいそうだが。きっと、問題だらけだと生きづらいことだろうから。
「世の中のあらゆることが何かの役に立つとしても、哲学は本来なんの役にも立たない」。著者は<子ども>の哲学を、青年以降の哲学と比較して「何かの役に立つ」「よりよく生きる」ものではない、純粋に知ることを愛し求める(「フィロ(=愛し求める)」「ソフィー(=知ること)」)、もっとも哲学らしい哲学だと述べている。子どもの頃の素朴な疑問を手放さなかった人、これから<子ども>の哲学をできる人が羨ましい。さて、わたしも自分だけの問題を見つけて、大人になり切れない<青年>の哲学しよう!笑

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2015年08月01日

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第2の問いの思考の過程の方がラディカルで良かった。第1の問いは、なんだかな。〈 〉の表記自体がこの場合、業界的で説明不足でイヤだった。

哲学を学ぶのではなく、哲学すること。結論ではなくその過程。潜水の例えはよく分かった。私は潜っている、しかし、〈ウソ〉を生きることに自覚的だからだろう。

読後は、自分が肯定されたようで、力を得た。

・理科教育での科学哲学。歴史教育での史実の推定の根拠と方法。
・哲学の問いが公共的な問いになる可能性はない。
・哲学の役に立たなさこそが存在理由。救い。
・道徳を使いこなせる力と鈍感さ。
・道徳が機能するために倫理学というイデオロギーは絶対に必要。ぜひとも必要な〈ウソ〉。
・ニーチェ:善人は決して真実を語らない。
・私の考えでは、という文体。現代はかくかくという時代。ゆえに我々は、という文体。不信だ。

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2014年10月20日

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入門書ではない。子どもの頃きっと誰しもが不思議に思った(というか腑に落ちない!と感じた)素朴な疑問を真摯に考え続けてもいいんだよ、というなんだか感動的な仕上がりの本でもあり、永井さんが考え続けてきた哲学が書かれた本でもある。「翔太と~」と「倫理とはなにか」と「ルサンチマンの哲学」を先に読んでいたので新味に欠けると言えば欠けるけれど、実践理性批判を読んで疑問に思っていた部分が解けたというのが一番の収穫。

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2014年08月12日

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この本も、あるところで勧められていたので読んでみました。
タイトル中の〈子ども〉は、いわゆる「子ども」を指しているのではなく、「哲学的な問いを持つ子ども、あるいは、かつてはそういう問いを持っていた子どもだった人」という意味なので、子どもだけでなく、幅広い年齢層の人を対象にした本です。

個人的には、子どもの問いを買いかぶり過ぎな印象を受けました。
子どもの問いの中には、確かに哲学につながるようなものもありますが、場当たり的で思いつきな問いが多いのが普通だと思います。
著者のように、子どもの頃から哲学的な問いを立てられる人は、やはり哲学に向いている人なのだと思います。

内容としては、「なぜ僕は存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」という問いに対して著者が出してきた答えについて、その思考経過や現在の到達点を示したものです。
どちらの問いに対する思考過程も、自分にとっては「?」な部分が多かったのですが、そういう思考過程もあることを知ることができたのは、よかったのかもしれません。
とはいえ、もし著者に、そのようなことを言ったら、「他人の思考過程を知るだけでは意味はない」と言われそうですが。

著者もいうように、哲学はやはり、自分で立てた問いに、自分で答えていくのが、あるべき方法なのかもしれません。
他人が立てた問いを、他人の思考過程に沿って理解することは難しいですし、この本では、とくに強く、そう感じました。

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2023年11月26日

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純で素朴な疑問を抱くこども。そんなこどもに向けた哲学であり、入門編とも言える。
素直な疑問から広がる思想はとても雄大で、私には想定外の思考ばかり。
初めて哲学の本を読んだが、深掘りするのが楽しくなった。

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2021年03月04日

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小中学生の頃に世の中の事について疑問に思った事柄を題材にしながらそれらについて哲学的考察がされています。子供のためのという書名になっていますが、大人が読んでも十分な内容です。日常生活の中の題材から哲学的な考察をするトレーニング本として良いです。

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2019年02月04日

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哲学は哲学史の本の中にあるのでなく,自分自身の<子ども>の驚きが出発点になって,自分で考え,追求していくことなのだ。思想と哲学のちがいみたいなものがうっすらと見えかけた。
「自分はなぜ地球上に存在するんだろう。自分って何なんだろう」
私自身も小学校の時,ふとそんな不安めいた疑問が頭をかすめたことがあった。そんな疑問から哲学は始まる。

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2019年01月05日

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<子ども>とはまだ年少だった時の疑問を持ち続けている人の意味のようだ。「なぜぼくは存在するのか?」、「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」この二つの疑問を考えた軌跡を述べる。結論はそれぞれの人が考えることであろう。思想と哲学。哲学を学ぶというのは過去の思想を学ぶのではない。自分で考えることが哲学なのか。

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2018年10月20日

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「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」の2つのことについて、哲学をしてみようという本。

ウィトゲンシュタインは、哲学をしばしば潜水に例えた、という傍論の部分が印象に残った。

人間の体は、自然にしていると水面に浮かび上がる傾向がある。哲学的に思考するためには、その自然の傾向に逆らって、水中にもぐろうと努力しなければならない、という話だ。この話を読んだとき、著者はこう思ったらしい。でも、ひょっとしたら、人間の中には、自然にしていると、どうしても水中に沈んでしまうような特異体質のやつがいるんじゃないな、そしてたとえばウィトゲンシュタインなんかがそうなんじゃないか、と。
哲学には水面に浮かびがちな人にとっての哲学と、水中に沈みがちな人にとっての哲学があることになる。
そして、この本は水中に沈みがちな人にとっての哲学のやり方を書こうとした本のようです。

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2016年03月21日

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「どうして悪いことをしてはいけないのか」とか、かいてある。それを子供が納得できるように書いてあったら面白い。

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2015年07月29日

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