長谷川宏の作品一覧
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ユーザーレビュー
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本を読みながら、印象に残った箇所、覚えておきたい箇所をノートに写すようにしているのだけれど、この本は、全部写したくなるくらい最初から最後まで感動的な一冊だった。クセノフォン、エピクロス、セネカなど古代ギリシャから始まり、ベーコン、デカルト、ヒュームなど西洋近代を経て、アダム・スミス、カント、アラン
...続きを読む、ラッセルの幸福論を復習っていく。時代とともに人々が「幸福」という観念に見出すものが移り変わることを学び、それを経て、2023年の今、どういう状態が「幸福」と言えるのかを考察する。
最も印象に残ったのは本の後半、「幸福」と「自由」、「幸福」と「思考」あるいは「理論」がそれぞれ相反する観念であるという点。安定して静謐な状態の中でもたらされる幸福と、向上心やときに競争心をも必要とする自由や思考。その二つは方向性の違う観念なので、両立可能なものではない。手に入るのがどちらか一方の場合、いま自分は幸せになりたいのか、自由になりたいのか。穏やかに暮らしたいのか、刺激を求めているのか。そのときどき、自らに問いかけて立ち位置を確認しながら生きていく必要があると感じた。
Posted by ブクログ
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本書はヘーゲルの本の翻訳などで知られている長谷川氏による「幸福論」の概説です。本書では、ソクラテスから始まり、アリストテレス、セネカ、そしてヒューム、アダム・スミス、ベンサムを経て、20世紀のアラン、ラッセルにいたる哲学者が幸福をどう捉えていたか、を解説しつつ、実は長谷川氏本人の「幸福論」も展開され
...続きを読むている本です。結論から言えば非常に満足していますし、長谷川氏が冒頭に述べている「静かで平穏で身近」なところに幸せはある、という主張に100%同意できました。しかし、めまぐるしく外部環境が変化し、競争や効率性に対する強迫観念が渦巻いている現代社会に生きる我々からすれば、「静かで平穏で身近なところにある幸せ」は、少し贅沢で得るのが難しいものになっているのかもしれません。
個人的には、最後に紹介されていたバートランド・ラッセルの幸福論に強く共感しました。ラッセルが不幸の原因として戒めている「自分自身への興味」は、仏教的に言えば自我への執着でしょう。ラッセルは、対策として興味を自分の外に向けるべきだと述べていますが、仏教であればむしろ自己を見つめ続けよ、さすれば自己など無いこと(無我)を悟り、自分という存在は他者とつながっているということを認識するのだ、という道筋を示されるのかと思います。その意味では仏教の幸福論(例えば密教や禅宗、浄土宗などでどう考えられているか)というテーマも取り上げてもらえるとさらに面白かったかなとは思いました。
Posted by ブクログ
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ヘーゲル「精神現象学」にトライするための前段として購入。著者は言わずと知れたヘーゲル研究の泰斗。本書は著者が「精神現象学」を訳出する前年に出版されている(ただし僕が読もうと考えているのは熊野純一のちくま学芸文庫版。やはり時点が新しいのと、なんと言っても嵩張らないサイズであるが大きい)。内容は非常に
...続きを読む平易で読みやすく、今となってはややストレートにすぎる議論もあるが、単純に面白くて思わず一気読み。精神現象学はもう別に読まなくてもいいかも、とすら思ったほど(いかんいかん)。
まず著者が主張するのは、ヘーゲルの難解さはヘーゲル自身の著作にあるのではなく、特に日本の研究者に救いがたく根差す教養主義、つまり難解さを過度に崇拝する性向にあるという。そしてこの難解さは、「調和した全体」を美徳とする日本人はヘーゲル弁証法の「正反合」の「合」にばかり着目するあまり、ヘーゲルの強調点が個と個が対立する「反」にあることを理解できないためであるとする。
続く第1章では主著「精神現象学」の概略が語られる。先述の「反」、すなわち否定と対立そして矛盾の概念は、諸問題に真剣に向き合う若きヘーゲルの「意識」が「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の主人公よろしく、否定のうちに積極的な意義を見出しつつ、生存の枠を超え出つつ生を拡充し「絶対知」の獲得を目指す姿勢に由来するものであることが語られる。この「絶対知」が曖昧でわかりにくいが、著者によればそれは人類の長い歴史の中での個々の精神の労苦の結晶であり、それはヘーゲル自身の経験により生じた意識そのものであったという。つまり自身の精神を完成形とみなす不遜さに満ちているわけだが、このことも韜晦趣味を持つ日本人がヘーゲルを受け入れにくい一つの理由であるとしている。それはともかく、絶対知とは近代の社会矛盾と対峙する個人の日常的な知であり、近代的な個の自由と自立の根本となる力を指しているらしい。この近代的な個とは、伝統的西洋の「神」の前に立たない裸の「わたし」だという。無論ここでデカルトに言及があるが、デカルトとの比較ではむしろヘーゲルはそのように「裸」でなければ向き合えない社会の方にフォーカスしているように思える。そしてそのような裸のわたしが外的な現実と確信を持って向き合ううち、外部のさまざまな非理性や反理性に対峙することになり、知と思考に厚みを持たせる強靭な理性を獲得するというのだ。
第2章はヘーゲルの「理性」への信頼について。ヘーゲルの理性は、ここでも個の内側に止まらない拡張性を得て外部の現実へと浸み出していく。形而上学世界を理解しようとする理性の独断に歯止めをかけるべきと説くカントの「超越論的弁証法」とは対照的に、ヘーゲルは外部世界を理性への信頼のもとに経験し、かつそれを「否定」することでその枠から逸脱しようとする。ここから当時の自然科学の発達とも相俟って、外部世界すなわち「自然」を内なる「精神」やその創造物である「芸術」の下位に存置し、知に基づくヘーゲルの自然観が生じてくることになる。自然がそのままでは発揮できない理念性を、人間が介入することでリアライズさせようというのだ。
第3章では、前章で触れられた芸術との関わりが中心に扱われる。個と社会が美しく調和した理想郷としてヘーゲルが抱いていたのは古代ギリシャ社会だが、そこでは芸術は常に共同体精神の影響下にあった。個人の内面と共同体精神の調和の表現こそが芸術の本質であり、制限なしの自由な芸術というものをヘーゲルは認めない。本家のギリシャ都市国家が崩壊したのちも、ロマン芸術として個人の内面精神において体現されなければならない理想であり続けた。それは結局は日常的現実に拡散していく芸術の枠内では捉えきれないものであったが、その代替となるのがキリスト教であり、そこで内面に還っていった精神は、真理(神)と調和し一体化しようとするという。
ここで面白いと思ったのは、神との調和において、ヘーゲルは外部からの強制を認めずプロ・プロテスタント的なスタンスをとるのだ。芸術一般では自由を認めず宗教では認めるというのは二重基準のような気もするが、とにかくヘーゲルは宗教に基づく自由の希求を保障する概念として、いきなり法と正義などといった社会的・現実的なツールを要請するのである。この宗教的内面から世俗的リアルへの一足飛びの転換は、ある意味でプロ倫的な世俗的禁欲の発生を別の側面から記述したものと言えなくはないが、いずれにせよヘーゲルは宗教にも哲学的な理性を求め、かくして芸術・宗教・哲学は理性の名の下に統合されることになる。
第4章はやや論調が変わって日欧の比較文化論から入る。お手本をありがたがる近代以降の日本に比し、西洋の近代化はそもそもそのようなお手本が存しない、いや存在してはならないような冒険や開拓の精神を要請するものだった。度重なる社会構造の変動に見舞われ、西欧社会は純粋な内面の運動=精神活動に依拠せざるを得なかった。しかも、社会の激変に対し外部の新たな権威を持ち出すのではなく、ルターの宗教改革よろしく、権威を脱ぎ捨てた裸の内面に向き合い、そこに神への信仰を見出しつつかつての権威そのものの解体を目指してきた。つまりキリスト教ですら内面精神性の発揮にとって軛であり、西欧近代にとっては乗り越えるべき対象だった。ここから思考が宗教を代替し、外部世界に開かれた精神性を要求する啓蒙思想が表出したというわけだ。
最終章はヘーゲル以降の哲学史を概観する。ここではやはり、主にヘーゲルは克服すべき対象である。ヘーゲルが精神性に劣るとして切り捨てた感情に真実性を見たキルケゴール。現実世界の矛盾を超克すべく、ヘーゲルの方法論を発展させ実証分析へと向かったマルクス。理性から出発したヘーゲルとは逆に、無意識の領域に本質を見たフロイト。反近代の立場から西洋的近代化の原動力となった概念に異議を唱えたハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース。
しかし、なんと言ってもヘーゲルが称揚した西洋近代に打撃を与えたのはナチズムだと著者は指摘する。これは重い。どうしてこのような異形の怪物が、理性と個人の内部精神を重んじてきたはずの西洋から生じてしまったのか。発刊後20年以上経ってもいまだ確たる答えの出ない難問だ。
Posted by ブクログ
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ヘーゲルセレクションを読んでも全く理解できなかったので購入。
弁証法とヘーゲルの思想に底流するものを理解するには非常に良い本。適当に正反合とかをしたり顔で使う前に、まずはこれを読むと良い。
ビジネスでアウフヘーベンとかそういう系の語を安易に使う前に、ぜひ読んでおきたい本。
Posted by ブクログ
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名著である。難解な哲学の中でも難解と言われるヘーゲル哲学を理解できる形で提出されている。
『現実的なものが理性的であり、理性的なものが現実的である。』
ヘーゲルの哲学は、社会や現実、生活世界に開かれており、その現実との格闘において、精神は成長していく。
ますます、ヘーゲル哲学に興味を抱いた。
Posted by ブクログ
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