長谷川宏のレビュー一覧
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私は今まで哲学を学ぶにつけてある重大なことを蔑ろにしてきたことを告白せねばならない。それというのは、「最初の哲学はもっともまずしく、もっとも抽象的」だということ、或いは「哲学の発展ということを考えれば、古代の哲学的教養がいまだ把握するに至っていない概念内容をもちだしてきて、古代哲学にそれがないと非難するようなことは許されない」ということ、そして、「深い明確な概念を所持する今日の精神に、以前の哲学が満足をあたえることはありえない。」ということである。
これは、私がプラトン、ヒューム、ルソーといった名だたる哲学史の名雄達を相手にした時に、その名声と比較した時の驚愕の、新鮮の度合いの相対的少なさを感じ得ないことへの一定の答えを提示していると言えよう。
或いは、我々が哲学について語るときに、ついつい先の時代の理論を後の時代に発展させたという事実を忘れてしまい、先の時代の言葉に後の時代の意味を載せて過大に評価・感心してしまうことへの警告とも捉えることができよう。(認識がもっと発展したときに得られるような満足を、それ以前の哲学に求めるわけにはいかない)
ただ、このことはヘーゲルの言う「真理の発展」の当然の帰結であるからして、全くもって過去の哲学を軽視することと同義ではないし、むしろ現存する哲学が過去の哲学から発展していることを踏まえて、より慎重に過去の哲学に向き合うべきであることを表している。
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Posted by ブクログ
本書を読むにあたって、まずは、
入門用にセンチュリーブックス
の「フッサール」を読んだ。
前置きもなく本書を読めば、
多分、撃沈していただろう。
朧気ながら、何をテーマにした
哲学なのかといったことは理解
したが9割方意味不明だった。
それから、本書に挑む。
結果、読破することは出来た。
理解できたと思えるまで一つ
一つの章を五回から十回ほど
繰り返し読み直し、分からない
哲学用語があればChatGTPに
尋ねながら進めた。
ただし、聞くのは用語だけだ。
例えば " 超越的認識 " に
ついてGTPに尋ねても正しい
回答は得られない。誤った
解釈で返ってくる。Copilot
でも試したが、AIと哲学に
ついて語り合うといったこと
は現在でも不可能なようだ。
いずれにせよ、せっかく
現象学を理解しかけたのだから、
フッサールの他の本も読んで
みようと思う。 -
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本を読みながら、印象に残った箇所、覚えておきたい箇所をノートに写すようにしているのだけれど、この本は、全部写したくなるくらい最初から最後まで感動的な一冊だった。クセノフォン、エピクロス、セネカなど古代ギリシャから始まり、ベーコン、デカルト、ヒュームなど西洋近代を経て、アダム・スミス、カント、アラン、ラッセルの幸福論を復習っていく。時代とともに人々が「幸福」という観念に見出すものが移り変わることを学び、それを経て、2023年の今、どういう状態が「幸福」と言えるのかを考察する。
最も印象に残ったのは本の後半、「幸福」と「自由」、「幸福」と「思考」あるいは「理論」がそれぞれ相反する観念であるという点。安定して静謐な状態の中でもたらされる幸福と、向上心やときに競争心をも必要とする自由や思考。その二つは方向性の違う観念なので、両立可能なものではない。手に入るのがどちらか一方の場合、いま自分は幸せになりたいのか、自由になりたいのか。穏やかに暮らしたいのか、刺激を求めているのか。そのときどき、自らに問いかけて立ち位置を確認しながら生きていく必要があると感じた。 -
Posted by ブクログ
本書はヘーゲルの本の翻訳などで知られている長谷川氏による「幸福論」の概説です。本書では、ソクラテスから始まり、アリストテレス、セネカ、そしてヒューム、アダム・スミス、ベンサムを経て、20世紀のアラン、ラッセルにいたる哲学者が幸福をどう捉えていたか、を解説しつつ、実は長谷川氏本人の「幸福論」も展開されている本です。結論から言えば非常に満足していますし、長谷川氏が冒頭に述べている「静かで平穏で身近」なところに幸せはある、という主張に100%同意できました。しかし、めまぐるしく外部環境が変化し、競争や効率性に対する強迫観念が渦巻いている現代社会に生きる我々からすれば、「静かで平穏で身近なところにある幸せ」は、少し贅沢で得るのが難しいものになっているのかもしれません。
個人的には、最後に紹介されていたバートランド・ラッセルの幸福論に強く共感しました。ラッセルが不幸の原因として戒めている「自分自身への興味」は、仏教的に言えば自我への執着でしょう。ラッセルは、対策として興味を自分の外に向けるべきだと述べていますが、仏教であればむしろ自己を見つめ続けよ、さすれば自己など無いこと(無我)を悟り、自分という存在は他者とつながっているということを認識するのだ、という道筋を示されるのかと思います。その意味では仏教の幸福論(例えば密教や禅宗、浄土宗などでどう考えられているか)というテーマも取り上げてもらえるとさらに面白かったかなとは思いました。 -
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ヘーゲル「精神現象学」にトライするための前段として購入。著者は言わずと知れたヘーゲル研究の泰斗。本書は著者が「精神現象学」を訳出する前年に出版されている(ただし僕が読もうと考えているのは熊野純一のちくま学芸文庫版。やはり時点が新しいのと、なんと言っても嵩張らないサイズであるが大きい)。内容は非常に平易で読みやすく、今となってはややストレートにすぎる議論もあるが、単純に面白くて思わず一気読み。精神現象学はもう別に読まなくてもいいかも、とすら思ったほど(いかんいかん)。
まず著者が主張するのは、ヘーゲルの難解さはヘーゲル自身の著作にあるのではなく、特に日本の研究者に救いがたく根差す教養主義、つまり難解さを過度に崇拝する性向にあるという。そしてこの難解さは、「調和した全体」を美徳とする日本人はヘーゲル弁証法の「正反合」の「合」にばかり着目するあまり、ヘーゲルの強調点が個と個が対立する「反」にあることを理解できないためであるとする。
続く第1章では主著「精神現象学」の概略が語られる。先述の「反」、すなわち否定と対立そして矛盾の概念は、諸問題に真剣に向き合う若きヘーゲルの「意識」が「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の主人公よろしく、否定のうちに積極的な意義を見出しつつ、生存の枠を超え出つつ生を拡充し「絶対知」の獲得を目指す姿勢に由来するものであることが語られる。この「絶対知」が曖昧でわかりにくいが、著者によればそれは人類の長い歴史の中での個々の精神の労苦の結晶であり、それはヘーゲル自身の経験により生じた意識そのものであったという。つまり自身の精神を完成形とみなす不遜さに満ちているわけだが、このことも韜晦趣味を持つ日本人がヘーゲルを受け入れにくい一つの理由であるとしている。それはともかく、絶対知とは近代の社会矛盾と対峙する個人の日常的な知であり、近代的な個の自由と自立の根本となる力を指しているらしい。この近代的な個とは、伝統的西洋の「神」の前に立たない裸の「わたし」だという。無論ここでデカルトに言及があるが、デカルトとの比較ではむしろヘーゲルはそのように「裸」でなければ向き合えない社会の方にフォーカスしているように思える。そしてそのような裸のわたしが外的な現実と確信を持って向き合ううち、外部のさまざまな非理性や反理性に対峙することになり、知と思考に厚みを持たせる強靭な理性を獲得するというのだ。
第2章はヘーゲルの「理性」への信頼について。ヘーゲルの理性は、ここでも個の内側に止まらない拡張性を得て外部の現実へと浸み出していく。形而上学世界を理解しようとする理性の独断に歯止めをかけるべきと説くカントの「超越論的弁証法」とは対照的に、ヘーゲルは外部世界を理性への信頼のもとに経験し、かつそれを「否定」することでその枠から逸脱しようとする。ここから当時の自然科学の発達とも相俟って、外部世界すなわち「自然」を内なる「精神」やその創造物である「芸術」の下位に存置し、知に基づくヘーゲルの自然観が生じてくることになる。自然がそのままでは発揮できない理念性を、人間が介入することでリアライズさせようというのだ。
第3章では、前章で触れられた芸術との関わりが中心に扱われる。個と社会が美しく調和した理想郷としてヘーゲルが抱いていたのは古代ギリシャ社会だが、そこでは芸術は常に共同体精神の影響下にあった。個人の内面と共同体精神の調和の表現こそが芸術の本質であり、制限なしの自由な芸術というものをヘーゲルは認めない。本家のギリシャ都市国家が崩壊したのちも、ロマン芸術として個人の内面精神において体現されなければならない理想であり続けた。それは結局は日常的現実に拡散していく芸術の枠内では捉えきれないものであったが、その代替となるのがキリスト教であり、そこで内面に還っていった精神は、真理(神)と調和し一体化しようとするという。
ここで面白いと思ったのは、神との調和において、ヘーゲルは外部からの強制を認めずプロ・プロテスタント的なスタンスをとるのだ。芸術一般では自由を認めず宗教では認めるというのは二重基準のような気もするが、とにかくヘーゲルは宗教に基づく自由の希求を保障する概念として、いきなり法と正義などといった社会的・現実的なツールを要請するのである。この宗教的内面から世俗的リアルへの一足飛びの転換は、ある意味でプロ倫的な世俗的禁欲の発生を別の側面から記述したものと言えなくはないが、いずれにせよヘーゲルは宗教にも哲学的な理性を求め、かくして芸術・宗教・哲学は理性の名の下に統合されることになる。
第4章はやや論調が変わって日欧の比較文化論から入る。お手本をありがたがる近代以降の日本に比し、西洋の近代化はそもそもそのようなお手本が存しない、いや存在してはならないような冒険や開拓の精神を要請するものだった。度重なる社会構造の変動に見舞われ、西欧社会は純粋な内面の運動=精神活動に依拠せざるを得なかった。しかも、社会の激変に対し外部の新たな権威を持ち出すのではなく、ルターの宗教改革よろしく、権威を脱ぎ捨てた裸の内面に向き合い、そこに神への信仰を見出しつつかつての権威そのものの解体を目指してきた。つまりキリスト教ですら内面精神性の発揮にとって軛であり、西欧近代にとっては乗り越えるべき対象だった。ここから思考が宗教を代替し、外部世界に開かれた精神性を要求する啓蒙思想が表出したというわけだ。
最終章はヘーゲル以降の哲学史を概観する。ここではやはり、主にヘーゲルは克服すべき対象である。ヘーゲルが精神性に劣るとして切り捨てた感情に真実性を見たキルケゴール。現実世界の矛盾を超克すべく、ヘーゲルの方法論を発展させ実証分析へと向かったマルクス。理性から出発したヘーゲルとは逆に、無意識の領域に本質を見たフロイト。反近代の立場から西洋的近代化の原動力となった概念に異議を唱えたハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース。
しかし、なんと言ってもヘーゲルが称揚した西洋近代に打撃を与えたのはナチズムだと著者は指摘する。これは重い。どうしてこのような異形の怪物が、理性と個人の内部精神を重んじてきたはずの西洋から生じてしまったのか。発刊後20年以上経ってもいまだ確たる答えの出ない難問だ。 -
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「経済学・哲学草稿」は、昔、岩波文庫を買ったことがあり、長い間――数十年間(笑)――持っていたのだが、結局、中をチラと覗いたっきり、1ページも読まないで棄ててしまった。
なぜ読まなかったかといえば、もちろん難しかったから。
いや、1ページも読んでないんで、難しかったかどうかもわからん。
難しそうに感じたからというのが正確か。なんか漢字も多かったし。
そして実際読んでもやっぱり難しかったはずである。
なんせマルクスの本ですから。
ところで、長谷川宏という人の名前は、ヘーゲルをわかりやすく訳した人らしいということをどこかで聞いていて、光文社古典新訳文庫もなかなか粒のそろったラインナップで、表紙のデザインもいいので、つい手にとってみた。
冒頭、こういうふうに始まる。
「賃金は、資本家と労働者の敵対する闘争によって決まってくる。資本家の勝利は動かない。資本家が労働者なしで生きのびられる期間は、労働者が資本家なしで生きのびられる期間より長いからだ。」(第一草稿「賃金」p17)
なんと、非常に分かりやすい。
「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないこととに置かれる。通常の賃金は、アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜なみの生存に見合う最低線に抑えられている。」(同p18)
「労働者は、資本家がもうけるときいっしょにもうけにあずかるとは限らないが、資本家が損をすれば必ずいっしょに損をする」(同p19)
「労働者と資本家がともに苦境にあるとき、労働者は生きていけるかどうかで苦しんでいるが、資本家は金もうけできるかどうかで苦しんでいる」(同p20)
かっこいいなマルクス。
「分業の細密化は、労働者をますます一面的かつ従属的な存在とし、とともに、人間同士の競争だけでなく、機械との競争までも招きよせる。労働者が機械に転落したとなると、機械が競争相手になるというわけだ。」(同p23-24)
「国民経済学はプロレタリアを――つまり、資本も地代もなく、純粋に労働によって、すなわち一面的・抽象的な労働によって生きていく人間を――労働する者としか見ない。そこで、プロレタリアは、すべての馬と同じく、働くことができる程度に稼がねばならない。それが国民経済学の掲げる命題だ。国民経済学は働いていないときのプロレタリア――人間としてのプロレタリア――を考察の対象とすることがない。その考察は、刑事裁判所や医者や宗教や統計表や政治や乞食や取り締まり官にゆだねられている。」(同p28-29)
正直、分からないところもあちこちあるが、ずいぶん理解しやすい。
これはありがたい。
マルクスがこの「経済学・哲学草稿」を書いたのは、なんと26歳のときだ。
凄い人は凄いとしかいいようがないな。 -
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マルクスが26歳の時に書き著した草案。
全体を通して感じることは、
労働者の隷属状態に対しての批判。
これが書かれたのは1844年。
産業革命は1700年代後半からイギリスでおこっていった。
マルクスはドイツ人だ。
この時にはドイツにも産業革命の波は届いていただろう。
波とは、工業化の波である。
前提として意識しておきたいのは、マルクスの批判しているのはこの時代の主産業が工業であるということだ。
工場というのは、
なるだけ24時間フル稼働させている方が工場にとって利益が出る構造になっている。
すなわち、労働者にとっての長時間労働が工場主にとっての利益につながる。
自然と労働者をできるだけ長時間働かせて、フル稼働で工場を動かそうとするインセンティブが工場側に働く。
といった背景がある。
マルクスは、
労働者のことを奴隷とし、
労働のことを奴隷労働と言っている。
資本家が労働者を牛耳っていると見ているからだ。
結果的には、
失敗したマルクス主義であるが、
何故マルクス主義はあれほどに世界を巻き込み影響を与えたのか?
その中に含まれる今でも通用するような原則はなにか?
などの視点を持って見てみても非常に面白い。
マルクスはシンプルに言って何を書いてるのか?
お金と人のこの世界で、
在るべき関係性だ。 -
Posted by ブクログ
近代が持つ様々な政治的、文化的、社会的イメージと、ヘーゲルの生み出した思想とがいかに重なっているかが分かる。
現代においても学校や職場など建前上は近代主義の思想に満ち溢れている。近代的理性を持つ自由な意思の集合体が、素晴らしい社会や国家を形成するという。
この建前が存在しなくなると、選挙制度すら足元を揺さぶられそうだ。
いくらニーチェやキルケゴールやハイデガーたちが後世に現れて批判を繰り返そうとも、近代という思想はそれほど堅牢な思想だということだ。
現在の社会制度を見る限り、根本的に取って代わる思想は存在しない。
普段の身の回りの生活の影にヘーゲルがちらついて見えるようになった。 -
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読みやすさに定評のある長谷川訳ではあるが、ついに読み通すことができたという感慨がある。
経済学のほうはたいして見るべきことはない。経済学史の授業で習うような事がわかっていればよいのだろう。
面白いのは、マルクスの疎外、外化の概念や類的存在の概念が説明されているところと、さらに面白いヘーゲル批判である。
マルクスのヘーゲル批判は、まず、マルクスは人間と生活手段を非理性的なもの、ヘーゲルは理性的になりうるものと考えていたという前提の違いから始まる。そしてマルクスは、ヘーゲルの論は意識に始まり精神で終わり、理念の域を出ないものであると批判する。さらに進んで価値の点で、ヘーゲルの考える人間は神、絶対知によって確証を得るが、マルクスはその否定と破棄によって確証されるという(p193)。それは人間の現実的な本質を生成するような運動であるというのだ(p.197)。この辺りが最高に面白い。その本質とはなにかについてもこの本の中に散りばめられているが、やや具体性に欠ける。僕の読解力不足か。
また、アレントの人間の条件を読んだあとだったので、アレントの概念に手伝ってもらいながら楽に読んだふしもあり、もう少し無垢な視点から読めるようになりたいとも思った。
最後に付け加えれば、長谷川氏の解説は学者の良心に基づいて大変簡素にまとめられているが、もうちょっとボリュームがあるとよかったろう。あるいは、彼の『初期マルクスを読む』を読めということか。
とにもかくにも、これは読める人は必ず読むべき本である。これは近代の最後の良心なのであるから。